彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

文字の大きさ
292 / 339

292

しおりを挟む
 「でもあのは関係ないから。あの子はわたしと違って何の罪もないから」
 義弟のことを口にすると胸が詰まる。息もできなくなり、鼻炎を起こしたように二拍三拍ほど呼吸が止まった。会ったばかりの頃の縹の言葉が蘇る。その約束も果たせなかった。鬼にはなれなかった。真上から聞こえる鼻歌にこの夜は悪夢をみずに済んだ。
 早朝にまた声変わりを迎えていないような子供の悲鳴を聞いた気がして目が覚めた。紅の声だと瞬時に理解すると極彩は飛び起きた。傍に小さな姿は無い。地袋に入れた短刀を持ち出し居間へ急ごうと襖に手を伸ばすのと同時に開け放たれる。現れた人物に目を瞠った。吊り気味の目、薄い唇、軽く波打った髪。珊瑚だった。しかし極彩は、彼から見たこともない快活な笑みを目にして動揺し、胸倉を掴まれてしまう。良識から外れた時間帯の訪問者は極彩が知るよりも縮んだように見えたが驚きに反応が遅れ、足首を払われる。起き上がる隙もなかった。三公子らしからぬ軽快な動きに疑念が湧いた。首を締め上げられ、その手に抗った。
「紅」
 紅は片腕を足首と枷で繋がれ、片方の脚だけで立っていた。
「また紅に酷いことをなさっていたのですか」
 相手は三公子だ。手を上げてはならなかった。しかし急激な怒りは彼女を止められなかった。腹を蹴り、短刀で喉を打つ。珊瑚にはなかったすばやさで彼は直撃を避けた。極彩は短刀を布団の上に放り投げる。
「ごめんね。もう少しだけ待ってて」
 間合いを読み、互いに距離を詰めた。白く細い首を早朝の青白い光の中で見つけたが両手は不思議と普段のようにへし折りたい欲求を訴えることはなかった。珊瑚は極彩の掴んだ胸倉を寄せ、もう一度彼女を布団に押し倒そうと試みたようだったが、極彩は彼の膝が伸びきると同時に横からそこを蹴り払った。上位をとれたのは極彩で、顎を捕らえる。普段彼から薫る清涼感のある香辛料の風味と仄かな柑橘系の甘さを纏った香りではなくふわりと別種の甘い香りがした。
「三公子。何故このようなことを」
 鼻から得た情報に彼女は彼を珊瑚と断定したが、訝るように眉を寄せた。屋敷中を包む薔薇の匂いに混じっているため一瞬の勘違いかと思ったが、まだ鼻腔を通り抜けるのは珊瑚の胡椒のような香気と爽やかな果物の甘味を帯びた香りではなく、不言通りの若者向けの店から漂う砂糖菓子の匂いだった。紅が視界の端で跳ねる。気を取られ、そこを狙われた。珊瑚は暴れ、極彩は彼の額を押さえた。普段ならば衝動に流され不本意に首を絞めていたが、今回ばかりは衝動は起こらなかった。
「三公子」
 手触りが違う感じがした。よく締め、沈めようとしていた喉の隆起がなくなっている。三公子は女子。閃いた事柄に彼女は狼狽した。確かに極彩はその首の隆起に指を置き、重点的に力を込めていた覚えがある。吊り気味の大きな双眸を見つめてしまう。何度か目にした平たく硬い胸板も男子だからというものではなく、ひとりの女性の個人的な体質だったのだ。極彩は言葉を失って、おそるおそるこの来訪者から手を離した。
「三公子…このことは、黙っておきますので…お帰りください。紅には二度とお近付きにならないよう、お願い申し上げます」
 極彩は片脚で立っている紅の傍に寄り、腕と足を繋ぐ枷を外した。
「わたくしの口から直接、返事を申し上げられなかったことはお詫びします。しかしこのようなことは困ります」
 動く気配のない珊瑚の顔も見ず半ば怒りの籠った声音で続ける。
「もう少し筋の通った御方かと思っていただけに、少々戸惑っております。軽蔑以外の言葉が出てきません」
 紅は自由になった手で極彩の口を押えた。何事かと見上げ、そして彼の視線の先にあるものをみるため振り向いた。三公子は極彩を凝視し、平生から何かが気に食わなそうな表情ばかりしているのが嘘のように軽快に笑っていた。しかしその笑い方も極彩の知っているものとは違っていた。女であると知ってしまったからか、普段の珊瑚とは面構えこそ同じでも、些細なひとつひとつがまったく別人のようにみえた。不気味な感じがした。
「おかえりください。紅にはもう二度と近付くな」
 一度怒鳴ると、珊瑚は彼等しからぬ目にも留まらぬ速さで撤退する。
「ごめんね、紅。すぐに気付かなくて。痛くなかった?」
 首の痕を確認する。枷を嵌められたこと以外は目立つ傷はないようだった。短刀を拾い地袋にしまう。乱れた布団を直し、また横になったが頭は冴えていた。掛け布団に潜ってみたが、ある考えに至り、布団から顔を上げた。三公子は女子だったとするとあの枝はどういった意味を持つのだろう。変わらずそのままの意図だったのか、それとも菖蒲から教えられたことよりも悪い意味があったのかも知れない。きちんと弁解する必要がある。昼間に珊瑚と話せないか天晴組に訊ねたが、三公子とは限られた人間しか会えないらしかった。しかし書状なら受け取れるらしかった。だがおそらく検閲が入るため詳細は記せず、伝えたいことは伏せねばならないだろう。そうなるとただ詫びと弁解を綴るしかなく、それは菖蒲に任せたことだったため、改めて文を送る必要もないように思われた。考えあぐねていると今度は玄関を通して訪問者があった。まだ極彩もそれに気付かぬうちに紅は居間の隣室へと行ってしまう。やってきたのは群青で、彼女は露骨に渋げな表情をしたが居間へ通した。彼は桐の衣装箱を抱えていた。仕事の帰りだろう。茶を淹れて、なかなか口を開かない群青を待った。彼は自身の弟と憶測している淡藤と大きく違い、沈黙に萎縮している。
「あの…先日はわたくしの不手際でお召物を汚してしまい、申し訳ございませんでした。似た色味のものを持参いたしましたので、ご容赦願えませんか」
 群青の声は震え、怯えている感じがあった。礼儀正しい彼には珍しく、目も合わせなかった。
「別に怒ってはいないけれど。忘れていたくらいなのだし」
 彼は深々と頭を下げ、桐の衣装箱を差し出した。
「体調はいかがです」
 遠慮がちに彼は頭を上げ、窺うように極彩を見た。後ろめたさを隠せないといった様子でその目は泳ぐ。
「良好です」
 早く会話を切り上げ逃げ出したそうで、極彩は桐の衣装箱を受け取るともう何も言わなかった。用が済んでしまえば、特に理由もなく共にいるという仲でもない。追い返すことも引き留めることもせず、ただ群青の居る室内の空気に浸る。
「軽蔑…しましたか」
 罰を受けるような痛々しい表情を浮かべ、彼は自ら断罪を求める。
「何に対してです」
「極彩様によく似た方と同棲していることに…」
「実害も出ていない一個人の趣味に憧憬を抱くことはあれど、軽蔑したりなどしません」
「俺は既婚です」
 群青は痛々しい顔をして極彩の目を見ようとしては躊躇った。
「存じています」
 生温くなった茶を飲み干す。群青は不服そうだった。鋭い言葉を待っているようで、求められている返事を極彩は知っていたが与えられそうになかった。
「妻のある身で、他の人にかまけているんです」
「それはそちらのご家庭で話し合うことで、わたしに懺悔することではないのかも知れませんね。それに相手が人形だというのなら尚のこと」
「ですが、そこに馳せているのは実在する人間です」
 意を決して持ち上げられた力強い眼差しに極彩は気圧けおされた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

王様の恥かきっ娘

青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。 本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。 孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます 物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります これもショートショートで書く予定です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

ローザとフラン ~奪われた側と奪った側~

水無月あん
恋愛
私は伯爵家の娘ローザ。同じ年の侯爵家のダリル様と婚約している。が、ある日、私とはまるで性格が違う従姉妹のフランを預かることになった。距離が近づく二人に心が痛む……。 婚約者を奪われた側と奪った側の二人の少女のお話です。 5話で完結の短いお話です。 いつもながら、ゆるい設定のご都合主義です。 お暇な時にでも、お気軽に読んでいただければ幸いです。よろしくお願いします。

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

処理中です...