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捕らわれて

父と娘の諍い

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 ああ、この建物は――と冬華は思った。

「ここって学校?」

 ベッドの下には自分の靴が並べてあった。靴を履き立ち上がった冬華は、傍らにいたともちゃんに聞いた。周囲を見回せば、衝立に仕切られてベッドが並んでいる。壁際には薬品棚があり、消毒液や包帯が置いてある。見慣れた保健室の光景だった。冷房が効いているのか、暑さは感じられない。

「ここはもと小学校だよ。今は廃校になっているんだ。あの人はここを丸ごと借りている。ライフラインはあるし、便利だったんでしょ。ネット環境は整えたみたい。全国にはこういった場所がいくつもあって、借りるには地域住民の理解を得られるとか、雇用促進につながるとか条件があるようだけど、あの人ってその辺は上手くやれるから。ここに出入りしている人も、数人を除いてたぶん記憶を変えられている従業員だよ。何の疑問も持たず黙々と働いているし、夕方になれば家帰っているし。どうやって採用したかは知らないけれど、どうせ私達に関する記憶も消されるんだろうね。校舎は3階建てで、隣に体育館とプールがある。更衣室の横にお風呂があるから。ちゃんとお湯が出るシャワーもある。鍵もかかるから安心して。ちなみにのココは保健室。入口の横に靴箱はあるけれど、床が綺麗じゃないから土足で生活してる。今日からは私と同じ部屋で暮らそう。と言っても教室を改造した場所なんだけどね。着替えもそこに置いてあるし。機会を見て絶対に逃がしてあげるから、ちょっとだけ我慢して」

 ともちゃんが一気に告げる。

「ええと。説明じゃ分からないから、案内してくれるかな」
 困ったように冬華が言った。

「そうだよね、じゃあまずは一階から行こう。出入口は正面玄関だけ、あとはいつも施錠しているから」
「今、何時?」
 冬華が聞く。ともちゃんに会ったのは、まだ午前中だったはずだ。
「夜の7時過ぎかな。あとで何か食べよう」
 
 ともちゃんに続いて廊下に出る。窓の外を見ると、既に日は沈んでいた。廊下にはエアコンがないらしく、かなり蒸し暑かった。
ともちゃんは廊下を進みながら各部屋の説明を始めた。

「ここは家庭科の調理室だったところ。今はキッチンね。冷蔵庫のモノとか勝手に食べたり飲んだりしていいから。お弁当が多いけど、通いのスタッフがご飯は作ってくれる。教室はだいたい誰かの部屋になってるから、勝手に入らない方が良いよ。私もまだ全員の顔と名前は憶えていないんだ。私達の部屋は3階だから最後に行こう」
 
 2階に上がると、階段横の部屋から明かりが漏れていた。

「ここは職員室だったところ、パソコンとかいろいろある部屋。今はあの人がいると思うから、入らなくていいや」
 そう言って素通りしようとすると、ドアが開いた。

「誰かと思えば、新入生に学校案内でもしてるのか」

 興俄が出てきて、小馬鹿にしたように笑った。

 彼の姿を見た冬華の顔が強張った。聞きたいことはたくさんあった。母はどうなったのか。どこにいるのか。自分をここまで連れてきて、一体何を企んでいるのか。

「逃げないのか? 隙をついていくらでも逃げ出せるだろう。やっと俺の傍にいる決心がついたか」
 冬華を見てにやりと笑う。彼女は固い表情のまま、口を開いた。
「逃げれば追うんでしょう? 逃げて鷲くんたちと合流してとしても、貴方は容赦なくみんなを殺す。ねぇ、お母さんをどうしたの」
「手厚く葬ってやったから安心しろ。だいたいお前の母親が俺を殺そうとしたんだぞ」
「あの時、救急車を呼べば助かったかもしれないのに……手厚くなんて、よく……そんな……私は貴方を絶対に許さない。一生許さない」
「お前が何と言おうが、俺の邪魔をする奴に情けなどかけん」

「ねぇ、ちょっと。さっきから、何の話をしているの?」
 怪訝な顔で、ともちゃんが2人の会話に割り込んだ。

「私とお母さんは行方不明になったんじゃないんだ。この人は、私の目の前でお母さんを殺したんだよ。お母さんは、この人から私を守ろうとして亡くなった。たまたま椎葉くんが来て助けてくれた。だから私は今までこの人から逃げていたの」
「そんな……私、何も知らなくて……ごめん……知ってたら……ここになんて……」
 ともちゃんの顔が曇る。彼女は声を詰まらせながら謝って、興俄の方を向いた。
「貴方は最低よ。やっぱり何も変わっていない。冬華行こう。私も今からここを出て行く。こんな人の言いなりになる必要なんてないから」
 
 彼を睨み付けたまま、冬華の手を取り歩こうとするが、

「邪魔をするな」
 興俄は2人の前に立ちはだかった。
「例え前世の娘だとしても、容赦はしない」
 彼が冗談を言っていないと分かったのだろう。ともちゃんは冬華の手を握ったまま、ゆっく後退り、距離を取った。

「やめて!」
 冬華が声をあげる。

「何を恐れる。数百年前までは、この国でも平気で人を殺しあい、奪い合ってきた。例え身内であってもだ」
「今は時代が違うでしょう。そんなことも分からないなんて、バカじゃないの。ともちゃんを傷つけたら私が許さない。貴方と刺し違えてでも絶対に止める」
「物事の本質は何も変わらない。どれだけ時が流れようが、人は人を殺し続ける。現に世界中で人殺しが起こっているじゃないか」
「この人には何を言っても無駄なんだよ。冬華、行こう」
 ともちゃんは冬華の手を引き、歩き始めた。
「どこへ行くんだ」
「部屋に戻るの。ついて来ないで!」

 立ち去るともちゃんの背を見ながら、やれやれと興俄は溜息をついた。

「俺が少しも愛情を注いでいなかったとでも言うのか。親の心、子知らずだな」
 彼の声がともちゃんに届くことはなかった。

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