悪役令嬢?ええ、喜んで地獄の底から幸せを掴みますけど何か?

タマ マコト

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第14話 燃える幕、崩れる祈り

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 最初の火は、音から始まった。
 火打石が石の歯で空気を噛む、低い金属の歌。次に、絹が息を吸ってから放つ細い悲鳴——すう、と、燃える前の吸気。その一拍後、炎は咲いた。花の形で、舞台袖から。蜂の巣の灯りを真似しながら、もっと原始的で、論理のない明るさで。

 誰かが息を飲み、誰かが笑い、それから誰もが叫んだ。
 悲鳴は高音、笑いは裏返り、破滅のアリアが階段を駆け下りて来る。紙の扇が火に驚いて閉じ、羽根の扇が火を増やしてしまう。「やめて!」という声は風を作る。風は炎の味方だ。

 絹は軽い。軽さは罪になり、罰になり、よく燃える。
 装花の蔓が導火線になり、吊り幕の縁が焦げ、蜜のように光っていた蜂の巣は、今度は蜂の巣そのもの——巣穴から火の蜂が出てくるみたいに、光をばら撒く。床板の目地は乾いていて、油の記憶を持っていて、火がそれを読み取って走る。

 私は深く息を吸わない。吸ったら負ける。銀糸のハンカチを口と鼻に押し当てる。境界はまだ歌わない。無臭の毒ではない。これはもっと単純で、もっと遅い殺し。煙は上へ行く。ならば、私は低く。膝を抜き、視線を下げ、足音を薄く。

 「こちらへ!」という声が幾つも重なり、全てが虚偽になる。
 給仕は訓練されていない撤退を試み、貴族は訓練され過ぎた退避路に殺到し、楽師は楽器を抱いたまま立ち尽くす。
 視界の端で、ダミアンが三歩ずつ人の流れを変えるのが見えた。護衛の肩を叩き、横腹を小突き、廊下への出入口を一つ狭め、一つ広げる。彼は火の理屈を知っている。火は風を食う。風は狭いところで早くなる。だから、狭めすぎない。だから、動かしすぎない。だから、彼は生き残る。

 高座の上、私は紅の裾をつまみ、視線でリリアーヌを探した。いた。炎の縁、白の中に白。彼女は動かない。動けないのではない。動かないことを、選んでいる。祈りのように。いや、祈っているのだ。祈りは、時に炎より危険だ。燃え尽きた後にも形を残すから。

 私は段を降り、彼女と炎との境に、立つ。熱は頬を叩き、まつげを焼き、銀糸の端がほんの少し縮む。炭の匂い、絹の甘い焦げ、花瓶が割れる湿った音。そこに、微かに、倉庫の水の匂いが残っている。今夜の奇跡の水が、ここでもまだ、役割を求めている。滑稽だ、と私は思う。役割に殉じる水。役割に救われたい人々。

 「離れて」
 私は言う。
 リリアーヌは首だけわずかに振る。扇はもう持っていない。素手。爪がきれい。祈りのためではなく、見られるための爪。

 「あなたが欲しかったのは愛じゃない、権威よ」

 言葉は刃ではない。切れ味を保った布だ。今、私はそれで彼女の肩を包み、同時に切る。
 彼女は瞬きを一度。それから、ゆっくりと笑った。笑いは美しい。美しさは最後の抵抗。

 「あなたが一番憎い」

 爪が私の腕に立つ。火の熱で膨張した皮膚に、冷たい線が引かれる。赤が滲む。痛みは正直だ。正直は、役に立つ。

 「なら、よく見て。あなたの世界が崩れる瞬間を」

 囁くと、彼女の耳の薄い軟骨が震えた。炎の縁で音はよく通る。熱で膨張した空気は、語を甘くし、子音を鋭くする。彼女の瞳が、初めて焦点を失う。焦点を失う目は、世界を失う。

 背後で、吊り幕が落ちた。
 蜂の巣が潰れ、シャンデリアの金具が鳴り、鎖が軋む。誰かが笑い、誰かが泣く。笑いは恐怖の子供、泣きは怒りの母。悲鳴は両方の言葉を喋る。

 「退避路!」とダミアンの声が飛ぶ。「中央階段を使うな、横へ——横だ!」
 「横?」と誰かが反射的に聞き返す。「横ってどこ!」
 「音の低いところ!」
 彼の言う通り、火は高く鳴る。低く鳴るのはまだ乾いていない板。そこが生きている道だ。私は足の裏で音を測り、リリアーヌの手首をつかみ、引く。彼女は抵抗の形だけ作る。抵抗の中身は、もう空だ。空虚が重い。

 「触るな」
 吐き捨てる声。けれど、彼女の体は私の方向へ動く。自分で動いたと思いたい。そう思わせるのも、私の仕事。

 「見て」
 私は指で示す。
 聖具の陳列台が倒れ、金の十字が床で跳ね、献金箱が割れて硬貨が散る。硬貨は火に溶けない。紙は溶ける。祈りは燃える。権威は割れる。
 「あなたが守ってきたのは、これ。——形。形は火に弱い」

 「違う」彼女は喉を掠れさせる。「私が守ってきたのは、人の希望」

 「希望は、形にされると腐る」

 彼女の指が、私の手首から滑り落ちる。汗が出ているのだ。火の汗。彼女の額にも汗。化粧が崩れ、頬の白が皮膚の色に戻る。皮膚の色は、いい。人間の色だ。
 「あなたは——」彼女は言って、続けない。言葉が燃える。言葉は水が好きだ。今、ここには水が足りない。

 火は、彼女の“正しさ”を焼かない。火が焼くのは、繕いだ。正しさの上に塗り重ねた薄い糖衣。私はその匂いを嗅ぐ。甘く、焦げて、子どもの頃の台所に似ている。母が鍋で砂糖を焦がし、私の指にほんの少し乗せて、「焦げは香り、香りは記憶」と笑っていた日の匂い。

 「行くわよ」
 私はリリアーヌの肩を押す。彼女は今度、素直に動く。
 「どこへ」
 「舞台の裏。横の扉。風が弱い」
 「なぜ教えるの」
「あなたが、まだ人間だから」

 その答えに、彼女は一瞬だけ目を見張り、すぐに笑う。笑いは意地悪で、美しい。「あなたの慈善は、汚れてる」

 「慈善じゃない。設計」

 通路へ滑り込む。煙は濃く、しかしまだ低い。壁を伝う熱が、指に刺のように触れる。遠くで柱が割れ、近くで扉の蝶番が鳴く。楽師の弓が床で折れ、衣装係の針が裸足の足裏に刺さらないよう祈って、私は右に曲がる。
 「左は?」とリリアーヌ。
 「左は信仰。今は右へ。右は現実」

 扉を蹴る。冷たい空気。裏庭の石。夜の湿り。遠くで鐘。三年前の断罪の夜の鐘と、少しだけ音程が違う。
 彼女を外へ押しやり、私は正面に戻る。
 「来ないの?」
 彼女が振り返る。瞳はもう白くない。灰。
 「まだ、舞台の上」

 リリアーヌは口を開き、「あなた——」まで言って、また、黙る。言葉の終わりを彼女は持てない。持てない終わりは、火が持っていく。私は背を向ける。
 背を向けた時だけ、手が震える。震えは、通電の証拠。私は、まだ生きている。

 広間に戻る。火は天井を食い破り、シャンデリアの鎖が耐え、耐え、ついに降りた。落ちる音は美しい。金の音、ガラスの雨、叫びの和音。
 床の中央で、新聞社の下働きが紙束を抱え、泣きながら笑っている。紙は火に弱い。けれど、火は紙を覚える。燃えカスに文字の骨が残る。
 「持って走れ」
 私は言う。
 「どこへ」
 「どこでも。朝があるほう」
 彼は頷き、灰を蹴って飛び出した。灰は雪みたいに舞い、口に入ると苦い。苦さは正直だ。正直は、やっぱり役に立つ。

 ダミアンの影が、火の向こうで振り向く。目だけで私を確かめ、指で“まだ”を示す。まだ、終わっていない。分かっている。終わりは、私が選ぶ。
 「セラ!」
 彼が叫び、私は一瞬だけ遅れて振り返る。
 火が道を変えた。
 天井の梁が、片方だけ先に落ちる。
 床が、吸い込むように沈む。
 私は片足を取られ、胸に石の拳をもらい、視界が一度だけ白くなる。
 銀糸のハンカチが離れ、煙が喉に入る。咳が出る。咳は生の証拠。生は痛い。

 腕が、私を抱いた。
 力は静かで、速い。
 ダミアンだ。
 「離れて」
 言いながら、彼は離れない。離れないように抱く。
 「重い?」
 「軽い」
 「嘘」
 「嘘だ。重い」
 会話は息継ぎ。息継ぎは音楽。今、破滅のアリアの合間に、私たちは自分の曲を挟む。

 「外に道を作る」
 彼はそう言って、肩で扉を割り、肘で男の胸を押し、膝で落ちた幕を蹴り上げる。動作は簡潔で、痛みは後回し。血の匂いがする。彼の血か、誰かの血か。確かめない。確かめるのは、朝の仕事。

 裏庭。冷気。空。
 私は肺に夜を入れ、咳で吐き戻す。夜は一度で入らない。二度、三度。
 「ノワールを回せ!」とダミアンが叫ぶ。「裏門を開けろ、群衆は東へ流す、橋は封鎖、子どもと老人は北の広場だ!」
 返事が走る。影が動く。網が広がる。《ノワール》の夜の手。
 舞踏会の外で、もう別の舞台が組まれている。市門、路地、橋。
 私はそれを見届けたい。
 でも、まだ、だ。
 まだ、舞台の上に残っている“ひとつ”がある。
 ——火を、権威に触れさせる最後の導線。
 私はダミアンの腕からわずかに身をずらし、彼の耳に低く言う。

 「戻る」
 「却下だ」
 「最後の一押し」
 「僕がやる」
 「あなたは生かす。私は、落とす」
 目が合う。彼は短く舌打ちし、笑わない笑いで頷いた。「三十心拍」
 「二十で足りる」
 「嘘つき」
 「商人だから」

 私は踵を返し、炎の縁へ戻る。
 庭から見える宮殿の翼廊、その足元に火がまとわりつき、窓という窓が鏡だった記憶を失う。ガラスが割れ、空が写る。空は、無関心で、救いだ。
 広間の片隅、まだ立っている旗竿に、白い布。あれは“祝福”の布。王の言葉の飾り。
 私は布を引き裂き、火の縁に投げる。
 白が、最初に薄い黄色になり、次に褐色になり、最後に黒に溶ける。
 「見た?」
 私は誰にともなく言う。
 「祝福は、燃える」

 背中に手。
 私を後ろからひっさらう腕。
 ダミアンだ。二十も数えていない。嘘つきは彼のほう。
 「十分だ」
「足りない」
 「君が足りないときは、世界が補う」
 「雑い慰め」
 「僕は慰めを商っていない」

 外に出る。空が一段明るい。火が空を明るくする。愚かで、まぶしい。
 遠くで鐘。今度ははっきり、三年前の音程に重なる。断罪の鐘は、今日の崩落に似合う。
 私は笑う。涙ではなく、笑い。喉の奥で、焦げに似た音。
 「美しい前奏ね」
 ダミアンが横目で私を見て、口の端だけ上げる。「悪趣味」
 「悪役だから」

 裾の灰を払う間にも、街は目を開けていく。火の色は宮殿の輪郭を塗り替え、路地の影は膨らみ、囁きが叫びに変わる。
 《ノワール》の影が走り、裏門の閂に手をかける。
 私は胸の中で母の遺書を思い、銀糸の端を指で整え、深く息を吸う。
 ——次は街だ。
 ——炎を怒りにせず、出口にする。
 ダミアンの肩越しに、私はもう一度だけ振り返る。
 白い世界が、灰の世界に変わる瞬間。
 愛ではなく、権威だった顔が、焼け跡の前で、人間の顔に戻る瞬間。
 私の物語は、ここで一度、息を継ぐ。
 そして、次の幕で走り出す。

 破滅のアリアが遠ざかり、街の鼓動が前に出る。
 私は笑い、火の粉を舌で確かめ、囁く。
 「——幕は、まだ上がっている」
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