人ならざるはオムファタル

坂本雅

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 アシャは東の国の出身ではあるが、風土については僻地の偏った知識しか持っていない。
 国を捨ててからは一度も帰郷せず、広く通じる共用語ばかりを日常的に使ってきたため、最近では言語すらあやふやになりつつある。
 残念だとは思わない。当時のことを完全に忘れられるなら、その方が良かった。
 どのみち、交易で栄える王都は人々の行き来が盛んだ。偶然ぶつかっただけの謎の男が旅人であれば、再び遭遇する可能性は低い。
 本人に確認を取れない以上は深く気にせず、ルネの言う通り褒められたのだと考えていよう。
 斜に構えた卑屈な見方をやめ、彼女のように心の余裕を持って楽観的に物事を解釈した方が、気楽に生きていけるのだから。

 休息所を後にしてからも天気は崩れず、快適な乗馬が出来た。
 馬も思うさま走れて気分が良かったらしく、港町に着いて厩舎に預ける際には寂しげにしていて、いななきが妙に長かった。
 離島への定期船の乗客はアシャの想定より多く、船着き場の混雑に巻き込まれて乗り損ねそうになる。
 はぐれないようルネと繋いだ手が、あたかも命綱のようだった。
「一大行楽地だとは聞いてたけど、すごいね」
 船尾寄りの狭い場所の床にようやく腰を下ろして、溜息をつく。
「これでも空いている方ですのよ。真夏はもっと混み合って、宿も船も取れなくなってしまいます」
 斜め座りのルネは訳知り顔で言う。
 二人は予算の都合上一泊のみだが、夏に長期滞在した方が島の魅力を満喫出来るらしい。
 砂浜でエメラルド色の海をゆったりと眺め、健康的な山歩きに励み、酒好きはワイン用のブドウ畑にも赴く。
 富裕層が喧騒を離れて余暇を楽しむのに向いた土地なのだ。
 それゆえ島で営業している風俗店はどれも高級志向で、一定以上の質が保証されていた。
 ルネから渡された名刺には、耳の尖った人物の横顔の絵の横に『エルフ専門店フォークロア』と記されている。
「そういえば……エルフは本来、森で暮らす種族では? どうして離島に店を構えてるんだ?」
 アシャの素朴な疑問は聞き流されても支障のないものだったが、ルネはよく聞いてくれたとばかりに金眼を光らせた。
 波打つストロベリーブロンドの隙間から立った兎耳が顔を出している。
「今の店長からの又聞きにはなりますが……なんでも、創設者は当時の王の従者だったそうです。戦いに負けた咎で流罪に処された王についていき、離島の穏やかな風土に惚れ込んだとか」
 王は次の年に反旗を翻して島を脱出したが、権力の座を諦めきれない王に嫌気がさした従者は暇乞いをして島に住みついた。
 王侯貴族への礼節を接客に用いたところ人気を博し、噂を聞きつけた流れのエルフたちが離島へ集ったことで店が生まれた。
 当初はごく普通の飲食店だったものの、旅行客から一夜を求められることが多々あり、やがて宿屋を兼ねた風俗店という形態に変わっていった。
 夕刻から早朝までの長時間、新婚旅行に来た夫婦のような体験が出来ると評判で、後から作られた店も『フォークロア』と同様のコンセプトを掲げている。
「……ただれてるよ」
 エルフが居住するきっかけとなった話はさておき、店の大まかな内容は出発前に聞いていた。
 おおよそ理解した上で船に乗ると決めたのだが、改めて掘り下げられると、率直な感想を言わずにはいられなかった。
 盛り下がり、名刺を返してきたアシャにルネは密やかな笑い声をあげる。
「旅の恥はかき捨てと言いますし、お店の売上の余剰は島の環境整備に充てられていますから、そう下品なものでもありませんわよ」
 ルネは手ぐしで整えるように兎耳を髪の中にしまい込み、マントのフードを持ち上げ目深に被る。
 外見上の個性を排すれば、女二人旅と知って浮ついた声を掛けてくる輩に多少は絡まれにくくなるのだ。
「そうなんだけどね……」
 アシャは腑に落ちないながらもフードを被り、下ろしていたリュックを胸に抱いた。
 出航を告げる船乗りの掛け声と共に床が上下に横揺れし始め、約二時間の船旅が始まった。

 いかに快晴であろうと、強風が吹き荒れれば波は荒くなる。上下に揺れ動く船内に肝が冷え、平衡感覚を大いに乱されたアシャは十五分と経たないうちに船酔いを起こした。
 外の空気を吸えばマシになるかと思い、ルネに荷物を任せて甲板に出てみたが、そのまま船首で海面に向かって嘔吐してしまった。
 食べ物が勿体ないという気持ちはあっても、腹の中を空にしなければ楽になれない。
 胃液すら吐かなくなった頃に船乗りから水筒を渡され、汚れた口内をうがいで洗った。
 水分補給をしてルネの所へ戻った後は、リュックを枕にひたすら横になっていた。
 冒険者稼業で乗船経験はわりとある方なのだが、これほどひどい状態に陥ったのは初めてだ。
「船体中央の客室が空いていれば良かったのですが……私の不手際ですわ。申し訳ありません」
 ルネはアシャの腹部に手をかざし、せめてとばかりに炎症を起こした胃の痛みを軽減してくれている。
 治癒術も決して万能ではない。
 あくまでも人体の新陳代謝を促進するもので、断裂して間もない手足の接合は出来ても、生理現象による体調不良を回復させるのは難しかった。
「うう……」
 謝らないでほしい。ルネは何も悪くない。
 そう言いたいのは山々だったが、アシャの口からは呻き声しか出なかった。
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