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第11話「雪の村、閉じた扉」
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第11話「雪の村、閉じた扉」
丘道を下りきったところで、風の匂いが変わった。
土に保存された果汁、湿った木箱、圧搾機の油。ロウエンの匂いだ。雪が音を吸い、灯の色だけが道案内になる。儀礼隊の旗は風を読み、音を立てない。レオン=クレイドが馬をやり、手綱を短く持つ。背後で鈴がひとつ、控えめに鳴った。
「着いた」
彼の声に、リセル=フィーネは深く息を吸う。三で吸って、六で吐く。胸の内の椅子を四脚、いつもの場所へ。自分の分、相手の分、未来の分、空けておく分。
村は静かだった。扉は閉ざされ、窓は布で半分ふさがれている。けれど静けさは拒絶の壁ではなく、後ろめたさの毛布に似ている。暖かいふりをして、実は冷たい。
先頭の儀礼隊が呼び鈴を鳴らすと、村長の家の扉が遅れて開き、重い顔が現れた。村長はかつてより小さく見え、眉間に刻まれた溝が深い。
「……よく、来てくれた」
言葉は儀礼の温度で、心はまだ雪の下だ。レオンが一歩前に出ようとするのを、リセルは目で制した。
「状況を、聞かせてください」
「“灰の眠り”が広がっておる。最初は圧搾機小屋で働く若者が二人、次に……女衆が三人、今朝はユリウス様まで。熱は出ん、息は浅く、声をかけても深く潜っていくばかり。神殿に使いを出した。……その、わしの采配に誤りはないな?」
最後の一言が、恥の棘で自分を刺す音を含んでいた。リセルは棘を取り上げない。ただ、頷く。
「使いを出してくれて、ありがとう。まずは、家々を回ります。話せる人から話を聞きたい。——“痛い”を言える場所を、今夜のうちに作りましょう」
「“痛い”、か……」
村長の目が泳いだ。儀礼の言葉の引き出しに、その語は入っていないのだろう。彼は咳払いをし、形式通りの言い方で続ける。
「このたびは——あの夜のことは、まあ、その……悪かった」
謝罪というより、壁に貼る紙札だ。剥がれれば、また貼り直す。リセルは札を見て、うなずきも否定もしなかった。
「では、行ってきます」
レオンが村長の横に立ち、防壁のように人の視線を受け止める準備をする。儀礼隊は距離を取り、馬の鼻息を静かにさせる。
最初の家は、圧搾機小屋の真向かいだった。あの夜、匂いが強かった場所だ。扉を叩くと、内側で鎖の外れる音、戸板の端が少しだけ開く気配。隙間から覗く目は、後ろめたさと期待で湿っている。
「リセルだよ。ここにいるよ」
扉は、ためらいののち、少しだけ広く開いた。暖炉の火は弱く、部屋の空気は人の寝息で重い。炉端に老女が座り、奥の寝台で青年が浅く息をしている。
「話そう。——怖さを言葉にして。順番に」
リセルは椅子を一脚引き寄せ、老女の向かいに座った。老女の手は薄く、氷砂糖みたいに硬い。彼女は最初、口を固く結び、やがて歯の隙間から言葉を押し出した。
「怖い。……怖い。あの小屋の音が、耳の奥で鳴る。木の軋み、油の跳ねる音、若い声。わしの息子が倒れた日の音と、今の音が重なる。火を強くすると、その音が大きくなる気がして、火が強くできない」
「ありがとう。——その声は、居ていい」
老女の目に、初めて涙が溜まる。リセルは彼女の手へ薄い布のように掌を置き、呼吸を合わせる。三で吸い、六で吐く。青年の寝台に視線だけ送り、呼吸の波が少しだけ深くなったのを確かめる。奥で、子どもが布団にもぐりながらこちらを見ていた。目が合うと、彼は布団から手を出し、真似をして息を数え始めた。
「……うまいね」
子どもは照れて潜り込み、布団が波のように揺れた。
二軒目、三軒目。
扉は硬いが、言葉は開くと流れが早い。長年詰まった管が通る音が、家々の床下から微かに伝わる。リセルは“遠見”と接触を織り交ぜ、家族にも役割を渡した。肩甲骨の内側に掌を置く人、呼吸の数を数える人、灯りの手入れをする人。
ミレに似た少女が、祖父の背にそっと手を置いた。「ここにいるよ」と小声で練習する。祖父の肩がふっと落ち、少女は驚いて笑った。その笑いが隣家の壁へ染み込み、薄い温度になって広がる。
村の真ん中にある広場は、雪で白く、圧搾機小屋の影が長い。あの夜の音は、雪に吸われているのに、耳の奥にだけ残っている。木が軋み、声が上ずり、刃のような言葉が空気を切る。——その記憶がいまも村全体の喉を締めている。
「ここに、灯を置く」
リセルは呟き、雪を手で払って丸い跡をつくる。レオンが周囲の視線を外へ流し、儀礼隊の旗を下げさせる。
村長が遠巻きに腕を組み、唇を噛んだ。
彼は彼なりの勇気で、近づいた。
「……どこから、始めればよい」
「“痛い”を言ってください。村長のそれを」
村長は、首筋に厚い布が巻き付くみたいな顔をした。
数拍。彼は目を閉じ、言った。
「恥ずかしい。——わしは、恥ずかしいんだ」
その言葉は、音になった瞬間、雪の上で湯気を立てた。
村人が一斉に顔を上げ、耳を傾ける。
村長は続ける。
「あの夜、判断を誤った。責任を、お前に押しつけた。掟や面子の陰に隠れて、怖かった自分を見なかった。いまも、恥ずかしい。……恥ずかしさに、喉をつかまれておる」
リセルは頷いた。「それ、居ていい」
村長の肩が、初めて落ちた。雪が重さを受け止め、音も立てずにわずかに沈む。
遠くで、子どもが泣き止み、犬が鼻で雪を掘った。
そのとき——
「リセル!」
駆けてくる足音。見慣れた赤いマフラーが風を裂き、ミーナが半ばすべり込みながら抱きついてきた。体温は高く、涙は熱く、声は子どもの頃と同じ高さで震えている。
「ごめん……ごめん、ずっと、言えなかった……あの夜、止められなかった。怖かった。みんなの顔が怖くて、あなたを見るのも怖くて、言葉を、飲み込んだ。何度も手紙を書いたけど、出せなかった」
「ミーナ」
リセルは彼女の背を撫でる。薄い布を一枚、肩甲骨の内側に置くみたいに。
ミーナはしゃくり上げ、言葉を継いだ。
「戻ってきてくれて、ありがとう。お願い、ユリウスを……。いや、お願いって言い方、違う。助けてじゃなくて……“一緒に、いて”。あの子の側に」
ミーナの勇気は、雪より脆く見えるのに、雪より強かった。
村長が視線を伏せ、レオンが遠くの見張りへ指で合図を送る。周囲の喧騒が一息だけ小さくなった。
「行こう。ユリウスの家へ」
家々の扉を過ぎるたび、隙間から視線が覗いた。後ろめたさは影のように伸び、でも影は灯の近くで薄くなる。リセルは歩幅を一定に保ち、呼吸を刻む。三で吸い、六で吐く。扉は閉じているが、言葉は開く。
ユリウスの家の扉は、かつて自分が何度も出入りした音を覚えていた。取っ手の冷たさ、敷居の高さ、きしむ板。ミーナが先に入り、リセルはその後ろで小さく礼をした。
室内は静かで、整っている。花瓶に差した枯れかけの小枝、整えられた布団、火の小さな炉。寝台にユリウス。顔は痩せ、少年のように見える。呼吸は浅く、まぶたの下で眼球が小さく震えている。
ユリウスの母が椅子に座り、膝の上で両手を握りしめていた。
彼女の手は美しく、しかし血が通っていないみたいに白い。目だけが、水気を失っている。
「——お邪魔します」
リセルは床に膝を折り、彼女の視線の高さへ降りた。
母はしばらく黙っていた。沈黙は針の縫い目のように細かく、やがて破れた。
「あなた……」
「はい」
「……恨んでいる、でしょう。あの夜の私たちを」
リセルは首を振った。「恨みは、ここに居ない」
母はかすかに笑った。笑いには刃がないが、棘がある。
「強いのね。私は、弱い。弱いから、言う。——ユリウスは、あなたを恨んでるわ」
空気が一段、冷えた。
炉の火が小さく泣き、レオンの指が無意識に剣の位置を確かめる。ミーナが吸い込んだ息を胸に抱えたまま、出せずに固まる。
母は続けた。声は震えない。
「恨みは、彼の呼吸の中に混じっている。あの夜、あの言葉を言った自分を直視する代わりに、あなたの名前で蓋をした。——その蓋が、眠りの重しになっているのかもしれない。
でも、私は母だから、こう願う。たとえ恨んでいても、あなたに、側にいてほしい」
リセルはユリウスを見た。まつげの影。浅い胸の上下。皮膚の色。
恨みは、在る。
在るものは、在るままで居させる。消そうとすると、別の場所で暴れるから。
「側に座ります。——“痛いね”って言うだけです。許しは求めませんし、赦しも渡しません。彼が彼を見られるように、灯を置く。……それだけ」
母の目が、初めて湿った。
ミーナが小さく嗚咽し、唇を噛む音がした。
「始めましょう」
リセルは寝台のそばに椅子を引き寄せ、紗も天蓋もない空気の中で、いつものように静かに座った。
指を一度だけ組み直し、掌を膝に置く。声は小さく、けれどはっきりと。
「こんばんは。——寒いね」
言葉は灯になり、部屋の隅で丸くなる。
レオンは扉の側で目と耳を張り、外の気配を遮る。
ミーナは背中の右側に、母は左側に、掌を薄く置く。肩甲骨の内側に、薄い布。呼吸を三で吸い、六で吐く。
ユリウスの指先が、ほとんど見えないほど微かに動いた。
リセルは続ける。
「親指は勇気。人差し指は指し示すひと。中指は中心。薬指は約束。小指は秘密。——約束は、守る。秘密も、守る」
彼女の声に、ユリウスの胸の起伏がほんの少し深くなる。炉の火がそれに合わせて小さく呼吸し、家の梁が軋まずに沈黙する。
村の外では、雪が静かに降り続けていた。
圧搾機小屋は暗く、しかし夜の奥で確かに在る。その記憶は村全体の喉を掴み続ける。
その喉に、今、指が一本ずつ名前を得る。勇気。指し示す。中心。約束。秘密。
——やがて、母の肩が、音もなく落ちた。
涙が、遅れて頬を伝う。ミーナの手が震え、しかし布の重さを守る。
リセルは息を整え、目を閉じて、灯をもうひとつ置いた。
ユリウスの夢の闇に、帰り道の標を。
彼が彼を見たとき、蓋の名前が剥がせるように。
扉の外、雪の匂いがわずかに濃くなる。
レオンが視線だけで外とつながり、儀礼隊に短く合図を送る。
彼の肩の古傷がうずく。——嵐の前触れのように。
母の声が、やわらかく割れた。
「……ありがとう」
それは、礼でも懇願でもなく、ただ在るものを在ると言うための音だった。
リセルは頷き、ユリウスの耳元へ、もう一度だけ、囁く。
「ここにいるよ」
その瞬間、家の外で鈴がひとつ、遠く短く鳴った。
雪の村はまだ閉じた扉だらけだ。けれど、いくつかの鍵穴には、今、灯が差し込んだ。
そして——帰り際、戸口で、母はもう一度だけリセルの袖を引き、囁いた。
「……息子は、あなたを恨んでいる。それでも、あなたしか、いないの」
冷えた空気が、喉の奥に刺さる。
リセルはその痛みを飲み込まず、口の前に置いた。
——痛いね。
言葉にならない言葉で、椅子のひとつを空けたまま、部屋を出た。
丘道を下りきったところで、風の匂いが変わった。
土に保存された果汁、湿った木箱、圧搾機の油。ロウエンの匂いだ。雪が音を吸い、灯の色だけが道案内になる。儀礼隊の旗は風を読み、音を立てない。レオン=クレイドが馬をやり、手綱を短く持つ。背後で鈴がひとつ、控えめに鳴った。
「着いた」
彼の声に、リセル=フィーネは深く息を吸う。三で吸って、六で吐く。胸の内の椅子を四脚、いつもの場所へ。自分の分、相手の分、未来の分、空けておく分。
村は静かだった。扉は閉ざされ、窓は布で半分ふさがれている。けれど静けさは拒絶の壁ではなく、後ろめたさの毛布に似ている。暖かいふりをして、実は冷たい。
先頭の儀礼隊が呼び鈴を鳴らすと、村長の家の扉が遅れて開き、重い顔が現れた。村長はかつてより小さく見え、眉間に刻まれた溝が深い。
「……よく、来てくれた」
言葉は儀礼の温度で、心はまだ雪の下だ。レオンが一歩前に出ようとするのを、リセルは目で制した。
「状況を、聞かせてください」
「“灰の眠り”が広がっておる。最初は圧搾機小屋で働く若者が二人、次に……女衆が三人、今朝はユリウス様まで。熱は出ん、息は浅く、声をかけても深く潜っていくばかり。神殿に使いを出した。……その、わしの采配に誤りはないな?」
最後の一言が、恥の棘で自分を刺す音を含んでいた。リセルは棘を取り上げない。ただ、頷く。
「使いを出してくれて、ありがとう。まずは、家々を回ります。話せる人から話を聞きたい。——“痛い”を言える場所を、今夜のうちに作りましょう」
「“痛い”、か……」
村長の目が泳いだ。儀礼の言葉の引き出しに、その語は入っていないのだろう。彼は咳払いをし、形式通りの言い方で続ける。
「このたびは——あの夜のことは、まあ、その……悪かった」
謝罪というより、壁に貼る紙札だ。剥がれれば、また貼り直す。リセルは札を見て、うなずきも否定もしなかった。
「では、行ってきます」
レオンが村長の横に立ち、防壁のように人の視線を受け止める準備をする。儀礼隊は距離を取り、馬の鼻息を静かにさせる。
最初の家は、圧搾機小屋の真向かいだった。あの夜、匂いが強かった場所だ。扉を叩くと、内側で鎖の外れる音、戸板の端が少しだけ開く気配。隙間から覗く目は、後ろめたさと期待で湿っている。
「リセルだよ。ここにいるよ」
扉は、ためらいののち、少しだけ広く開いた。暖炉の火は弱く、部屋の空気は人の寝息で重い。炉端に老女が座り、奥の寝台で青年が浅く息をしている。
「話そう。——怖さを言葉にして。順番に」
リセルは椅子を一脚引き寄せ、老女の向かいに座った。老女の手は薄く、氷砂糖みたいに硬い。彼女は最初、口を固く結び、やがて歯の隙間から言葉を押し出した。
「怖い。……怖い。あの小屋の音が、耳の奥で鳴る。木の軋み、油の跳ねる音、若い声。わしの息子が倒れた日の音と、今の音が重なる。火を強くすると、その音が大きくなる気がして、火が強くできない」
「ありがとう。——その声は、居ていい」
老女の目に、初めて涙が溜まる。リセルは彼女の手へ薄い布のように掌を置き、呼吸を合わせる。三で吸い、六で吐く。青年の寝台に視線だけ送り、呼吸の波が少しだけ深くなったのを確かめる。奥で、子どもが布団にもぐりながらこちらを見ていた。目が合うと、彼は布団から手を出し、真似をして息を数え始めた。
「……うまいね」
子どもは照れて潜り込み、布団が波のように揺れた。
二軒目、三軒目。
扉は硬いが、言葉は開くと流れが早い。長年詰まった管が通る音が、家々の床下から微かに伝わる。リセルは“遠見”と接触を織り交ぜ、家族にも役割を渡した。肩甲骨の内側に掌を置く人、呼吸の数を数える人、灯りの手入れをする人。
ミレに似た少女が、祖父の背にそっと手を置いた。「ここにいるよ」と小声で練習する。祖父の肩がふっと落ち、少女は驚いて笑った。その笑いが隣家の壁へ染み込み、薄い温度になって広がる。
村の真ん中にある広場は、雪で白く、圧搾機小屋の影が長い。あの夜の音は、雪に吸われているのに、耳の奥にだけ残っている。木が軋み、声が上ずり、刃のような言葉が空気を切る。——その記憶がいまも村全体の喉を締めている。
「ここに、灯を置く」
リセルは呟き、雪を手で払って丸い跡をつくる。レオンが周囲の視線を外へ流し、儀礼隊の旗を下げさせる。
村長が遠巻きに腕を組み、唇を噛んだ。
彼は彼なりの勇気で、近づいた。
「……どこから、始めればよい」
「“痛い”を言ってください。村長のそれを」
村長は、首筋に厚い布が巻き付くみたいな顔をした。
数拍。彼は目を閉じ、言った。
「恥ずかしい。——わしは、恥ずかしいんだ」
その言葉は、音になった瞬間、雪の上で湯気を立てた。
村人が一斉に顔を上げ、耳を傾ける。
村長は続ける。
「あの夜、判断を誤った。責任を、お前に押しつけた。掟や面子の陰に隠れて、怖かった自分を見なかった。いまも、恥ずかしい。……恥ずかしさに、喉をつかまれておる」
リセルは頷いた。「それ、居ていい」
村長の肩が、初めて落ちた。雪が重さを受け止め、音も立てずにわずかに沈む。
遠くで、子どもが泣き止み、犬が鼻で雪を掘った。
そのとき——
「リセル!」
駆けてくる足音。見慣れた赤いマフラーが風を裂き、ミーナが半ばすべり込みながら抱きついてきた。体温は高く、涙は熱く、声は子どもの頃と同じ高さで震えている。
「ごめん……ごめん、ずっと、言えなかった……あの夜、止められなかった。怖かった。みんなの顔が怖くて、あなたを見るのも怖くて、言葉を、飲み込んだ。何度も手紙を書いたけど、出せなかった」
「ミーナ」
リセルは彼女の背を撫でる。薄い布を一枚、肩甲骨の内側に置くみたいに。
ミーナはしゃくり上げ、言葉を継いだ。
「戻ってきてくれて、ありがとう。お願い、ユリウスを……。いや、お願いって言い方、違う。助けてじゃなくて……“一緒に、いて”。あの子の側に」
ミーナの勇気は、雪より脆く見えるのに、雪より強かった。
村長が視線を伏せ、レオンが遠くの見張りへ指で合図を送る。周囲の喧騒が一息だけ小さくなった。
「行こう。ユリウスの家へ」
家々の扉を過ぎるたび、隙間から視線が覗いた。後ろめたさは影のように伸び、でも影は灯の近くで薄くなる。リセルは歩幅を一定に保ち、呼吸を刻む。三で吸い、六で吐く。扉は閉じているが、言葉は開く。
ユリウスの家の扉は、かつて自分が何度も出入りした音を覚えていた。取っ手の冷たさ、敷居の高さ、きしむ板。ミーナが先に入り、リセルはその後ろで小さく礼をした。
室内は静かで、整っている。花瓶に差した枯れかけの小枝、整えられた布団、火の小さな炉。寝台にユリウス。顔は痩せ、少年のように見える。呼吸は浅く、まぶたの下で眼球が小さく震えている。
ユリウスの母が椅子に座り、膝の上で両手を握りしめていた。
彼女の手は美しく、しかし血が通っていないみたいに白い。目だけが、水気を失っている。
「——お邪魔します」
リセルは床に膝を折り、彼女の視線の高さへ降りた。
母はしばらく黙っていた。沈黙は針の縫い目のように細かく、やがて破れた。
「あなた……」
「はい」
「……恨んでいる、でしょう。あの夜の私たちを」
リセルは首を振った。「恨みは、ここに居ない」
母はかすかに笑った。笑いには刃がないが、棘がある。
「強いのね。私は、弱い。弱いから、言う。——ユリウスは、あなたを恨んでるわ」
空気が一段、冷えた。
炉の火が小さく泣き、レオンの指が無意識に剣の位置を確かめる。ミーナが吸い込んだ息を胸に抱えたまま、出せずに固まる。
母は続けた。声は震えない。
「恨みは、彼の呼吸の中に混じっている。あの夜、あの言葉を言った自分を直視する代わりに、あなたの名前で蓋をした。——その蓋が、眠りの重しになっているのかもしれない。
でも、私は母だから、こう願う。たとえ恨んでいても、あなたに、側にいてほしい」
リセルはユリウスを見た。まつげの影。浅い胸の上下。皮膚の色。
恨みは、在る。
在るものは、在るままで居させる。消そうとすると、別の場所で暴れるから。
「側に座ります。——“痛いね”って言うだけです。許しは求めませんし、赦しも渡しません。彼が彼を見られるように、灯を置く。……それだけ」
母の目が、初めて湿った。
ミーナが小さく嗚咽し、唇を噛む音がした。
「始めましょう」
リセルは寝台のそばに椅子を引き寄せ、紗も天蓋もない空気の中で、いつものように静かに座った。
指を一度だけ組み直し、掌を膝に置く。声は小さく、けれどはっきりと。
「こんばんは。——寒いね」
言葉は灯になり、部屋の隅で丸くなる。
レオンは扉の側で目と耳を張り、外の気配を遮る。
ミーナは背中の右側に、母は左側に、掌を薄く置く。肩甲骨の内側に、薄い布。呼吸を三で吸い、六で吐く。
ユリウスの指先が、ほとんど見えないほど微かに動いた。
リセルは続ける。
「親指は勇気。人差し指は指し示すひと。中指は中心。薬指は約束。小指は秘密。——約束は、守る。秘密も、守る」
彼女の声に、ユリウスの胸の起伏がほんの少し深くなる。炉の火がそれに合わせて小さく呼吸し、家の梁が軋まずに沈黙する。
村の外では、雪が静かに降り続けていた。
圧搾機小屋は暗く、しかし夜の奥で確かに在る。その記憶は村全体の喉を掴み続ける。
その喉に、今、指が一本ずつ名前を得る。勇気。指し示す。中心。約束。秘密。
——やがて、母の肩が、音もなく落ちた。
涙が、遅れて頬を伝う。ミーナの手が震え、しかし布の重さを守る。
リセルは息を整え、目を閉じて、灯をもうひとつ置いた。
ユリウスの夢の闇に、帰り道の標を。
彼が彼を見たとき、蓋の名前が剥がせるように。
扉の外、雪の匂いがわずかに濃くなる。
レオンが視線だけで外とつながり、儀礼隊に短く合図を送る。
彼の肩の古傷がうずく。——嵐の前触れのように。
母の声が、やわらかく割れた。
「……ありがとう」
それは、礼でも懇願でもなく、ただ在るものを在ると言うための音だった。
リセルは頷き、ユリウスの耳元へ、もう一度だけ、囁く。
「ここにいるよ」
その瞬間、家の外で鈴がひとつ、遠く短く鳴った。
雪の村はまだ閉じた扉だらけだ。けれど、いくつかの鍵穴には、今、灯が差し込んだ。
そして——帰り際、戸口で、母はもう一度だけリセルの袖を引き、囁いた。
「……息子は、あなたを恨んでいる。それでも、あなたしか、いないの」
冷えた空気が、喉の奥に刺さる。
リセルはその痛みを飲み込まず、口の前に置いた。
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