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第3話「セレノア神殿、白い回廊」
しおりを挟む門をくぐった瞬間、音と匂いが塗り替わった。
王都セレノアは、人の体温でできている。鉄の擦れる音、パンの焼ける甘い焦げ、馬の汗、香草の乾いた芳香。通りは幅広く、道の中央に敷かれた白い石が薄く陽を返す。遠く、塔の上で黒地に白い月の旗が重く翻った。
「ようこそ、セレノアへ」
レオン=クレイドが軽く片手を挙げる。灰色の瞳が人波を縫い、慣れた足どりで歩く。
「……やっぱり、階段が多い」
「言ったろ。神殿は白くて、階段がやたら多い」
「パンの店も、多いの?」
「多い。あとで行く」
軽口は、緊張をほどくための柔らかい糸みたいだった。リセル=フィーネは背中の荷を握り直し、塔の方角へ目をやる。黒旗の月は眠っている。風に揺れても、目を開けない。
神殿の門は白い石で、磨かれ過ぎない程度に手入れがされていた。両脇に立つ兵がレオンを見ると、槍を軽く傾ける。
「レオン=クレイド、帰還だ」
「ご苦労」
中庭を抜けると、白い回廊が体温を下げるように静かだった。石の床に音が吸われ、足音が水の底みたいに小さくなる。壁に沿って灯された燭は、昼でも火を抱えている。炎は呼吸のように揺れ、回廊の影にリズムを刻む。
「ここで、俺の立場を言っておく」
レオンは歩きながら小さく言った。
「俺は王国の騎士見習いで、いまは神殿詰めだ。王子殿下の身辺は神殿が管理している。だから、殿下に近づくには、神殿の許しが要る」
「わかった」
「神殿長が少し、硬い人でな」
「硬い?」
「石像みたいに、目の前の石段しか数えない。けど、落ちてくる瓦にも敏感だ」
つまり、規律と保身。リセルはうなずく。分かりやすい説明だった。
回廊の角を曲がると、重厚な扉の前に二人の神官。レオンが名を告げると、中から低い声が返った。
「入れ」
白い部屋。窓は高い位置にあり、光が床に斜めの線を引いている。その光の中に、黒衣の男が立っていた。髪は銀に近い灰色、瞳は濁りのない石色。神殿長、イグナート。
「戻ったか、クレイド」
「ただいま戻りました。道中でひとつ、報告が」
「その女のことだな」
石の瞳がリセルに向く。視線は刺さらない。測る。刃ではなく、秤。
「リセル=フィーネです。ロウエンから来ました」
「素性は」
「村と教会で、癒しの術を学んでいました。公的な認可はありません」
「ならば、王子殿下に近づける理由はひとつもない」
即答だった。レオンが一歩踏み出そうとする。リセルは小さく首を振る。彼女の声で、十分伝えられることがある。
「わたしは、殿下に触れたいわけではありません。触れずにできることがあるかもしれないので、その場に座らせてほしい」
「座る?」
「人には、痛みの居場所が必要です。居場所があると、痛みは暴れません。——わたしは椅子を持っているだけです」
イグナートの眉がわずかに動いた。驚きではない。想定外の言葉への、無言の線引き。
「言葉遊びで人は目覚めぬ」
「遊びをするつもりはありません。期待は受け取りません。責任も、取り過ぎません。わたしにできることだけをします」
白い部屋で、言葉は静かに落ちた。レオンが横目で見て、薄く笑う。境界線の引き方は、彼女の武器だ。
「神殿長。道中で、旅人の親子が盗賊崩れに襲われていました。母親は過呼吸で倒れかけていた。彼女は呼吸と触れ方と声で落ち着かせた。即効性はないが、確実に“戻す”手つきでした」
新しい声が扉の脇から落ちる。そこに、白衣の女が立っていた。細い金縁の眼鏡。髪は首の後ろでひとつにまとめられ、目の動きは静かに早い。
「侍医、メルダ・ハール」
イグナートが短く紹介するより早く、彼女は一歩前に出た。
「道中の経緯は、衛兵からも聞いています。彼女の介入で、母親の脈と呼吸が安定したのは確か。——観察したい」
言い切る声。理屈で歩く人の足音。リセルは軽く頭を下げる。
「観察?」
「あなたの“やり方”を、客観的に記録したい。王子に直接触れず、遠くから呼びかける手法も、試す価値がある。成功しなくても、データになる」
「神殿で人を“データ”と呼ぶのか」
イグナートの皮肉に、メルダは小さく肩をすくめた。
「事実を事実として扱う語です。信仰の妨げにはなりません」
「ふむ」
神殿長の視線が再びリセルに落ちる。秤の針は、まだ中央だ。
「待合で待て。殿下に触れさせるつもりはない。——遠見の祈りの間へ案内する」
妥協と拒絶の中間。レオンは息をついた。リセルは頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼は要らぬ。——規律に従え」
「はい。ひとつだけ」
「何だ」
「わたしは“神の御手”ではありません。そう呼ばれることを、先にお断りします」
イグナートの目が細くなる。レオンは笑いを飲み込み、メルダは眼鏡の位置を直した。
「……妙な女だ」
「境界線を最初に引くのは、いい習慣です」
メルダが淡々と擁護する。イグナートは手を振って追い立て、扉の外の神官に目配せした。
「案内せよ」
白い回廊に出る。祈りの声が遠くで湧いては消え、澄んだ空気が肺の奥を洗う。待合は広く、長椅子がいくつも並んでいた。鎧を脱ぎきれない疲労の匂い。人々の目は半分眠り、半分は起きられずにいる。
リセルは長椅子の端に腰掛け、周囲を見渡す。角ばった肩。こわばった顎。膝の上で組まれた手の節が白い。兵士が一人、頭を抱えて座っていた。若い。髪は刈り上げ、首の筋肉が抜けずに揺れている。
レオンが視線で問う。リセルは小さくうなずいて、兵士に近づいた。
「ここ、座ってもいい?」
兵士はびくりと顔を上げ、慌てて立ち上がろうとする。
「あ、すみません、席を——」
「座って。わたしも座るから」
リセルは隣に腰を下ろし、指先を見せた。
「手、寒い?」
「……少し」
「手袋、外していい?」
「え、あ、はい」
彼の右手を取る。甲に古い擦り傷が見えた。指は固く、握る力が強いのに、体の芯は疲れている。戦場を出てきたばかりの音が、皮膚の下でまだ鳴っている。
「呼吸、いまどんな?」
「浅い、です」
「わたしの声を拾って。三つ数えたら吸う。六つ数えたら吐く。……いくよ」
三度。四度。五度。兵士の肩が少しずつ落ちる。顎の力が抜け、眉間の溝が浅くなっていく。リセルは手を離さない。誰かが離れないと、体は“落ちてもいい”と判断できないから。
「ここにいるよ」
言葉が床に沈み、石に染みる。兵士の瞼が強情に抵抗し、やがて、重さに負けるように閉じた。長椅子の背に頭を預け、呼吸が眠りのテンポへ移る。周囲のざわめきが遠ざかり、彼の肩は、ふっと小さく震えてから、静かになった。
間を置いて、頬を濡らすものがあった。兵士は目を閉じたまま、涙を一筋だけ流す。
「……眠れた」
夢の底から言葉が浮かぶ。リセルは手をそっと離した。
「おやすみ」
レオンは少し離れた柱にもたれて、その様子を見ていた。彼の肩の古傷が、火でもないのにゆっくりと緩んでいた。
「今の、記録に残したい」
背後でメルダが低く言った。紙と鉛筆の音がする。
「あなたの呼吸の数え方、間の取り方、触れる位置。——再現性を確かめたい」
「人によって、少しずつ違います」
「違いの範囲と傾向を見たい」
会話のテンポは、白い石の上で軽やかに転がる。イグナートは遠巻きに腕を組み、冷ややかな空を顔に貼り付けたままだったが、目だけは兵士の安堵に釘づけになっていた。
「……遠見の祈りの間へ行く」
不承不承の声。イグナートが踵を返す。レオンがリセルを見る。彼女は小さく頷いて立ち上がった。
回廊を進む。外の音はますます遠のき、足音だけが連れ歩く。壁に掛けられた古いタペストリーには、星と海の刺繍。星は糸で、海は布で、静かな運動をしている。
「遠見の祈りの間は、殿下の私室とは別だ」
レオンが説明する。「祈りは届くが、触れはしない。——君のやり方に合う」
「都合がいい」
メルダは手帳を閉じ、眼鏡を押し上げた。「私も入る。観察者として」
「勝手はするなよ、メルダ」
イグナートの目が横に滑る。彼女は肩を竦めた。
「規律は守る。——事実に忠実に」
分厚い扉の前で、イグナートが立ち止まった。扉には月と波の文様。金具は古いが、丁寧に磨かれている。神官が二人、左右に控え、合図で環を回した。木が低く鳴り、冷たい空気がひと筋、外へ吐き出される。
「ここで——」
イグナートの声が切れた。リセルが一歩、前に出ていたからだ。扉はまだ半分閉じたまま。彼女はその木の縁に、そっと指先を当てた。
「待て」
レオンの声が、かすかに鋭くなる。触れるな、という規則の声でもあるし、彼自身の心配でもある。
「触れないよ。——扉に」
リセルは微笑む。木の温度は石より柔らかく、ひとの手の記憶が宿っているような温かさがあった。その温度に、彼女の掌の温度がゆっくりまじる。息を吸って、吐く。祈りはまだ言葉にならない。言葉の前に、場の輪郭を手でなぞる。
その瞬間だった。
回廊の燭がひとつ、ふっと消えた。
白い石の上に、影が濃く落ちる。息を止めたような沈黙。
次の瞬間、消えた燭に火が戻った。炎は何事もなかった顔で、また呼吸を始める。
レオンがわずかに目を見開く。メルダは息の音を数えるみたいに短く吸い、手帳を開いた。イグナートは眉間の皺を深くし、リセルの指先と燭のあいだを測る。
扉の向こうから、ほんの、ほんの微かな——誰かが夢の底で寝返りを打ったみたいな、布の擦れる音がした。空耳かもしれない。けれど、神殿の石がそれを覚えた。
リセルは手を下ろす。掌に、木の温度が残っている。
境界線は、まだこちら側だ。けれど、線は薄くなった。こちらと向こうの、あいだ。
「……入れ」
イグナートの声は、先ほどより低かった。
白い回廊の燭は、静かにまた、呼吸を続けた。
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