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第2話 妖精フィアと危うい奇跡
朝の聖森は、透明な音で満ちていた。
葉の先に宿った露が、ぽとり、ぽとりと草の上へ落ちる。
そのたびに小さな光が跳ねるようで、森全体が眠りから覚める準備をしているみたいだった。
鳥の声は高く澄んでいて、風は甘い花の匂いを運んでくる。土はしっとりと柔らかく、裸足で踏むと、まるで大地がこちらの体温を覚えてくれるような不思議な安心感があった。
私は泉のそばに座り込んで、自分の両手をじっと見つめていた。
小さな手。
白くて、柔らかくて、まだ何も掴んだことがないような手。
でも昨日、この手は花を咲かせた。
私が不安になっただけで、森の一角を春で埋め尽くした。
綺麗だった。
でも、怖かった。
「はい、リリス。ぼーっとしない」
頭の上から声が降ってきた。
見上げると、フィアが私の前でふわふわ浮いていた。
薄緑の髪を朝日に透かして、透明な羽をきらきら光らせている。手のひらくらいの小さな妖精なのに、態度だけはなぜか先生みたいに大きい。
「今日から神力の練習をします」
「神力……」
「そう。リリスの中に流れてる、神様由来のすごいやつ」
「説明がざっくりすぎる」
「分かりやすさ重視です」
フィアは胸を張った。
「私、まだ昨日の今日なんだけど。もう練習するの?」
「だからこそだよ。力ってね、分かんないまま放っておく方が危ないの。火を知らない子が焚き火に手を突っ込むようなもの」
「例えが普通に怖い」
「怖がるのは大事。でも怖がるだけだと、もっと怖くなる」
フィアの声は軽いのに、不思議と芯があった。
私は唇を結ぶ。
怖い。
その感情はまだ胸の中にいる。
昨日咲いた花の甘い匂いを思い出すだけで、心臓がぎゅっと縮む。
だけど、逃げていても何も変わらない。
前の人生で、私はずっとそうだった。
嫌なことから逃げたわけじゃない。
ただ、向き合う勇気がなくて、全部を飲み込んで、見ないふりをしていた。
その結果が、あの雨の夜だった。
「……やる」
私は小さく頷いた。
「怖いけど、知らないままの方が嫌」
フィアは一瞬だけ目を丸くして、それから満足そうに笑った。
「いいね。そういうの、すごくいい」
「褒められてる?」
「めちゃくちゃ褒めてる。じゃあまず、水からいこう」
フィアは泉の方へ飛んでいった。
泉の水は、鏡みたいに澄んでいた。底には白い小石が沈み、水草がゆっくり揺れている。水面には木漏れ日が散って、金の破片が浮かんでいるようだった。
「手をかざして」
言われた通り、私は泉へ手を伸ばした。
「で、どうするの?」
「水にお願いする」
「お願い?」
「そう。命令じゃなくて、お願い。神力は無理やり動かすと荒れるから、まずは呼びかけるの」
「水に……呼びかける……」
前世なら完全に変な人扱いされるやつだ。
でもここは聖森で、私は神の娘で、目の前には妖精が飛んでいる。
今さら水に話しかけるくらいで驚いていたら、心が持たない。
私は深く息を吸った。
水の匂いがした。
冷たくて、柔らかくて、静かな匂い。
「えっと……水さん?」
「さん付けかわいい」
「茶化さないで」
「ごめんごめん」
私は咳払いをして、もう一度水面を見つめる。
「少しだけ、こっちに来て」
そう呟いた瞬間、水面がふるりと震えた。
小さな波紋が広がる。
次の瞬間、泉から水の玉が一つ、ぽこんと浮かび上がった。
「……え」
透明な水の玉が、私の手のひらの上でふわふわ浮いている。
朝日を閉じ込めたみたいに、きらきら光っていた。
「できた!」
フィアが嬉しそうに跳ねる。
「リリス、できたよ!」
「できた……」
胸の奥が、ぽっと熱くなる。
怖さとは違う。
嬉しい。
ただ、嬉しい。
私は水の玉をそっと指でつついた。ぷるん、と柔らかく揺れる。冷たい雫が指先に触れて、くすぐったい。
「すごい……なにこれ、楽しい」
思わず笑ってしまった。
水の玉は私の気持ちに合わせるように、くるくる形を変えた。丸くなったり、細長くなったり、小さな魚みたいな形になったり。
「わ、魚になった」
「水の形は自由だからね。リリスの想像に引っ張られてる」
「じゃあ、猫とかできる?」
「やってみたら?」
私は水の玉をじっと見つめる。
猫。
ふわふわで、気まぐれで、昔近所にいた白い猫。
頭の中に形を思い浮かべると、水の玉は少し震えて、耳を作った。
短いしっぽも生える。
完全に猫というより、猫っぽい水まんじゅうだった。
「……これは猫?」
フィアが首を傾げる。
「猫です」
「うん。本人がそう言うなら猫」
「その言い方」
私は笑った。
声を出して笑うのは、なんだか久しぶりだった。
前の人生でも笑ってはいた。
職場で愛想笑いをして、家で波風を立てないように笑って、誰かに気を使って笑っていた。
でも今の笑いは、それとは違う。
胸の内側から勝手に溢れてくる、軽い泡みたいな笑いだった。
「フィア」
「ん?」
「これなら異世界生活、案外いけるかも」
そう言うと、フィアは目を細めて笑った。
「でしょ? リリスはもっと楽しいこと、いっぱいできるよ」
その言葉に、胸が少しだけ弾んだ。
新しい世界。
新しい体。
危ない力。
でも、全部が怖いだけじゃないのかもしれない。
ここでなら、私はちゃんと何かを選べるのかもしれない。
次の練習は、風だった。
泉から少し離れた草地で、私は両手を広げて立っていた。
目の前には、フィアが拾ってきた薄い木の葉が一枚浮かんでいる。
「はい、この葉っぱを風で浮かせてみよう」
「さっきから思ってたけど、フィアって先生っぽいよね」
「えへん。実際、先生だからね」
「妖精ってみんな教えるの上手なの?」
「私は特別かわいくて賢いから」
「はいはい」
「流した! 今、さらっと流した!」
フィアがぷりぷり怒る。
その様子が小さすぎて、怒っているのに可愛い。
私は少し笑って、葉っぱに意識を向けた。
風。
空気。
頬を撫でる透明な流れ。
目には見えないけれど、確かにそこにあるもの。
「葉っぱを、少しだけ持ち上げて」
私は囁いた。
ふわり、と風が動く。
葉っぱが浮いた。
「おお……」
「いい感じ! そのまま右!」
「右……」
葉っぱが右へ揺れる。
「左!」
左へふらふら。
「上!」
ひゅん、と高く跳ね上がった。
「わっ」
「あっ、強すぎ!」
葉っぱは勢いよく空へ舞い上がり、そのまま木の枝に引っかかった。
二人でそれを見上げる。
沈黙。
「……飛んでった」
「うん。飛んでったね」
「成功?」
「失敗寄りの成功」
「なにその微妙な判定」
フィアは笑いながら枝へ飛び、葉っぱを取って戻ってきた。
「でもいいよ。力が反応するのは早い。あとは加減だね」
「加減……」
それが一番難しい気がした。
私は前の人生で、加減というものが下手だった。
頼まれたら全部やる。
期待されたら無理をする。
嫌だと思っても限界まで耐える。
ゼロか百か。
自分を守るためのちょうどいい距離が分からなかった。
神力も同じなのかもしれない。
出さなければ怖い。
出しすぎても怖い。
「リリス?」
フィアが私の顔を覗き込んでくる。
「また難しい顔してる」
「うん。ちょっと考えてた」
「考えるのはいいけど、考えすぎて沈まないようにね。リリス、心の底が深そうだから」
「なにそれ」
「沈んだら引っ張り上げるの大変そうってこと」
「失礼じゃない?」
「心配してるんですぅー」
フィアはわざとらしく頬を膨らませた。
私は笑った。
笑うと、風が柔らかく揺れる。
草がさわさわと鳴り、遠くの花がこちらへ向かって小さく頷いたように見えた。
私の感情に、世界が反応する。
怖い。
でも、丁寧に向き合えば、優しく応えてくれる。
そんな気もした。
昼過ぎ、森の奥で小さな音がした。
かさり、と葉が擦れる音。
続いて、弱々しい鳴き声。
「今の、聞こえた?」
私が顔を上げると、フィアも真剣な表情になっていた。
「うん。こっち」
フィアの後を追って茂みを抜けると、大きな木の根元に小鳥が落ちていた。
青い羽の小鳥だった。
片方の翼が不自然に曲がっている。
まだ幼いのか、体は小さく、丸い瞳には恐怖が滲んでいた。
「怪我してる……」
胸がぎゅっとなった。
小鳥は逃げようとしたが、翼が痛むのか、草の上で震えるだけだった。
私はそっと膝をつく。
「大丈夫。何もしないよ」
「リリス、ゆっくりね」
フィアが隣で囁く。
「治せる?」
「たぶん。でも、強く流しすぎないで。水や風よりずっと繊細だから」
私は頷いた。
手を小鳥へかざす。
助けたい。
その気持ちは、自然に湧いてきた。
小さく震える命を見ていると、放っておくなんてできなかった。
「痛くないように……治って」
掌から、淡い光が零れた。
白く、温かい光。
それは小鳥の翼を包み込み、折れた部分へ染み込んでいく。
小鳥が一度だけぴくりと震えた。
私は息を止める。
「大丈夫。大丈夫だから」
誰に言っているのか分からなかった。
小鳥へか。
自分へか。
光が少しずつ薄れていく。
曲がっていた翼が、元の形に戻っていた。
小鳥は恐る恐る翼を動かす。
一度、二度。
そして、小さく羽ばたいた。
「あ……」
青い小鳥が宙へ浮かぶ。
まだ少しふらつきながらも、確かに飛んでいる。
小鳥は私の周りを一周して、枝の上に止まった。
それから、澄んだ声で鳴いた。
ありがとう、と言われた気がした。
胸の奥が、温かくなる。
「飛べた……」
「うん」
フィアも嬉しそうに笑っていた。
「リリス、ちゃんとできたね」
「私が……治したんだ」
掌を見つめる。
この手で、傷を癒やした。
壊すかもしれない手で、命を助けた。
その事実が、信じられないくらい嬉しかった。
私は笑った。
笑ったはずだった。
けれど、小鳥が木々の向こうへ飛び去っていく背中を見送った瞬間、胸のどこかがひどく痛んだ。
あの小鳥は、帰る場所があるのだろうか。
巣があって、親鳥がいて、仲間がいるのだろうか。
私には、あっただろうか。
帰る場所。
そう呼べるものが。
前世の部屋を思い出す。
狭いワンルーム。
冷めたコンビニ弁当。
洗濯物が乾かない匂い。
スマホに届く仕事の連絡。
母からの頼みごと。
誰かの声はいつもあった。
でも、私を待っている声はなかった。
おかえり、と言ってくれる場所が欲しかった。
ただいま、と言ってもいい場所が欲しかった。
「……っ」
胸が締めつけられた。
その瞬間だった。
足元の草が、一斉に色を失った。
緑が灰色へ変わる。
花が萎れ、茎が折れ、土の匂いが一気に乾く。
さっきまで光に満ちていた場所が、まるで冬に置き去りにされたように冷えていく。
「え……?」
指先が凍るように冷たくなった。
灰色は私の足元から広がり、波紋のように草地を侵していく。
「リリス!」
フィアが叫んだ。
次の瞬間、小さな手が私の手を握る。
見た目よりずっと強い力だった。
フィアの羽が鋭く光り、私の中で暴れかけていた何かが、ぎゅっと押し留められる。
「息して! リリス、こっち見て!」
「フィア……私、何を……」
「今は考えない! 吸って、吐いて!」
「でも、草が……私が……」
「リリス!」
フィアの声が、森の中で強く響いた。
私はびくりと肩を震わせる。
フィアは私の目の前まで飛んできて、額をこつんと合わせた。
小さな額。
でも、その温度は確かだった。
「大丈夫。止めるよ。一緒に止める」
「……一緒に」
「そう。一人で抱えない」
その言葉に、喉の奥が震えた。
私はフィアの言う通り、息を吸った。
森の匂い。
土の匂い。
まだ枯れていない葉の匂い。
吐く。
胸の痛みは消えない。
けれど、灰色の広がりは少しずつ止まっていった。
フィアが私の手を握ったまま、小さく息を吐く。
「……止まった」
周囲には、灰色に枯れた草が残っていた。
ほんの一部。
でも、確かに私が枯らした。
さっき、命を救った手で。
私はその場に座り込んだ。
「私……助けたのに」
声が震える。
「助けたいって思っただけなのに、なんで……」
フィアは少しだけ黙って、それから静かに言った。
「リリスの力は、願いに反応する。でも、願いだけじゃない。心の痛みにも反応する」
「心の痛み……」
「うん。助けたい気持ちは命を癒やす。でも、リリスが傷つけば、その傷も世界に伝わる」
私は枯れた草を見つめた。
自分の心が、外側に漏れ出している。
隠せない。
ごまかせない。
前世であんなに飲み込んできた感情が、この世界では形になってしまう。
「じゃあ、私が悲しむだけで、誰かを傷つけるかもしれないの?」
問いかける声が、ひどく幼かった。
フィアは否定しなかった。
それが、答えだった。
「……最悪じゃん」
笑おうとしたのに、声が掠れた。
「普通に泣くこともできないってこと?」
「できるよ」
フィアはすぐに言った。
「泣いちゃだめなんじゃない。悲しんじゃだめなんじゃない。ただ、自分の心を知らないまま溺れると、力も一緒に溺れる」
「難しいよ、そんなの」
「うん。難しい」
フィアはあっさり頷いた。
「でも、リリスはもう一人じゃないから」
その言葉は優しかった。
優しすぎて、信じるのが怖かった。
一人じゃない。
そんな言葉、何度か聞いたことがある。
でも結局、本当に苦しい時には誰もいなかった。
「……フィアは、私が怖くないの?」
思わず聞いていた。
フィアはきょとんとした。
「怖い?」
「だって、私、今草を枯らした。昨日も花を咲かせすぎた。いつかフィアのことだって傷つけるかもしれない」
言葉にした途端、胸がさらに痛くなる。
フィアはしばらく私を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「怖くないよ」
「なんで」
「リリスが怖がってるから」
意味が分からず、私は瞬きをした。
フィアは私の肩に座る。
「本当に危ない子は、自分が傷つけるかもって思わない。怖がれるってことは、大事にしたいってことだよ」
「……そうなのかな」
「そうだよ。フィア先生が言うんだから間違いない」
「また先生?」
「先生ですから」
フィアは得意げに笑う。
その明るさに、私は少しだけ救われた。
けれど気づかなかった。
フィアが私から顔を背けた一瞬、透明な羽の端が、ほんの少しだけ淡く透けていたことに。
光に溶けるみたいに。
存在の輪郭が、わずかに薄くなっていたことに。
夕方になると、聖森は金色に染まった。
木々の間から差す光は蜂蜜みたいに濃く、草の先をゆっくり撫でていく。
フィアは小枝を集め、小さな焚き火を起こした。
「妖精って火も使うんだ」
私が言うと、フィアは得意げに鼻を鳴らした。
「使うよ。火で焼いた木の実は美味しいからね」
「理由が食欲」
「食欲は大事。幸せの基本」
「それはちょっと分かる」
焚き火の上では、フィアが拾ってきた丸い木の実が焼かれていた。
ぱち、と火が鳴る。
香ばしい匂いが広がる。
前世で食べた焼き栗を思い出すような、甘くてほっとする匂いだった。
フィアは小さな手で木の実を割って、中身を私に差し出した。
「はい、リリス」
「ありがとう」
口に入れると、ほくほくして甘かった。
砂糖なんてないのに、自然な甘さが舌の上でほどけていく。
「おいしい……」
「でしょ。聖森名物、ほっこりの実」
「その名前、本当?」
「今つけた」
「やっぱり」
フィアがけらけら笑う。
私も少し笑った。
けれど、焚き火の光を見つめていると、昼間の光景がどうしても蘇ってくる。
青い小鳥。
癒えた翼。
灰色に枯れた草。
助けたいと思った。
ただ、それだけだった。
なのに。
「……フィア」
「んー?」
フィアは自分の体ほどもある木の実を抱えて、もぐもぐ食べていた。
「私、また誰かに迷惑かけるために生まれたのかな」
口にした瞬間、焚き火の音がやけに大きく聞こえた。
ぱち。
ぱち。
火の粉が夜へ舞い上がる。
フィアは食べる手を止めた。
私は膝を抱える。
小さな体を丸めると、自分が本当に子どもになってしまったみたいで、余計に心細かった。
「前の私はさ、誰かの役に立つことしかできなかった。役に立てば、いてもいいって思ってた。でも、結局それで疲れて、空っぽになって……死んだ」
声は思ったより静かだった。
「今度はすごい力をもらったけど、その力も危ないんでしょ。助けたいって思っても、傷ついたら周りを枯らす。だったら私、また誰かに迷惑かけるだけなんじゃないの」
フィアは黙って聞いていた。
茶化さなかった。
いつものように明るく割り込んでもこなかった。
その沈黙が、逆に優しかった。
私は焚き火を見つめたまま続ける。
「神様は、自分で選べって言った。でも、選ぶって何? 何を選んでも誰かを傷つけるかもしれないなら、何もしない方がいいんじゃないかなって思う」
言葉にしているうちに、胸の奥が冷たくなっていく。
怖い。
また間違えるのが怖い。
誰かに必要とされるのも怖い。
誰かを傷つけるのは、もっと怖い。
「リリス」
フィアが名前を呼んだ。
私は顔を上げる。
焚き火の向こうで、フィアはふわりと浮かんでいた。
炎の光を浴びて、薄緑の髪が金色に揺れている。
「違うよ」
その声は、やわらかかった。
けれど、はっきりしていた。
「リリスは、誰かに迷惑をかけるために生まれたんじゃない」
「でも」
「違う」
フィアはもう一度言った。
小さな体なのに、その言葉は不思議と真っ直ぐ私の胸に届いた。
「リリスは幸せになるために来たんだよ」
息が止まった。
幸せ。
その言葉は、まだ私には眩しすぎる。
手を伸ばしたら壊れてしまいそうで、近づくことすら怖い。
「幸せって……私が?」
「そう。リリスが」
「神の娘だから?」
「違うよ」
フィアは首を振る。
「リリスだから」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
けれどその痛みは、昼間の孤独とは違っていた。
凍った場所に、温かい指先で触れられた時のような痛み。
「力があるからじゃない。世界を癒やせるからじゃない。誰かの役に立つからでもない。リリスはリリスだから、幸せになっていいの」
「……そんなの」
信じたい。
でも、怖い。
信じて裏切られたら、きっと今度こそ立ち上がれない。
「すぐに信じなくていいよ」
フィアは笑った。
「でも、私が何回でも言う。リリスは幸せになっていい。嫌なことは嫌って言っていい。助けたい時は助けてもいいし、無理な時は逃げてもいい」
「逃げても?」
「もちろん。逃げるのは負けじゃないよ。生きるための移動です」
「なにそれ」
思わず少し笑った。
フィアも笑う。
「いい? リリス。神力の練習も大事だけど、それより大事なのは、リリスが自分の気持ちをちゃんと聞くこと。助けたいのか、怖いのか、悲しいのか、怒ってるのか。全部、なかったことにしないで」
その言葉が、静かに胸へ沈んでいく。
前の私は、自分の気持ちを聞かなかった。
聞いたら壊れてしまいそうだったから。
でも、この世界では、それをしないと本当に何かを壊してしまう。
皮肉だと思った。
けれど同時に、これはやり直しなのかもしれないとも思った。
自分を無視しない練習。
誰かに合わせる前に、自分の心を見つめる練習。
「……難しそう」
「うん。難しいよ」
「そこは簡単って言ってよ」
「嘘はよくないからね」
フィアはにやっと笑った。
「でも、一緒にやれば何とかなるかも」
「かも?」
「なる。たぶん。きっと。おそらく」
「不安になる言い換えやめて」
二人で笑った。
夜の森に、小さな笑い声が溶けていく。
焚き火は暖かかった。
木の実は甘かった。
フィアは隣にいた。
それだけで、胸の奥にあった硬い塊が、少しだけほどけた気がした。
私は空を見上げる。
木々の隙間から、星が見えていた。
前の世界で見た星よりもずっと大きく、近い。
手を伸ばせば届きそうなほど、澄んでいる。
「私、信じたい」
小さく呟いた。
フィアがこちらを見る。
「フィアが言ってくれたこと。私が幸せになるために来たってこと。まだ全部は無理だけど……信じたいって思う」
フィアは、ふわりと笑った。
「それで十分」
その笑顔は、夜の中の灯りみたいだった。
私は膝を抱えたまま、焚き火の熱を感じる。
この世界は怖い。
私の力は危うい。
心が揺れるたび、何かを壊すかもしれない。
それでも、今ここにいる自分を、少しだけ肯定してみたいと思った。
生きていていい。
幸せになっていい。
その言葉を、胸の中で何度も繰り返す。
まるでまだ見ぬ明日へ向かう、小さな呪文のように。
その時だった。
森の外から、低い音が響いた。
地面の底を這うような、重く濁った咆哮。
空気が震える。
焚き火の炎が、びくりと揺れた。
私は反射的に顔を上げる。
フィアの表情から、笑みが消えていた。
「……今の」
私の声が掠れる。
フィアは森の奥、闇が深く沈む方角を見つめていた。
もう一度、咆哮が響く。
今度はさっきよりも近い。
胸の奥で、神力が小さく震えた。
まるで何かに呼ばれたみたいに。
フィアが低く呟く。
「魔物だ」
夜の聖森が、静かに息を潜めた。
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