家族に捨てられた公爵令嬢、精霊王に見初められて、世界を救い、ついでに愛も手に入れます。

タマ マコト

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第13話 人間の欲と、誘拐

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 世界は、変わるときほど早口になる。

 エリシアが暴走する街で精霊たちをなだめ、初めて“誰かを救った”その出来事は――
 数日のうちに、大げさな尾ひれをつけて王都アルセリアへ届いた。

「光と闇の暴走を、素手で鎮めたらしい」

「精霊王の花嫁候補、“境界の娘”だとさ」

 貴族たちのサロンでは、今日も香水と嘘の匂いが渦巻いている。

「精霊王ルシアンの花嫁……か。
 もし、その力を我が家に引き込めれば――」

「世界のバランスが崩れるこの時代、
 “境界の魂”を味方にしている国が、主導権を握ることになるでしょうな」

「だが、彼女は“追放された”公爵令嬢だろう?
 そんな娘が、今さら王家や貴族社会に何を――」

「だからこそ、だ」

 ひとりの男が、薄く笑った。

 鋭い鷹のような横顔。
 王都でも強硬派として知られる伯爵、ガルド・ヴァインベル。

「捨てられた娘は、拾い直しやすい。
 恩を売れる相手ほど、操りやすいものはないからな」

 彼の周囲にいる貴族たちが、いやらしく笑う。

「だが、彼女は精霊王の加護下にあるのだろう?
 迂闊に触れれば、ルシアンの怒りを買う」

「表向きに、だ」

 ガルドはワイングラスを軽く揺らした。

「“利用”するのも、“排除”するのも、誰かの陰に隠れながら行えばいい。
 世界が混乱している今なら、多少の異常は“境界の揺らぎ”のせいにできる」

 その目には、“人間の欲”が赤く滲んでいた。

◆ ◆ ◆

「……エリシア」

「はい」

「今のは?」

 境界の宮廷の片隅――少しだけ落ち着ける空間で、ルシアンがエリシアの前に立っていた。

 星空の床でもなければ、深海の天井でもない。
 “小さな庭”のような場所だ。

 透明な地面の下には柔らかい光が流れ、足元には薄い苔のようなものが敷き詰められている。
 頭上には光の粒が降り注ぎ、木漏れ日の代わりをしていた。

 エリシアは、両手を胸の前で組みながら、ゆっくりと目を閉じる。

「暴走した精霊たちの“色”を、思い出しながら――
 自分の中の揺れと重ねて、境界の膜に触っていく感覚、です」

 口にすると、ちょっと抽象的すぎて説明になっていない気がする。

「もっと噛み砕いて言うと?」

 ルシアンは、いつもの淡々とした口調で問いを重ねる。

 エリシアは、頬を掻いた。

「……境界の向こう側から、“今どれくらい世界がしんどそうか”を、
 わたしの心の動きに当てはめて確かめてる感じ、です」

「なるほど」

 ルシアンの口元に、わずかに笑みが浮かぶ。

「境界の感覚の説明としては滅茶苦茶だが――
 君らしい」

「ひどい言い方ですね!?」

「褒めている」

「どこがですか!」

「君が自分で言葉を探しているからだ」

 ルシアンは、さらりと言った。

「誰かに教わった“正しい答え”をなぞっているのではなく、
 君自身の感覚と言葉で、境界を説明しようとしている」

「……それが、そんなに大事ですか?」

「大事だ」

 ルシアンは即答した。

「“境界の魂”は、世界を“自分なりに”解釈できなければ意味がない。
 誰かの価値観や言葉で動くなら、それはただの“代弁者”に過ぎない」

 その言葉は、エリシアの胸に静かに落ちた。

(誰かに“こうあるべき”って言われ続けて、
 そのたびに自分の気持ちを後回しにしてきたけど)

 今、エリシアは、自分の感情と向き合うことで境界を感じている。

 怖い。
 嬉しい。
 悲しい。
 誰かを救いたい。
 誰かに許されたい。
 世界に“いていいよ”って言われたい。

 そのぐちゃぐちゃした感情を、きれいに整えようとするんじゃなくて、
 そのままの形で境界に伸ばしていく。

「……ちょっとずつ、ですけど」

 エリシアは、そっと目を開けた。

「境界の“ざわざわ”が、前より分かるようになってきました」

 以前はただ怖かった世界の揺れが、今はどこか“友達の機嫌を読む”みたいな感覚で伝わってくる。

「今は、どんな感じだ?」

「ん……」

 エリシアは、胸のあたりに意識を向ける。

 境界の奥から伝わってくる、ざわめき。

「まだ、不安定です。
 あちこちで、細かいひびが増えてる感じ。
 でも――さっきの街みたいな“大きな暴走”は、今は起きてない」

「正解だ」

 ルシアンは頷いた。

 訓練のたびにこうして確認し合うのが、最近の日課になりつつあった。

「世界は、君に少しずつ“慣れ始めている”」

「慣れる……ですか?」

「境界の魂が世界をなぞるうち、
 世界のほうも、“君を経由した揺れ方”を覚える」

「なんだかややこしいですね……」

「簡単に言えば、“君と世界の相性が少し良くなった”ということだ」

「それ、なんか嬉しいです」

 世界に嫌われ続けてきたと信じていた自分が――
 今、“少しだけ好かれ始めている”のかもしれない。

 そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 ピクシアが、エリシアの頭の上で寝転がったまま、足をぶらぶらさせていた。

「うんうん、順調に“世界チート”への道を進んでるね、ご主人様」

「その言い方やめません?」

「やめない。あたしの楽しみ」

「妖精の楽しみの方向性がだんだんおかしくなってませんか」

「それでいいの」

 ピクシアが、ぐでーっと寝転びながら笑う。

 そんなくだらないやり取りさえ、今のエリシアには救いだった。

 あの森で泣いていた自分からは想像もできなかった場所。
 世界の中心に近いこの庭で、笑って話している。

 まだ怖くてたまらないけれど――
 少しずつ“生きている実感”を取り戻していた。

◆ ◆ ◆

 だが、その間にも、人間界の欲望は確実に形を取っていた。

「――精霊王の花嫁候補を、王家の庇護下に置くべきだ」

 アルセリア王城の会議室で、公爵・伯爵たちが声を荒らげている。

 長い机を挟んで、二つの陣営が向かい合っていた。

「彼女は、もはや一個人の問題では済まされません。
 世界の揺らぎに直結する存在を、公爵家の私物にすることは許されない」

「だが、彼女は元々我が家の――」

 アルディネス公爵が言いかけたところを、別の貴族が遮る。

「“元々”だ。
 今や、公爵家は“境界の魂を追放した家”として、他国の笑いものだぞ」

 その言い方は、容赦がなかった。

 クラウドは、眉間に皺を寄せたまま黙って話を聞いていた。

「王太子殿下はどうお考えか」

 誰かが問う。

 部屋の視線が、クラウドに集まる。

「……エリシアを、再び“道具”として扱うのは愚かだ」

 クラウドは、ゆっくりと口を開いた。

「精霊王は、彼女を“伴侶候補”と宣言した。
 その意味を、もっと慎重に捉えるべきだ」

「では、放置するのですか?」

 強硬派のひとりが声を上げる。

「放置して、精霊王のもとへ行かせると?
 人間界の利を考えず、ただ見送るだけですか?」

「彼女を利用して精霊王を動かそうとするほうが、よほど愚かだ」

 クラウドの声が、少し低くなる。

「境界に座る存在を、“交渉の札”扱いすれば――
 世界そのものから見放される」

「綺麗事を」

 強硬派は鼻で笑った。

「殿下は、やはり“情”が強すぎますな。
 かつての婚約者に対する未練がおありなのか?」

 クラウドの拳が、ぎゅっと握られる。

 未練――。

 あの日、エリシアを公開の場で切り捨てた時の、自分の言葉。
 彼女が見せた顔。
 そのすべてが、今なお喉の奥に刺さっている。

 だが、そこで何も言い返せなかった。

 会議は、ぐちゃぐちゃなまま続く。

「いっそ、彼女を“排除”するという手も――」

「精霊王の怒りを買う真似をする気か!」

 賛成と反対が飛び交う中。
 ひとりの貴族は、静かに席を立った。

 ガルド・ヴァインベル伯爵。

 喧騒から一歩距離を取ったその目には、冷静な光が宿っていた。

(王家も、公爵も、王太子も――結局“公の手”では動けん)

 精霊王の名が絡むどんな決断も、正面からは下しづらい。
 誰もが責任を取りたくない。

(ならば、“裏”で動くしかない)

 彼は、口元に薄い笑みを浮かべた。

「“精霊王の花嫁”の力を、先に握った者が勝つ」

 囁きは、誰にも聞こえないように消えた。

◆ ◆ ◆

 境界の庭に、ひとつの呼び出しが響いた。

『小さな精霊よ』

 ルシアンの声が、直接ピクシアの内側へ届く感覚。

 ピクシアは、エリシアの頭の上からひょいと立ち上がる。

「呼ばれた」

「ルシアンに、ですか?」

「うん。ちょっと“境界の深いとこ”覗きに行ってくる」

「深いところ……」

 エリシアの胸に、不安がよぎる。

「わたしも行けますか?」

「ダメ」

 ピクシアは即座に首を振った。

「まだ今のエリシアが行ったら、普通に潰れる。
 あそこは、“奈落の翁”とかが普通に歩いてるレベルの場所」

「……ですよね」

 正直、名前を思い出しただけで胃が痛くなる。

「すぐ戻るから」

 ピクシアは、エリシアの額のあたりにちょん、と触れた。

「境界の揺れ、今日は前より静かだから。
 その間に、ひとりで“呼吸の練習”でもしてなよ」

「呼吸の練習」

「そう。境界を感じるとき、アンタすぐ息止める癖あるから」

「ばれてましたか……」

「全部ばれてる」

 にやりと笑って、ピクシアはふわりと空へ飛び上がった。

 そのまま、光と闇の隙間へ溶けるように消えていく。

「……行っちゃった」

 エリシアは、少しだけ取り残された気持ちになった。

 庭には、精霊王の気配も、今はいない。

 ルシアンはさっき、「境界の奥を調べてくる」と言って、別の階層へ降りていったところだ。

 ここにいるのは、今、自分ひとり。

(……ひとりでも、平気)

 胸の奥に微妙な不安が浮かび上がる前に、エリシアは自分に言い聞かせた。

「呼吸の練習、ですね」

 深く息を吸い、吐く。

 境界のざわめきを感じるように、意識を広げる。

 ……はずだった。

 そのときだった。

 胸の奥に、ぞわ、と嫌なざわめきが走った。

「……え?」

 境界の揺れとは違う。

 もっと近く。
 もっと具体的な――“視線”の感覚。

 次の瞬間。

 庭の端、光と闇の境目が、ざん、と切り裂かれた。

「――ッ!!」

 何かが、こちら側に滑り込んでくる。

 人間の気配。

(どうして――ここに?)

 境界の宮廷は、基本的に精霊王の許可なしには入れない場所のはずだ。
 人間が勝手に入り込める場所ではない。

「お嬢様」

 聞き覚えのある、低い声がした。

 エリシアは、びくりと肩を震わせる。

 振り向くと、そこに立っていたのは――

「……ユルゲン?」

 アルディネス公爵家で、長年仕えていた執事だった。

 白い手袋に、完璧に整えられた髭。
 昔から変わらない姿。

 けれど、その目には以前よりずっと深い影が落ちていた。

「久しぶりでございます、お嬢様」

 丁寧な一礼。
 その立ち振る舞いは、見慣れたものなのに――胸の奥に、ひやりとしたものを残す。

「ど、どうしてここに……?」

「お迎えに参りました」

 ユルゲンは、柔らかく微笑んだ。

「アルディネス公爵家よりのご命令でございます。
 “エリシアお嬢様を、安全な場所へお連れしろ”と」

 懐かしい呼び方。
 “お嬢様”という響き。

 胸が、痛いほど揺れる。

「……安全、な場所」

「ええ。
 精霊王の傍こそ、危険に満ちておりますゆえ」

 ユルゲンの笑みは、綺麗すぎた。

 そこに、“本心”が一滴も滲んでいない。

(違う……)

 直感が、喉元で鳴る。

 彼の背後から、他の人間の気配がした。

「話が違うぞ。
 境界の宮廷に、人間が踏み込めるのか?」

「精霊用の転移術式を、魔道具に組み込んだだけです。
 多少のリスクはありますが――今は、多少どころの話ではありませんので」

 低く囁き合う声。

 ユルゲンの袖口から、ちらりと覗いたのは、見慣れない黒い腕輪だった。

 金属でも、宝石でもない。
 封じられた“何か”が、淡く脈打っている。

(……嫌な色)

 エリシアは、無意識に後ずさる。

「お嬢様」

 ユルゲンは、いつもの穏やかな声で言う。

「エリシアお嬢様。
 我々は、“精霊王の花嫁候補”であるあなたを守りたいのです」

「守る……?」

「ええ。
 人間界の利益のために。
 そして、公爵家の名誉のために」

 それは、“守る”とは呼べない種類の言葉だった。

「精霊王ルシアンは、人間の世界を本当に優先してくださるのでしょうか?」

 ユルゲンの瞳が、冷たく光る。

「境界に座る王は、“すべて”を平等に見るでしょう。
 それは、我々人間にとっては、かえって残酷なことだとは思われませんか」

「……それは」

 言い返せなかった。

 ルシアンは、たしかに人間界だけを守るために動いているわけではない。

 精霊界も、境界も、全部まとめて見ている。

 それが正しいのは分かる。
 でも、“人間界の代表”から見れば、不安なこともある。

「だからこそ、“精霊王の花嫁”であるあなたが、
 人間側の代表として、王家と共に世界の主導権を握るべきなのです」

 その言い方は、一見“正しそう”に聞こえた。

 けれど――。

(違う)

 胸の奥が告げる。

「わたしを――利用するつもり、ですよね」

 エリシアは、震えながらも言った。

 ユルゲンの表情が、一瞬だけ固まる。

 すぐに、穏やかな微笑みが戻った。

「利用、とは。
 お嬢様は、いつも言葉が少々、率直すぎますな」

 昔、何度も聞いた台詞。
 それが今は、何よりも冷たく響く。

「精霊王の傍にいるより、
 人間の世界で、“人間のために”力を振るうほうが、
 お嬢様にとっても本望でしょう?」

「本望、かどうかは――」

 わたしが決めます。

 そう続けようとした瞬間。

 ユルゲンの目が、すっと細くなった。

「申し訳ありません、お嬢様」

 その言葉の直後だった。

 エリシアの足元の光が、突然ねじれた。

「――っ!?」

 星空の床が、きゅうっと小さく収縮する感覚。

 同時に、ユルゲンが手にした黒い腕輪が、強い光を放った。

「“精霊封じの輪”」

 聞いたことのない言葉。

 黒い光が、びゅん、とエリシアの足元から足首へ、腰へ、胸へと絡みついてくる。

 境界のざわめきが、急速に遠ざかる。

「なに……これ……」

 呼吸が、うまくできない。

 胸の奥に常にあったはずの“世界とのノイズ”が、突然ぷつりと途切れた。

 境界の膜の気配が、まるで何枚も分厚い布をかぶせられたみたいに感じられなくなる。

「この世界には、愚かな人間と同じ数だけ、賢しい人間もおります」

 ユルゲンの声が、やけに遠く聞こえた。

「“精霊を封じる魔道具”は、古くから禁忌とされてきましたが――
 使いどころを間違えなければ、非常に有用なのです」

 エリシアは、視界がぐらりと揺れるのを感じる。

 立っていられない。

 膝が崩れそうになった瞬間、背後から腕が伸びた。

「大丈夫だ、嬢ちゃん」

 聞いたことのない男の声。

 たぶん、ガルド伯爵の部下か、雇われた傭兵か。

「ちょっと“静かな場所”に案内するだけだ」

 口元に、布を押し当てられる。

 鼻を突く、甘い匂い。

「――っ、や……」

 抵抗しようとする腕に、もう力が入らない。

 世界が、遠のいていく。

(ル、シアン……)

 名前を呼ぼうとした。
 でも、声にならないまま、視界が暗闇に沈んでいく。

◆ ◆ ◆

 同じ頃、境界のずっと深い層。

 光も、闇も、音も希薄な場所で――
 ルシアンは、ふと顔を上げた。

「……?」

 胸の奥で、何かが“消えかける”感覚。

 境界のざわめきとは違う。
 世界の揺れとも違う。

 もっと近く。
 もっと、個人的な――

(エリシア)

 彼女の“色”が、一瞬、ふっと薄れた。

 すぐに、再び感じ取れる……はずだった。

 しかし、その気配は、厚い壁の向こう側へ閉じ込められたみたいに遠くなっていた。

「……誰かが」

 喉の奥から、低い声が漏れる。

「境界の感応を、遮断した――?」

 そんな真似ができる存在は、限られている。

 精霊王本人か、奈落の翁クラスの古精霊か。
 あるいは――

「人間か」

 境界の深層でさえ聞いたことがある、禁忌の技術。

 精霊を封じる器。
 魂の揺らぎを押さえ込む魔道具。

 金の瞳が、はっきりと細められた。

「……誰が」

 境界そのものが、微かに震えた。

「誰が、彼女に触れた」

 ルシアンの声は、普段の静けさを失っていた。

 冷たい怒りが、境界中にじわりと浸透していく。
 光の層も、闇の層も、一瞬だけざわりと揺れた。

『陛下?』

 境界の別の階層から、側近の精霊たちの声が届く。

『どうなさいました』

「……エリシアの気配が薄れた」

 短く告げる。

「誰かが、彼女を“閉じ込めた”。
 境界から切り離そうとしている」

『そんな……人間にそこまで――』

「禁忌は、いつの時代も好かれる」

 ルシアンは、低く呟いた。

「境界に逆らう術を、人間は常に探す。
 精霊を封じる術も、そのひとつだ」

 胸の奥で、苛立ちが渦を巻く。

 ――守ると言った。
 ――隠すと言った。
 ――彼女を傷つけさせない、と誓った。

 その自分の誓いを、いとも簡単に破られた気がした。

「……愚かなことを」

 金の瞳に、強い光が宿る。

 境界の奥で、闇側の精霊たちが身をすくめた。
 光の精霊たちは、息を呑んでいる。

『陛下、どうなさるおつもりで』

「決まっている」

 ルシアンは、外套を翻した。

「誰よりも先に、彼女を見つける。
 そして――“触れた者”へ、代償を支払わせる」

 その声には、精霊王としてだけでなく、ひとりの“男”としての怒りが滲んでいた。

◆ ◆ ◆

 境界の庭。

 ピクシアが、ふわりと戻ってきた瞬間――世界の違和感に、即座に気づいた。

「……エリシア?」

 いつもそこにいるはずの気配が、ない。

 座っているはずの石。
 笑い声が聞こえるはずの場所。

 空気が、妙に静かだ。

「エリシア?」

 今度は声に出して呼んでみる。

 返事が、ない。

 胸の奥で、ざわりと冷たいものが広がった。

「……やな予感」

 ピクシアは、すぐに境界の感覚を開く。

 いつもなら、すぐ近くに感じるはずの“境界の色”が、どこにも見当たらない。

 遠くへ行ったわけじゃない。
 完全に消えたわけでもない。

 ――厚い壁の向こう側に押し込められたみたいに、“見えなくなっている”。

「……っ」

 喉が締め付けられる。

(やられた)

 人間へのトラウマが、一気に顔を出した。

 白い塔と、鉄の檻。
 笑いながら鍵をかけた人間たち。

『ごめん。でも命令なんだ』

 ――その“ごめん”はいらない。

「……あたしが、離れてたから」

 自分のせいだ、という感情が、頭より先に胸に広がる。

 さっき、「すぐ戻る」と言って、軽く出て行ってしまった。
 境界の深層へ行くほうを優先して、“今ここにいる彼女”を見切ってしまった。

 ピクシアは、ぎゅっと歯を噛み締めた。

「ルシアン!」

 境界の奥へ、全力で声を飛ばす。

『……ピクシアか』

 すぐに返ってくる王の声も、いつもより荒い。

『気づいたか』

「エリシアが――」

『さらわれた』

 ルシアンの声は、氷みたいに冷たかった。

『人間の“精霊封じ”の術式だろう。
 境界との感応を抑え込み、彼女を“ただの人間”として扱おうとしている』

「……っ」

 ピクシアの胸に、怒りと恐怖が同時に燃え上がった。

「人間……!」

 小さな拳を握りしめる。

「また、あたしの大事なものを――!」

 涙が、滲んできた。

 過去の傷と、今の現実が、ぐちゃぐちゃに重なってくる。

「ごめん……ごめん、エリシア……!」

 誰にともなく、謝罪の言葉がこぼれた。

「離れないって言ったのに。
 一緒にいるって言ったのに。
 あたし、また――」

『ピクシア』

 ルシアンの声が、ピタリと割って入る。

『自分を責めるのはあとだ』

「でも――!」

『今すぐ必要なのは、後悔ではない』

 金の瞳の冷たさが、そのまま声に乗っている。

『君の“感覚”だ』

 ピクシアは、ぐっと唇を噛みしめた。

 分かっている。
 感情に飲まれている場合じゃないことくらい。

(エリシアを、見つけなきゃ)

 その一心で、境界の色を探る。

 誰かが、彼女に触れた場所。
 誰かが、彼女を連れ去った方向。

 黒い腕輪。
 魔道具。
 人間たちの欲の色。

 ピクシアは、目をぎゅっと閉じた。

「絶対に――」

 震える声で、言葉を紡ぐ。

「絶対に、連れ戻すから」

 涙が頬を伝い落ちる。

「あたしが、連れ戻す。
 精霊王の花嫁候補で、“境界の魂”で、
 あたしの――“家族”だから」

 その誓いは、境界の膜に焼き付くように刻まれた。

 そして、世界のどこかで、エリシアの意識が、暗闇の中でゆっくりと浮上し始めていた。
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