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第5話 紅玉の目覚め
しおりを挟む昼はまだ終わっていないのに、黒曜の森は夕方の顔をしていた。雲が低く、木々が互いの影で影を濃くし合い、風は土の匂いに鉄を混ぜて運ぶ。
その鉄の匂いは、私たちに向けられていた。
「止まれ」
オブシディアンの掌が私の胸元の前で静かに立つ。
空気が、違った。
耳の裏が痺れる。水面の下で何かが方向を変え、こちらへ一直線に寄ってくる気配。
「右、低い茂み。二、いや、三」
「獣?」
「半分違う」
半分違う。つまり、人でも獣でもない“森の産物”。
私は息を浅くし、剣の柄を掴む。指の内側に朝の練習の痛みが残っていて、それが逆に安心をくれた。痛みは現在地だ。
茂みが一瞬ためらい、次の瞬間には破裂した。
飛び出したのは四つ足の影。鹿に似たシルエット。だが、角が枝分かれしていない。一本の黒い槍。皮膚は樹皮のようにひび割れ、裂け目から湿った苔が覗いている。眼窩は空洞で、そこから白い煙が細く抜けていた。
「樹喰いの獣化(じゅぐいのじゅうか)だ。角に触れるな」
忠告と同時、ひとつが低く滑り、ひとつが高く跳び、ひとつが私たちの死角に回る。
私は前へ出る。逃げ腰にすると森は追い打ちをかける。
低く滑った個体の角が土を抉る。私は半歩外へ体をずらし、斜めに刃を走らせた。
手応えは湿った木。肉ではない。裂け目から黒い汁がすべり落ち、土に触れて煙を上げる。酸だ。
「後ろ!」
オブシディアンの声。背の毛が総立ちになるのと、背後の空気が裂けるのは同時。私は前に飛び、肩を捻る。背後から突っ込んだ個体の角が私の外套を裂き、皮膚に紙一重で触れない。
転がりながら起き上がると、二体が挟み込むように位置を取り、残る一体はオブシディアンの前で爪を石に当てて火花を散らした。挑発。
彼は挑発に乗らない。横へ流し、踏み込み、喉元――喉にあたる部分へ刃を入れる。
切れる。だが、死なない。喉の奥は腐った木の節のように硬く、刃を弾く。
樹喰いは喉で息をしない。肺も心臓も、もう別の何かに置き換わっている。
「関節を狙え。節と節の間」
私は頷き、低い個体の肩の付け根を狙う。
突き。
刃先が節の滑りへ潜り、硬さが一瞬消える。そこへ体重を乗せる。
獣が呻き、体をねじる。反射で刃を抜くと、黒い汁が弧を描いた。頬に飛ぶ直前、私は横を向いた。嗅いだら肺が焼ける、そんな予感がしていた。
「上!」
見上げると、最後の一体が空から降ってくる。角はまっすぐ私の眉間。避けきれない角度。
時間が薄く伸び、音が遠のく。
――ここで終わる?
嫌だ。
嫌だ、と言葉になる前に、胸の紅玉が熱を持った。
心臓が、石の内側に入ってしまったみたいに、鼓動が硬く跳ねる。
「立て」
わずかに遅れて届くオブシディアンの声。
私は立つ。間に合わないと知っていても、立つ。
刃を上げる。角の線と交わる位置。
腕が重い。肩が焼ける。
そのとき、指先に、音が走った。
ぱち、と。
細い火花の、一つ上の音。
指の腹から紅い糸が解き放たれ、刃の縁を駆け上がる。
炎が刃をまとう。
赤、と言うには深すぎる。黒、と言うには明るすぎる。宝石の中で燻っていた色が、初めて空気を吸ったときの音。
角が炎に触れる。
“キイ”と、金具を爪で引っ掻いたような悲鳴が森を裂く。
獣の体内で何かが収縮し、私はその隙間に刃を滑らせた。
節がほどける。
刃が喉まで届く。
獣が落ちる。
低い個体が横からぶつかってくる。私は半歩遅れる。
肩に衝撃。世界が回る。木の幹が背中に当たり、息が抜けた。
視界の端で炎が揺れ、刃の上でまだ生きている。
怖い?
怖くない。
怖いはずなのに、指先が知っている。これは私の火だ、と。
祖母の声が耳の奥で囁く。――カルネリアンの火は、誰かのために灯せば呪い、己のために灯せば刃。
私は立ち上がる。喉に酸の匂いが絡み、目が少し痛む。
残る二体が同時に仕掛けてくる。
右へ、左へ。
炎が指先から刃へ、刃から空気へ滲む。
私は踏み込む。
足が泥に沈む瞬間、腰を切る。
炎の帯が、獣の首の根本に薄く残っていた樹の皮を焼き、柔らかくする。
そこへ、鋼。
切れる。
切れる――!
黒い汁が飛ぶ。火がそれに触れ、ジュッと音を立てる。甘い腐臭が燃えて、鼻に刺さった。
最後の一体が私の背に回る。影。空気が押し出される音。
間に合わない。
そう判断した瞬間、背中に熱が貼りついた。
オブシディアンの外套だ。
彼の体が半歩、私の後ろに滑り込み、刃が横から走る。
角が弾かれ、火花が散る。
「前だけ見ろ。後ろは俺がやる」
言葉が胸に刺さる。返事は短く。「了解」
私は前へ。
刃が軽い。火が重さを支えている。
突き。
引き。
薙ぎ。
全てが一拍ずつ、胸の鼓動と火の呼吸に合わせてはまる。
仕留める。
倒れる音が、遅れて届く。
森が静かになる。
私は膝に手をつき、息を整えた。火はまだ刃に残り、小さく舌を出している。
オブシディアンが近づき、私の手首を掴んだ。
「止めろ」
「できる」
「やれ」
私は火に語りかける。
――ここまで。
炎が、ふ、と小さく笑った気がして、刃の上から薄い布のように剥がれ落ち、指先へ、さらに掌へ戻ってきた。
最後に、紅玉の中心が小さく明滅し、静まる。
遅れて痛みが来る。肩、脇腹、膝。
汗が冷え、震えが出る。
オブシディアンが水袋を口元に押し当てる。
「飲め」
水は冷たいのに、喉の内側で熱を増す。
「……今の、見た?」
「見た。悪くない火だ」
「怖くない?」
「怖がるかどうかは、持ち主の顔次第だ」
「私の顔は?」
「燃える顔」
短い評価に、笑いが喉でひっかかる。笑ったら泣きそうで、泣いたら笑いそうだ。
息を整え、私は樹喰いの残骸を見た。ひび割れた皮膚、黒い汁、焼け焦げた縁。火の通った部分は柔らかく、通っていない部分は異様に硬い。
祖母の書付の断片が脳裏に浮かぶ。『禁忌の炎は、封じられてなお血を歩く。火は支配ではなく対話。対話なき火は呪い、対話ある火は刃』
禁忌。
王国が封じた理由。
火は秩序を選ばないから。
火は身分を選ばないから。
火は幸福も不幸も、同じ温度で燃やすから。
「ルビー」
「なに」
「その火――カルネリアンの血筋の火だな」
「知ってるの?」
「昔、王都で聞いたことがある。火の一族がいた。王に従い、王に恐れられ、王に封じられた」
「封じたのは誰」
「いつも、王の側にいた“正しさ”だ」
私は空を一度見上げる。木々の隙間に四角く切り取られた灰色の天。
正しさ。
王都はそれでできていた。
正しい衣服、正しい言葉、正しい微笑。
私はそこから追い出された。
追い出された先で、私の中の“間違い”が、火になって目を開けた。
「オブシディアン」
「何だ」
「これ、使う。復讐に」
「使え」
「止めないの?」
「止める理由はない。止めるなら、扱い方を知らないときだ。今は、扱い方を覚える時だ」
「教えてくれる?」
「俺は剣を教える。火はお前が火から学べ」
「不親切」
「火は親切じゃない」
私は頷き、刃を布で拭う。焼けた匂いが布に移る。
オブシディアンは周囲を見回し、短くまとめた。
「撤収。血と酸は呼ぶ。動くぞ」
「うん」
歩き出すと、足が驚くほど軽かった。
怖さは隣に座っている。けれど、その肩に手を置けるくらいには、私は落ち着いている。
森の匂いが変わる。さっきまで私に向いていた牙が、少しだけ角度を逸らせた気がした。
木の間から、細い光が差す。灰色の天が、わずかに薄い。
汗の塩が唇に残り、舌で舐めるとしょっぱい。生きている味だ。
「さっきの、どう感じた」
オブシディアンが歩きながら訊く。
「怖いより先に、懐かしい、って」
「懐かしい?」
「胸の奥の古い部屋の鍵が回った音がした。ずっと触ってはいけない部屋。そこに、火がいた」
「鍵は戻せるか」
「戻せる。けど、もう開け方を知ってしまった」
「なら、扉を勝手に開けるな。火は客人だ。呼んだら迎えろ。帰すときは見送れ」
「礼儀?」
「生き残りの作法だ」
「あなたの“正しさ”?」
「俺の“効率”」
夕刻、少し高い場所に出る。木々の間から、遠くの湿地が鏡のように光り、その先に森の濃い帯が続いている。
世界は広い。王都の舞踏室より広く、音楽より不安定で、でも、私に似合う。
私の中では、火がまだ小さく呼吸をしていた。心臓の鼓動とズレないように、ゆっくり、深く。
紅玉の中心が、時折、微かな光を返す。胸骨の裏で、熱が静かな巣を作っている。
――この火で、壊す。
宣言は、呪いじゃない。
宣言は、道になる。
足がそこに乗る。
歩ける。
夜、焚火の前。
私の指先は、もうあの紅い炎を求めてムズムズしていた。だが、呼ばない。呼びたい時ほど、呼ばない。昼、燃えた分、夜は火に眠ってもらう。
代わりに、火の形を目で追う。炎の裾がどのくらいの速さで揺れるか。薪の割れ目がどう響くか。煙が上に行くのか、横に流れるのか。
オブシディアンが干し肉を炙りながら、ぽつりと言う。
「王都を燃やすつもりか」
「彼らの“幸福”だけ」
「幸福と建物の見分けはつくか」
「幸福は、顔に乗る」
「顔だけで足りるか」
「足りるまで見る」
「見誤ったら?」
「燃やした煙で、正しさの匂いがわかるようになるまで、学ぶ」
「学びは死人を出す」
「死人はもう出てる」
オブシディアンは肉を差し出した。受け取り、噛む。今日の肉は、さっきの戦いの味がする。酸の匂いがまだ鼻腔に残り、火がそれを上書きする。
「ルビー」
「なに」
「復讐は、目的であって手段だ。手段が目的になると、火が食い主を食う」
「わかってる」
「わかってない顔だ」
「わかってる。……少なくとも、今は」
「“今は”が積み重なれば、それでいい」
焚火が小さく弾け、火の粉が二つ、夜に飛ぶ。
私は紅玉を握り、目を閉じた。
瞼の裏で、昼の炎がもう一度立ち上がる。刃の縁に沿って走る紅、獣の節を柔らかくする熱、喉の膜を切り裂く瞬間の静けさ。
その全部が、私の呼吸と重なる。
祖母の声が、今度ははっきりと聞こえた。
――火は対話だよ、ルビー。燃やし方が、あなたの言葉になる。
私は静かにうなずく。見えない祖母に、焚火に、夜に、自分に。
そして、小さく口にする。
「この力こそ、刃」
言葉に、火が頷いた。
火は嘘を嫌う。
私も、もう、嘘が嫌いだ。
森の夜が深くなる。星は少ない。代わりに、遠くの湿地で蛍が光る。ちら、ちら、と。
オブシディアンは剣を膝に置いたまま眠り、私は火の番を続ける。
指先が時々勝手に熱を探しにいき、私はその手をそっと宥める。
焦らない。
火は、待てる。
私も、待てる。
待ちながら、歩く。
歩きながら、燃やす。
燃やしながら、選ぶ。
選びながら、壊す。
壊しながら、作る。
夜明け前の最も冷たい風が、焚火の上を撫でる。炎が一瞬しぼみ、すぐに持ち直した。
胸の紅玉も同じように、ふっと細く、また、静かに厚く灯る。
私は目を開け、薄い空を見た。
夜が終わる。
終わることは、始まることだ。
火は、次の形を待っている。
私も、待っている。
その先に、王都の“幸福”がある。
その幸福は、崩れる。
それを、私が崩す。
紅玉の炎で。
私の言葉で。
私の手で。
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