彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 うぐいすは極彩の横に来て顔を覗いた。彼女は男児の眼をはたと見つめる。耳の孔から縫針でも通されたような細く鋭い痛みが頭を走っている。
「少し休みましょ。お姉ちゃん、顔、真っ白……」
 極彩は首を横に振った。うぐいすを振り切るようにまた歩き出した。数段上を行く背中が見える。いつの間にか、何者かに追い抜かされたようだ。金刺繍の入った黒い衿が色素の薄い髪から透けていた。光沢のある鮮やかな躑躅色のローブを翻し、華奢な肩の上で軽やかに毛先が靡いている。見知った後ろ姿だった。極彩は駆け出す。つまずき、石段の角に膝を打つ。
はなださん!」
 彼女は叫んだ。先を行く人物が肩越しにでもこちらを向くことを望んだが、届いている様子はない。
「縹さん!」
 声が小さかったに違いない。一度目よりも大きく喉を震わせる。
「呼んじゃダメです!」
「邪魔しないで!」
 口元を抑えにかかった子供を怒鳴った。押し退け、小さな身体が転がり、数段落ちていく。しかしそれに構っている間はない。よく知った背中と距離ができていくことのほうが重大だった。極彩は両脚の骨の付け根が擦れたように軋むのも厭わず、這うように立ち上がる。
 しかし透けていく。叔父の姿が消えていく。彼を亡くしたときの衝撃が襲いかかる。彼女は両手で顔を覆った。
「お姉ちゃん、今の誰ですか」
 すぐに転落した分を駆け上ってきた小僧は気を害した様子もない。
「大切な人……とっても大切な人……とっても、大切な……」
 彼は死んだのだ。滲みていくように理解する。目元を揉む。裾を直しながら子供を顧みる。
「ごめんなさい。変なところを見せて。怪我はないの」
「はい、大丈夫です。ぼくがついてきたくてついてきてるだけです」
 彼女はばつの悪そうに外方を向いた。石段を上がり続ける。いやな場所だった。銀灰は本当にこの道を通ったのであろうか。歩荷ぼっかはこの苦痛をどう耐えているのだろう。暫くは何事もなかった。うぐいすの存在も忘れ、足を石段に乗せては身体を前に運ぶ動作の繰り返しである。
 背後から手が伸びる。両目を隠された気がしたが視界は利いている。ぼやけて見えた。上から下まで石段一面だ。行く道が霞んでいる。徐々に、それは城へ辿り着くための長い坂道のように思えた。傘を差して、誰かと登っていった。この国に住んで、まだ間も無い頃だ。
「お姉ちゃん」
 一瞬で年端もいかない少年が袖を摘まむ。
「何でもない」
 あまり驚きはなかった。この山はそういう所らしい。だが悪いものではなかった。夢幻でも、もう会うことも感じることもない人を感じた。それでいて、覚めたときの虚無感に体力を割かれる。
 彼女は振り返りかけて、止められた。
「またなにかミえてるですか」
「何もミえてない」
 男児に袖を引っ張られる。
「降りましょうよ」
 彼女は拒んだ。弟が待っている。そうだ弟が待っている―極彩は虚ろな目で急な階段の上を凝らす。そして歩きはじめた。
「姫様」
 立ち止まる。背中に柔らかくも硬い質量感がぶつかる。怯えたように彼女はその正体を見下ろした。自分を傷付け、この手で傷を付けた片目の幼い子供がいる。生々しい腫瘍の反対の眼におののいた。彼の祖父の悔恨を聞いた。小さな亡骸が焼かれて空に放たれていく様を眺めた。彼は死んでいるはずなのである。
「弟と話したら、好きにして。弟と話すまで……」
 その声は明らかに動揺し、恐怖していた。
「お姉ちゃん、ぼくと話してるですか」
 喋ると小さな身体の持主はあの小さな暗殺者ではなかった。
「あなたじゃない」
「ぼくはぼくです」
「そうね」
 無意識に彼女は肩の傷痕を服の上から掻いた。まるで導くように少女に化けたままのうぐいすが追い越していく。一旦落ち着いたかと思うと、また発作的な衝動が現れた。
「何度でも現れやがって!また殺されたいの!」
 小さな腕を鷲掴み、階段の上に引き倒す。彼は最初はびっくりした顔をしたが、何が何だかすぐに呑み込んだらしかった。
「邪魔しないで、雄黄!」
「ぼく、うぐいすっていいます」
 下から額を突かれる。後ろに倒れるような浮遊感があった。力が抜ける。異性装の小賢しい男児が映った。
「わたしは……白梅」
 極彩は彼を起こす。
「白梅お姉ちゃん?」
「そう」
「どこから来たんですか」
「城下」
 素っ気なく答えて彼女は溜息を吐くと階段を上る。
「城下って何ですか」
「お城があるところの地区」
 少年は目を輝かせている。しかし極彩がそれに気付くことはない。
「行ってみたいです。一緒に行きます。白梅お姉ちゃんと帰ります」
「……大きくなったらね」
 行くあてのない稚児茶屋の子といえど、誘拐することになってしまうだろう。
「どうしてダメなんですか」
「あなたが子供だから。わたし責任とれないし、罪になるから。あなたは店の人たちのところに戻りなさい」
「でもぼく、行きたいです。この町から出たいです」
 男児は彼女を説得しようとしがみつく。
「放して」
「一緒に行きます。ついていきます」
「困る」
「役に立ちますから」
 どこかで聞いたことのある響きだった。桜とかいう少年のことも、こうして冷たくあしらった。胸が苦しくなってきたのは、運動不足のためだろう。
「もう黙って」
 鳥の囀りは聞こえたが、山の中は静かだった。無言のまま石段を上る。トカゲが流麗な曲線を描き、軽やかに横切っていくのが見えた。それを見ていると、とうとう疲れて自ら膝を折る。
 残りの階段を見上げた。まだ先は見えない。
「こっちだよ」
 階段から外れた場所で声がする。よく覚えている。涙で視界が満ちていく。姿を目にしたそれは霊場と謂われるこの山の仕業だった。しかし声まで再現されると、激しく体力を消耗し、まやかしに揺さぶられた精神では抗う気力ももう湧かない。優しく耳に入り込むその声の持主を彼女はすでに特定していた。難しいことではない。忘れるはずもなかった。あまりにも優しかった共謀者である。偽りながらも叔父である。
「縹さん……」
 本当にそこに優しい叔父が潜んでいる気がした。極彩は生い茂る草木の中に吸い込まれていく。叔父はすでに病没しているはずだった。しかし忘れた。ただただ声の主を一目見たいという抑えがたい欲望に後先を委ねてしまった。
「こっちだよ」
 あの後姿は本物だったのだと整合性までとろうとしている。袖を引かれるのを振り払った。
「縹さん……」
 前のめりになる上半身に下半身が追い付かない。転びかけるが転んでいられない。見失ったらもう会うことは叶わないかも知れない。優しい叔父が待っている。枝が前方を塞ぐ。掻き分けた。固い足元に慣れ、柔らかな土に平衡感覚を失いかける。蔦や枝葉が頬を掠め、髪を乱し、着物を汚す。
「おいで。こっちだよ」
 行く先に人影はない。しかし声は聞こえるのだから、彼女がそれを追うのに迷いはない。
「こっちだ」
 草木の壁を抜けていく。やはり誰もいない。
「こっち、こっちだよ。おいで」
 石段のある方角へ背を向けて進む。緑と黴臭い湿った土の匂いがする。雑草や苔を踏む潰す感触があった。浅く沈むようだった。もう石段の固さは踏みたくない。呼んでいる主を探す。そのうち、爪先は虚空を捉えた。均衡を崩す。
「お姉ちゃん!」
 子供が叫んでいる。こだまする。気付いた頃には滑落が始まっていた。頭を打つ、肩を打つ。肘を打った。全身を強打しながら、腹を打って木で止まった。花の芳烈が鼻腔を渦巻いた。ぬるりとした額の痛みが引いていった。極彩はそこにうずくまってしまった。
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