彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 極彩は身体を引き摺って布団に寝転ぶ。背中を包む弾力と柔らかさに気が大きくなる。
「お酒ですよ!これは救いだと思います。これこそ人の生んだ信仰です。いいえ、わたしには自由に信仰を語る資格なんてないんです。もうすぐ自由なのに…あのお人形がすべて自由にしてくれるんですよ。自由なんてないんですよ。自由なんかある訳ない。重いです。潰されるんです」
 菖蒲は枕に顔を埋めた極彩を覗き込んだ。
「暴行事件があったんですよ」
「おや…」
 酔っ払いの声はいくらか低くなり、落ち着きをみせた。
「悲しいな」
「…そうですね」
 彼は同調した。
「悲しいて思いますか」
「思いますよ」
 極彩は枕から頬を滑らせる。中年男の素面な視線とかち合うとまた枕の中に潜る。
「あの人形があるからもう自由です。夫には悪いことをしました。叔父の遺骨を舐め回すようなことをする恥ずかしい女です。最低です。独り善がりの人非人にんぴにんです。吐き気を催す偽善者です。人の世を惑わす巨悪の気違いです。泰平をぶち壊す悪鬼です」
「若様が好きそうな言葉をよく心得ているんですね。一体どなたに吹き込まれたんでしょう!この酔っ払い」
 布団の上から叩かれる。
「許可が無ければ外にも出られず、情報も制限されて、行き場所はほぼ同じで関わる人はお客様。おまけに季節の変わり目に酒と即席麺しか食べない。貴方の気落ちはこれで説明が付きます。貴方はいわば憂鬱に恋をしているんですよ。極彩さんの人格は関係ありません。大丈夫です、安心してください」
 布団の上からぶらぶらと揺らされる。
「誰か知り合いの訪ね人でもあるといいんですがね」
「人は嫌です。関わりたくありません」
「何ですって。ボクも人間ですよ!一体何だと思ってるんです?」
 眠気の浅いところでふざける中年の男が捻くれた気分を引き留める。
「川に溺れていたら岸辺から伸びる草みたいな」
「まるでせん教徒みたいなことを言うんですね。分かりました。ボクは川に溺れた貴方を繋ぐ草で在り続けますよ。よかった、貴方にまで革新派気狂いなどと言われなくて」
 枕から跳ね返る酒臭さにまた酔う。美味そうに酒を飲む者たちが信じられなかった。異臭に花の匂いが混じるだけだった。
「誰かに言われたんですか」
「言われましたよ。よく言われます。病気の扱いになると途端にこの国の人たちは黙りますね。踏み込んだらいいんですよ。貴方は気違いです、然る治療を受けなさいとね。…ボクにとっては貴方といるのが治療なのかも知れませんね。政治だの公子廃位問題とか宮廷闘争とか、どうでも良くなります。国なんぞ気違いと暇人と末端の雇われ人が結局はどうにかするんですよ。消えた生活を追うのをやめるにはちょうどいい…何か、使命めいた…ですが、もう莫迦らしいですよ。ここで洗濯物の山を片付け、皿を洗い、酔っ払いに布団を掛ける。そのほうがボクは性に合っている」
「いいですね、その暮らし。ぜひとも」
 極彩はゆっくり目元を枕から上げて書院窓を意味もなく見ていた。鉄の籠はもう倉庫へ片付けてしまった。
「駄目ですよ。貴方はその神経症も酔っ払いも治すんです。ボクはボクなりの新しい治療法を探します。今の生活を、失くした生活に重ねているだけなんですから」
「虚しいものですか、それは」
「楽しくて駄目なんです」
 寝ますよ。菖蒲はそう言って照明を落とした。楽しくて駄目。異臭と不味さの後味のなかで中年男の言葉を反芻した。

 昼頃に起きると卓袱台に野菜炒めと白米、鰤の照り焼きが置かれていた。しじみの味噌汁が二日酔いに効くというようなことと鍋に入っているから温めろということを記した紙片が添えられていた。身支度を済ませ早めに屋敷を出る。門の外で気難しげな顔をの淡藤が立っていた。
「会えて良かったです。生きた姫様と」
「信じてないじゃないですか」
「言葉の綾です。それはそうと随分お早い出勤ですね」
 門を出ても淡藤はまだ付いてきた。
「迷惑を掛けた宿に謝りに行こうと思いまして」
「それはもう必要ありません。こちらで全て処理しておきました」
「しかし本人が出向かないのは」
 切れ長の瞳が極彩を鋭く捉えた。だが怒気や威嚇は感じられない。
「簡単にいうと城勤めは姫様含め出入り禁止ということで丸く収まりました」
「出禁…」
「弁償費用もどうにかなりました。監査が入りづらくなるということですから宿にとっても悪い話ではないのかも知れません」
 淡藤はまだ付いてきた。極彩は立ち止まり、彼と向かい合う。無表情な眼差しに見下ろされる。互いに黙ったまま見つめ合う。
「どうなさいました」
「いいえ、そういうことなら、そのまま女豹倶楽部へ向かいます」
「では同行させていただきます」
 特に返事はしなかった。だがふと天晴組の羽織りが変わっていることに気付く。黒衿に入った二公子の紋が銀刺繍から金刺繍になっている。石黄の羽織りも金刺繍だった。
「刺繍の色、変わりましたね」
ほつれて絡まりにくい糸が入りまして。艶も発色もいいんです」
 極彩は平然と的の外れたことを言う淡藤をちらと見た。何を訊ねようと思ったのかも忘れた。
「ああ、挨拶が遅れてすみません。このたび、組長に昇格しました。ご存知のとおりの理由で、繰り上げなのですが」
「おめでとうございます」
 群青の弟かも知れないという興味が、彼の兄かも知れない青年と比べてしまう。顔立ちや声質はあまり似ていない。だが二公子と三公子も容貌だけならば似ていなかった。
「小姓はこれからは付きません。お世話になりましたと託っております。姫様の手料理を大変気に入っていたようで」
「お粗末さまでした」
 料理を作っていた日々が懐かしい。煮干しや昆布、かつお節から出汁だしを取っていたのが今では信じられなかった。
「刺繍の色が変わったというのは、そういうことでしたか」
 この問いをして数分、話が途切れた頃に淡藤は極彩の言ったことを掘り返した。
「え」
「すぐに気付かず申し訳ございません。人の気持ちを読むのがどうにも疎いようです」
「そうですか?わたしの訊き方が悪かっただけですよ。淡藤殿は針仕事が好きですものね」
 不機嫌げな素顔がわずかに緩められる。
「気が緩んでしまっていけませんね。引き締めないと」
 外で話す淡藤の態度は不機嫌げな面構えに反し、どこかぽやぽやとして捉えどころがなかった。竹藪の近くを通りかかり、極彩は足を止めた。小道には誰もいない。衣類もない。
「姫様?」
「この辺りで、」
「いけません。危ないですよ」
 淡藤にその先の言葉を奪われる。
「色街付近で最も恐ろしいのは、浮浪者でも薬物中毒者でも強姦魔でもありません。現場を見られた仕事人です…こういうところは、特に危ないです」
 必ず殺しに来ますからね。そう付け足される。
「ここで暴行事件があったんです。随分と前に。存在も分からない仕事人よりもわたしは強姦魔のほうが怖いです」
 指で差して、それから歩を進める。淡藤も数歩遅れて後を追ってきた。

 淡藤とは女豹倶楽部の前で別れた。帰りも迎えに来るらしかった。紫煙はまだ復帰していないらしい。昨晩の青年でも何人目なのか分からなかった。毎日共に帰らされる店長をどう言い包めるか考えながら店へ入る。裏口の扉を閉める前に淡藤を振り返った。色街に入る前に天晴組の羽織りを脱いだ彼は普段よりも細かった。落ち着いた雰囲気は兄かも知れない青年よりも大人びて見えた。
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