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第四章 三つの世界の謎

記憶

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 くぐもった、誰かの話し声が聞こえて来る。
 ゆっくりと開けたリオの目に、カーキ色の後ろ姿が飛び込んできた。身体を起こそうとして、腰のあたりに走る、鈍い痛みに顔をしかめる。昨夜の記憶と共に、羞恥心が蘇り、開きかけた唇をあわててとじる。とうとう、男に抱かれてしまった。初めてなのに、何度も達し、腰を振って悶えたなんて、自分で自分が信じられない。
「おい、お前のお姫様がお目覚めのようだぜ」
 京の体の向こう側からひょいと一星が顔を出し、くいと親指を立て、注意を促す。はじかれたように振り向いた京は、ベッドの上の少年に、照れたような笑顔を見せた。
「よう」
 なんでここに一星がいるんだろうとか、いつのまにか、着替えさせられている自分とか……、それも、縞シャツではない、普通のTシャツにジーンズだ……疑問は次々に沸いてきたが、それよりも、ただただ恥ずかしくて、リオは顔を赤らめて俯いた。そんな初々しい様に、男は愛しげに目を細める。
「気持はわかるが、ときめきあってる場合じゃないぜ。リオ、あまり時間がない。京と一緒にここを出るんだ。裏門にジープを回してある」
 色のない声で一星は言う。
「え?」
「詳しい事は車の中で、こいつに聞け。回りが騒がないうちに早く」
 促され、リオはよろよろとベッドを下りる。
 ふらつく身体を、京と一星が両脇から支えた。わけのわからぬまま靴を履き、引きずられるようにして部屋を後にする。遅れがちなリオを、途中で、京はよいしょと抱きあげた。
 一星が押すと、裏門のドアは簡単に開いた。外界の光が、リオの目を刺す。まだ、日は上りきっておらず、あたりの景色は白く沈んだままだ。
「リオ、こっち」
 コンクリートの階段下に、黒いジープが横付けしてあり、傍らに、キムと光が立っていた。
 光は、リオを手招くと、助手席のドアを開けて待つ。
「お兄ちゃん……?」
「先に行って待ってて。俺たちも、すぐに追いかけるから」
 光が言い、キムも頷く。
 助手席が閉まり、そして、運転席に京が乗り込んできた。エンジン音とともに、するすると、少年側の窓が開く。
「じゃあ、後の事は頼んだぜ」
 リオの肩ごしに、京は叫んだ。
「わかってるから、早く行け」
 一星はそう言うと、不安げな顔で、空を見上げる。きつねにつままれたような状況の中、リオの目の前で、ドアはまた上がっていき、ジープは。建物以外何もない、赤茶けた砂地の上を走り始めた。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※

 もうどれくらい走っただろうか。

 いつのまにか、収容所も、裏門にたたずむ三つの影も見えなくなった。
 後ろにも、前にも、ただ、赤い砂地が果てし無く続いているだけである。
「ねえ、どこに向かってるの」
 リオは尋ねた。
「俺たちが、元いた場所だよ。一応は、な」
 まっすぐ前を向いたまま、京は答える。
「どういう事?」
 少年は首を傾げた。
「ドラゴンシティから、出られるの?! 一星は許してくれたの? なんでこんな急に……」
「お前、さっきのあいつの態度見たろ。どう見ても、率先して協力してただろうが」
「そりゃあ、そうだけど……」
 でも、そんな事あるだろうか。彼は赤夜叉で、シティの創造主なのだ。そして、シティの継承には、花嫁候補が必須なはずだ。沙蘭という本命がいるとはいえ、リオを今更失うのは、彼にとってリスクは大きすぎるはずではないか。
「記憶が、戻ったんだよ。俺がお前を抱いた時」
 京は言った。
「俺だけじゃない。一星や、光や、キムや……ネーム付きの連中全員、忘れていた記憶が一斉に蘇ったんだ。お前が、気をやったあと、あいつら全員俺の部屋に集まってきて、各自の記憶を照らし合わせた。そこで、決めた。まず、お前と俺とで、収容所を出る。その後は……まあ、お前は知らなくていい。とにかく、次元を越えて元の世界に戻るんだ。チャンスは、そう長くない」
 あまりの出来事に、リオは一瞬、わけがわからなくなった。シティを抜ける? 京と二人で? 
 信じられない。本当なら、このうえなく嬉しいけれど、突然なのと、あまりにも出来すぎていて、手放しでは喜べない自分がいる。
「俺、本当は京ちゃんにここに連れて来られたんだよ。その時の事も、思い出してくれた?」
 おずおずと尋ねれば、
「なるほど、お前の記憶はそこから始まってるのか」
 ちらりと京は、リオを一瞥した。
「お前をここに連れてきたのは、一度や二度なんかじゃない。いろんなシチュエーションで、俺たちは出会いと別れを繰り返してるんだ。前に、龍に食われた子供の話をしただろ」
「うん」
 話の流れが読めなくて、リオの瞳は不安げに揺れる。
「あの子供は、お前だったんだよ」
 静かに、京はそう告げた。

「俺が……? 食われたって……あの龍に?」
 リオは頓狂な声を上げた。
「そうだ」
 京は気づかわしげに前を見る。
「そんな事、ないもん」
 リオはきっぱりと否定した。
「忘れてるだけだ。俺も、お前との事を忘れてたんだろう。同じだよ、俺たちは、皆、記憶を弄られている……。そして無限のループに捕らわれてるんだ。赤夜叉の手の中で踊らされてんだよ」
「赤夜叉が? 一星ってそんな事まで出来るの」
 リオは両目を丸くした。もしそうならば、記憶どころじゃない。リオの知る、三つの世界では、人間関係の成り立ちから、システムまで、微妙に変わっていた。
 一つ目の世界ではそもそも赤夜叉は一星ではなく、まるで記号のような存在だったし、二度目の世界にはリオはいなかった。三つ目の世界、つまり今は、二つ目の世界と続いてはいるが、その間、リオ自身はキャラクターが変わっている。そう。二つ目の世界のリオは、沙蘭だったのだから。
「京ちゃん、あのね。沙蘭がオークション会場で知らない人に襲われかけてた時の事覚えてる?」
 リオは尋ねた。
「……そんな事も、あったかもしれねえな」
「京ちゃん、沙蘭を、映写室に連れてって、いたずらしたでしょ」
「おいおい、何言ってんだ」
「隠さなくていいよ。だって、あれ、俺だったんだもん」
 リオは言った。
「沙蘭に過去の追体験をして欲しいって言われて、それからずっと俺、沙蘭の身体の中にいたんだ。催眠術をかけるんだ、って言われてたし、だから本当は布団の中で、沙蘭の声を聞きながら、夢を見てるんだと思ってたんだよ。あれも、赤夜叉に操られてたって事? あれは過去なんかじゃなかったの?」
「そうだ。全部、お前が実際に体験した事だ」
 京は頷く。
「そんな……でも、どうして……? 一体何のために……?」
 頭の中に疑惑が涌きだし渦を巻く。
 京は無言で、アクセルを踏んだ。
 重い沈黙に満ちた車内で、リオはあれこれと思いを巡らせていた。何かが、もうすぐそばまでやって来ている。今まで見落としていた、何かが……。背中に嫌な汗が流れた。記憶も、そして人の心まで、たった一人の男に自由に弄られてしまう、こんな歪な世界から、本当に抜け出せるのだろうか。
 はっと目を上げてみれば、外の景色が、まるで成型中の飴細工みたいに歪んでいた。
「京ちゃん!」
「わかってる。心配するな」
 そう言いながらも、端正な横顔は緊張で強張っている。もう、前に道などなく、七色のラインを幾重にもねじったような空間が、ただまっすぐに続いているだけだ。
「次元を越えるのって、いつもこんな風なの?」
「いや、違う。残念ながら、お迎えが来たようだぜ」
 そう言うと、京は徐にブレーキを踏んた。シートベルトをしていてさえも、リオの身体は大きく前のめりになり、次いでバックシートに背中を痛いほど打ちつけられる。
 長く尾を引くブレーキ音がやむと、京は、ギアを入れ車の外に飛び出した。何もわからぬまま、リオも後に続く。一歩足を踏み出して、はっとした。
 地面がない。何もない。
 不気味な漆黒の空間に、ジープと自分たちの身体が、漂流した宇宙船のように頼りなく浮いている。
「京ちゃん……」
 心細い声を上げるリオを、京はしっかりと自分の胸へと引き寄せた。
「ドラゴンシティに来た時って、こんな感じだったよ」
「……そうだったな……」
「やっぱり……逃げられないの……?」
 それには応えず、京は鋭い目つきで、視線を上げた。つられて上を見たリオは、あまりの光景に、がくがくと膝を揺らしてしまう。

 そこには、大きな丸い月が浮かんでいて、あばただらけの全身から、ぼたぼたと赤い血を流している。
 そしてその上には、紅龍が、邪悪な目を光らせて、こちらを睨み付けていた。

「誰か……いる……京ちゃん、誰かが……ねえ、あれ……」
 震えながら、リオは目を凝らして龍の背中を見た。固そうな背びれに、白い手がまとわりついている。さらりとした赤い髪が、月光の中に浮かび上がった。

「沙蘭……。沙蘭だ……」

 リオの言葉が聞こえたのか、沙蘭はまっすぐにこちらを見返し、にっと笑った。こんなに恐怖に怯えている時ですら、その美しい笑顔は、痛いほどにリオの心を打つ。肩に触れる京の手に力がこもった。
「来たな。沙蘭。いや……、赤夜叉」
 挑むように男は呟き、沙蘭は形のいい眉を上げた。そして何事か、紅龍に囁く。獣は、大きく口を開け、そして黄色い目をかっと見開いた。 
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