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第17話 港のブリューオフ
しおりを挟む朝いちの港は、妙に背筋が伸びていた。潮の匂いは元気、風はすこし塩辛い、カモメは今日だけプロデューサー顔。屋台の骨組みがならび、旗がリハの拍をとる。あの濃紺の天幕——《王都式ロイヤルブリュー》も、端正に立っている。向かい合う形。今日は“リベンジ”。課題はただひとつ——“町の味”。
「よし、段取り最終確認」
私は指を折る。氷桶、ミント、柑橘、抽出器具、トニック、ピール、そして——小瓶。朝市のおじいにもらった、ほんのひとつまみの海の塩。紙に包まれているだけなのに、妙に存在感がある。
「合言葉、どうぞ」
「焼け。分けよ。笑え。逃げ場を作れ」
エマが即答。今日は焼き菓子の仕込みを最小限にして、私は抽出に集中、バルドは水と温度の守り。レオンは「宣伝は……」と口にしかけて、私の目を見て「防波堤、今日も出勤」と言い直す。学習、よし。
開幕の笛。観客が波のように押し寄せ、審査員席の三人が座る。商工組合の人、町医者、そして——朝市のおじい。目が鋭く、笑うと若い。私の胸がきゅっとなる。この人に「うまい」と言わせたい。それだけでもう十分なのに、今日は勝負。
「ルール確認。テーマは“町の味”。抽出自由。持ち込み可。ただし『ひと口で町がわかること』」
司会の声が海風にのって軽くなる。向かいの“元宮廷バリスタ在籍”の彼が、こちらに会釈。私も軽く頭を下げる。前回、彼は彼で“王都の香り”を見事に出していた。今日は彼もきっと“港”を掴みに来るはず。
「うちは、これでいく」
私は小瓶をエマに見せる。海の塩。朝、市場の奥でおじいが手のひらで渡してくれたやつ。「審査で使いな」と言われたとき、心がふわっと浮いた。「潮の匂いは、砂糖が好きだぞ」と、あの目が笑った。
「名前、決めよ。“港の——”」
「“ひとくち波”」
「エモい。採用」
バルドが水のタンクに触れ、「温度、今日の風に合わせる」と言う。彼の指がバルブの角度をわずかに変える。水は、火を怒らせず、粉を喜ばせ、泡に芯を通す。導線は、もう体に入ってる。
——開始。
ロイヤル側は、最初から美しい。挽目は均一、湯の落としは静か、香りは立ち上がりが高い。グラスの薄さ選びから温度の置き方まで、全部が“正解”。彼らは海藻由来の糖を少量混ぜ、香りに“潮の甘み”を乗せてきた。うん、やっぱり上手い。観客が「ほー」と息を吸う。
「こっち、始める」
私は粉の様子を見て、ショットを落とす。今日の浅さは、昨日よりほんの一滴だけ深い。炭酸は後付けじゃなく併走。そこに、シロップ。柑橘の皮で香りを立てた自家製を、指先で計りながら——小瓶を開ける。ひと粒だけ。指の腹に貼り付いた海の小さな星を、シロップに落とす。
「潮の匂いと、朝の風を入れます」
声にして、自分の耳に渡す。塩は、甘みの輪郭を出す。輪郭が出ると、炭酸の泡が一本筋を持つ。筋を持つと、香りが“港”を通る。理屈じゃなく、嗅覚の地図。朝のアーチをくぐった時の、あの空気の張り。トロ箱に光る氷の粒。魚の瞳がまだ海に繋がっている感じ。ぜんぶ、ひと粒で呼び戻す。
「ピール、厚め。ミント、後ろ」
「了解」
エマの手が柑橘の皮を踊らせ、バルドの手がグラスに白い息を入れすぎないよう温度を舵取る。私はトニックを沿わせ、ショットを滑らせ、シロップの線を通し、指でグラスの縁を軽く叩く。音は“港の音頭”。最後に——ほんの小さく、塩の星を上に。
「“ひとくち波”、一本目」
審査員の前へ。三つのグラス。色は薄い褐色に明るい泡、縁に光るピール。香りは柑橘から始まって、途中から塩が引き締め、最後にミントが向こう側へ抜ける。商工の人が目を丸くし、町医者が鼻でゆっくり笑う。おじいは——眉が、ほどけた。
「……うん。港、入ってる」
言い方が簡単で、だからこそ重い。私は肩の力を半拍だけ緩め、視線を観客へ滑らせる。港の人たちが、ちいさく頷く。その頷きの連鎖が、波みたいに広がる。子どもが「ぎょぎょ!」と場違いな魚語を叫び、笑いが立つ。よし、空気はこっち側に来てる。
向かいのロイヤルは、二杯目で攻め方を変えてきた。サイフォンで立ち上げた香りを氷で急冷、そこに海の風を思わせるハーブを微量——たぶんセイヨウノコギリソウ、いや違う、もっと繊細なやつ。口に入ると、香りがくるりと回って上品に収束する。王都の“海の再現”。すごい。観客から素直な拍手。敵ながら惚れる。
「三杯目、どうする」
「風、増量。塩は足さない。代わりに——港の音」
「音?」
「氷、砕かないで“揺り起こす”。音が変わる」
私はグラスの中の氷をスプーンで“眠たくしない程度に”揺らし、粉の表情を見て、湯をほんの少し高い位置から落として“空気”を混ぜる。音が、ひとつ上にあがる。そこへシロップ、塩の余韻の後ろを通るように薄い線をつくる。ミントは最後、ピールは鼻先にだけ触れるように。港の風が窓を押す感じ——「押す」「引く」「諦めない」。嵐の日に覚えた、あのリズムを、今日は穏やかに。
「“ひとくち波”、三杯目」
おじいが手を挙げる。「順番、俺が最後でいいか」。審査員の均衡に、少しの遊び。商工の人が笑って譲り、町医者が先に一口。「この塩、いい。心拍が落ちる」。医者語、好き。商工の人が二口目で「港の観光ポスターにしたい」と照れた褒め方。最後におじいが、細い目でこちらを見てから、一口。
風が、止まった。いや、止まって聞こえなくなったのは私の心臓かもしれない。おじいは息を鼻で出し、もう一口ゆっくり飲み、舌の上で“町”をひとつ転がしてから、グラスを置いた。
「——港の味は、こっちだな」
その一言で、背中のなにかがほどけた。観客の拍手は派手じゃないのに、体の芯まで届く。エマが焼き台の影から親指を立て、バルドの耳が一ミリ動き、レオンが防波堤の役を一瞬忘れて嬉しそうに両手を打った。太鼓の“休符”に、きれいな音が入るみたいに。
集計。司会がプレートを掲げる。——結果は、僅差。準優勝。トロフィーは向こうに渡る。拍手。ロイヤルの彼は真っ直ぐこちらへ歩いてきて、手を差し出した。
「今日は、あなた方の“町”が勝った」
「公式は、そちら」
「トロフィーは、金属です。言葉は、港です」
彼の言い方が、少し港のクセになっていて、可笑しくて、好きになりそうで、私は笑った。「またやろう」と言うと、「今度はうちの“常連の舌”を連れてくる」と返ってくる。うん、そういう戦い方、楽しい。
終わったあと、屋台の片付けをしながら、私は塩の小瓶をもう一度見た。朝市の匂い。氷の光。魚の目。おじいの手。小瓶の底に、ひと粒だけ残っている。明日に取っておく。明日も“港の味”を出すために。
「トロフィー、見せて」
ミナが覗き込み、私の空っぽの手を見て、口をとがらせる。「ないの?」
「うちは、“おじいの一言”がトロフィー」
「それ、食べられない」
「代わりに、猫のひげ一本増量」
「勝ち」
彼女は満足げに頷き、紙コップの猫の耳を今日だけ豪華にしてもらって、走って行った。エマが肩を回し、バルドが蛇口に「昼」と「勝負」を両方挨拶し、レオンが横で拍手の続きを小さくしながら、へへ、と笑う。
「準優勝、どう?」
「美味しい二位。うち、そういうの得意」
「一位、取れなくて悔しくない?」
「ちょっと。でも、“港の味はこっちだな”は、肩にかけるタオルみたいに効く。汗、すぐ拭える」
「タオル、砂糖の匂いする」
「する」
私は黒板の端に小さく書く。〈今日の標語:ひとくちで町を入れる〉。チョークの粉が指に付く。指をこすり合わせると、白が消えて木の色に戻る。混ざるのが、今日の気分。
「丸と三角、どう置く?」
エマの声に、私は帳面を開く。今日のリズムを言葉に変える。
——ブリューオフ“町の味”、準優勝:丸。
——おじいの一言、トロフィー超え:二重丸。
——塩一粒の設計、成功:丸。
——ロイヤルの進化、良い刺激:丸+矢印(次回)。
——レオン、防波堤+拍手、タイミング良:丸。
——学び:港の音は“押す・引く・諦めない”、抽出に翻訳可能、太字。
——課題:常温塩シロップの安定化、湿度管理、△→試作。
「それと——」
私は小瓶を掲げて三人に見せる。
「この塩、店の“神棚”に置いとく。蛇口の横、チーズケーキの反対側。真ん中は、湯気」
「三柱」
「三柱」
バルドが真顔で頷き、エマが「塩の神様、甘いのと仲良くしてね」と笑う。レオンは「宣伝じゃないけど、今日の拍手、気持ちよかった」と耳まで赤い。私は看板を撫でて、港の風を胸いっぱい吸い込んだ。
「うち、次は“常連ブリューオフ”でもする?」
「誰が審査員?」
「ミナ、おじい、パン屋、蛇口」
「蛇口、しゃべる?」
「バルド経由で通訳」
「任せろ」
笑い声が、潮の匂いに混ざって空へ行く。夕方の光が少し金色を増やし、トロフィーの銀より、塩の小瓶の中の白の方が綺麗に見えた。準優勝の紙は風で揺れ、黒板の“ひとくちで町を入れる”が、店の梁にゆっくり吸い込まれていく。
結果は準優勝。だけど、港の真ん中で——
「港の味はこっちだな」
その一言が、今日の私たちの胸に、音のいいメダルみたいに下がった。音は軽いのに、重さはちょうどいい。私はその重さを確かめるように、ミルクピッチャーの縁を指で叩いた。音が、港の音頭の拍とぴったり合った。
明日も、この拍で淹れよう。潮の匂いと、朝の風をひとくちに。
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