追放されたヒロインですが、今はカフェ店長してます〜元婚約者が毎日通ってくるのやめてください〜

タマ マコト

文字の大きさ
19 / 20

第19話 告白と境界線

しおりを挟む


 閉店の鍵を回したあと、港のベンチはいつもより低く座っているように見えた。潮は穏やか、波の端だけが白く笑い、遠くの灯台が規則正しく瞬きをする。風は優しい。言葉は、重い。私はエプロンをたたんで膝に置き、ひとつ深呼吸。湯気の残り香がまだ喉の奥に潜んでいて、今、言葉を温めたり冷やしたりできる気がした。

 レオンが隣に座った。距離は、掌いちまい。港のルール。彼は空を見上げ、肩を一度上げて、落とし、胸に空気を満たす音をわざと聞かせるみたいに——深呼吸。

「……君が好きだ」

 最初の四音が風に溶け、残りの三音が私の耳に届くまで、世界は思いのほか広かった。私はベンチの木目を指で撫で、返事の前に沈黙を一杯、満たす。彼は逃げなかった。私も逃げない。

「戦場より、ここで君の“いらっしゃいませ”を聞きたい。剣の音より、カップの音がいい。歓声より、鈴の音がいい。……それくらい、好きだ」

 港の灯りが彼の横顔に二、三本の線を描く。眉の上、頬の斜面、口角の影。昼間の“勇者の降り方”が、彼の顔から緊張を奪って、代わりに素の皺を残していったのがわかる。彼は今、肩書きの外にいる。だからこの言葉は、居場所から出てきた温度をしていた。

 私は長い沈黙を選ぶ。湯を落とすみたいに、少しずつ、少しずつ空気を回す。エマの紙舟が脳裏を流れ、バルドの蛇口が低く「ゆっくり」と言うように。店の梁はここにないけど、星の梁がある。私はその梁に言葉を掛ける場所を探す。

「ありがとう」

 まず、そこから。言葉は小さいけれど、芯はある。受け取る。落とさない。私は笑った。営業じゃない笑い。仕事終わりの、砂糖の灯りみたいな笑い。

「でも私は、ここで“私の仕事”を続けたい。戻らないし、誰かの肩書にもならない」

 風が頷いた。彼も頷いた。目尻に笑い皺が一本、増える。彼は膝に置いた両手の指をほどき、「うん」とだけ言った。それから、言葉を一枚足す。

「じゃあ客として、一番の味方でいさせて」

「それなら、喜んで」

 私は即答して、手のひらを空に向ける。片手を空ける——港のルール六つ目。彼の言葉がそこに乗り、夜風がそっと包む。誓いなんて大げさなものじゃない。けれど、明日の力になる軽さ。

「境界線、確認しようか」

「お願いします。先生」

「授業料、猫一匹」

「耳、増量」

「交渉上手」

 私は指で空中に線を引く。ベンチの木目から、海へ向かってまっすぐ。

「ここが“店長と客”の線。笑顔は三十度、言葉はぬるめ、塩はひとつまみ。触れない、踏まない、でも隣り合う。——これ、私の側のルール」

「俺の側のルールは、『宣伝しない』『壁は頼まれた時だけ』『“手伝わせて”の前に“買わせて”』」

「満点」

「あと、『嫉妬は厨房で解凍して返品』」

「返品先は砂糖置き場です」

 二人で笑った。笑いは波に似て、寄せては返す。私は心の中で合言葉を復唱する。焼け。分けよ。笑え。逃げ場を作れ。恋の合言葉は要らない。仕事の合言葉があれば、大体間に合う。私に必要なのは、私の呼吸が乱れた時の手順だ。甘くて、具体的で、合法。

「怖くない?」

 彼が訊く。視線は海へ。私は嘘をつかない。

「少し。嬉しいの半分、怖いの半分。比率は日替わり。——でも、恐怖は淹れ直せる。温度と挽目と、声の高さで」

「俺のは?」

「君のは、たぶん“外に置ける恐怖”。うちに持ち込むなら、薄める。うち、薄めるの得意」

「薄めて、分けて、笑って、逃げ場を作る」

「復唱、よし」

 灯台の光が一度こちらを撫で、また遠くへ歩いていった。港は深呼吸の大きな胸みたいに膨らみ、しぼむ。私は膝に置いたエプロンの端をいじりながら、もうすこしだけ話すことにする。こういう夜は、言葉を置く順番を間違えたくない。

「私ね、“告白”って、どこかで“肩書きの更新”になっちゃうのが怖い。誰かの“恋人”とか“妻”とか。嫌いじゃないけど、今は“店主”でいたい。“客”に対して“店主”。“町”に対して“灯り”。——そういう肩書きは、自分で選べる」

「うん。俺は、“元勇者”って名札を外したい。“常連”でいたい。君の肩書きを増やさずに、俺の肩書きを減らす方向で」

「減らすの、うち好き」

「知ってる」

 彼は笑い皺をもう一本増やした。私は、視線を逸らさなかった。逸らさないでいられるのは、店を出た後も、私が私を働かせているからだ。昼の私と夜の私は、同じ手の温度を持っている。そこに、彼の言葉が乗る。沈まず、溺れず、ただ温かい。

「明日から、どう呼ぶ?」

「今まで通り。“店長”」

「“リリア”は?」

「閉店後限定。ベンチ限定。風が優しい日に限定」

「条件、ぜいたく」

「うち、ぜいたく品扱ってないから、これくらい」

「了解。じゃあ今日は、ぎりぎり該当日」

「該当日」

 私は空を見上げる。雲の隙間に星が三つ、三角形を作っている。三角は注意を促す形だけど、夜の三角は案内図だ。私はその形を目でなぞり、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、言った。

「……レオン。ありがとう」

 名前が、夜に溶けた。彼が驚かないのを確認して、私は続ける。

「あなたが“やめる”って決めた夜の、この告白を、私の仕事の一部にしたい。断ることも、喜ぶことも、どっちも“私の温度”でやる。だから、今日はこれで——受け取り。保留じゃなく、受け取り」

「受け取って、線を引く」

「そう」

 彼は胸の奥で何かを置いた音を、本当に小さく鳴らした。それが、私の膝の上のエプロンにまで伝わって、布が一回息をした。境界線は、冷たい柵じゃない。線は、二人の間に引かれて、同時に二人の後ろを守る。

「ところで、店長」

「なに」

「“客として一番の味方”って、具体的に何をすれば?」

「まず、来る。次に、買う。三番、椅子を戻す。四番、噂を“うまかった”に上書き。五番、休符で拍手。六番、雨の日、傘を一本多めに持ち歩く。七番、疲れてる人を、椅子に座らせるように立ち位置をずらす。八番、猫の耳を増やせと煽らない。九番、落ち込んだ日、ただの丸を注文する。十番、私が線を忘れた時、思い出させる」

「十番、難しい」

「難しいやつはたいがい十番」

「やってみる」

「合格」

 風が一段落ち着いた。潮の匂いが甘くなる。港の灯りが少し遠のき、海は低い声で「おやすみ」を言う。彼はゆっくり立ち上がり、いつものようにベンチを元の位置に押し直し、砂を払う。椅子を戻すのがうまい男は、だいたい優しい。

「“また来ます”」

 彼が小さく言う。店の鈴は鳴らないけれど、私の耳の中で鳴った。私はベンチの背もたれを指で叩き、笑って返す。

「“いらっしゃいませ”」

 彼は目尻の皺を増やして、背中を港の夜に預けるように歩いていった。足音が石畳に吸い込まれ、灯台の光が彼の肩を一回だけ撫でる。私はエプロンを胸に抱き、ベンチから立ち上がる。砂が靴の底で小さく鳴った。

 帰り道、片手を空ける。通りの角で小さなハプニング——帽子を飛ばされた少年が泣きそうになっていて、私は空けておいた手でそれを拾って渡す。「ありがとう」と言われて、「こちらこそ」と返す。こんなふうに、毎日、境界線はやさしく役に立つ。

 店に戻って、看板を撫でる。蛇口に「ただいま」、木に「おやすみ」。帳面を開き、今日の丸と三角を並べる。

——告白、受け取り:丸。
——境界線、再確認:太字丸。
——“客として一番の味方”合意:二重丸。
——名前呼び、限定運用開始:丸。
——胸の温度、体温+0.8度:点。
——課題:明日の“いらっしゃいませ”、いつも通りで。噂は“うまかった”に上書き。△→実施。

 灯りを落とす前、黒板の端に小さく書いた。〈今日の標語:線は守るために引く、近づくために引く〉。チョークの粉が指先に付いて、私はそれを指でこすり、木の色に混ぜる。混ざったものは、もう元には戻らない。——それでいい。

 鍵を回す直前、港の風がふっと店の中に入り、カップの影が一瞬だけ揺れた。私はその揺れを「合図」と解釈し、鈴のない夜に、心のなかで小さく鳴らす。

 ——いらっしゃいませ。
 ——また、来てね。

 境界線のこちら側で、私は明日の湯を思い描く。彼はきっと、客として、一番の味方で来る。私はきっと、店主として、一番の私で迎える。港の夜は静かで、やさしく、仕事の続きに似ていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

聖女やめます……タダ働きは嫌!友達作ります!冒険者なります!お金稼ぎます!ちゃっかり世界も救います!

さくしゃ
ファンタジー
職業「聖女」としてお勤めに忙殺されるクミ 祈りに始まり、一日中治療、時にはドラゴン討伐……しかし、全てタダ働き! も……もう嫌だぁ! 半狂乱の最強聖女は冒険者となり、軟禁生活では味わえなかった生活を知りはっちゃける! 時には、不労所得、冒険者業、アルバイトで稼ぐ! 大金持ちにもなっていき、世界も救いまーす。 色んなキャラ出しまくりぃ! カクヨムでも掲載チュッ ⚠︎この物語は全てフィクションです。 ⚠︎現実では絶対にマネはしないでください!

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

召喚失敗!?いや、私聖女みたいなんですけど・・・まぁいっか。

SaToo
ファンタジー
聖女を召喚しておいてお前は聖女じゃないって、それはなくない? その魔道具、私の力量りきれてないよ?まぁ聖女じゃないっていうならそれでもいいけど。 ってなんで地下牢に閉じ込められてるんだろ…。 せっかく異世界に来たんだから、世界中を旅したいよ。 こんなところさっさと抜け出して、旅に出ますか。

宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです

ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」 宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。 聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。 しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。 冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。

タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。

渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。 しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。 「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」 ※※※ 虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。 ※重複投稿作品※ 表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。

聖女じゃない私の奇跡

あんど もあ
ファンタジー
田舎の農家に生まれた平民のクレアは、少しだけ聖魔法が使える。あくまでもほんの少し。 だが、その魔法で蝗害を防いだ事から「聖女ではないか」と王都から調査が来ることに。 「私は聖女じゃありません!」と言っても聞いてもらえず…。

聖女追放 ~私が去ったあとは病で国は大変なことになっているでしょう~

白横町ねる
ファンタジー
聖女エリスは民の幸福を日々祈っていたが、ある日突然、王子から解任を告げられる。 王子の説得もままならないまま、国を追い出されてしまうエリス。 彼女は亡命のため、鞄一つで遠い隣国へ向かうのだった……。 #表紙絵は、もふ様に描いていただきました。 #エブリスタにて連載しました。

「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます

七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。 「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」 そう言われて、ミュゼは城を追い出された。 しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。 そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……

処理中です...