彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 関節が軋み、唇を噛んで天藍の胸に寄り添う。ふふ、と彼は笑った。吐息が頬を撫ぜ、髪を揺らす。得体の知れない怪物の手のような白い手袋が露出した肩を抱き寄せた。若君の襟元の留具を震えの止まらない指で外した。相手は急かすでもなくまた控えめに笑い声を漏らす。戦慄く手を白い布越しの体温が包み込んだ。極彩は身を波打たせる。
「焦らされるのも嫌いじゃないよ、君ならね」
 近くで見るたび二公子の麗らかな瞳は無機質な光を持っている感じがした。極彩は強く目を閉じる。顔を逸らして目を開く。二公子側の長椅子からは卓の下に護身用の短刀があるのが見えた。掴まれている手を平静を装い、温かな薄布の中から抜いた。引き攣った笑みを晒し、それからすばやく身を屈めて卓下にある短刀に手を伸ばす。しかし見破られていた。首を掴まれ、座面に押し倒されている。絞殺されかねない力加減で、逆光する天藍の口の端は大きく吊り上がっていた。
「オレの誘い方、よく分かってるじゃん」
 彼はそれから満足げに笑った。
「自刎するまで待ってようかと思ったけど、反射だから許してね」
 目を見開いて若君は極彩を見下ろした。首を放し、護身用の粗末な短刀を極彩の胸元に寝かせた。
「若様」
 気配もなく淡藤がすぐ傍まで来ていた。彼は不機嫌な面構えで長椅子から離れる主人を目で追う。
「話は終わり。参加、ね。良かった。走り回った甲斐があるよ、ホント。寝床の準備をありがとう。これでも三日徹夜さんてつしてるからさ。そろそろ寝る。お休み」
 天藍は2人を追い払うように手を振って寝台のある光の届かない隅に消えてしまった。
「おやすみなさいまし…戻りましょう、姫様。お送りします」
 淡藤は主人のほうに拱手すると極彩を振り返った。そして彼女の胸に触れてしまうことにも注意せず短刀を奪い取る。そして元の位置に戻し、歩きづらい履物を履かされた極彩の腕を支え廊下へ連れ出した。彼女は一言も喋らなかった。広い通路に出ると、少し前まで吐いていた青年に呼び止められる。彼は彼が自分の弟と憶測している淡藤を親しげに呼んだ。
「先程はお見苦しいところをみせてしまい申し訳ございませんでした。汚してしまったお召物は近々弁償いたします」
何か話す気も起こらず、極彩は首を振った。淡藤に引かれるまま踵を鳴らして群青から離される。彼は数歩、彼女の後を追った。
「姫様はお疲れのようですので」
淡藤は兄に対するには冷たい調子で群青を振り切った。仕事中であっても鷹揚な部分がある淡藤には珍しく、彼は少し慌てるような、その場から逃げるような、兄かも知れない相手を避けるような様子があった。牛車に押し込まれ、淡藤とはそこまでで、屋敷には別の天晴組の者と帰った。
 紅は極彩の服装にわずかばかり無表情を崩した。彼女はすぐに着替え、努めて日常に戻った。日が暮れた頃に城で別れた天晴組の長が平服で訪問した。
「生きていてよかった」
「何か喜ばしいことでもあったんですね」
 話を聞こうとしたが彼は居間に上がることも遠慮して、魚の干物を土産に、ただ様子を看に来たと言った。彼は日頃の不機嫌な面立おもだちには似合わない柔和な微笑みをみせる。
「そうではなく…いいえ、半分はそうですね。姫様が今、生きて目の前にいらっしゃる」
 その口振りから言いたいことを理解した。
「わたしが自刃したとでも思ったんですか」
「半々です。気になったものですから」
「お夕飯、召し上がっていきますか」
 淡藤には同席を求め、余計な手間をかけてしまった。まだ食事の支度は出来ていなかったが土産の干物を焼けば、あと少しで米が炊ける。
「いいえ。せっかくのお誘いですが、せがれが待っておりますので」
「そうですか。ではまたの機会に。その時はご子息もご一緒にいらしてください。…今日は、無理を言ってしまってごめんなさい」
「構いませんよ。わたくしは姫様の父代わりになりますから。どうぞ、頼ってください」
 あまりにも真面目な顔をして冗談を言う若者に極彩は苦笑した。
「おかしいです、そんなの」
「おかしくありません。ですからどうぞ、頼ってくださいな」
 自身の価値観を疑ってしまうほどに淡藤は真剣な眼差しと声音をしていた。
「では、父様とお呼びしたほうがいいですか」
 冷やかしのつもりで口にしてみたが、淡藤はまだ真面目な顔をしていた。
「さすがに恐れ多いです。巷では親しい父親のことを、我父ぱぱと呼ぶそうですよ。いかがですか」
「……少し恥ずかしいです」
 発音しようとしていた。極彩は口元を覆った。淡藤は端整な顔立ちで不細工に笑った。
「次…私的に会う時、そう呼んでくださっても結構ですよ。それでは、また…おやすみなさいませ。少し早いでしょうか」
 淡藤は品良く手を振った。極彩も彼を真似、袖を押さえて手を振っていた。不細工な微笑みが玄関戸に消えていく。何度か喉奥で練習していた。
「ぱぱ…」
 誰も居なくなった三和土に小さな声が消えていく。自分の声で聞くと途端に気恥ずかしくなって居間に引っ込んでしまう。

 夜が更けた頃に訪れた菖蒲に、彼と折り合いの悪いという淡藤のことだけ伏せ今日あった出来事を話した。極彩が城に行ったことは知っているらしかった。彼と仲の良いらしい群青の体調不良も耳に入っていた。花見の公的行事に参加することになった話も、この中年男は予見していたようだった。両膝を摩る仕草をして菖蒲は少し硬さのある笑みを浮かべる。普段の媚びた情けないものとは違い、それが極彩を不穏な心地にする。
「酒のあるところに…現れますからね」
「…何がですか」
「不言の酒呑しゅてん野郎がです」
 その妖怪のような呼ばれ方をしたものを極彩も知っているかのように彼は言った。
「それは…」
「もしかしたら…極彩さんたちの後見人になるかも知れないとボクが勝手に踏んでいる男です」
 彼は苦々しく説明した。鬼のような人物を想像してしまう。書類上の関係に過ぎないとはいえ極彩は義弟の澄んだ純な瞳にこれ以上荒んだものを映させたくなかった。
「ご心配なさらず。もしその人物で正解ならば、生活がまるでダメなだけで暴力を振るったりはしません。多少口は悪いですけれどもね」
 この中年男は誤魔化すのも下手で、無理に笑うため余計に胡散臭さが増した。動揺を隠せない極彩に彼は明るさをその髭面に足す。彼女も気遣わせまいと納得を示す。
「さ、さ、もう寝ることですよ。夜遅くに来てしまってすみませんでしたね。夜更かしは気落ちのもとですよ。ボクは少し庭を片して帰ります」
 彼は腫物に触るような慎重さで捲し立てた。極彩はまた数度続けて頷いた。隣室に移り、紅に下から覗かれて極彩も笑みを作った。
「もう寝ようね。夜更かしだったね。ごめんね」
 入浴後に乾かしたため跳ねている毛を一撫でして敷いた布団に横になる。
「この国に来てから、弟ができたんだ。少しだけ一緒に暮らしてた。上手くやれなくて、今は別のところに暮らしてるんだけど…」
 紅は枕元に座り、地袋に背を預け、相変わらずの寡黙さで聞いているのか否かも分からなかった。
「大丈夫。約束、忘れてないから…」
 弟などという柵に囚われた様に怒っているのかも知れない。そうでなければ呆れ果てている。言い訳がましく極彩は慌てて付け加えた。小さな手が香油を塗り込んだだけの生乾きの髪に触れた気がした。彼にそうしたように柔らかく掻いていく。その心地良さがすぐに離れてしまいそうで彼女は滑っていく体温を捕まえた。冷たく乾いた硬い掌は長屋に暮らしていた時と変わらないでいる。
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