捨てられた宝石の逆襲~あなたの幸福を、ルビーの炎で焼き尽くす~

タマ マコト

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第8話 王都の影

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 王都アウロリアは、遠くから見ると真珠の碗だった。
 朝靄をすくい、尖塔を箸のように並べ、白い壁を滑らせる。近づくほど、その真珠は薄皮の内側に黒い筋を見せる。
 門外の荒地で、私は外套のフードを深く被り、風に溶ける。オブシディアンは無言で並んだ。声が要らない場面は、いつも同じ温度だ。

「時刻は?」

「三つ刻前。合図は“二”で東、“三”で危険、“四”で散開」

「了解」

 灰色の空の下、私たちは王都の縁をかすめて動いた。約束の路地は、洗いざらしの布のように色を失っている。煉瓦造りの裏口、潰れた窓、雨の鉛。鼻の奥でパンの焼ける匂いが薄くかすれ、魚市場の塩気に押しのけられていく。
 そこに、しみのように座っている男がいた。背広は擦り切れ、帽子は誰かの遺品のように古い。だが靴は新しい。足元が新しい人間は、すぐに立てる――密偵の足。

「遅い」

 男は顔を上げずに言った。瞳は鉄錆色。名はヘマタイト。王都の下水と屋根裏と香の煙を経由して情報を運ぶ、灰の鼠。

「御苦労。喉は?」

「砂だらけだ。だが、喉の砂は噛めば味がする」

「聞かせて」

 彼は一度だけ咳をして、籠の底から包みを出した。古い賛美歌の楽譜が巻物の芯になっている。外に無意味、内に刃。
 包みの内側には、薄紙に書かれた短い手書きの報告と、細い線で描かれた王都の断面図がいくつも挟まっていた。礼拝堂の床下に走る水路、香の部屋と油の倉庫の位置、鐘楼の階段数、王太子の馬車の待機場所。
 ヘマタイトは一本の針で紙を指した。

「聖女サファイア。奇跡の“水”は南の井戸から。だが、水自体が奇跡じゃない。聖油に混ぜる茎粉で“晴れ”を演出してる。眠りを浅くし、呼吸を軽く見せる薬草。祭司は効き目の出る病人だけ舞台に上げる。重い者は裏口から塩を握らされて帰される。塩は“赦しの印”という名目だ」

「見せかけを“救い”に仕立ててる」

「それだけじゃない。病みの祈祷の夜、香に“夜泣草”を混ぜる。泣き止む。母親たちは神を愛する。――泣き止むだけだ。病は残る」

 私の指が、薄紙の端を撫でる。
 夜泣草。祖母の書付で見た。眠りを縫う薬。効き目の反動に、朝の絶望が深くなる。
 ヘマタイトはもう一枚、紙を見せた。王太子アメジストの動線。狩猟、舞踏、賭場。寄付金の行方は王太子の基金へ、そこからさらに“王族預託庫”へ落ち、最後は貴族連盟の懐に吸い寄せられる。

「王は?」

「見かけない。殿下の影だけが伸びている。王政は黴だらけだ。税は重く、銀は薄く、パンは軽い。怒りは湿って、火がつかない」

「火はつけるものよ」

 ヘマタイトは、初めてこちらを見た。
 私の瞳に灯っているものを測る目。焚火で熱された鉄が水に沈む前の、青い光。
 彼は目を細めて、紙の一枚を返した。

「聖女の“奇跡の列”に並ぶ顔は、半年で半分入れ替わる。“治った者”は、翌月には別の病名で別の列に並ぶ。サファイアは“神の慈悲”を売っている。領主たちは“お土産”に赦しの印を持ち帰る。王都のパン屋は“聖女の粉”を小麦に混ぜ、善意のパンを焼く。型は同じ。香りも同じ。味だけ違う。薄い」

 紙の匂いが、私の喉に刺さった。
 薄い幸福。油膜の幸福。
 燃やすには、ちょうどいい厚み。

「もうひとつ。礼拝堂の地下。女神像の真下に、古い水路が二本。奇跡の“水”はそこを通る。祭司は封印の鍵を持っているが、鍵は鍵じゃない。――歌だ」

「歌?」

「鐘の刻に合わせて歌う“古い聖歌”。それが扉を開ける。音で開く扉は、音で壊れる」

 オブシディアンが短く笑う。「良い。刃を使わずに壊せるものは、全部壊す」

「更に――」
 ヘマタイトは声を落とした。「殿下は聖女の寝所に通っている。愛の話じゃない。儀式だ。“選ばれし者”の交わりが王国を強くするという古い迷信。……笑えるだろう?」

「笑えないわ。燃やすわ」

 私の口調は静かだった。静かすぎて、風が一瞬だけ止まった。
 オブシディアンが視線だけを送る。私は頷く。感情は炉の奥へ、今は設計図を。

「ヘマタイト。礼拝堂の図面、これが全て?」

「いや、もうひとつ。聖女の“泣きの部屋”がある。儀式の前、彼女は必ずそこで泣く。泣きながら祈る。祈りの床板は新しい。下に――箱」

「箱?」

「寄進箱じゃない。『聖遺物』の箱。……中身は空だ。空の箱を祈りで満たし、言葉で“重さ”に変える。信徒が帰るとき、彼女はその重さを“肩代わり”する。奇跡の手触りは、重さだ」

「空っぽほど、燃えやすい」

 私の笑みを見て、ヘマタイトは肩を竦めた。「……その顔、覚えておく。逃げる合図の顔だ」

「逃げなくていいわ。あなたは鼠。鼠は火の前で最初に逃げるけど、最後に戻ってくる。灰の上でパンを齧る」

「誉め言葉にしておく」

 取引は短いほど健康だ。私は小袋を投げ、彼は紙を全部渡した。硬貨の音が石畳に少し跳ねて、次の風に混ざった。
 ヘマタイトが立ち上がる。影が地面から剥がれる。「もう一つ、報せ。明後日、礼拝堂で“水の祝祭”がある。王太子臨席。鐘は八つの刻。観衆は千。……観衆が多いほど、奇跡は派手になる」

「観衆が多いほど、火は強くなる」

「何?」

「独り言。行って」

 ヘマタイトが去って、路地に空気が戻る。
 オブシディアンが紙束を半分持ち、壁に背を預けた。「どうする」

「図面を頭に焼く。礼拝堂の床下の水路、香の部屋、女神像の基礎、鐘楼。――“観衆の円”を組める」

「試火は?」

「必要。祝祭の前に、別の場所で“小さく”やる」

「どこだ」

「“善意のパン屋”。聖女の粉で焼いたパンを配る店。夕刻は人が集まる。油膜の幸福が厚い。燃やせる」

「死人は出すな」

「出さない。“幸福だけ”を焼く。――できる。『ルビアの書』の“見える化”を使うわ」

「合図は?」

「二回で“始める”。三回で“中止”。四回で“散開”。あなたは賭場通りの屋根。私は店の列の最後尾」

「退路」

「二つ。裏口の樽置き場から北の路地、鐘楼下の地下水路の蓋。水路は歌で開く。歌は“古い聖歌”、第一句だけでいい」

「歌えるのか」

「歌ったことはない。でも、歌える。歌は“鍵”だから」

 オブシディアンは紙を畳み、外套の内に滑らせた。黒い瞳が一拍、私を測る。
「お前の顔が静かになった。いい顔だ」

「憎しみが、設計図に変わった音がしたの。――ねぇ、オブシディアン。私、礼拝堂の中央で陣を回すとき、“誰”を中心に置くべきだと思う?」

「王太子だ」

「聖女じゃなく?」

「聖女は“装置”だ。中心に置けば燃えるが、代替が効く。王太子は“象徴”だ。象徴は、観客の目を一度に攫う。『観衆の円』は象徴に飢える」

「同意。じゃあ、王太子の動線を“遅らせる”仕掛けが要る」

「車輪に砂。護衛の目に蜜。鐘の音の前に女神像の前で足を止めさせる“偶然”。――鼠を使え」

「ヘマタイト?」

「いや、あの赤い目の子だ。門外で硬貨を投げた子。お前、覚えてる」

 思い出す。薄い布、細い腕、石の上に落ちた二枚の銀。
 私は頷いた。「探す。彼に“役”をやらせる」

「名を付けろ。呼びやすい名だ」

「ロードライト」

「赤い石か」

「ええ。赤い目に似合う」

 計画は骨を得た。肉は今から付ける。
 私は路地を出て、王都の表通りに出た。潮の匂いが軽く混ざる。遠くで楽師が笛を吹く。パン屋の並ぶ通りは、聖女の肖像画を貼った旗で縁取られていた。
 “奇跡の粉、入荷”
 “赦しの塩、半額”
 文字は金で縁取られ、人々は列に並び、昨日よりも“良い人間”になれる期待を胸に抱く。
 私は列の末尾に立ち、肩に外套を掛けなおした。香の匂いが風に乗ってくる。夜泣草の、眠りの、慈悲の匂い。
 オブシディアンは離れ、屋根に消えた。二、三、四――合図の指が遠くで小さく動く。

 パン屋の前には、顔の柔らかい店主がいた。頬に粉、笑いの皺。
「お嬢さんも? 聖女さまの粉は、今日が最後ですよ」

「一斤ください」

「はいよ。――手、冷たいね。聖女さまのおかげで、うちは息ができる。税が上がっても、人が来る。ありがたいことだ」

「ありがたい」

 私はパンを受け取り、列を外れずに歩幅を崩した。人波の呼吸に自分の呼吸を重ね、視界の端で“幸福の油膜”を探す。
 表情の表、目尻の角度、頬の緩み方。声の揺れ。――見える。
 『ルビアの書』の“見える化”が、城下でも問題なく働く。
 油膜は薄い皮のように顔に貼り付いて、人の輪郭を曖昧にしている。それは“期待”の膜。燃えやすい。

 二回、指で太腿を叩く。
 合図。“始める”。
 私はパンの表面に指で小さな印を撫で、紅玉の熱を“黙る火”に変える。匂いも光もない、温度だけの火。
 パンの中の“粉”がわずかに泡立ち、音のないため息を吐く。
 周囲の顔の油膜が、ぷつぷつと毛穴を開くみたいに震えた。

「……なんだか、胸が軽いわ」

「息が吸える」

「聖女さま、ありがとう」

 無邪気な声が、私の耳を甘く刺す。
 同時に、油膜の端が火を吸った。
 色が薄くなる。瞳が“今”を映し始める。期待の代わりに、目の前の塩味が舌に乗る。
 私は火をひとつ深くし、すぐに引いた。燃やし過ぎない。
 幸福“だけ”を焼く。
 残るのは、空腹と、昨日より一日分重くなった現実の重さ。
 人々の息が少し荒くなり、列の足が鈍る。
 店主が眉をひそめた。「あれ?」

 屋根の上で、二回。
 オブシディアンの影が、別の屋根へ走る。監視。
 私は列から離れ、裏口の樽置き場に回る。樽に腰を乗せ、歌う。口の中だけで。“古い聖歌”の第一句。
 水路の蓋が内側から小さく鳴く。
 開く。
 退路、確認。

 三回。
 合図――“中止”。
 私は火を止め、紅玉を胸に押し返す。
 パン屋の前で、数人が遠くを見る顔になった。眠りの香の切れた目だ。
 誰かが言う。「……奇跡じゃ、ないのかもしれない」
 別の誰かがすぐに言う。「失礼を言うな。信じるんだ」
 言葉と言葉が絡み、さざ波だけが通りを過ぎる。炎上には足りない。今日は“試火”。それでいい。

 路地に戻ると、オブシディアンが降りてきた。
「無駄口が増えた」

「十分。油膜は焼ける。礼拝堂なら、一気にいける」

「ロードライトは?」

「探す」

 門外へ戻る。夕刻の光が塔の側面に斜めの刃を置き、城壁の陰から影が伸びる。
 乞食の子どもたちが石を蹴って遊んでいた。赤い瞳の少年は――いた。
 彼は私を見ると、一瞬だけ走る足を止め、そして、逃げなかった。
 私が昨日投げた銀貨が、彼の首の紐からぶら下がっている。

「やぁ」

「……昨日の人」

「仕事、ある?」

「あるなら食べる」

「いい返事。名前は、ロードライト」

「ロード……?」

「赤い石。君に似合う」

 少年は目を細め、頷く。「いい。で、何をする?」

「礼拝堂で“落とす”。王太子の足を、鐘の前で。君はぶつかって転ぶ。彼の前に飛び出す。時間を五呼吸、盗む。それだけ」

「捕まる」

「捕まらない。捕まる前に消える道を教える。ここから、水の道へ。――歌を覚える?」

「歌は嫌い」

「鍵の歌。覚えれば、パンのある場所に出られる」

 少年の喉が一度動いた。焦りの飲み込む形ではない。選び取る形。
「やる。パンのために」

「よろしい」

 私は彼の掌に、小さな黒曜石をひとつ落とした。尖った角。「痛いときは現在地。迷ったら、これを握って走る」
 彼は頷く。
 オブシディアンが横で短く言う。「四回の合図を聞いたら散れ。振り返るな」

「わかった」

 少年は影に消えた。
 私の胸の紅玉が、静かに灯り、ゆっくり消えた。
 すべてが、線で繋がる。
 礼拝堂の“観衆の円”。
 鐘の刻。
 女神像の下の歌。
 王太子の足。
 聖女の涙の部屋の空の箱。
 夜泣草、粉、塩。
 ――全部、燃える。

「ルビー」

「なに」

「顔だ。良い。殺す顔じゃない。崩す顔だ」

「崩す。崩して、見せる。中身を」

「計画を言え。確認だ」

「一、前夜に水路の鍵の歌を試す。二、当日、“観衆の円”の外周に黙る火の印を置く。三、鐘の直前、ロードライトが王太子の前に転び、足を止める。四、私が“陣”を回す。五、幸福だけを燃やす。六、退路から消える。七、残るのは――」

「空の箱だ」

「そう。空虚の証明。王都は自分で崩れ始める」

 夕陽が落ち、王都の影が長くなる。
 私はその影を踏み、歩幅を決める。
 憎しみは、もう私の中で暴れていない。炉に収まって、温度を一定に保ち、計画の歯車を回す。
 オブシディアンの黒い瞳が夕闇を飲み、私の紅玉がその縁で一瞬だけ反射した。

「ねぇ、オブシディアン」

「何だ」

「私、もう“呪いの言葉”じゃ満足できない。欲しいのは、“手順”」

「なら、もう勝ってる」

「まだ、始めてもいないのに?」

「勝つやつは、始まる前に“手順”で呼吸する」

 私は笑い、王都の塔を見上げた。尖塔は、今日も上を指している。
 でも、指の先は曇り空。何もない。
 指で示すだけの幸福を、私は焼く。
 焼いて、見せる。
 見た者の目に、やっと“自分の空腹”が映るまで。

 風が鳴り、鐘楼の上で夜の鳥が羽を打つ。
 明後日。八つの刻。
 観客千。
 舞台は白。
 演目の名は――王都の影。
 私は、幕を上げに行く。

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