平民に転落した元令嬢、拾ってくれた騎士がまさかの王族でした

タマ マコト

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第2話 「失墜した令嬢」

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 夜がほどけきる前に、私は橋を渡りきった。
 東の空は白く、街の屋根がゆっくりと輪郭を取り戻す。橋の向こうは、城下の外れだった。石畳はいつの間にか土の道に変わり、露の下りた草が裾を濡らす。外套の内側で、革袋が胸に当たって冷たい。中には小さな鍵が一つ。父が隠した証の場所へ通じる、たった一つの道標だ。指で確かめるたび、心はぎゅっと現実へ戻された。

 朝が来れば、追手はもっと増えるだろう。昼になれば、私の顔は「罪の家の娘」として街角に貼り出されるかもしれない。だから、人が多すぎて、逆に私が溶け込める場所へ向かうことにした。
 ――貧民街。
 寂れた屋根が重なる、煙と湿気と、縄張りの目に満ちた場所。誰もが自分のことで手いっぱいで、他人の涙に構っている余裕なんてない。だからこそ、私は紛れられる。

 午前の貧民街は、湿った布の匂いと煮込みの匂いが混じっていた。細い路地の真ん中に、泥水がゆっくり流れている。洗濯物が頭上のロープで重たく揺れ、開いた窓からは怒鳴り声と笑い声が交互にこぼれた。
 歩くたびに視線が刺さる。外套の裾にはまだ良い布の名残があり、靴は街角の誰よりも上等だった。それでも、泥はそんなものをすぐ同じ色に染めてしまう。

「よう、いい服だな」
 男の声が背中から降ってきた。振り返ると、髭面の男が樽の上に腰掛け、歯の隙間から煙を吐き出している。
「売るならここで買ってやるよ。半額以下でな」
「いらない」
 短く返して歩く。
「気取ってるな、嬢ちゃん。どこのお姫様だ?」
 笑いが路地に散った。
「お姫様? ほら見ろ、指輪はどうした、指は真っ赤だぞ」
「落ちぶれても品はある、ってやつか。なぁ、うちの店で皿洗いでもどうだ」
「いや、もっと稼げる仕事があんだろ」
 笑いが濁る。足が止まりそうになる。
 私は外套の前をきつく握った。喉に上がってくる言葉を、奥歯で砕いて飲み込む。

 市場の端に、日雇いの斡旋小屋があるのを思い出す。身分証がなくても働かせる代わりに、日当は半分。そんな場所だ。
 小屋の前は今日も行列で、疲れた人たちが壁にもたれている。私は列の最後尾に立った。
「次」
 板の窓の向こうの女が、面倒そうに顔を上げる。
「名前は?」
「……ミリア」
 初めて名乗る偽名は、少し舌に引っかかる。
「身分証は?」
「ない」
「保証人は?」
「いない」
 女は鼻で笑った。
「じゃあ半日で一銅貨。掃除か荷運び。選べないけど、いい?」
「構わない」
「それと」女は窓の奥から木札を取り出し、机に叩きつけた。「ここに悪さしてるって噂の家があるんだよ。あんた、顔が似てるね。レオン何とか」
 心臓が強く殴られた気がした。
「……関係ない」
「関係ないね。うちは関係ない人を使う。関係ある人は使わない。それだけ。分かった?」
「分かった」
「じゃ、裏の裏。臭い桶からだよ。逃げるなら今のうちに」

 臭い桶――街の側溝から汲み上げた泥や残飯を捨て、磨く仕事。私は木札を握りしめ、裏手へ回った。
 そこは、日差しが届かない狭い囲いだった。桶が幾つも並び、鼻につく酸の匂いが絡みつく。
「遅い!」
 先に働いていた少年が怒鳴る。
「ごめんなさい」
「謝る暇があったら動いて。これ、あっち。こっちは洗う。手、切るなよ」

 私は外套を脱ぎ、袖を捲った。指に油膜のような匂いがまとわりつく。手が動くたび、鍵が胸元で小さく当たって痛い。
 汚れは、貴族の匂いを簡単に塗り替える。薄い皮膚に染みて、落ちにくい跡を残す。私は黙って桶を運び、擦り、捨て、また運ぶ。
 日が昇り切るころには、手のひらの皮がふやけ、掌に小さな亀裂ができていた。そこへしみる酸っぱさで、視界が白くなる。

「水、飲む?」
 少年が小さな皮袋を差し出す。
「ありがとう」
 一口で喉が驚く。水はぬるく、でも確かに喉を通ってくれた。
「どこから来たの」
「向こうの橋から」
「ふーん。あんた、前は何してたの?」
「……皿の、並べ方を覚えてた」
「へんなの」少年は笑って、また桶に向き直る。「ここは皿より桶が多いから、慣れるといいよ」

 午前が終わる頃、斡旋小屋の女が裏手を覗いた。
「今日のところは終わり。半日分、もらいに来な」
 硬貨が二枚、掌に落ちた。軽すぎて、ほとんど重さを感じない。
 パンひとつで消える重さ。
 私は硬貨を握り直し、市場の端のパン屋へ向かった。
「一番固いのをください」
「あいよ。昨日の残りだ、安いよ」
 石みたいな固さのパンが、紙包みで押し込まれる。
 広場の隅でそれを齧ると、歯に響いた。顎が痛くなる。けれど、口の中に粉の甘さがほんの少し広がる。
 通り過ぎる人たちが、ちらちらこちらを見る。
 誰かが囁く。「ねえ、あれ、あの家の娘に似てない?」
「まさか。こんなとこでパン齧ってるわけないでしょ」
「でも髪の色が――」
「見なかったことにしなさいよ。関わると面倒だよ」
 笑い混じりの声が、背骨のあたりに冷たく刺さる。
 私は紙包みを膝で折り畳み、立ち上がった。

 午後は別の小屋で荷運びをした。背丈より高い麻袋を抱え、汗と埃の中を何度も往復する。腰が抜けそうになったころ、空に薄い雲が湧き始め、風の色が変わった。
 夕方の市場は、雨の匂いでざわつく。誰もが急いで店を閉め始め、捨てられる野菜の葉に雨粒が最初の音を立てた。
 斡旋小屋で受け取った硬貨を数える。朝の二枚、午後の二枚。合計四枚。
 宿の床一枚で三枚。明日の仕事に備えるには、雨露をしのがないといけない――頭の中で足し引きばかりしている自分が、ひどく情けなかった。

 貧民街の端にある安宿は、湿った木の匂いがひどく、廊下は人の体温で蒸していた。
「一枚床、三枚」
 カウンターのおばさんは、金を数えてから私を上から下まで見た。「服は盗まれないように気をつけな」
「……はい」
 鍵だけは、離さない。革袋を服の内側、肌に密着するところへ縫い付ける。指先が震え、針が何度も皮膚をかすめた。
 床に横になった途端、意識が途切れた。

 夢の中で、屋敷が燃えていた。
 母の声が階段の上から呼んでいて、行こうとすると足首に泥の手が絡みつく。泥は何度振り払ってもすぐ戻り、とうとう私の喉元まで来た。
 息ができない――。
 跳ね起きると、薄暗い部屋にざらついた息だけが響いていた。
 夜の端が、窓の外に滲んでいた。
 雨の音。
 いつの間にか、降り出していた。

 宿の床は、夜になると別の世界になる。
 寝返りの音、低い咳、遠くの喧嘩声、女の笑い。
 そして、盗む足音。
 私は初めての夜をやり過ごす自信がなかった。
 鍵を守るには、眠らないほうがいい。
 でも、身体はもう限界で、瞼は重く、胸は冷たく、手足は鉛のようだ。
 窓の外で雷が鳴り、すぐに雨が強くなる。
 私は静かに起き上がり、外套を拾って部屋を出た。

 外は、銀色の雨だった。
 屋根から落ちる水が路地を川に変え、足首を一気に冷やす。
 人通りはほとんどない。
 巡回の兵の灯りだけが、濡れた壁に斑に揺れた。
 私は宿を離れて歩いた。
 どこへ?
 とにかく、知らない顔に囲まれた閉じた場所より、雨のほうが安全に思えた。
 鍵を濡らさないよう祈りながら、胸の布地を押さえる。

 角を一つ曲がると、二人組の影が支柱の下に立っていた。
 兵ではない。街の男たちの足取り。
 彼らは私を見ると、互いに顎で合図した。
「ねえお嬢さん、雨宿りしない?」
「うちの屋根は広いよ。温かいスープもある」
 声には笑いが混じっていたが、目は笑っていなかった。
 私は首を振り、足を速めた。
「冷たいな。困ってるだろ? 助けてやるって言ってんのに」
 手が腕に伸びてきた。
 私は反射的に振りほどき、濡れた路地を駆け出す。
 背中で笑い声が裂け、足音が増えた。
 雨は容赦なく目を打ち、息はすぐに苦しくなる。
 暗い路地、石段、ぬかるみ。
 転びそうになりながら、私はとにかく前へ進んだ。
 叫べば誰かが助ける?
 この街では、誰も何も見ない。
 ただ雨の音が、全部をかき消していく。

 袋小路に突き当たり、私はやっと立ち止まった。
 前は壁、右も左も壁。
 背後で足音が止まる。
「行き止まりだ。偶然ってこわいね」
 笑い声がまた近づいてくる。
 私は壁に背中を貼りつけ、濡れた髪を払い、真っ直ぐ目を上げた。
「……来ないで」
「来るけど?」
 一人が手を伸ばし、もう一人が回り込む。
 その時だった。

 雨の層の向こうから、別の足音がした。
 重くない。静かで、柔らかい。
 私の横を、黒い影がするりと通り過ぎた。
 次の瞬間、男の手首がぐいと捻られる。
「いっ……!」
 短い悲鳴。
 もう一人が殴りかかるが、黒い影の肩が小さく動いただけで、男は足をすくわれ、水たまりに尻もちをつく。
「何だお前!」
 返事はない。
 影は私の前に立ち、わずかに腕を広げた。
 雨の幕が、肩で割れて流れる。

 二人は捨て台詞を吐いて走り去った。
 残ったのは、雨と私と、その黒い影だけ。
 目を凝らすと、影はフードを被った青年だった。
 濡れた布の下、顎のラインが鋭い。
 目は――暗くてよく見えない。
 けれど、向けられた視線だけは、妙に静かだった。

「あの……ありがとう」
 声が、震えていた。
 青年は何も言わなかった。
 かわりに、私の肩の位置まで膝を落とし、背中をこちらに向け――無言で促した。
「……え?」
 背負え、ということ?
「大丈夫。歩ける」
 そう言って一歩踏み出した瞬間、膝が水の中に崩れ落ちた。
 身体が、もう限界なのだと、遅れて知る。
 熱いのか寒いのか分からない震えが、腰から下を抜けていく。
 気を張っていた分、切れた糸はあっけない。

 青年は無言のまま、私の腕を肩に回し、軽々と持ち上げた。
 背中は思ったより広く、温かかった。
 雨の音が、背中の広さで遠のく。
 彼は歩き出す。
 足取りは一定で、急がないのに速い。
 私は肩越しに路地の上を見た。
 灰色の雨の向こうに、灯りがぽつぽつと滲んでいる。

「どこへ……」
 問いは、雨に溶けた。
 青年はやはり黙っている。
 けれど、不思議と怖くなかった。
 言葉より確かな、どこかの“基準”に沿って動いている人の足取り。
 無闇に優しくもしないし、乱暴でもない。
 ただ、必要なことだけを、必要な分だけ。

 橋のそばを通った。
 遠くで、兵の灯りが蜃気楼のように揺れる。
 私は体を固くしたが、青年は路地の影を選び続け、灯りから灯りへ、濡れないように私の足を避けて歩いた。
 雨樋の下を過ぎ、倉庫の壁を回り、低い塀を越え、最後に、屋根の低い古い小屋の前で足を止めた。
 扉の隙間から、橙の灯りが溢れている。
 庵、という言葉が似合う、小さな場所。

 青年は片手で扉を押し開け、中へ入ると私をそっと下ろした。
 床は乾いていて、藁が敷かれ、隅に小さな囲炉裏があった。
 鍋からは湯気が上がっている。
 雨音が遠くなった。

 青年は濡れた外套を壁にかけ、火のそばにしゃがんで薪を足した。
 火がぱち、と跳ねる。
 顔がやっと見えた。
 色の薄い瞳。
 冷たいというより、静かな色。
 目が合うと、彼はほんの少しだけ顎を下げた。挨拶のつもりなのかもしれない。

「……助けてくれて、ありがとう」
 改めて頭を下げると、彼は棚から布を取り出し、無言で差し出した。
 拭け、ということだ。
 私は髪の水を拭い、外套を絞る。
 彼は鍋の蓋を少しだけずらし、湯気と一緒に香りをこちらへ流してくれた。
 根菜を崩した、優しい匂い。
 胃の奥がきゅう、と縮む。

「あの……」
 言いかけて、言葉が見つからない。
 名前を名乗るべき?
 でも、誰に。
 この人は誰。
 何をしている人。
 私を、どうするつもり。
 考えがいくつも浮かんでは、雨の滴みたいに額から落ちていった。

 青年は木の椀にスープを注ぎ、私の前に置いた。
 手で示す。「熱い」
「……いただきます」
 椀を両手で包むと、指に戻ってくる温度に泣きそうになる。
 ひと口。
 塩は薄く、根菜の甘みがじんわり広がった。
 喉を通るたび、凍っていた身体の内側が少しずつ解けていく。
 もう一口。
 椀の縁に涙が落ちる音が、やけに大きく聞こえた。

「すみません」
 乱暴に拭って笑ってみせると、青年は首を横に振った。
 許す、という仕草に見えた。

「私、ミリアっていいます」
 偽名だと分かっていても、名乗ることは背骨を立てるみたいに心を支えてくれる。
「……あなたは」
 青年は少しだけ間を置き、短く言った。
「カイル」
 低い、掠れた声。雨で冷えたのだろうか。
 名前はそれだけ。説明はない。
 でも、今はそれで十分だった。

 火が落ち着き、雨音は相変わらず。
 カイルは棚から古い毛布を取り出し、私の肩へかけた。
 動きは丁寧で、でも過剰ではない。
 私は指先を毛布に沈め、深く息を吐く。
 安堵は、眠気を連れてくる。
 まぶたが重い。
 でも、眠ったら全部が壊れてしまいそうで、私は毛布の端を握りしめた。

「カイル」
 名前を呼ぶのは、まだ少し怖い。けれど、呼ばなければ、この温度が幻に戻ってしまいそうで。
「……私、明日も、ここにいていいですか」
 彼は火を見つめたまま、短く頷いた。
 それは「いい」でも「だめ」でもない、ただの頷きに見えた。
 でも、今の私には、それで十分だった。
 言葉少なさは、裏切りの多さと比例しない。
 彼の沈黙は、何かを隠すためではなく、余計なものを混ぜないための沈黙に見えた。

 火の匂い。
 雨の匂い。
 濡れた布の匂い。
 眠りの底から、母の声がまた呼ぶ。
 私は小さく首を振って、それを押し戻す。
 鍵の感触を胸で確かめ、毛布を顎まで引き上げた。

 ――私は失った。
 名も、家も、約束も。
 けれど、ここに一つ、火がある。
 それだけを抱えて、明日へ行く。
 カイルの背中は広く、彼の足音は静かで、火の温度は確かだ。
 身体の端が眠りに落ちる。
 意識の最後のほうで、私ははっきりと決めた。

 もう、誰も信じない。
 でも――この灯りは、しばらく借りる。
 そのあいだに、私の足を取り戻す。
 鍵を握って、真実へ歩く。
 雨は、夜を洗い流している。
 私の中の、まだ消えていない火種を残して。

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