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第2話 「失墜した令嬢」
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夜がほどけきる前に、私は橋を渡りきった。
東の空は白く、街の屋根がゆっくりと輪郭を取り戻す。橋の向こうは、城下の外れだった。石畳はいつの間にか土の道に変わり、露の下りた草が裾を濡らす。外套の内側で、革袋が胸に当たって冷たい。中には小さな鍵が一つ。父が隠した証の場所へ通じる、たった一つの道標だ。指で確かめるたび、心はぎゅっと現実へ戻された。
朝が来れば、追手はもっと増えるだろう。昼になれば、私の顔は「罪の家の娘」として街角に貼り出されるかもしれない。だから、人が多すぎて、逆に私が溶け込める場所へ向かうことにした。
――貧民街。
寂れた屋根が重なる、煙と湿気と、縄張りの目に満ちた場所。誰もが自分のことで手いっぱいで、他人の涙に構っている余裕なんてない。だからこそ、私は紛れられる。
午前の貧民街は、湿った布の匂いと煮込みの匂いが混じっていた。細い路地の真ん中に、泥水がゆっくり流れている。洗濯物が頭上のロープで重たく揺れ、開いた窓からは怒鳴り声と笑い声が交互にこぼれた。
歩くたびに視線が刺さる。外套の裾にはまだ良い布の名残があり、靴は街角の誰よりも上等だった。それでも、泥はそんなものをすぐ同じ色に染めてしまう。
「よう、いい服だな」
男の声が背中から降ってきた。振り返ると、髭面の男が樽の上に腰掛け、歯の隙間から煙を吐き出している。
「売るならここで買ってやるよ。半額以下でな」
「いらない」
短く返して歩く。
「気取ってるな、嬢ちゃん。どこのお姫様だ?」
笑いが路地に散った。
「お姫様? ほら見ろ、指輪はどうした、指は真っ赤だぞ」
「落ちぶれても品はある、ってやつか。なぁ、うちの店で皿洗いでもどうだ」
「いや、もっと稼げる仕事があんだろ」
笑いが濁る。足が止まりそうになる。
私は外套の前をきつく握った。喉に上がってくる言葉を、奥歯で砕いて飲み込む。
市場の端に、日雇いの斡旋小屋があるのを思い出す。身分証がなくても働かせる代わりに、日当は半分。そんな場所だ。
小屋の前は今日も行列で、疲れた人たちが壁にもたれている。私は列の最後尾に立った。
「次」
板の窓の向こうの女が、面倒そうに顔を上げる。
「名前は?」
「……ミリア」
初めて名乗る偽名は、少し舌に引っかかる。
「身分証は?」
「ない」
「保証人は?」
「いない」
女は鼻で笑った。
「じゃあ半日で一銅貨。掃除か荷運び。選べないけど、いい?」
「構わない」
「それと」女は窓の奥から木札を取り出し、机に叩きつけた。「ここに悪さしてるって噂の家があるんだよ。あんた、顔が似てるね。レオン何とか」
心臓が強く殴られた気がした。
「……関係ない」
「関係ないね。うちは関係ない人を使う。関係ある人は使わない。それだけ。分かった?」
「分かった」
「じゃ、裏の裏。臭い桶からだよ。逃げるなら今のうちに」
臭い桶――街の側溝から汲み上げた泥や残飯を捨て、磨く仕事。私は木札を握りしめ、裏手へ回った。
そこは、日差しが届かない狭い囲いだった。桶が幾つも並び、鼻につく酸の匂いが絡みつく。
「遅い!」
先に働いていた少年が怒鳴る。
「ごめんなさい」
「謝る暇があったら動いて。これ、あっち。こっちは洗う。手、切るなよ」
私は外套を脱ぎ、袖を捲った。指に油膜のような匂いがまとわりつく。手が動くたび、鍵が胸元で小さく当たって痛い。
汚れは、貴族の匂いを簡単に塗り替える。薄い皮膚に染みて、落ちにくい跡を残す。私は黙って桶を運び、擦り、捨て、また運ぶ。
日が昇り切るころには、手のひらの皮がふやけ、掌に小さな亀裂ができていた。そこへしみる酸っぱさで、視界が白くなる。
「水、飲む?」
少年が小さな皮袋を差し出す。
「ありがとう」
一口で喉が驚く。水はぬるく、でも確かに喉を通ってくれた。
「どこから来たの」
「向こうの橋から」
「ふーん。あんた、前は何してたの?」
「……皿の、並べ方を覚えてた」
「へんなの」少年は笑って、また桶に向き直る。「ここは皿より桶が多いから、慣れるといいよ」
午前が終わる頃、斡旋小屋の女が裏手を覗いた。
「今日のところは終わり。半日分、もらいに来な」
硬貨が二枚、掌に落ちた。軽すぎて、ほとんど重さを感じない。
パンひとつで消える重さ。
私は硬貨を握り直し、市場の端のパン屋へ向かった。
「一番固いのをください」
「あいよ。昨日の残りだ、安いよ」
石みたいな固さのパンが、紙包みで押し込まれる。
広場の隅でそれを齧ると、歯に響いた。顎が痛くなる。けれど、口の中に粉の甘さがほんの少し広がる。
通り過ぎる人たちが、ちらちらこちらを見る。
誰かが囁く。「ねえ、あれ、あの家の娘に似てない?」
「まさか。こんなとこでパン齧ってるわけないでしょ」
「でも髪の色が――」
「見なかったことにしなさいよ。関わると面倒だよ」
笑い混じりの声が、背骨のあたりに冷たく刺さる。
私は紙包みを膝で折り畳み、立ち上がった。
午後は別の小屋で荷運びをした。背丈より高い麻袋を抱え、汗と埃の中を何度も往復する。腰が抜けそうになったころ、空に薄い雲が湧き始め、風の色が変わった。
夕方の市場は、雨の匂いでざわつく。誰もが急いで店を閉め始め、捨てられる野菜の葉に雨粒が最初の音を立てた。
斡旋小屋で受け取った硬貨を数える。朝の二枚、午後の二枚。合計四枚。
宿の床一枚で三枚。明日の仕事に備えるには、雨露をしのがないといけない――頭の中で足し引きばかりしている自分が、ひどく情けなかった。
貧民街の端にある安宿は、湿った木の匂いがひどく、廊下は人の体温で蒸していた。
「一枚床、三枚」
カウンターのおばさんは、金を数えてから私を上から下まで見た。「服は盗まれないように気をつけな」
「……はい」
鍵だけは、離さない。革袋を服の内側、肌に密着するところへ縫い付ける。指先が震え、針が何度も皮膚をかすめた。
床に横になった途端、意識が途切れた。
夢の中で、屋敷が燃えていた。
母の声が階段の上から呼んでいて、行こうとすると足首に泥の手が絡みつく。泥は何度振り払ってもすぐ戻り、とうとう私の喉元まで来た。
息ができない――。
跳ね起きると、薄暗い部屋にざらついた息だけが響いていた。
夜の端が、窓の外に滲んでいた。
雨の音。
いつの間にか、降り出していた。
宿の床は、夜になると別の世界になる。
寝返りの音、低い咳、遠くの喧嘩声、女の笑い。
そして、盗む足音。
私は初めての夜をやり過ごす自信がなかった。
鍵を守るには、眠らないほうがいい。
でも、身体はもう限界で、瞼は重く、胸は冷たく、手足は鉛のようだ。
窓の外で雷が鳴り、すぐに雨が強くなる。
私は静かに起き上がり、外套を拾って部屋を出た。
外は、銀色の雨だった。
屋根から落ちる水が路地を川に変え、足首を一気に冷やす。
人通りはほとんどない。
巡回の兵の灯りだけが、濡れた壁に斑に揺れた。
私は宿を離れて歩いた。
どこへ?
とにかく、知らない顔に囲まれた閉じた場所より、雨のほうが安全に思えた。
鍵を濡らさないよう祈りながら、胸の布地を押さえる。
角を一つ曲がると、二人組の影が支柱の下に立っていた。
兵ではない。街の男たちの足取り。
彼らは私を見ると、互いに顎で合図した。
「ねえお嬢さん、雨宿りしない?」
「うちの屋根は広いよ。温かいスープもある」
声には笑いが混じっていたが、目は笑っていなかった。
私は首を振り、足を速めた。
「冷たいな。困ってるだろ? 助けてやるって言ってんのに」
手が腕に伸びてきた。
私は反射的に振りほどき、濡れた路地を駆け出す。
背中で笑い声が裂け、足音が増えた。
雨は容赦なく目を打ち、息はすぐに苦しくなる。
暗い路地、石段、ぬかるみ。
転びそうになりながら、私はとにかく前へ進んだ。
叫べば誰かが助ける?
この街では、誰も何も見ない。
ただ雨の音が、全部をかき消していく。
袋小路に突き当たり、私はやっと立ち止まった。
前は壁、右も左も壁。
背後で足音が止まる。
「行き止まりだ。偶然ってこわいね」
笑い声がまた近づいてくる。
私は壁に背中を貼りつけ、濡れた髪を払い、真っ直ぐ目を上げた。
「……来ないで」
「来るけど?」
一人が手を伸ばし、もう一人が回り込む。
その時だった。
雨の層の向こうから、別の足音がした。
重くない。静かで、柔らかい。
私の横を、黒い影がするりと通り過ぎた。
次の瞬間、男の手首がぐいと捻られる。
「いっ……!」
短い悲鳴。
もう一人が殴りかかるが、黒い影の肩が小さく動いただけで、男は足をすくわれ、水たまりに尻もちをつく。
「何だお前!」
返事はない。
影は私の前に立ち、わずかに腕を広げた。
雨の幕が、肩で割れて流れる。
二人は捨て台詞を吐いて走り去った。
残ったのは、雨と私と、その黒い影だけ。
目を凝らすと、影はフードを被った青年だった。
濡れた布の下、顎のラインが鋭い。
目は――暗くてよく見えない。
けれど、向けられた視線だけは、妙に静かだった。
「あの……ありがとう」
声が、震えていた。
青年は何も言わなかった。
かわりに、私の肩の位置まで膝を落とし、背中をこちらに向け――無言で促した。
「……え?」
背負え、ということ?
「大丈夫。歩ける」
そう言って一歩踏み出した瞬間、膝が水の中に崩れ落ちた。
身体が、もう限界なのだと、遅れて知る。
熱いのか寒いのか分からない震えが、腰から下を抜けていく。
気を張っていた分、切れた糸はあっけない。
青年は無言のまま、私の腕を肩に回し、軽々と持ち上げた。
背中は思ったより広く、温かかった。
雨の音が、背中の広さで遠のく。
彼は歩き出す。
足取りは一定で、急がないのに速い。
私は肩越しに路地の上を見た。
灰色の雨の向こうに、灯りがぽつぽつと滲んでいる。
「どこへ……」
問いは、雨に溶けた。
青年はやはり黙っている。
けれど、不思議と怖くなかった。
言葉より確かな、どこかの“基準”に沿って動いている人の足取り。
無闇に優しくもしないし、乱暴でもない。
ただ、必要なことだけを、必要な分だけ。
橋のそばを通った。
遠くで、兵の灯りが蜃気楼のように揺れる。
私は体を固くしたが、青年は路地の影を選び続け、灯りから灯りへ、濡れないように私の足を避けて歩いた。
雨樋の下を過ぎ、倉庫の壁を回り、低い塀を越え、最後に、屋根の低い古い小屋の前で足を止めた。
扉の隙間から、橙の灯りが溢れている。
庵、という言葉が似合う、小さな場所。
青年は片手で扉を押し開け、中へ入ると私をそっと下ろした。
床は乾いていて、藁が敷かれ、隅に小さな囲炉裏があった。
鍋からは湯気が上がっている。
雨音が遠くなった。
青年は濡れた外套を壁にかけ、火のそばにしゃがんで薪を足した。
火がぱち、と跳ねる。
顔がやっと見えた。
色の薄い瞳。
冷たいというより、静かな色。
目が合うと、彼はほんの少しだけ顎を下げた。挨拶のつもりなのかもしれない。
「……助けてくれて、ありがとう」
改めて頭を下げると、彼は棚から布を取り出し、無言で差し出した。
拭け、ということだ。
私は髪の水を拭い、外套を絞る。
彼は鍋の蓋を少しだけずらし、湯気と一緒に香りをこちらへ流してくれた。
根菜を崩した、優しい匂い。
胃の奥がきゅう、と縮む。
「あの……」
言いかけて、言葉が見つからない。
名前を名乗るべき?
でも、誰に。
この人は誰。
何をしている人。
私を、どうするつもり。
考えがいくつも浮かんでは、雨の滴みたいに額から落ちていった。
青年は木の椀にスープを注ぎ、私の前に置いた。
手で示す。「熱い」
「……いただきます」
椀を両手で包むと、指に戻ってくる温度に泣きそうになる。
ひと口。
塩は薄く、根菜の甘みがじんわり広がった。
喉を通るたび、凍っていた身体の内側が少しずつ解けていく。
もう一口。
椀の縁に涙が落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
「すみません」
乱暴に拭って笑ってみせると、青年は首を横に振った。
許す、という仕草に見えた。
「私、ミリアっていいます」
偽名だと分かっていても、名乗ることは背骨を立てるみたいに心を支えてくれる。
「……あなたは」
青年は少しだけ間を置き、短く言った。
「カイル」
低い、掠れた声。雨で冷えたのだろうか。
名前はそれだけ。説明はない。
でも、今はそれで十分だった。
火が落ち着き、雨音は相変わらず。
カイルは棚から古い毛布を取り出し、私の肩へかけた。
動きは丁寧で、でも過剰ではない。
私は指先を毛布に沈め、深く息を吐く。
安堵は、眠気を連れてくる。
まぶたが重い。
でも、眠ったら全部が壊れてしまいそうで、私は毛布の端を握りしめた。
「カイル」
名前を呼ぶのは、まだ少し怖い。けれど、呼ばなければ、この温度が幻に戻ってしまいそうで。
「……私、明日も、ここにいていいですか」
彼は火を見つめたまま、短く頷いた。
それは「いい」でも「だめ」でもない、ただの頷きに見えた。
でも、今の私には、それで十分だった。
言葉少なさは、裏切りの多さと比例しない。
彼の沈黙は、何かを隠すためではなく、余計なものを混ぜないための沈黙に見えた。
火の匂い。
雨の匂い。
濡れた布の匂い。
眠りの底から、母の声がまた呼ぶ。
私は小さく首を振って、それを押し戻す。
鍵の感触を胸で確かめ、毛布を顎まで引き上げた。
――私は失った。
名も、家も、約束も。
けれど、ここに一つ、火がある。
それだけを抱えて、明日へ行く。
カイルの背中は広く、彼の足音は静かで、火の温度は確かだ。
身体の端が眠りに落ちる。
意識の最後のほうで、私ははっきりと決めた。
もう、誰も信じない。
でも――この灯りは、しばらく借りる。
そのあいだに、私の足を取り戻す。
鍵を握って、真実へ歩く。
雨は、夜を洗い流している。
私の中の、まだ消えていない火種を残して。
東の空は白く、街の屋根がゆっくりと輪郭を取り戻す。橋の向こうは、城下の外れだった。石畳はいつの間にか土の道に変わり、露の下りた草が裾を濡らす。外套の内側で、革袋が胸に当たって冷たい。中には小さな鍵が一つ。父が隠した証の場所へ通じる、たった一つの道標だ。指で確かめるたび、心はぎゅっと現実へ戻された。
朝が来れば、追手はもっと増えるだろう。昼になれば、私の顔は「罪の家の娘」として街角に貼り出されるかもしれない。だから、人が多すぎて、逆に私が溶け込める場所へ向かうことにした。
――貧民街。
寂れた屋根が重なる、煙と湿気と、縄張りの目に満ちた場所。誰もが自分のことで手いっぱいで、他人の涙に構っている余裕なんてない。だからこそ、私は紛れられる。
午前の貧民街は、湿った布の匂いと煮込みの匂いが混じっていた。細い路地の真ん中に、泥水がゆっくり流れている。洗濯物が頭上のロープで重たく揺れ、開いた窓からは怒鳴り声と笑い声が交互にこぼれた。
歩くたびに視線が刺さる。外套の裾にはまだ良い布の名残があり、靴は街角の誰よりも上等だった。それでも、泥はそんなものをすぐ同じ色に染めてしまう。
「よう、いい服だな」
男の声が背中から降ってきた。振り返ると、髭面の男が樽の上に腰掛け、歯の隙間から煙を吐き出している。
「売るならここで買ってやるよ。半額以下でな」
「いらない」
短く返して歩く。
「気取ってるな、嬢ちゃん。どこのお姫様だ?」
笑いが路地に散った。
「お姫様? ほら見ろ、指輪はどうした、指は真っ赤だぞ」
「落ちぶれても品はある、ってやつか。なぁ、うちの店で皿洗いでもどうだ」
「いや、もっと稼げる仕事があんだろ」
笑いが濁る。足が止まりそうになる。
私は外套の前をきつく握った。喉に上がってくる言葉を、奥歯で砕いて飲み込む。
市場の端に、日雇いの斡旋小屋があるのを思い出す。身分証がなくても働かせる代わりに、日当は半分。そんな場所だ。
小屋の前は今日も行列で、疲れた人たちが壁にもたれている。私は列の最後尾に立った。
「次」
板の窓の向こうの女が、面倒そうに顔を上げる。
「名前は?」
「……ミリア」
初めて名乗る偽名は、少し舌に引っかかる。
「身分証は?」
「ない」
「保証人は?」
「いない」
女は鼻で笑った。
「じゃあ半日で一銅貨。掃除か荷運び。選べないけど、いい?」
「構わない」
「それと」女は窓の奥から木札を取り出し、机に叩きつけた。「ここに悪さしてるって噂の家があるんだよ。あんた、顔が似てるね。レオン何とか」
心臓が強く殴られた気がした。
「……関係ない」
「関係ないね。うちは関係ない人を使う。関係ある人は使わない。それだけ。分かった?」
「分かった」
「じゃ、裏の裏。臭い桶からだよ。逃げるなら今のうちに」
臭い桶――街の側溝から汲み上げた泥や残飯を捨て、磨く仕事。私は木札を握りしめ、裏手へ回った。
そこは、日差しが届かない狭い囲いだった。桶が幾つも並び、鼻につく酸の匂いが絡みつく。
「遅い!」
先に働いていた少年が怒鳴る。
「ごめんなさい」
「謝る暇があったら動いて。これ、あっち。こっちは洗う。手、切るなよ」
私は外套を脱ぎ、袖を捲った。指に油膜のような匂いがまとわりつく。手が動くたび、鍵が胸元で小さく当たって痛い。
汚れは、貴族の匂いを簡単に塗り替える。薄い皮膚に染みて、落ちにくい跡を残す。私は黙って桶を運び、擦り、捨て、また運ぶ。
日が昇り切るころには、手のひらの皮がふやけ、掌に小さな亀裂ができていた。そこへしみる酸っぱさで、視界が白くなる。
「水、飲む?」
少年が小さな皮袋を差し出す。
「ありがとう」
一口で喉が驚く。水はぬるく、でも確かに喉を通ってくれた。
「どこから来たの」
「向こうの橋から」
「ふーん。あんた、前は何してたの?」
「……皿の、並べ方を覚えてた」
「へんなの」少年は笑って、また桶に向き直る。「ここは皿より桶が多いから、慣れるといいよ」
午前が終わる頃、斡旋小屋の女が裏手を覗いた。
「今日のところは終わり。半日分、もらいに来な」
硬貨が二枚、掌に落ちた。軽すぎて、ほとんど重さを感じない。
パンひとつで消える重さ。
私は硬貨を握り直し、市場の端のパン屋へ向かった。
「一番固いのをください」
「あいよ。昨日の残りだ、安いよ」
石みたいな固さのパンが、紙包みで押し込まれる。
広場の隅でそれを齧ると、歯に響いた。顎が痛くなる。けれど、口の中に粉の甘さがほんの少し広がる。
通り過ぎる人たちが、ちらちらこちらを見る。
誰かが囁く。「ねえ、あれ、あの家の娘に似てない?」
「まさか。こんなとこでパン齧ってるわけないでしょ」
「でも髪の色が――」
「見なかったことにしなさいよ。関わると面倒だよ」
笑い混じりの声が、背骨のあたりに冷たく刺さる。
私は紙包みを膝で折り畳み、立ち上がった。
午後は別の小屋で荷運びをした。背丈より高い麻袋を抱え、汗と埃の中を何度も往復する。腰が抜けそうになったころ、空に薄い雲が湧き始め、風の色が変わった。
夕方の市場は、雨の匂いでざわつく。誰もが急いで店を閉め始め、捨てられる野菜の葉に雨粒が最初の音を立てた。
斡旋小屋で受け取った硬貨を数える。朝の二枚、午後の二枚。合計四枚。
宿の床一枚で三枚。明日の仕事に備えるには、雨露をしのがないといけない――頭の中で足し引きばかりしている自分が、ひどく情けなかった。
貧民街の端にある安宿は、湿った木の匂いがひどく、廊下は人の体温で蒸していた。
「一枚床、三枚」
カウンターのおばさんは、金を数えてから私を上から下まで見た。「服は盗まれないように気をつけな」
「……はい」
鍵だけは、離さない。革袋を服の内側、肌に密着するところへ縫い付ける。指先が震え、針が何度も皮膚をかすめた。
床に横になった途端、意識が途切れた。
夢の中で、屋敷が燃えていた。
母の声が階段の上から呼んでいて、行こうとすると足首に泥の手が絡みつく。泥は何度振り払ってもすぐ戻り、とうとう私の喉元まで来た。
息ができない――。
跳ね起きると、薄暗い部屋にざらついた息だけが響いていた。
夜の端が、窓の外に滲んでいた。
雨の音。
いつの間にか、降り出していた。
宿の床は、夜になると別の世界になる。
寝返りの音、低い咳、遠くの喧嘩声、女の笑い。
そして、盗む足音。
私は初めての夜をやり過ごす自信がなかった。
鍵を守るには、眠らないほうがいい。
でも、身体はもう限界で、瞼は重く、胸は冷たく、手足は鉛のようだ。
窓の外で雷が鳴り、すぐに雨が強くなる。
私は静かに起き上がり、外套を拾って部屋を出た。
外は、銀色の雨だった。
屋根から落ちる水が路地を川に変え、足首を一気に冷やす。
人通りはほとんどない。
巡回の兵の灯りだけが、濡れた壁に斑に揺れた。
私は宿を離れて歩いた。
どこへ?
とにかく、知らない顔に囲まれた閉じた場所より、雨のほうが安全に思えた。
鍵を濡らさないよう祈りながら、胸の布地を押さえる。
角を一つ曲がると、二人組の影が支柱の下に立っていた。
兵ではない。街の男たちの足取り。
彼らは私を見ると、互いに顎で合図した。
「ねえお嬢さん、雨宿りしない?」
「うちの屋根は広いよ。温かいスープもある」
声には笑いが混じっていたが、目は笑っていなかった。
私は首を振り、足を速めた。
「冷たいな。困ってるだろ? 助けてやるって言ってんのに」
手が腕に伸びてきた。
私は反射的に振りほどき、濡れた路地を駆け出す。
背中で笑い声が裂け、足音が増えた。
雨は容赦なく目を打ち、息はすぐに苦しくなる。
暗い路地、石段、ぬかるみ。
転びそうになりながら、私はとにかく前へ進んだ。
叫べば誰かが助ける?
この街では、誰も何も見ない。
ただ雨の音が、全部をかき消していく。
袋小路に突き当たり、私はやっと立ち止まった。
前は壁、右も左も壁。
背後で足音が止まる。
「行き止まりだ。偶然ってこわいね」
笑い声がまた近づいてくる。
私は壁に背中を貼りつけ、濡れた髪を払い、真っ直ぐ目を上げた。
「……来ないで」
「来るけど?」
一人が手を伸ばし、もう一人が回り込む。
その時だった。
雨の層の向こうから、別の足音がした。
重くない。静かで、柔らかい。
私の横を、黒い影がするりと通り過ぎた。
次の瞬間、男の手首がぐいと捻られる。
「いっ……!」
短い悲鳴。
もう一人が殴りかかるが、黒い影の肩が小さく動いただけで、男は足をすくわれ、水たまりに尻もちをつく。
「何だお前!」
返事はない。
影は私の前に立ち、わずかに腕を広げた。
雨の幕が、肩で割れて流れる。
二人は捨て台詞を吐いて走り去った。
残ったのは、雨と私と、その黒い影だけ。
目を凝らすと、影はフードを被った青年だった。
濡れた布の下、顎のラインが鋭い。
目は――暗くてよく見えない。
けれど、向けられた視線だけは、妙に静かだった。
「あの……ありがとう」
声が、震えていた。
青年は何も言わなかった。
かわりに、私の肩の位置まで膝を落とし、背中をこちらに向け――無言で促した。
「……え?」
背負え、ということ?
「大丈夫。歩ける」
そう言って一歩踏み出した瞬間、膝が水の中に崩れ落ちた。
身体が、もう限界なのだと、遅れて知る。
熱いのか寒いのか分からない震えが、腰から下を抜けていく。
気を張っていた分、切れた糸はあっけない。
青年は無言のまま、私の腕を肩に回し、軽々と持ち上げた。
背中は思ったより広く、温かかった。
雨の音が、背中の広さで遠のく。
彼は歩き出す。
足取りは一定で、急がないのに速い。
私は肩越しに路地の上を見た。
灰色の雨の向こうに、灯りがぽつぽつと滲んでいる。
「どこへ……」
問いは、雨に溶けた。
青年はやはり黙っている。
けれど、不思議と怖くなかった。
言葉より確かな、どこかの“基準”に沿って動いている人の足取り。
無闇に優しくもしないし、乱暴でもない。
ただ、必要なことだけを、必要な分だけ。
橋のそばを通った。
遠くで、兵の灯りが蜃気楼のように揺れる。
私は体を固くしたが、青年は路地の影を選び続け、灯りから灯りへ、濡れないように私の足を避けて歩いた。
雨樋の下を過ぎ、倉庫の壁を回り、低い塀を越え、最後に、屋根の低い古い小屋の前で足を止めた。
扉の隙間から、橙の灯りが溢れている。
庵、という言葉が似合う、小さな場所。
青年は片手で扉を押し開け、中へ入ると私をそっと下ろした。
床は乾いていて、藁が敷かれ、隅に小さな囲炉裏があった。
鍋からは湯気が上がっている。
雨音が遠くなった。
青年は濡れた外套を壁にかけ、火のそばにしゃがんで薪を足した。
火がぱち、と跳ねる。
顔がやっと見えた。
色の薄い瞳。
冷たいというより、静かな色。
目が合うと、彼はほんの少しだけ顎を下げた。挨拶のつもりなのかもしれない。
「……助けてくれて、ありがとう」
改めて頭を下げると、彼は棚から布を取り出し、無言で差し出した。
拭け、ということだ。
私は髪の水を拭い、外套を絞る。
彼は鍋の蓋を少しだけずらし、湯気と一緒に香りをこちらへ流してくれた。
根菜を崩した、優しい匂い。
胃の奥がきゅう、と縮む。
「あの……」
言いかけて、言葉が見つからない。
名前を名乗るべき?
でも、誰に。
この人は誰。
何をしている人。
私を、どうするつもり。
考えがいくつも浮かんでは、雨の滴みたいに額から落ちていった。
青年は木の椀にスープを注ぎ、私の前に置いた。
手で示す。「熱い」
「……いただきます」
椀を両手で包むと、指に戻ってくる温度に泣きそうになる。
ひと口。
塩は薄く、根菜の甘みがじんわり広がった。
喉を通るたび、凍っていた身体の内側が少しずつ解けていく。
もう一口。
椀の縁に涙が落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
「すみません」
乱暴に拭って笑ってみせると、青年は首を横に振った。
許す、という仕草に見えた。
「私、ミリアっていいます」
偽名だと分かっていても、名乗ることは背骨を立てるみたいに心を支えてくれる。
「……あなたは」
青年は少しだけ間を置き、短く言った。
「カイル」
低い、掠れた声。雨で冷えたのだろうか。
名前はそれだけ。説明はない。
でも、今はそれで十分だった。
火が落ち着き、雨音は相変わらず。
カイルは棚から古い毛布を取り出し、私の肩へかけた。
動きは丁寧で、でも過剰ではない。
私は指先を毛布に沈め、深く息を吐く。
安堵は、眠気を連れてくる。
まぶたが重い。
でも、眠ったら全部が壊れてしまいそうで、私は毛布の端を握りしめた。
「カイル」
名前を呼ぶのは、まだ少し怖い。けれど、呼ばなければ、この温度が幻に戻ってしまいそうで。
「……私、明日も、ここにいていいですか」
彼は火を見つめたまま、短く頷いた。
それは「いい」でも「だめ」でもない、ただの頷きに見えた。
でも、今の私には、それで十分だった。
言葉少なさは、裏切りの多さと比例しない。
彼の沈黙は、何かを隠すためではなく、余計なものを混ぜないための沈黙に見えた。
火の匂い。
雨の匂い。
濡れた布の匂い。
眠りの底から、母の声がまた呼ぶ。
私は小さく首を振って、それを押し戻す。
鍵の感触を胸で確かめ、毛布を顎まで引き上げた。
――私は失った。
名も、家も、約束も。
けれど、ここに一つ、火がある。
それだけを抱えて、明日へ行く。
カイルの背中は広く、彼の足音は静かで、火の温度は確かだ。
身体の端が眠りに落ちる。
意識の最後のほうで、私ははっきりと決めた。
もう、誰も信じない。
でも――この灯りは、しばらく借りる。
そのあいだに、私の足を取り戻す。
鍵を握って、真実へ歩く。
雨は、夜を洗い流している。
私の中の、まだ消えていない火種を残して。
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