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第4話「眠りの王子」
しおりを挟む遠見の祈りの間は、白い呼吸で満ちていた。
高窓から差す光は、埃を金色にしてゆっくり落としている。部屋の中央には天蓋のベッド。薄い紗がひと枚、風もないのにわずかに揺れていた。
王子アウルは、そこに眠っている。
十年という長さが、人の肌の色から季節を一つずつ奪っていく。頬は雪のように薄く、まつげは影の線に変わり、唇の赤は遠い。けれど、その遠さが不思議と、壊れやすい器の気高さを纏わせていた。
「殿下は十年前、秋の終わりに倒れられた」
イグナートが淡々と告げる。
その声は石の温度を持ち、感情を運ぶためではなく、秩序を説明するためにある。
「各国から医と神術が招かれた。肉体的疾患は否定的、神経因の仮説も多々。祈祷、薬、鍼、温熱、冷却、呪、歌——記録に残る限りの試みは、すべてここにある」
彼が顎で示した先、壁の棚に厚い書冊が何十冊も並び、背表紙に日付と印がびっしり刻まれていた。十年分の“失敗”が、硬い箱におとなしく収まって、部屋の体温を下げている。
「ここは“遠見”だ。殿下の私室とは別。ここから祈りは届くが、触れてはならん」
レオンは黙って頷き、紗の手前で立ち止まった。
メルダは机に器具を並べる。簡素な脈拍の計測器、記録紙、砂時計。それらを丁寧に天板へ並べ、眼鏡を指先で直した。
リセルは、紗の前で一歩、足を止めた。
息が、ひとつ深くなる。掌に少し汗が滲む。彼女はその湿りを拭かず、体の中の“椅子”を一脚、心の中央へ引き寄せた。
「触りません。——お話だけします」
イグナートの眉がわずかに動いた。
彼は反対しない。反対していないのではなく、反対の価値があるとまだ判断していないのだ。
メルダが脈拍器をアウルの手首へやさしく付け、砂時計をひっくり返す。細い砂の柱が落ち始める。レオンは紗の向こうの顔を見つめる。十年という時間の重さに、眼差しが自然と静かになる。
リセルは紗に向かってしゃがみ、背筋を伸ばした。
誰かの寝床にそっと座るときと同じ姿勢。
「おはよう、とは言わないね。まだ“夜”の中にいるひとに、朝の言葉は重いから」
彼女の声は大きくない。けれど、部屋の白さの縁でよく響く。
彼女は続ける。
「ここは静かだけど、静かすぎない。外の階段を上り下りする靴音が、時々すこし迷子になる。蝋の匂いと、乾いた布の匂いと、風の通り抜けた石の匂い。冷たくて、でも安心できる冷たさ」
彼女は紗の向こうを“説明”しない。
“手渡す”。
言葉を小さな器にして、音と温度をアウルの耳の近くまで運ぶ。耳は閉じていても、皮膚は聴いているから。
「今日の光は、少しだけ金色。粉みたいな光。指でつまんで、窓の外に返したくなる。返したら、鳥がついばみそう」
メルダの手元で、脈拍の針がゆるく揺れる。
まだ変化はない。砂は三分の一だけ落ちた。
「あなたの国のパンはおいしいんだって。道で会った人が言ってた。焼き立ては、落ち込みと喧嘩を一時休戦にできるって。あなたは温かいパンが好き? それとも、冷めて少し硬くなったのをスープに浸す?」
レオンが小さく笑う。
イグナートは目を細める。「無意味なおしゃべりは——」
「無意味じゃありません」
メルダが遮った。
彼女の声は落ち着いていて、反論の熱を帯びない。
「語りは“連結”を作る。記憶と感覚の索条を手繰り寄せるための糸です」
イグナートは舌打ちはしない。しない代わりに、腕を組む角度をわずかに変えた。許容ではない。静観。
リセルは指先を膝に置き、呼吸を整える。
彼女の中で、過去の習慣が自然に並ぶ。声、触覚、記憶——心癒の三要素。触れられないなら、触覚は言葉で、記憶は彼の中のものを呼ぶ。
「寒いね」
彼女は囁いた。
ねえ、寒いね、と。彼の今に寄り添う言い方で。
その言葉は、紗を柔らかく透過して、布団の縁、頬の皮膚、耳殻の後ろに、雪の粉みたいに落ちた。
アウルの指が、ほんの、ほんの少しだけ動いた。
「——!」
レオンの息が止まる。
メルダは即座に視線を針へ落とし、記録紙に数字を走らせる。
「脈、微増。リズムに“揺れ”が入った。偶発性の範囲内だが、同期性が高い」
「偶然だ」
イグナートが言い切る。声は冷たいが、先ほどよりわずかに粗い。
“偶然”は秩序にとって便利な箱だ。説明できないものを仮置きするための、丈夫な箱。
リセルはその箱を開けもしない。箱にラベルも貼らない。
ただ、続ける。
「寒いときはね。指を一本ずつ、名前で呼んでいくの。親指は……そうだね、“勇気”。人差し指は“指し示すひと”。中指は“中心”。薬指は“約束”。小指は……“秘密”。」
彼女は自分の手を握って開き、静かに動かした。
「勇気は、眠ってるあいだも、ちゃんと勇気でいてくれる。約束も、秘密も。人は眠っても、指は起きてる。だから、一本ずつ、起きてることを確かめるみたいに、名前を呼ぶ」
砂時計の砂が半分落ちた。
メルダの鉛筆が細い音を立てる。記録紙に、数字が並ぶ。緩やかな波に、ほんの肩のような高まりが、ひとつ。
リセルは、声を少しだけ落とした。
「音の話、続けるね。階段の音は、鍵束が鳴る音と一緒だと、少し安心する。人が来る、とわかるから。鍵の音が遠ざかると、ちょっとだけ寂しい。灯りは忙しい。蝋が泣く音がする。涙の音に似てるけど、違う。蝋の涙は、あとでまた火になる」
レオンの視界に、アウルの胸の上下がわずかに深くなるのが入った。
それは気のせい、と言い切れるほど小さくない。言い切れないほど大きくもない。だから、希望は小さく灯る。消えない小ささで。
「君は昔、朝番の鐘を一度止めたことがある」
リセルの声が、ふいに“君”を指した。
イグナートの眉がぴくりと動く。メルダは鉛筆を止めない。
「止めた、といっても、手でじゃないよ。起きるのが惜しいときに、人は“体を横にする”っていう鐘止めをする。布団を頭まで引き上げて、世界をもう少し、遅らせる。——あなたは、そのときに、窓の外の鳥が鳴く声を数えていた。三羽。四羽。五羽目が鳴かなかったから、しかたなく起きた」
根拠はない。
けれど、言葉は“可能だった世界”を手渡すためにある。選び直せる朝の記憶は、眠りの中で最も“帰り道”に近い。彼が本当にそうしていたのかどうかは、いまは問題ではない。彼が“そうだったかもしれない自分”に触れられることが、いまは大事だ。
メルダが短く息を呑む。「眼球運動、微小。閉瞼下」
イグナートは腕を組み直し、沈黙の角度を変える。
レオンは、紗の向こうの顔を見て、唇をかすかに噛んだ。
リセルは姿勢を変えない。
椅子の脚が心の中で四点、しっかり床に触れているのを確かめ、声を続ける。
「寒いとき、手を温める方法、もうひとつ。——誰かの手を握る。
“誰か”がむこうにいないときは、自分の手でもいい。右と左で握り合う。人の体は、ちゃんと二人分でできているから」
彼女は自分の手を、胸の前で握った。
その動きが、紗の向こうの影に重なる。
「ねえ、寒いね。
でも、ここにいるよ。ここにいる声は、あたたかい」
砂時計が終わりに近づく。
メルダの指が、砂の細さを測るように、脈の波形の上で止まる。紙には、明らかな“肩”がもうひとつ増えた。
「脈、再び微増。変動は小さいが、呼気に同期……」
「偶然の繰り返しだ」
イグナートの言葉に、メルダは初めて笑った。
笑いは小さく、眼鏡の縁だけが光る。
「偶然という語を、何度続ければ“現象”になりますか、神殿長」
イグナートは答えない。
沈黙の中、リセルはほんの一拍だけ目を閉じた。
疲労が来る。来るけれど、まだ浅い。ここは彼女の限界ではない。限界に近づく前に止める。今日は“呼ぶだけ”。それが最初の約束だ。
「今日は、ここまで。
また来るね。約束は、守る。小指の“秘密”も、守る」
彼女が立ち上がろうとした、その時だった。
アウルの頬を、透明なものが、ひと筋、落ちた。
涙。
燭の光を細く集めて、肌の上を滑り、顎の先で止まって、布へ染みた。
レオンの喉が鳴る。
メルダの鉛筆が初めて止まり、視線が素手のように王子の顔に触れた。
イグナートの腕がほどける。彼は一歩、前に出た。秩序の歩き方の一歩ではなく、人の歩幅の一歩で。
リセルは息を吸った。
胸の奥で、青い花と、焚き火の橙と、白い月が、ひとつの線で強く結び直される。
紗の向こう、眠りの王子はまだ眠っている。
けれど、その眠りは、ほんの少し、世界の方へ傾いた。
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