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1、 トライアル
西日の照る教室には、チョークと声が調和する。
「………そして、当時は都やその周辺の治安が悪かったため、作者である…はこの世を嘆く。それがこの随筆であるわけで……」
カリカリ、というペン先の踊る音が不規則に鳴る。自分もその不規則な流れに身を任せ、ノートの隅に楕円を描き、その中に幾何か文字を記した。
(…治安の悪化、嘆き、と)
今だけは、現実を忘れ先人の生きた世界に身をおく。そうすることができるのが、この講座の醍醐味だった。
「……では、この作品の冒頭を知っているものは…」
講師がチョークの走りを止めて、自分達の方へ振り向いたとき。
「…先生!」
ある男子生徒が挙手をした。
「時間が……」
自分も机上の腕時計を見てみる。なんと講座終了時刻を過ぎていた。
おそらく彼は次の講座が、ここの校舎の別棟の教室なのだろう。移動が必要なのを察した講師は左手に持つテキストを教壇においた。
「すみません、熱く語っていたらまた延長してしまいました。時間に気を遣えという身ながら面目ない。続きは次回、皆さん、テキスト忘れずに」
挙手した生徒にすまなかったね、と言って講師は教室を出ていった。
教室で次の講座を待つ人もいれば、教室を出ていき、帰っていく人もいる。
俺はカバンからスマホを出して、写しきれなかった板書をフレームに収める。
「お疲れ、翔!」
「あ!」
金髪の好青年がフレームの中に割り込む。
シャッターを押すタイミングと重なりニカッと笑う友人の顔がはっきり写り込んでしまった。
「…邪魔するなって…全く」
「写真なんか取らなくたって、翔はちゃんと板書取ってるでしょ?」
「取り忘れがあると困るだろ」
改めて、シャッターを切った。そして次の講座のために黒板を消しに来ていた職員に、軽く会釈する。電動クリーナーの不協和音を背に、テキストと筆記具をカバンにしまい、俺と友人は教室の出口へ向かう。
「自習室いく?」
スマホをいじりながら、友人は尋ねる。彼はいつも空き時間はスマホで英字新聞を読むが、今日はチャットの画面を見ている。
「ああ、勿論。席空いてるといいな」
「その心配はいらないよ」
「なんで」
「席取りは任せたから、」
スマホの画面を俺に見せる。
「あいつか…」
また、友人はニカッと笑う。
「十分前にメッセージ来てたから、もう着いてるよね」
「そうだな、あ、俺にも来てた」
友人はチャットの画面を俺に見せ終わると、いつものように英文に熱中する。彼は毎日欠かさず、この習慣を続けている。そして、仲の良いもう一人の友人は、今、自習室で俺達の席を確保してくれているらしい。
俺と友人のスマホのチャット通知音が同時に鳴った。講座が一つ終わったこともあり、自習室に人がなだれ込んで来たから早く来いという文面だった。
「…何か混んできたみたいだね。早く行こうか」
「おう」
俺と友人はスマホをポケットにしまい、自習室へと早足で向かった。
ここの予備校の自習室は地下一階にある。その階はすべて自学スペースで、個別ブースの席が二百席はあるが、今日はより多くの生徒が利用するようだ。
既に、席の受付カウンターは長蛇の列だった。
「結構混むねーってあれ?」
「あそこにいるのって…」
俺と友人で顔を見合わせる。偶然にも最後尾には明らかに"友人"が並んでいた。
俺は、その人物の名を呼ぶ。
「瞬華!」
「あ!翔、蓮斗!」
彼女は長い髪を掻き上げて俺達に手を振った。
蓮斗は友人の名前である。
「ごめん二人とも!チューター面談していたら遅れちゃった…席まだ取れてない!」
俺が瞬華、と呼んだその人は俺達の前で申し訳なさそうに両手を合わせる。
「いーよいーよ。この混み用だと、複数席を一人で確保はマナー違反だし」
「ちょうどよかったじゃん。これなら三人並べるし」
自習室の席は来た人から番号が昇順で決まる。三人続けて並んでいれば、横並びで座れるのだった。
「それより、二人とも講座お疲れ様!今日は何受けたの?」
「古典文学史だよね、翔?」
「ああ。今日は鎌倉時代の随筆だったな。直前対策だかなんだか……」
蓮斗がテキストをカバンから出し、彼女に手渡した。
「やっぱり古典も面白そう……数学より古典、取ればよかった」
パラパラとページを捲ってそう呟いた。
「瞬華も、古典取ってるだろ?」
「…でも!二人は文系だから私と取る講座が別じゃん!同じ塾なのに会う機会がなくなっちゃったのもあって……」
明らかに寂しそうな表情をする。
確かに学校のクラスが文理で分かれた上、予備校の講座まで分かれてしまった。
彼女は、将来の夢のため理系を選択した。一方、俺と蓮斗は文系。理系とは講座スケジュールが完全に分かれてしまったので、今年になってから予備校の自習室でしか会えなくなった。
「今までずっと一緒にいたから、やっぱり一人は嫌だよ……!」
「まあまあ。俺も、翔も瞬華ちゃんが大学受かったら嬉しいし」
蓮斗は苦笑いを浮かべつつも、優しく励ます。
「今、一月だろ?もし三人とも合格すれば、また同じキャンパスだ」
俺達三人は、同じ大学を志望している。しかも、同じ学部だが、専攻分野の違いから試験科目が異なるのだ。
俺達に宥められ、瞬華はテキストを蓮斗に返す。
「…そうだよね。受かれば、また同じ学校だもんね」
そう話しているうちに、長蛇の列はすっかり消えてしまった。
「瞬華ちゃん、前進んだよ」
「あ、本当だ」
瞬華は塾生カードを職員に提示し、番号を指定される。番号の札を受け取った瞬華は俺達の方を振り返った。
「ねえ、翔!蓮斗!見て!百九十八番!私達で満席。ラッキーだったね!」
彼女は先ほどの残念そうな面持ちから一転、宝くじでも拾ったかのような顔になった。俺達も次に続く自分たちの番号を見て笑うのだった。
机上の腕時計は夜の九時半を指した。
周りの生徒にペンを投げ出す気は一切ない。
(うーん……さすがに水分取るか)
個別ブースであるのを良いことに盛大に欠伸をする。水筒を持って、自習室の外へ出た。
四日後は一次試験の受験日である。周りの雰囲気も張り詰めてきたところだ。
この一次試験の日の成績で今後の大学受験の方向性が決まる。周りが神経質になるのも当たり前だった。
俺は水筒に残っていたお茶を一気に飲み干す。
そして、腕をぐるぐる回して体をほぐしていた時。
「お疲れ様、翔」
瞬華だった。
「お疲れ、蓮斗は?」
「まだ、やってるよー。私はプリント貰いに行く序でにコーヒー買いに行こうと思って……」
予備校の一階には自販機がある。そしてそのすぐ隣には各科目のプリントも用意されている。二十分程度で一枚終わる分量で、チューターに採点をして貰えるため、それをやって帰るつもりなのだろう。
「翔はまだ、残ってく?」
「いや、残りは家でやる。腹も減ったし」
「そっかー……」
彼女は財布とペンケースを右手に持ったまま、うー、と伸びをする。
「予備校が閉まるまであと三十分か…」
俺の呟きに、彼女が振り向いた。
「やっぱり残る?」
首をかしげ、こちらをじっと見てくる。
「…残ってほしいのか?」
「だって、蓮斗も残ってるし……三人で帰ろうよ」
先程の彼女の言葉を思い出す。
(会う機会、ね……)
一次試験の後は、お互い悠長に話す暇がなくなるかもしれない。
「…最後まで残ってくか」
「本当?」
あと三十分だ。それぐらいならまだ頑張れる。
「やった!じゃあコーヒー、二人の分も買ってくるね!」
パッと明るくなった彼女の表情を見て、俺も笑みがこぼれる。
「ブラックでいいかな?」
「ああ」
「帰り、一緒に飲もうね!」
彼女はそう言って一階への螺旋階段を早足で駆け上がっていった。
『三十分後、黒缶配給』
そう書いた付箋を蓮斗の参考書に貼ってやる。
彼はふっ、と笑いをこぼし、諸々を察した。そして、付箋の余白に『了解』と書いた。
空っぽの水筒を鞄にしまい、席に着く。日本史の参考書とノートを開き、スタンドの灯りをつけた。
俺と蓮斗、瞬華は同じ高校に通っている。二人とも高校で出会った友達だ。同じクラスで、同じ予備校に通っていたことから、それ以来三人でよく過ごすようになった。
昨年の冬以来、俺たちは受験勉強に集中している。三人とも同じ壁を越えようとしているのだ。目指すのは、都内にある名門国立大学、鳴倫館大学の人間科学部。俺と蓮斗は発達脳科学専攻で、瞬華は情報脳科学専攻を志望する。大学を履修した後は三人で研究所を創設したいと話していた。
『…まだ、残っている塾生の皆さん、終業時間が近づいております。帰宅の準備をお願いします。繰り返します…』
終業アナウンスだ。放送が繰り返されるうちに周りのスタンドの明かりが消えていく。
俺も教材類を鞄にしまって机上の消しカスをまとめていた。
「はい、翔」
蓮斗が、電動消しカスクリーナーを俺の机に置く。
「おう、サンキューな」
消しカスの山がクリーナーの吸い込み口にどんどん消えていく。隣の瞬華の机も掃除しておいた。透明の消しカス受けの中が見えないのが、勉強量と比例している。お互い、帰る支度が整い、瞬華のいる一階へと向かった。
一階のプリントコーナーのボックスは、すでに空だ。職員達が、明日用のプリントを印刷し、科目ごとに分けている。コンパクトな印刷機から、大量の紙が吐き出されていく。
「榛野君、是政君」
銀髪の職員に声を掛けられる。声の主は、俺達が兄のように慕う学生チューターの加茂田さんだった。
「いつもありがとうございます、加茂田先生」
コピー用紙を機械にセットして、印刷終了を待つ加茂田先生。この人は、現役で鳴倫館大学に合格した人物だ。
今までの受験情報やキャンパスの様子などを直接教えてもらい、オープンキャンパスや大学祭では実際に案内してもらったこともある。
「いよいよ、迫ってきたね。一次試験ぐらいは君達なら余裕かな?」
「そんなことないっすよ」
「正直不安です」
印刷し終わったプリントの束をまとめてボックスへしまい、俺達の方へやってくる。
「あ、そうそう。神矢さんが自販機前で待ってるよ。早く行ってやりな」
先生は、一階入り口の方へ目を遣る。瞬華が熱いコーヒーの缶を三本、マフラーの中に入れて持ちながら立っていた。
「瞬華!」
「あ!いたいた」
瞬華は俺達に気づいて、こちらへやってくる。
「黒缶配給!」
ブラックコーヒーをそれぞれに手渡す。
「あざす」
「ありがとう」
コーヒーは丁度よい熱さになっていたので、飲みやすかった。苦みと酸味やコーヒー独特のコクが喉を通って一気に目が冴える。
「ちなみに、俺のは…」
各々、コーヒーを飲み始めるのを見て加茂田先生が自分を指さし寂しそうに言った。
「あ…!先生にはないです」
「っはは、冗談。飲んでから帰りな」
俺も飲もうかな、とその場を離れ、自販機に向かう。ボタンの電子音や缶の落ちる音が静かなロビーに響く。そして先生はコーヒーを持ったまま、教室の見回り行ってくる、と階段を上がっていった。コーヒーをほとんど飲んでしまった瞬華が、スマホをポケットから出し、画面をスクロールする。
「さっき、ネットニュースで見たんけど、二人とも『Time Traveler』って知ってる?」
「『Time Traveler』?知らないや」
「本かゲームの名前か?」
瞬華はううん、と首を振り、画面をこちらに見せた。
そこには、太字で『SNSに投稿され、急上昇一位を獲得。Time Travelerの正体とは?』と見出しがついている。
「過去と未来を行き来して、人の悩みや問題を解決してくれるっていう便利屋らしいんだ」
「何だ、それ。そんなインチキ商売がバズるのか?」
「最近、SNS見てなかったからなー知らなかったよ」
蓮斗と俺が、それぞれ検索エンジンにワードを打とうとしたが、瞬華が一足先にURLをチャットに送ってくれた。
「でも、脳科学を専攻する私たちにとっては結構キーになると思うの」
Time Traveler。時空旅行者、という解釈でよいのだろうか。
瞬華の言う通り、タイムトラベルは脳科学と密接に関連して、時空の移動における記憶の維持や、行動の分岐における心理状態という点で、学術的に研究が進んでいる。
「確かに、鳴倫館大のラボでも、物理学研究室と共同研究していた時期があったよね」
「そうなの?」
蓮斗が別のURLを転送する。
「翔はどう思う?」
「どうって…」
記事には、『最期を看取れなかった母と話せた』、『喧嘩別れした友人と和解できた』、『仕事のミスを取り消すことができた』など、現実ではありえないようなことが載っていた。勿論、ネットの記事だけでは信憑性は甚だ薄い。
「正直、不可解すぎて追いつかねえよ」
「タイムトラベルは、まだ学術的に実証されてないのに…何だろう」
時空間移動。その現象には明らかな矛盾が生じる。それは一般的に『親殺しのパラドクス』なんて言われている反例のことだ。
「俺は…タイムパラドクスの壁を越えて、こんなことができるなんて信じられない」
「それは、俺も賛成するよ」
「物理学界では、並行世界―パラレルワールドの存在が時々話題になるよね?この『Time Traveler』は、それを実証できたのかな…」
「まさか。だったら、正当な理由で公表した方が…」
「はいはい。もう塾閉めるぞ!一応、一次試験四日前だ。学術会議は鳴倫館大に受かってからにしろ!」
階段を駆け下りてきた加茂田先生に声を掛けられ、すっかり遅くなってしまったことに気づいた俺達は帰り道に続きを話そうと、予備校の自動ドアを通る。
「すみません、先生。話してたら遅くなっちゃって…」
瞬華は、シャッターを閉めるついでに外まで出てきた先生に軽く頭を下げた。
「まあまあ、受験日が近づけば近づく程不安になるよな。でも、遅くなると親御さんが心配するから帰りな」
そう話しながらガラガラ、とシャッターを半分だけ閉めた。煌々と照っていた蛍光灯が分厚いカーテンに遮られ、俺達の周りは一気に暗闇になる。
「加茂田先生、遅くまでありがとうございました」
「気を付けて帰れよ!また明日な」
「………」
予備校から俺の家まで、県営鉄道で十分ほど。瞬華の家はその一駅前。蓮斗は、駅から県営バスで十分ほどの距離だった。三人の経由地である駅でいつも別れていた。
「ごめん、二人とも。私が話し広げちゃったせいで…遅くなっちゃった」
「っはは。まあ、でも久しぶりにこういう話できて楽しかったし。ね、翔?」
「………」
「翔?」
「え、あ」
「……どうした、翔」
「いや…さっき」
『何で、教室の見回りに行っててさっき下りたばかりなのに、俺たちの会話が【学術会議】って気づいたんだ?』
俺の問いに、二人は黙り込む。一瞬、俺たちの周りだけ時が止まっているかのように思えるほど、沈黙は続いた。遠くで電車の発車ベルが鳴り、視界の奥で電車が通り過ぎていく。
「普通だったら『駄弁ってないで』とか『しゃべってないで』っていうだろ」
「……」
「……」
沈黙を破り、口を開いたのは、瞬華だった。
「からかってるだけじゃない?」
「偶然だよ、多分」
「そうか…」
本当にただふざけて言っただけであろうか。加茂田さんが【学術会議】とはっきり言ったことに、俺は驚いた。いやにはっきり聞こえたのだ。その一声だけが。
「前にもあったよ。私がプリント取りに来た時は、大体の確率で教科当てられちゃうし」
瞬華が言うように、加茂田先生はよく俺達の次の行動や発言を当てることがある。ただ、それは加茂田先生が、この塾において、塾生のよき【理解者】であるからだ。受験を乗り越えたからこそ、自分と俺達―塾生を重ねる部分があるのだと思う。現役の学生ということもあり、ベテランの年配講師陣よりも塾生との距離が近い。しかし、ただ馴れ馴れしいだけでなくアドバイスは時に厳しく、優しく―右も左もわからない俺達受験生をいつも道いてくれる。でも、何故か引っ掛かる。その助言や行為全てが的確で、見透かされているような気持になる。
「あ!まさか…翔、加茂田先生が『Time Traveler』かもしれないって思ったりしてる?」
「え、あ…いや」
瞬華の一言に、蓮斗が声を上げて笑った。
「ないない!あの先生、第六感とか超能力とか、絶対信じないと思うよ」
「私もそう思う。それに、加茂田先生は鳴倫館大学の人文学部日本文学専攻…だっけ?」
「そうだよ、確かにロマンチストみたいだけど、研究論文とかプログラム言語より古文書が好きって明言してる先生には、関係ないよ」
蓮斗の言う通りだ。加茂田先生は、古典文学の研究が目的で鳴倫館大学を目指したと言っていた。前に、案内してもらったときも俺達が希望する脳科学研究室だけでなく、文学研究室も紹介してくれて、心躍らせながら話す先生の姿が鮮烈に思い出された。
そうか。二人にそう言われ、自分の考えを改めようとする。
「そうだよな。浅はかな推測だったかも」
「そうだよ、翔らしくない。このままじゃ、立派な研究者になれないんじゃない?」
蓮斗がおどけて言いながら俺の顔を覗き込んでくる。
「論文捏造と想像の過ぎた研究ってことで、今度は翔がネットニュースになっちゃう!」
「それはそれで傑作だ、そのニュース記事、スクショ→永久保存だね」
「おい!」
いつまでも人のこと馬鹿にしてるんじゃねえ、と怒りたいところだが。いつのまにか、先ほど浮かんだ不可解な疑念は消え去り、ケラケラと笑う二人を見ていると俺も自然と笑えてくる。
夜の駅前広場は、異様に寒い。気候的にも、精神的にも。
塾と反対方向へ行けば繁華街。今は一月、真冬だ。受験生である俺たちは、家→予備校→家の繰り返し。駅前のスクリーンには、ニュース番組が流れ、そこでやっと今日の出来事を知る。受験は最終的に自分と見つめ合わなければならない。多少、孤独を感じる。
しかし、幸いなことに蓮斗や瞬華と一緒に話すことで、一瞬目の前の鉄壁が遠ざかる。そのかけがえのない時間は唯一精神に温もりを与えてくれるのだった。
「あ!最後のバス来てるよ、蓮斗!」
瞬華が突然、声を上げる。彼女が指さす先のバスロータリーを見ると、蓮斗がいつも乗る系統の最終バスが止まっていた。エンジン音が聞こえてきたので、おそらくそろそろ、出発してしまうだろう。
「本当だ!」
このバスを逃せば、もれなく蓮斗は徒歩帰宅。バスで十分の距離をこの時間に歩いて帰るのは、彼も避けたいだろう。
「じゃあ二人とも、また明日ね!」
「バイバーイ!」
「気をつけろよ!」
手を振りながらもバスの乗車口へダッシュしていく友人の後ろ姿を見送り、俺達は、駅構内へと足を踏み入れた。
改札を抜けて、プラットホームへ。電光掲示板を確認する。
「さっき一本行っちゃったから、まだ来ないかな?」
「いや、すぐ来るさ」
反対方面の電車時刻の映る電光掲示板は、快速のランプが点滅していた。数秒して、ホームへ飛び込んできた快速列車は彼女の長髪をなびかせ、過ぎていく。乱れた髪をかき上げながら、彼女は遠くへ目を遣った。
「次、学校行くの…いつだっけ」
「確か、卒業式予行練習の日、だったか」
「そっか…」
瞬華はスマホを取り出し、フォトアルバムを開いた。
彼女のアルバムアプリには、大量の写真が日付、行事、人物と細かくファイリングされている。
「試験前だからかな…みんなの思い出の写真ばっかり眺めちゃう」
彼女はアルバム委員だった。俺は写真の選別を手伝っていたので、大まかな下書きとレイアートは知っていた。完成は卒業式当日になる。体育祭、文化祭、合唱祭…一つ一つの写真を見返すことでその光景がとても懐かしく思えた。
「あーできることなら、もう一回全部の行事やりたい!」
駅に人が少ないのをいいことに、声色高く言い切り、こちらを見てくる。
「別に、後悔した行事なんてないだろ?」
「そんなことないよ!楽しかったのは楽しかったけど…楽しみすぎてやろうとしたことができなかったからさ…」
ほら見て、と写真をこちらに見せてくる。そこには、クラスメイトのときめく一瞬が収められていた。やけに饒舌になる彼女の話を聞き、ふと、『Time Traveler』の名前がまた脳裏をよぎるのだった。
西日の照る教室には、チョークと声が調和する。
「………そして、当時は都やその周辺の治安が悪かったため、作者である…はこの世を嘆く。それがこの随筆であるわけで……」
カリカリ、というペン先の踊る音が不規則に鳴る。自分もその不規則な流れに身を任せ、ノートの隅に楕円を描き、その中に幾何か文字を記した。
(…治安の悪化、嘆き、と)
今だけは、現実を忘れ先人の生きた世界に身をおく。そうすることができるのが、この講座の醍醐味だった。
「……では、この作品の冒頭を知っているものは…」
講師がチョークの走りを止めて、自分達の方へ振り向いたとき。
「…先生!」
ある男子生徒が挙手をした。
「時間が……」
自分も机上の腕時計を見てみる。なんと講座終了時刻を過ぎていた。
おそらく彼は次の講座が、ここの校舎の別棟の教室なのだろう。移動が必要なのを察した講師は左手に持つテキストを教壇においた。
「すみません、熱く語っていたらまた延長してしまいました。時間に気を遣えという身ながら面目ない。続きは次回、皆さん、テキスト忘れずに」
挙手した生徒にすまなかったね、と言って講師は教室を出ていった。
教室で次の講座を待つ人もいれば、教室を出ていき、帰っていく人もいる。
俺はカバンからスマホを出して、写しきれなかった板書をフレームに収める。
「お疲れ、翔!」
「あ!」
金髪の好青年がフレームの中に割り込む。
シャッターを押すタイミングと重なりニカッと笑う友人の顔がはっきり写り込んでしまった。
「…邪魔するなって…全く」
「写真なんか取らなくたって、翔はちゃんと板書取ってるでしょ?」
「取り忘れがあると困るだろ」
改めて、シャッターを切った。そして次の講座のために黒板を消しに来ていた職員に、軽く会釈する。電動クリーナーの不協和音を背に、テキストと筆記具をカバンにしまい、俺と友人は教室の出口へ向かう。
「自習室いく?」
スマホをいじりながら、友人は尋ねる。彼はいつも空き時間はスマホで英字新聞を読むが、今日はチャットの画面を見ている。
「ああ、勿論。席空いてるといいな」
「その心配はいらないよ」
「なんで」
「席取りは任せたから、」
スマホの画面を俺に見せる。
「あいつか…」
また、友人はニカッと笑う。
「十分前にメッセージ来てたから、もう着いてるよね」
「そうだな、あ、俺にも来てた」
友人はチャットの画面を俺に見せ終わると、いつものように英文に熱中する。彼は毎日欠かさず、この習慣を続けている。そして、仲の良いもう一人の友人は、今、自習室で俺達の席を確保してくれているらしい。
俺と友人のスマホのチャット通知音が同時に鳴った。講座が一つ終わったこともあり、自習室に人がなだれ込んで来たから早く来いという文面だった。
「…何か混んできたみたいだね。早く行こうか」
「おう」
俺と友人はスマホをポケットにしまい、自習室へと早足で向かった。
ここの予備校の自習室は地下一階にある。その階はすべて自学スペースで、個別ブースの席が二百席はあるが、今日はより多くの生徒が利用するようだ。
既に、席の受付カウンターは長蛇の列だった。
「結構混むねーってあれ?」
「あそこにいるのって…」
俺と友人で顔を見合わせる。偶然にも最後尾には明らかに"友人"が並んでいた。
俺は、その人物の名を呼ぶ。
「瞬華!」
「あ!翔、蓮斗!」
彼女は長い髪を掻き上げて俺達に手を振った。
蓮斗は友人の名前である。
「ごめん二人とも!チューター面談していたら遅れちゃった…席まだ取れてない!」
俺が瞬華、と呼んだその人は俺達の前で申し訳なさそうに両手を合わせる。
「いーよいーよ。この混み用だと、複数席を一人で確保はマナー違反だし」
「ちょうどよかったじゃん。これなら三人並べるし」
自習室の席は来た人から番号が昇順で決まる。三人続けて並んでいれば、横並びで座れるのだった。
「それより、二人とも講座お疲れ様!今日は何受けたの?」
「古典文学史だよね、翔?」
「ああ。今日は鎌倉時代の随筆だったな。直前対策だかなんだか……」
蓮斗がテキストをカバンから出し、彼女に手渡した。
「やっぱり古典も面白そう……数学より古典、取ればよかった」
パラパラとページを捲ってそう呟いた。
「瞬華も、古典取ってるだろ?」
「…でも!二人は文系だから私と取る講座が別じゃん!同じ塾なのに会う機会がなくなっちゃったのもあって……」
明らかに寂しそうな表情をする。
確かに学校のクラスが文理で分かれた上、予備校の講座まで分かれてしまった。
彼女は、将来の夢のため理系を選択した。一方、俺と蓮斗は文系。理系とは講座スケジュールが完全に分かれてしまったので、今年になってから予備校の自習室でしか会えなくなった。
「今までずっと一緒にいたから、やっぱり一人は嫌だよ……!」
「まあまあ。俺も、翔も瞬華ちゃんが大学受かったら嬉しいし」
蓮斗は苦笑いを浮かべつつも、優しく励ます。
「今、一月だろ?もし三人とも合格すれば、また同じキャンパスだ」
俺達三人は、同じ大学を志望している。しかも、同じ学部だが、専攻分野の違いから試験科目が異なるのだ。
俺達に宥められ、瞬華はテキストを蓮斗に返す。
「…そうだよね。受かれば、また同じ学校だもんね」
そう話しているうちに、長蛇の列はすっかり消えてしまった。
「瞬華ちゃん、前進んだよ」
「あ、本当だ」
瞬華は塾生カードを職員に提示し、番号を指定される。番号の札を受け取った瞬華は俺達の方を振り返った。
「ねえ、翔!蓮斗!見て!百九十八番!私達で満席。ラッキーだったね!」
彼女は先ほどの残念そうな面持ちから一転、宝くじでも拾ったかのような顔になった。俺達も次に続く自分たちの番号を見て笑うのだった。
机上の腕時計は夜の九時半を指した。
周りの生徒にペンを投げ出す気は一切ない。
(うーん……さすがに水分取るか)
個別ブースであるのを良いことに盛大に欠伸をする。水筒を持って、自習室の外へ出た。
四日後は一次試験の受験日である。周りの雰囲気も張り詰めてきたところだ。
この一次試験の日の成績で今後の大学受験の方向性が決まる。周りが神経質になるのも当たり前だった。
俺は水筒に残っていたお茶を一気に飲み干す。
そして、腕をぐるぐる回して体をほぐしていた時。
「お疲れ様、翔」
瞬華だった。
「お疲れ、蓮斗は?」
「まだ、やってるよー。私はプリント貰いに行く序でにコーヒー買いに行こうと思って……」
予備校の一階には自販機がある。そしてそのすぐ隣には各科目のプリントも用意されている。二十分程度で一枚終わる分量で、チューターに採点をして貰えるため、それをやって帰るつもりなのだろう。
「翔はまだ、残ってく?」
「いや、残りは家でやる。腹も減ったし」
「そっかー……」
彼女は財布とペンケースを右手に持ったまま、うー、と伸びをする。
「予備校が閉まるまであと三十分か…」
俺の呟きに、彼女が振り向いた。
「やっぱり残る?」
首をかしげ、こちらをじっと見てくる。
「…残ってほしいのか?」
「だって、蓮斗も残ってるし……三人で帰ろうよ」
先程の彼女の言葉を思い出す。
(会う機会、ね……)
一次試験の後は、お互い悠長に話す暇がなくなるかもしれない。
「…最後まで残ってくか」
「本当?」
あと三十分だ。それぐらいならまだ頑張れる。
「やった!じゃあコーヒー、二人の分も買ってくるね!」
パッと明るくなった彼女の表情を見て、俺も笑みがこぼれる。
「ブラックでいいかな?」
「ああ」
「帰り、一緒に飲もうね!」
彼女はそう言って一階への螺旋階段を早足で駆け上がっていった。
『三十分後、黒缶配給』
そう書いた付箋を蓮斗の参考書に貼ってやる。
彼はふっ、と笑いをこぼし、諸々を察した。そして、付箋の余白に『了解』と書いた。
空っぽの水筒を鞄にしまい、席に着く。日本史の参考書とノートを開き、スタンドの灯りをつけた。
俺と蓮斗、瞬華は同じ高校に通っている。二人とも高校で出会った友達だ。同じクラスで、同じ予備校に通っていたことから、それ以来三人でよく過ごすようになった。
昨年の冬以来、俺たちは受験勉強に集中している。三人とも同じ壁を越えようとしているのだ。目指すのは、都内にある名門国立大学、鳴倫館大学の人間科学部。俺と蓮斗は発達脳科学専攻で、瞬華は情報脳科学専攻を志望する。大学を履修した後は三人で研究所を創設したいと話していた。
『…まだ、残っている塾生の皆さん、終業時間が近づいております。帰宅の準備をお願いします。繰り返します…』
終業アナウンスだ。放送が繰り返されるうちに周りのスタンドの明かりが消えていく。
俺も教材類を鞄にしまって机上の消しカスをまとめていた。
「はい、翔」
蓮斗が、電動消しカスクリーナーを俺の机に置く。
「おう、サンキューな」
消しカスの山がクリーナーの吸い込み口にどんどん消えていく。隣の瞬華の机も掃除しておいた。透明の消しカス受けの中が見えないのが、勉強量と比例している。お互い、帰る支度が整い、瞬華のいる一階へと向かった。
一階のプリントコーナーのボックスは、すでに空だ。職員達が、明日用のプリントを印刷し、科目ごとに分けている。コンパクトな印刷機から、大量の紙が吐き出されていく。
「榛野君、是政君」
銀髪の職員に声を掛けられる。声の主は、俺達が兄のように慕う学生チューターの加茂田さんだった。
「いつもありがとうございます、加茂田先生」
コピー用紙を機械にセットして、印刷終了を待つ加茂田先生。この人は、現役で鳴倫館大学に合格した人物だ。
今までの受験情報やキャンパスの様子などを直接教えてもらい、オープンキャンパスや大学祭では実際に案内してもらったこともある。
「いよいよ、迫ってきたね。一次試験ぐらいは君達なら余裕かな?」
「そんなことないっすよ」
「正直不安です」
印刷し終わったプリントの束をまとめてボックスへしまい、俺達の方へやってくる。
「あ、そうそう。神矢さんが自販機前で待ってるよ。早く行ってやりな」
先生は、一階入り口の方へ目を遣る。瞬華が熱いコーヒーの缶を三本、マフラーの中に入れて持ちながら立っていた。
「瞬華!」
「あ!いたいた」
瞬華は俺達に気づいて、こちらへやってくる。
「黒缶配給!」
ブラックコーヒーをそれぞれに手渡す。
「あざす」
「ありがとう」
コーヒーは丁度よい熱さになっていたので、飲みやすかった。苦みと酸味やコーヒー独特のコクが喉を通って一気に目が冴える。
「ちなみに、俺のは…」
各々、コーヒーを飲み始めるのを見て加茂田先生が自分を指さし寂しそうに言った。
「あ…!先生にはないです」
「っはは、冗談。飲んでから帰りな」
俺も飲もうかな、とその場を離れ、自販機に向かう。ボタンの電子音や缶の落ちる音が静かなロビーに響く。そして先生はコーヒーを持ったまま、教室の見回り行ってくる、と階段を上がっていった。コーヒーをほとんど飲んでしまった瞬華が、スマホをポケットから出し、画面をスクロールする。
「さっき、ネットニュースで見たんけど、二人とも『Time Traveler』って知ってる?」
「『Time Traveler』?知らないや」
「本かゲームの名前か?」
瞬華はううん、と首を振り、画面をこちらに見せた。
そこには、太字で『SNSに投稿され、急上昇一位を獲得。Time Travelerの正体とは?』と見出しがついている。
「過去と未来を行き来して、人の悩みや問題を解決してくれるっていう便利屋らしいんだ」
「何だ、それ。そんなインチキ商売がバズるのか?」
「最近、SNS見てなかったからなー知らなかったよ」
蓮斗と俺が、それぞれ検索エンジンにワードを打とうとしたが、瞬華が一足先にURLをチャットに送ってくれた。
「でも、脳科学を専攻する私たちにとっては結構キーになると思うの」
Time Traveler。時空旅行者、という解釈でよいのだろうか。
瞬華の言う通り、タイムトラベルは脳科学と密接に関連して、時空の移動における記憶の維持や、行動の分岐における心理状態という点で、学術的に研究が進んでいる。
「確かに、鳴倫館大のラボでも、物理学研究室と共同研究していた時期があったよね」
「そうなの?」
蓮斗が別のURLを転送する。
「翔はどう思う?」
「どうって…」
記事には、『最期を看取れなかった母と話せた』、『喧嘩別れした友人と和解できた』、『仕事のミスを取り消すことができた』など、現実ではありえないようなことが載っていた。勿論、ネットの記事だけでは信憑性は甚だ薄い。
「正直、不可解すぎて追いつかねえよ」
「タイムトラベルは、まだ学術的に実証されてないのに…何だろう」
時空間移動。その現象には明らかな矛盾が生じる。それは一般的に『親殺しのパラドクス』なんて言われている反例のことだ。
「俺は…タイムパラドクスの壁を越えて、こんなことができるなんて信じられない」
「それは、俺も賛成するよ」
「物理学界では、並行世界―パラレルワールドの存在が時々話題になるよね?この『Time Traveler』は、それを実証できたのかな…」
「まさか。だったら、正当な理由で公表した方が…」
「はいはい。もう塾閉めるぞ!一応、一次試験四日前だ。学術会議は鳴倫館大に受かってからにしろ!」
階段を駆け下りてきた加茂田先生に声を掛けられ、すっかり遅くなってしまったことに気づいた俺達は帰り道に続きを話そうと、予備校の自動ドアを通る。
「すみません、先生。話してたら遅くなっちゃって…」
瞬華は、シャッターを閉めるついでに外まで出てきた先生に軽く頭を下げた。
「まあまあ、受験日が近づけば近づく程不安になるよな。でも、遅くなると親御さんが心配するから帰りな」
そう話しながらガラガラ、とシャッターを半分だけ閉めた。煌々と照っていた蛍光灯が分厚いカーテンに遮られ、俺達の周りは一気に暗闇になる。
「加茂田先生、遅くまでありがとうございました」
「気を付けて帰れよ!また明日な」
「………」
予備校から俺の家まで、県営鉄道で十分ほど。瞬華の家はその一駅前。蓮斗は、駅から県営バスで十分ほどの距離だった。三人の経由地である駅でいつも別れていた。
「ごめん、二人とも。私が話し広げちゃったせいで…遅くなっちゃった」
「っはは。まあ、でも久しぶりにこういう話できて楽しかったし。ね、翔?」
「………」
「翔?」
「え、あ」
「……どうした、翔」
「いや…さっき」
『何で、教室の見回りに行っててさっき下りたばかりなのに、俺たちの会話が【学術会議】って気づいたんだ?』
俺の問いに、二人は黙り込む。一瞬、俺たちの周りだけ時が止まっているかのように思えるほど、沈黙は続いた。遠くで電車の発車ベルが鳴り、視界の奥で電車が通り過ぎていく。
「普通だったら『駄弁ってないで』とか『しゃべってないで』っていうだろ」
「……」
「……」
沈黙を破り、口を開いたのは、瞬華だった。
「からかってるだけじゃない?」
「偶然だよ、多分」
「そうか…」
本当にただふざけて言っただけであろうか。加茂田さんが【学術会議】とはっきり言ったことに、俺は驚いた。いやにはっきり聞こえたのだ。その一声だけが。
「前にもあったよ。私がプリント取りに来た時は、大体の確率で教科当てられちゃうし」
瞬華が言うように、加茂田先生はよく俺達の次の行動や発言を当てることがある。ただ、それは加茂田先生が、この塾において、塾生のよき【理解者】であるからだ。受験を乗り越えたからこそ、自分と俺達―塾生を重ねる部分があるのだと思う。現役の学生ということもあり、ベテランの年配講師陣よりも塾生との距離が近い。しかし、ただ馴れ馴れしいだけでなくアドバイスは時に厳しく、優しく―右も左もわからない俺達受験生をいつも道いてくれる。でも、何故か引っ掛かる。その助言や行為全てが的確で、見透かされているような気持になる。
「あ!まさか…翔、加茂田先生が『Time Traveler』かもしれないって思ったりしてる?」
「え、あ…いや」
瞬華の一言に、蓮斗が声を上げて笑った。
「ないない!あの先生、第六感とか超能力とか、絶対信じないと思うよ」
「私もそう思う。それに、加茂田先生は鳴倫館大学の人文学部日本文学専攻…だっけ?」
「そうだよ、確かにロマンチストみたいだけど、研究論文とかプログラム言語より古文書が好きって明言してる先生には、関係ないよ」
蓮斗の言う通りだ。加茂田先生は、古典文学の研究が目的で鳴倫館大学を目指したと言っていた。前に、案内してもらったときも俺達が希望する脳科学研究室だけでなく、文学研究室も紹介してくれて、心躍らせながら話す先生の姿が鮮烈に思い出された。
そうか。二人にそう言われ、自分の考えを改めようとする。
「そうだよな。浅はかな推測だったかも」
「そうだよ、翔らしくない。このままじゃ、立派な研究者になれないんじゃない?」
蓮斗がおどけて言いながら俺の顔を覗き込んでくる。
「論文捏造と想像の過ぎた研究ってことで、今度は翔がネットニュースになっちゃう!」
「それはそれで傑作だ、そのニュース記事、スクショ→永久保存だね」
「おい!」
いつまでも人のこと馬鹿にしてるんじゃねえ、と怒りたいところだが。いつのまにか、先ほど浮かんだ不可解な疑念は消え去り、ケラケラと笑う二人を見ていると俺も自然と笑えてくる。
夜の駅前広場は、異様に寒い。気候的にも、精神的にも。
塾と反対方向へ行けば繁華街。今は一月、真冬だ。受験生である俺たちは、家→予備校→家の繰り返し。駅前のスクリーンには、ニュース番組が流れ、そこでやっと今日の出来事を知る。受験は最終的に自分と見つめ合わなければならない。多少、孤独を感じる。
しかし、幸いなことに蓮斗や瞬華と一緒に話すことで、一瞬目の前の鉄壁が遠ざかる。そのかけがえのない時間は唯一精神に温もりを与えてくれるのだった。
「あ!最後のバス来てるよ、蓮斗!」
瞬華が突然、声を上げる。彼女が指さす先のバスロータリーを見ると、蓮斗がいつも乗る系統の最終バスが止まっていた。エンジン音が聞こえてきたので、おそらくそろそろ、出発してしまうだろう。
「本当だ!」
このバスを逃せば、もれなく蓮斗は徒歩帰宅。バスで十分の距離をこの時間に歩いて帰るのは、彼も避けたいだろう。
「じゃあ二人とも、また明日ね!」
「バイバーイ!」
「気をつけろよ!」
手を振りながらもバスの乗車口へダッシュしていく友人の後ろ姿を見送り、俺達は、駅構内へと足を踏み入れた。
改札を抜けて、プラットホームへ。電光掲示板を確認する。
「さっき一本行っちゃったから、まだ来ないかな?」
「いや、すぐ来るさ」
反対方面の電車時刻の映る電光掲示板は、快速のランプが点滅していた。数秒して、ホームへ飛び込んできた快速列車は彼女の長髪をなびかせ、過ぎていく。乱れた髪をかき上げながら、彼女は遠くへ目を遣った。
「次、学校行くの…いつだっけ」
「確か、卒業式予行練習の日、だったか」
「そっか…」
瞬華はスマホを取り出し、フォトアルバムを開いた。
彼女のアルバムアプリには、大量の写真が日付、行事、人物と細かくファイリングされている。
「試験前だからかな…みんなの思い出の写真ばっかり眺めちゃう」
彼女はアルバム委員だった。俺は写真の選別を手伝っていたので、大まかな下書きとレイアートは知っていた。完成は卒業式当日になる。体育祭、文化祭、合唱祭…一つ一つの写真を見返すことでその光景がとても懐かしく思えた。
「あーできることなら、もう一回全部の行事やりたい!」
駅に人が少ないのをいいことに、声色高く言い切り、こちらを見てくる。
「別に、後悔した行事なんてないだろ?」
「そんなことないよ!楽しかったのは楽しかったけど…楽しみすぎてやろうとしたことができなかったからさ…」
ほら見て、と写真をこちらに見せてくる。そこには、クラスメイトのときめく一瞬が収められていた。やけに饒舌になる彼女の話を聞き、ふと、『Time Traveler』の名前がまた脳裏をよぎるのだった。
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