平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第1話「夜の崩壊」

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夜の鐘が三度鳴った。
レオンハルト邸は絹みたいな闇に沈み、庭の噴水は細い銀糸を垂らしている。
舞踏会の余韻は消え、残っているのは蝋燭の匂いと、床に揺れる橙の反射だけ。

アメリアは長い廊下を歩きながら、靴音の空虚さに耳を澄ませた。
この静けさはすぐに破られる――そんな予感が、胸の底でずっと鳴っていた。

「お嬢様、もうお休みになっては?」
侍女のマリアが囁く。

「眠れないの。変な胸騒ぎがするわ」
笑って答えたけれど、口角の震えは止まらなかった。

理由ははっきりしている。
父の政敵が王宮で動いているという噂は昼から絶えず、
婚約者のアルヴィンは夕刻から姿を見せず、伝令すら寄越さない。
彼は約束を破らない人だった。だからこそ、沈黙が怖かった。

窓の外で遠雷が低く唸る。
土の匂いが入ってきて、冷えた指が指輪に触れた。
白金に並ぶ小さな青石――星座みたいな婚約指輪。
幼いころ星を辿った記憶が、ほんの一瞬だけ胸を温め、すぐ消えた。

玄関の方から鈍い衝突音。
怒号。金属の擦れる音。扉の割れる乾いた音。

「……来た」
マリアが顔を上げるより早く、アメリアは手を掴んだ。

「隠れる。急いで」
「お嬢様――」
「今は言い合ってる暇、ない!」

階段を駆け上がる。
香水と蝋燭の甘い匂いに、汗と革の匂いが混ざる。
兵の匂いだ。
「レオンハルト家、王命により家宅捜索を行う!」
甲高い声は王都衛兵の号令に似ているが、雑な響き。借り物の権威。

父の書斎へ飛び込む。
鎧戸の隙間から、黒い影が塀を越え、芝を刈るように広がっていくのが見えた。
机の引き出しには羊皮紙、印璽、赤い封蝋――宰相印。日付は昨日。
「明朝、王宮にて弁明を」
なら、なぜ今夜に扉が砕ける?
表の文と裏の段取りは別の舌で書かれている。

扉がノックされた。三回、少し置いて二回。
アルヴィンの合図。胸が跳ねる。

「入って」

黒い外套の青年が現れた。
きちんと撫でつけた金髪。灰色の瞳はいつもより冷たい。

「時間がない」
扉を閉め、彼は言った。
「王宮から命が下った。レオンハルト家を謀反の嫌疑で拘束。抵抗すれば、その場で斬る」

「嫌疑? 父が? 何の罪で?」
「王命に疑う余地はない」
視線を逸らす彼。
「君はここを出る。裏門へ。俺が案内する」

救いの形をした言葉なのに、喉の奥に砂が混ざっている。
アメリアは袖を掴んだ。

「どうして、あなたが“命令する側”にいるの」
「俺は王宮騎士だ。命に従うのが務めだ」
「私の婚約者でもあるでしょ」
「だから君を逃がす」

論理は整っているのに、心が遠い。
外套の内側から薄く漂う刃物油――彼は戦の場から来た。
机の印璽に落ちる視線。

「印璽は置け。持っていれば逃亡の証にされる」
「証? 誰が、何を、どう証明するの」
「……時間がない」

“時間がない”は一番便利な言葉。
その陰に真実はいくらでも隠れる。

「父と母は?」
針を含ませるみたいに問う。

「……拘束される。抵抗するなと、君から言ってくれ」
「騎士ならあなたが言いなさい」
「君の言葉のほうが届く」

マリアが息を呑み、袖を引く。
「お嬢様、裏口にも兵が……」

アルヴィンの眉がわずかに動く。
「裏門は閉めさせたはず……いや、抜け道がある。任せろ」

「任せろ、ね」
アメリアは冷たく笑う。
「王宮は、いつからレオンハルトを敵にしたの」

「敵とは言っていない。『疑義』だ」
「“疑義”と“夜襲”、同じ机で生まれる言葉だわ」

「アメリア、口論してる場合じゃない。行くぞ」

手首を掴む力は強い。
舞踏会で導いた手じゃない。捕らえる手。
アメリアは反射で振り払った。皮膚が熱を持つ。

「離して」
「守っているんだ」
「今、私が逃げたいのは――あなたからよ」

一瞬、彼の瞳に素の苛立ちが浮かぶ。
踵を返し、扉へ。
「五分だけ待つ。準備しろ。荷は持つな。走れる靴に履き替えろ。印璽は置け」

「命令口調は嫌い。……でも、わかった。準備する」

扉が閉まると同時に、小さな革袋を胸元へ。
指輪と一緒に滑り込ませ、底の“鍵”を指で確かめる。
書庫の隠し戸棚の鍵。
取引記録と王宮との書簡の写し――証が眠っている。

持ち出すべきか、迷いは一呼吸だけ。
鍵を強く握る。冷たさが意志の輪郭をはっきりさせる。

廊下へ。
祖先の肖像画が揺れ、マリアのランプが影を長くする。
角を曲がると衛兵が二人。兜の下に汗。

「止まれ。王命だ」

「王命って、便利ね」
一歩出て言う。
「この家の娘よ。父のところへ行く」

兵の顔が揺らぐ。
そこへアルヴィンが現れ、外套をアメリアの肩に掛けた。

「寒いか」
「震えてない。足が急いでるだけ」

階段を降りる途中、ホールの大扉が破られ、夜風が雪崩れ込み、火の粉が舞う。
母の叫び――足が止まりかける。
背を押す掌。

「見るな。今は生き延びろ」
「母を見捨てるの?」
「全員は救えない。君だけでも」

白い刃のような言葉が胸に刺さる。
アメリアは歯を食いしばり、裏廊下を進む。
石壁の湿り、呼吸の熱。
子どものかくれんぼは笑いと一緒に済んだ。これは違う。
笑いは遠い。鼓動だけが近い。

厨房の先、地下への狭い階段。
「ここから外へ」
湿った土、灯りの揺れ、苔の鈍い光。
底の木扉へ、アルヴィンは迷わず鍵を差す。

迷いのなさは、知っている証。
この道を前から知っていた。
何度ここを使い、誰のために鍵を用意したのか――喉が苦い。

「ひとつ、答えて」
「今か」
「今。これを逃したら、もう訊けない気がする」
「……何だ」
「私を選ぶ? 王宮を選ぶ?」

半分灯、半分闇の顔。
「君を生かすために、王宮を選ぶ」

「言い換えないで。どちらを愛すの」

長い沈黙。水滴の音。
「俺は――国を愛している」

返す言葉はない。
喉の奥で、薄いガラスが割れた音がした。

「もう一つ。今夜を作ったのは誰」
「宰相だ」
「宰相だけ?」
「……第一王子の承認がある」
「あなたは、いつから知ってたの」
答えは来ない。沈黙が答えになる。

扉が開き、冷たい夜気。
細い地下道を屈んで進む。
犬の遠吠え、地上の鎧の擦れる音。
肩を押す時間、背中を蹴る時間。

格子の向こうに月光。
梃子で持ち上げ、外へ。
振り返ると、闇の奥に家の気配。
皮膚のように温度と記憶を抱えた家から剥がれる痛みは、遅れてくる。
今は走る。痛みはあとで受け取る。

草の露が足首を冷やす。
城壁の向こうで炎が夜空に赤い花弁を投げる。
居間、本棚、父の毛布――全部が燃える色。
泣くのは簡単。泣かないのは難しい。
難しさを選び、アメリアは自分を支える。

「ここから街道までは俺が送る」
アルヴィンの低い声。
「ありがとう」
短く返しながら、革袋越しに鍵の歯をなぞる。
これは扉を開ける。罪を照らす扉。
誰の罪でもいい。扉は開けるためにある。
開けずにいれば、いつか壁になる。

裏門の影に、もう一人。
黒ずくめの男が笑みを浮かべて立っていた。
「遅かったな、アルヴィン卿」

「誰の差し金だ」
剣の柄にかかる手。

「質問は一つでいい。令嬢を“丁重に”引き渡せ」

アメリアは一歩前へ。
「“丁重”って、重い“枷”に見えるのね」

男の笑みが崩れる。
「口が立つ娘だ」

「レオンハルトの娘だから。言葉の重さは、父に教わった」

金属が鳴り、火花が散る。
アルヴィンの灰色に火が灯り、鋭い弧を描く。
美しさと残酷さが隣に座る瞬間。
アメリアはマリアの手を握った。

「今だ、走るよ。あの人が時間をくれてる」

植え込みを縫って走る。
露がふくらはぎに跳ね、背後の金属音は途切れ、また繋がる。
アルヴィンの呼吸が追ってくる気がする――気がするだけ。
務めは顔を削る。残る顔が誰のものか、今夜の彼はまだ知らない。

塀の切れ目で、別の手が腕を掴む。
荒くないが有無を言わせない力。
深いフードの影が低く言った。

「静かに。こっちだ」

「あなたは誰」
「味方だ。生き残りたいなら、息を殺して風になれ」

無駄のない声。土の匂いのする確かさ。
アメリアは袖を掴み直す。選ぶことは、生き続けるという現在形。

路地の果てまで導かれ、影は止まった。
「ここで別れる。東が白む前に橋を渡れ。西は閉じる」

「なぜ助けるの」
「君がまだ折れていない。折れない者は誰かの道を照らす。王宮はそれを嫌う」

「……名前は?」
「夜は長い。聞くな」

影が一歩下がる。
「君の名前は」

名は背骨。見せれば支え、折られれば立てない。
アメリアは唇を結び、決めた。

「……ミリア」

初めての偽名はぎこちなく舌に乗り、すぐ体温を帯びる。
「ミリア、走れ」

影は闇に消えた。

――そのとき、追っ手の足音が近づいた。
路地の入口が二つ。片方は橋へ、もう片方は市場へ。
時間はもう数えるほどしかない。

マリアが振り向き、ランプの火をふっと吹き消した。
夜が濃くなる。彼女はアメリアの手を強く握り、そして――静かに離した。

「ミリア様」
マリアは外套の紐を解き、自分の肩にかけるはずのそれをアメリアに押し戻す。
「私は市場側へ走ります。音を立てて、兵を引きつける」
「ダメよ、そんなの――」
「大丈夫。私、足は速いから」
小さく、けれど揺るぎない笑顔。
「今までずっと、お仕えしてきました。最後まで、です。だから――行って」

喉が熱くなる。言葉が出ない。
「必ず、生きてください」
マリアはアメリアの手を自分の頬に一瞬だけ押し当て、ぱっと離れた。
次の瞬間、彼女は市場へ続く路地へ飛び出し、わざと樽を倒して大きな音を立てる。
兵の怒鳴り声がそちらへ流れた。

アメリアは壁に背を貼りつけ、影になった。
足音が過ぎる。心臓が喉元で暴れる。
(帰ってきて。お願い)
叫びたい声を、奥歯で砕いた。

静寂がひと欠片だけ戻る。
アメリアは深く息を吸い、東――橋のほうへ走り出した。
誰の手も握らず、ただ自分の足で。

欄干に手が触れる。
東の空が薄くほどけていく。
水の黒が色を取り戻し、遠くで水鳥が一声鳴いた。

外套の襟を立て、アメリア――いや、ミリアは目を閉じる。
涙は出ない。泣くのはあとでいい。
胸の中で硬い声が生まれる。自分の声。
――もう、誰も信じない。
でも、私を生かしてくれた人の勇気は、忘れない。

名を置き、鍵を握り、夜の橋をひとりで渡る。
背後で雷が遅れて鳴り、風が頬を打った。
王宮の網は夜に張られる。
けれど網には必ず隙がある。
その隙を見つける目を、涙で曇らせない。

ミリアは振り返らない。
ただ一人で、夜明けへ向かって走った。
――ここからが、私の物語だ。

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