桜1/2

平野水面

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記憶のない少年

早すぎた再開

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 神山先輩の顔が逆さまだった。
 状況がよく分からないが、後頭部にあたるマシュマロのような感触が心地よい。
 ぼうっとした数秒間、僕は神山先輩の顔をじっと見つめることしかできなかった。
 神山先輩は物憂げな目で僕を見つめ返す。
 やがて安堵の溜め息が僕の頬をくすぐった。
 目尻に溜まった涙を指で拭う仕草を見て、僕は神山先輩に迷惑かけたことと、膝枕をしてもらってることに気づいた。
「いきなり倒れてびっくりしたわ。このまま眠ったままになるんじゃないかって心配したのよ。でも目を覚ましてくれて本当によかった」
「どれくらい気を失ってましたか?」
「3,4分くらいかな。もう少し目覚めるのが遅かったら119番してたわよ」
「ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です」
 体を起こして立ち上がろうとしたら、軽い目眩がしてバランスを崩して尻もちをつく。
 再び後頭部に感じる柔らかいもの。
 それは神山先輩の胸だった。
 僕はリアルぱふぱふを味わっていた。
 これは故意ではなく事故。
 俗に言うラッキースケベである。
 夢の中のバッタもんはピョンピョンと飛び跳ねて「ヒャッハー」と喜んでいるに違いない。
 そして背後から感じる殺気。
 これを事故だと思っていない方がいらっしゃるようで。
 胸から頭を離して、恐る恐る振り向く。
 神山先輩は般若のお面みたいな表情をしていた。
 校庭の木々に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立って行く羽音が聞こえた。
 神山先輩は右手を振り上げて叫んだ。
「変態!」
 右手の豪快な風切り音。
 僕の左頬を捉えた。
「パチン」
 痛みと共に乾いた音が響いた。


 体調の悪い僕を気遣って神山先輩は再び膝枕をしてくれた。
 けれど左頬がヒリヒリする。
 僕の顔を見下ろす神山先輩はニヤニヤしていた。
 感情の起伏の激しい彼女に戸惑いつつ、笑う理由を訊ねた。
「何が可笑しいんですか?」
「至恩の顔に私の手形がくっきりと着いてるから」
「もう少し加減してくれてもよかったのでは?」
「彼氏の躾は彼女の役目です。手加減しません」
「僕は前から行儀の悪い彼氏でしたか?」
「ヘタレ変態ゲス野郎だったわね」
「……ごめんなさい」
「ぜんぜん気にしてないわ」
「それは良かった……なら、ついでにスカートの中を見せてもらっても問題は――」
「パチン」
 僕が言い終えるより先に、スナップの効いた平手打ちが振り下ろされた。
 顔はヒリヒリする面積が広がった。
 そんな僕を見て神山先輩はどこか懐かしむようで、儚げな遠い眼差しを僕に向けていた。
「なんだか昔の至恩に戻ってきたような気がする。もしかして記憶が戻った?」
「残念ながら。でも神山先輩の胸と太ももの柔らかさは思い出せ――」
「パチン」
 同じ場所を立て続けに叩かれるとかなり痛い。
 叩かれた場所を撫でると少し熱を帯びていた。
 痛みに耐えながら話を続けた。
「僕は何もかも忘れてしまいました。過去の僕はどんな男でしたか?」
「ひょうきんで愉快な人、悪戯好きの困った彼氏だったわね。それと逃げ足だけはアスリート並みに速かったわね」
 神山先輩から教えて貰った僕の過去は、夢に出てくるバッタもんに似ているような気がした。
 よくもあんな男と付き合う気になったものだと感心してしまう。
「僕が言うのもなんですけど話を聞く限りでは、男としての魅力を一切感じない男ですね」
「どこか憎めない人で不思議な魅力があるの。さっきも言ったけど人を好きになるのに理由と理屈はいらないわ」
「それほどに僕が好きだと?」
「今も好きよ」
「だとして疑問に思う事があるんです」
「それは何かな」
「僕の病室に訪ねて来なかったのはなぜですか? それに僕のスマホには神山先輩の番号とアドレス、ラインすら登録されてません。これはどういう事なんでしょうか?」
 神山先輩は苦笑いを浮かべながら答える。
「私は至恩の妹の亜紀ちゃんから、二度と会わないでと面と向かって言われたの。番号とかを消去したのは亜希ちゃんじゃないかな。私は嫌われてしまったから」
 いつも不機嫌そうにしている妹の亜希の顔が浮かんで来た。
 亜希は僕より二つ下の妹。
 この高校に通い、クラス違いの同学年であった。
 記憶を無くす前はとても仲のよい兄妹だったと母さんから聞いていた。
 けれど今の僕と妹の関係は最悪である。
「神山先輩と同じように僕も嫌われているようです。なぜなんでしょうか?」
「至恩のお父さん、おじさんと至恩が事故に遭った当時の話を家族から聞いてないの?」
「いいえ詳しくは。神山先輩は何か知っているんですか?」
「私からは何も言えないわ。至恩の家族が黙っているのなら。ごめんね今日は帰る」
 神山先輩は膝の上にある僕の頭を気遣いながら退けて立ち上がる。
 涙目で「さよなら」と言い残して立ち去ろうとした。
 僕は慌てて立ち上がり、早歩きの神山先輩を走って追い抜いてから、両手を大きく広げてベランダと教室の出入口を立ち塞いだ。
「僕は記憶喪失で困ってます。僕の過去を知る神山先輩の助けが必要です。失った記憶を取り戻すのを手伝ってもらえませんか?」
「ずっと至恩に会いたかった。記憶が戻るまでは会うのやめようと思ってた。でも会いたくて、会いたくて、会いたくて仕方がなくて、会いに来たの。私たちは会うのが早すぎたのかもしれないわね。しばらく会うのを控える」
 神山先輩は僕の脇の下を潜り抜け、教室を走って出て行った。
 僕の過去を知る神山先輩は、まだ家族から聞かされてない何かを知っているようだった。

 僕は天を仰ぎ空を眺めた。
 刻々と変わりゆく夕焼け色のグラデーションが物悲しい。
 そう思わせたのは神山先輩が見せた涙の影響か、それとも家族が必死に隠そうとする過去があると知ったせいか、あるいはその両方とも言える。
 ただその感情は、胸中で小さく燃えていた「記憶を取り戻したい」という思いに油を注いだ。
 母さんと亜紀に訊ねなければならない。
 過去を知る為、記憶を取り戻す為。
 席へ向かう僕は自然と足早になる。
 机の上に置いてあった鞄を乱暴に掴み取って教室を出た。
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