Travelers' Chronicle

赤谷夕実

文字の大きさ
4 / 4

4,True or False

しおりを挟む
翌朝。母は俺が起きた時にはすでに仕事に行っていた。代わりに父が今日は家にいるらしい。やはり父はサンドイッチに凝っていて、今日はサバサンドだった。一次試験受験日まであと2日を切った俺への気遣いだろうか。それは勿論おいしかった。
今日は俺と母、二人分の弁当を作るために、早起きしたそうだ。俺も今日は、30分早起きして数学の問題を解いていた。しかし、勉強を終えて1階のダイニングに下りた時はもうすでにテーブルにお弁当が置かれていた。
いつも通りの時間、いつも通りの電車を目指して予備校へ向かう。今日は、都内の国公立一次試験受験日だ。毎年試験は文系科目、理系科目と分かれ、2日に渡って行われる。
そこで俺はふと、試験監督の臨時バイトに行くと言っていた加茂田先生を思い出した。勿論先生と電車の中で『Time Traveler』のについて話したことも、鮮明に蘇った。
(そういえば、先生…「時間だって、命だって…友情だって、消えてしまえば取り戻すのは困難…」って…どういう意味だったんだろう)
俺が電車を降りる前に、先生はそう言っていた。一昨日、つい先生が『Time Traveler』だと軽く疑ってしまったことから、内心は何か真相を語りだしたらどうしようなどと思っていたが、先生は関係が無さそうだ。しかし、先生はそれについて否定的だ。勿論、主観的な意見も含めてだろうが、SNSのトラブルに巻き込まれないよう警告の意味もあると俺は感じた。
いつも通り、改札を抜けてプラットホームへ…行こうとしたとき、視界に入った人物を見て俺は驚いた。
「瞬華⁉」
長い髪をなびかせながら、彼女は俺の方へ走ってくる。
「おはよう、翔!」
「おう、おはよう」
(何で瞬華が…次の駅が最寄のはずなのに)
「具合よくなったみたいだな。よかった」
「ありがとう!」
いつもの元気な瞬華だった。それに安堵しつつも、俺は会話を続ける。
「というか、何で一つ手前のこの駅にいるんだよ。予備校と方向が逆だろ」
「聞いて驚かないで、翔。実は…反対側の電車乗っちゃって…」
えへへ、と恥ずかしそうに笑う彼女。病み上がりでボーっとしていたのだろうか。
「…珍しいな、まだ本調子じゃないのか?」
「ううん!ちょっと間違えちゃっただけ!いや~翔の最寄がここでよかった…」
「まあ、まだ待ち合わせの時間には間に合うから蓮斗には一言連絡入れておくか」
「OK、お願い」
俺はスマホを取り出し、蓮斗へメッセージを送ろうとする。ロック画面にはメッセージアプリ『GIAR』からの通知が一件来ていた。
(まさか…)
俺の予想は的中した。
「To 『SG×RUN』 河ノナカレニ抗ヒタクハ、我ト文カワスベシ。急ギ、返シ文届ケヨ。    FROM 『TT』」
昨日と、同じ文面。一字一句全く同じだ。
「はぁ、またかよ…!」
「え、どした」
ため息交じりにそうつぶやくと、瞬華が俺のスマホを覗き込んだ。
「…『TT』?」
「ああ、昨日俺と蓮斗のスマホに送られてきた悪戯メッセージだよ…意味が分からない文面で送られてきて…無作為にしては不自然だって話してたんだ」
俺は、昨日起こったことを全て話した。蓮斗が誰かにぶつかられて変な紙を拾ったこと、スマホを取られたこと、スマホは戻ってきたがそのあと二人に送られたメッセージが不可解であること。
「…っていうわけで、二人で話してたんだよ。まあ、ただの悪質な悪戯だと思うけど…」
瞬華がメッセージを読み終わるとすぐ、俺は3人のチャット画面を表示しようとした。
しかし、彼女は画面が切り替わる瞬間、何か気づいたようだ。
「ちょっと待って翔、画面閉じないで」
「え、何だよ」
「もう一回よく見せて」
そう言われ、また同じ文面のメッセージを表示する。それを見終わったかと思えば、彼女は自分のスマホを取り出した。彼女は『GIAR』を開いた。アカウントを持っていることは知っていた。だが薄々嫌な予感がしていた。嫌な、それは「混乱」「困惑」という意味だった。
「……翔」
「何だ?」
「それ、私にも送られてる」
予想的中した。彼女の一言で俺の思考が止まった。俺だけでもなく、俺と蓮斗だけでもなく、『俺達3人』。とすると、このメッセージの宛先の一つである『MADO・GA』は瞬華だったのか。
「マドカ、だと普通だから、神矢を英語にして頭文字をとったんだ」
神矢-God Arrow-GA。彼女が説明した通りに単語を並べてみる。
「っていうことは、この『SG×RUN』は翔で、『REN』は蓮斗なの?」
「ああ」
また、文面を見ながら頭の中で様々な考えをめぐらす。蓮斗が落としたスマホ、3人に送られてきたメッセージ。
(まさか、蓮斗のスマホがハッキングされている…?)
「…で、どういう意味なの翔?この文面と紙切れの文字が部分的に一致していて…」
「つまり、紙を落とした人物…『蓮斗とぶつかってスマホを取ったかもしれない人物』からの何かしらのメッセージかと思う」
「蓮斗のスマホがなくなったのと、人とぶつかったのって関係があるの?」
「蓮斗のスマホは、予備校に届けられたんだ。落とした直後、後ろで気づいた誰かが届けるのなら分かるけど。…時間が経ってから予備校に届けてくるなんて、確信犯だろ」
古典の講座が終わってからスマホが1階に届けられていた。蓮斗が落とした時、その場にいた人物でなければおかしい。知り合いなら、なおさらだ。
ただの悪戯メッセージとは思い難くなってきている。
「なるほどね…」
話していると、電車がホームへ入ってきた。それほどスピードを出さずに駆け込んできたのでいつも乗る各駅停車の電車だろう。
「とりあえず、乗ろうか」
「うん、考えてみる」
腕を組んで考え込む彼女に、開いたドアの先へ進むよう促す。見えない糸の意図の絡まりがなんとなく時間をかけてほぐされていくようなこの感覚。ほろ苦い液体が喉を過ぎるようで俺は、スマホの画面を見ながら思わず顔をしかめたのだった。
車内は空いていた。ちょうど乗った所は人がまばらに座っていて、二人座れるところはなかったので瞬華に座るよう言った。彼女がスマホの画面に集中して黙り込むのを見て、俺はカバンから出した単語帳を開く。すると、気を遣ってくれたのか隣の中年くらいの男性が立ち上がって「勉強しづらいだろう、どうぞ座って下さい」と声をかけてくれた。軽く会釈して、俺は瞬華の隣に腰かける。
「翔…」
「ん?」
瞬華は俺と顔を見合わせると、先日チャットの送った記事を見せる。
『SNSに投稿され、急上昇一位を獲得。Time Travelerの正体とは?』-特に更新されてはいない。先日のものと同じだ。
「それがどうしたんだよ」
彼女は周りの目を気にしているのか、言葉を発さずに、俺とトーク画面に文字を打つ。
(なぜチャットで…?)
そう思いながらも、俺はスマホを取りだす。瞬華とのトーク画面を見ると、メッセージが送られていた。
『TTって、Time Travelerのこと…かな?』
俺達は顔を見合わせる。チャットで送れと、ジェスチャーした彼女に従い『調べてみる』と文字を打つ。
(…………!)
俺は『GIAR』を開き、『TT』と検索する。『Time Traveler』のアカウントのページをスクロールするが、特に目立った記事はない。
(依頼は、匿名で…個人的なやり取りなのか…ん?)
プロフィール欄には『依頼はDMからお願いします。なお、私共の詳細について口外することは禁止です』とだけ書いてある。
今度は関連度が高いものでの投稿を探してみる。しかし、そこには『TT』発信で誰かと連絡を取ったという内容のものはなかった。少なくとも『TT』は他者からの依頼しか受け付けないらしく、自分から依頼を持ちかけることはないようだ。
チャットの通知が鳴った。瞬華からだ。
『もしかしたら“Time Traveler”のなりすましかもしれないよ?危険だし、何かに巻き込まれたときのために私たちのやり取りの証拠は残そう』
その文章を見て、俺は彼女の賢明な判断に同意した。『TT』の情報が詳しく出回っていないことから、その詳細は依頼人と彼の間でしかわからないものだ。さらに、依頼の連絡しか受け付けないという文言から俺たちに送られたメッセージが『TT』本人であるとは考えられない。電車内とはいえ、誰が聞いているかわからない。ここで俺達が『TT』から直接連絡が来たようなことを口走るのは危険だと思ったのだろう。それに万が一何かに巻き込まれた時の証拠を残すのには会話より残存性が高いチャットの方がいいだろう。俺は、彼女の意図を汲み、瞬時にそう考えてメッセージを打ち続ける。
『そうしよう、あと…とりあえず、蓮斗にも聞いてみるとして、今見せ合った情報は絶対消えないようにしよう』
そのメッセージを見た後、彼女はスマホをしまって参考書を取り出した。俺も単語帳を取り出す。文字の羅列を見ながら一つの疑問が駆け巡る。
(………本当に『Time traveler』からのメッセージなのか?)
もし『Time traveler』でなく、なりすましだったら。悪事が露見して関連情報はすべて削除するだろう。逆にもし『Time traveler』だったら?何が目的なのだろう。『何の変哲もない高校3年生』に向うから連絡が来るのは不自然だ。なぜなら俺達3人には依頼する動機がないからだ。そもそも、俺も蓮斗も『Time Traveler』を知ったのはつい先日のことである。
(…学術的証拠もなく並行世界の移動を実現できるなんて……)
『Time Traveler』-河ノナカレ―落としたスマホ―ハッキングの可能性…
(…わかんねえ)
混乱する頭を整理しようと無造作に単語帳のページをめくってしまうのだった。

…………………………………………………………………………………………………………

「俺のスマホがハッキングされてる⁉」
大声を上げた友人に驚き、周囲の生徒の視線がこちらへ向く。咄嗟に瞬華と二人で同時に思わず口に人差し指を立てた。
「蓮斗、声大きい…!」
「いやだってさ」
「いいから、まだ本当かどうかわからないだろ?最後まで聞けよ」
時刻は正午。昼休みである。予備校のラウンジで弁当を広げながら話していたところだ。
「まず、『Time traveler』関連で時系列ごとに整理していくと…」
「あ、私食べ終わってるからメモ書こうか?」
「ああ、頼む」
瞬華は弁当箱をテーブルの端に寄せてルーズリーフを1枚取り出して関数のグラフのような縦軸と横軸を書き出す。
「今日って14日?」
「そうだよ」
今日の日付である1月14日、そして2日遡って、1月13日、1月12日と横に並べる。
「まず、1月12日」
「一昨日だね」
「ああ、その日の夕方…俺たちは『Time Traveler』についてここの1階で話した。その後、何事もなく帰宅。怪しい連絡はなかった」
“『TT(?)』初見”、“帰宅”、“イタズラメールなし“と俺の言葉に従ってルーズリーフに文字が綴られていく。
「そして1月13日」
「昨日だね」
「瞬華は体調不良で休み。俺と蓮斗はいつも通り予備校に行った。しかし、その途中で、蓮斗は見知らぬ誰かとぶつかって、謎の紙を拾った」
「河のナカレに~のやつ?」
「ああ」
蓮斗の確認に頷きながら説明をどんどん進めていく。
「そして俺と蓮斗は古典講座で鴨長明の書いた方丈記を習った。その作品の冒頭は『ユクカワノナガレハタエズシテシカモモトノミズニアラズ』だった。講習の後、蓮斗がスマホを落としたのに気づいて機種検索サービスを使って調べたら、この予備校に届いていた」
「…もうその時点でヤバいけどね」
呆れた様子で頭を抱える蓮斗。俺は一旦、頭を整理しながら話す順番を整えた。
「そして、『GIAR』を通じて『TT』という人物から俺に謎のメッセージが送られてきた。悪戯かと思ってその時は無視。しかし、後で蓮斗にも送られていたことが分かった」
「で、今日。私のスマホにも送られていたことが分かって、接点を持つ特定の3人に送られていたことから蓮斗のスマホから情報が漏洩しているのではないか、と」
瞬華の持つペンがプログラムのチャートのように出来事を並べていく。
しかし本題はここからだ。俺は周りの生徒が大体自習室に戻ったのを確認して話を再開する。
「問題はここからなんだ。『TT』が『Time Traveler』なのか、そしてなぜ俺達に不可解なメッセージを送ってきたのか」
Why?と書いてから俺の疑問を丸で囲み、瞬華は手の動きを止めた。改めて俺と蓮斗にも見せてくれる。

「『Time Traveler』のプロフィールには自ら依頼しませんか?みたいな連絡はしない決まりみたい。だから、なりすましの可能性もあるかもしれないのよ」
「…なるほど……」
蓮斗はスマホで『GIAR』を開き、『TT』『なりすまし』というワードで検索をかける。
「今、なりすましの被害者がいないか調べてみたけどヒットした情報は0件、だって」
冷静に考えても、この数日でSNSのランキングに急上昇した『Time Traveler』だ。なりすましがこんなにも早く、現れる可能性こそ低いとも考えられる。
(…なぜ、俺達に?)
俺、蓮斗、瞬華と3人とも黙り込む。しばらく、沈黙が続いていたがそれを破ったのは瞬華だった。
「実は、蓮斗が帰って翔とも別れた後、『Time Traveler』について調べてみたんだけど、その存在は賛否両論だったの」
「どういうこと、瞬華ちゃん?」
瞬華は今朝公開されたとある記事の画面を俺達に見せてくれた。
「……これは?」
「鳴倫館大学の脳科学研究室が書いたのと、ラボメンバーが新聞社の取材を受けた時の書きおこしの記事…ざっと読んでみて」
脳科学研究室が発信した記事の内容はこうだ。
「物理学的に実証されていないタイムトラベルを達成したのか疑問。しかし、謎に包まれた『Time Traveler』とコンタクトを取るのは困難。脳科学界の中での挑発行為かもしれない」
と書かれている一方、新聞社の取材の記事はこうだ。
「『Time Traveler』は未来人である可能性が高い。瞬間的な並行世界の分化と世界線の移動の真偽が確かめられれば、物理学・脳科学研究において大きく前進したと言っても過言ではないだろう。現代人にはない、秘めたる可能性を持つ『Time Traveler』から目を離すことはできない」
俺は2つの記事を比較した結果、自分の中で答えを導き出す。
「これ、ラボの中で、意見が割れているってことか?」
「そうなの」
「え!しかも、これ取材受けているのって……」
瞬華が画面をスクロールすると、取材協力の欄に『加茂田澄明』の名前があった。
「加茂田先生…!」
「え、嘘」
「あの人って古典文学専攻だった…よ…ね…?脳科学研究室のラボメンバーだったっけ?」
「いやいや、脳科学研究室の人とはただのサークルの友達だって」
「二人とも落ち着いて!」
驚いて、言葉を投げ合う俺と蓮斗を瞬華が手で制した。一旦、彼女の言う通りに落ち着く。
「私たちが先生と最後に会ったのは…、一昨日?」
「うん、翔は?」
「俺は、昨日の朝電車で会ったよ」
まだ、言ってない情報だった。今朝ちょうど思い出したことだったので、早速話してみる。
「…それで、先生は俺達若年層を振り回すような存在だって、否定的だったんだ。その時言ってたことが本当なら、この取材は…まさか捏造?」
また、新たな疑問が生まれる。加茂田先生の考えの真偽についてとそもそもの信憑性など……様々な事象が絡んできた。
「瞬華ちゃん…俺、…情報量多くてパニック……」
机に突っ伏す蓮斗の肩を瞬華が一生懸命叩く。
「蓮斗、しっかりして!…でも翔、本当なの?今から事実確認できたりする?」
「ああ…だが、加茂田先生は今都内の一次試験の監督やってると思う……」
3人でまた黙り込む。情報処理が早い瞬華でさえも頭を抱えてしまった。いざとなれば、第三者として加茂田先生に頼ろうと心の隅で思っていたが。ますます、加茂田先生の謎が深まってきてしまった。

(加守田先生…一体…何なんだ…電車で俺に言ったこと、記事にかかれていること…どっちが本音なんだ…)
ふと、スマホの画面を点けてみる。昼食の時間を含めて、1時間ほど時間をつぶしてしまったようだ。
しかし、結論から言うと解決はしていない。

「……戻ろうか」
「うん」
「そうね」

鳴倫館大学一次試験2日前である。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...