捨てられた宝石の逆襲~あなたの幸福を、ルビーの炎で焼き尽くす~

タマ マコト

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第9話 黒曜の契り

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 夜の雨は、糸より細く、刃より冷たかった。
 黒曜の森の縁、岩の庇に身を寄せ、私とオブシディアンは火を最小に落として座っていた。焚火は濡れた薪を嫌い、それでもかろうじて息をしている。赤子みたいな炎。息を合わせてやらないと、すぐ拗ねて消える。

 遠くで雷が喉を鳴らし、近くで雨が葉を叩く。世界は音で満ちているのに、ここだけ空白みたいだ。私の膝の上で、外套の内ポケットから取り出した小さな革袋がころりと転がる。中には、黒い石。あの日受け取った尖った欠片より少し大きく、面が増え、光を吸い込む角度が多い。彼が今日、昼のうちに無言で削っていた。

「指、出せ」

 オブシディアンが言った。低い声は雨の幕を破らず、ただ私の耳だけにまとわりつく。彼は手の中の黒曜石を親指の腹で撫で、火にかざし、雨に近づけ、また火に戻す。焼きと冷まし。何度も繰り返して、石の輪郭がひとつの“輪”に近づいていく。

「指の太さ、見てただろう?」

「お前が剣を握るときの節の膨らみ。あれが基準だ」

「……見すぎ」

「命のためだ」

 短いやり取りの間にも、彼の手は止まらない。刃の背で石の縁を整え、角を落とし、余計な鋭さを削ぎ、必要な鋭さだけを残す。
 私は胸の紅玉にそっと触れ、火を“黙らせる”。雨夜は匂いが走る。光と匂いは最小に。熱だけを、手元に集める。

「契約をひとつ増やす」

 石が輪になったとき、オブシディアンが言った。
「もしお前が闇に堕ちても、俺が引き戻す」

「……その手が血に濡れても、離さないで」

「離さない」

 言葉は焚火に落ち、火がそれをひとつずつ噛む。湿った薪が“じゅ”と不平を言い、すぐ従う。
 私は外套の袖口をめくり、手首の内側を見る。薄い皮膚、青い脈。そこに、あの街の、あの夜会の、冷たい笑いの名残がまだ貼り付いている気がした。

「それ、呪いになる」

「約束はいつだって呪いに似る」

「それでも欲しい?」

「それしか欲しくない」

 私は手を差し出す。彼は黒曜の輪をつまみ、私の人差し指に合わせてみる。少しきつい。彼は迷わず刃を入れ、縁を撫で、もう一度。今度はすっと通った。
 黒が、雨の夜の黒と溶け合って、指の骨格に馴染む。冷たい。次の瞬間、私の指の温度でじわりと温くなる。

「逆も」

「当然だ」

 私は革袋から、もうひとつの輪を出した。私が昼過ぎに削った、不格好な黒曜の輪。正直、彼のほど美しくはない。角は荒いし、ほんの僅かに楕円だ。
 けれど、私の手は、彼にこの形を渡したかった。
 “完全”じゃないものを。
 “割れても赤い”ものを。

「合ってるか?」

「合うように合わす」

「強引」

「お前に似てる」

 私は笑い、彼の指に輪を通した。彼の骨は太く、皮膚は固く、しかし輪は体温にあてられて緩む。雨のしずくが輪の黒に乗り、刹那だけ星のように光る。

「呪文が要る」

 彼が言う。剣を研ぐときのような真顔で。
「契約は言葉で締める。短く、壊れない言葉で」

「わかった。……先に言って」

 彼は少しだけ目を伏せ、選ぶみたいに間を取った。雨が強くなり、葉がざわりと鳴る。焚火が身を縮める。
 そして、彼は言った。

「俺は、俺の刃で、お前の“戻り道”を切り拓く。お前が見失ったときは、肩を掴んで止める。お前が止まったときは、背中を蹴って進ませる。
 裏切れば、斬る。
 それでも、手は離さない」

 胸の奥で、何かが鳴った。
 雨の音でも、火の音でもない。
 長い間、私の中で黙っていた鐘の、初めての音。

「私の番ね」

 私は指輪を握り、舌の上で言葉を転がし、鋭さが立つ箇所を探る。
「私は、私の火で、あなたの“影”を照らす。あなたが見たくないものを、見える温度で炙る。あなたが見失ったときは、名を呼ぶ。あなたが燃え尽きそうなら、灰に水を差す。
 ――それでも、裏切ったら、焼く。
 でも、手は離さない」

 言っていて、笑ってしまう。矛盾だらけの誓い。けれど、矛盾こそが人間の形なら、これがいちばん人間らしい呪いだ。

「証」

 オブシディアンが短剣を出す。私も頷き、彼の手首を取った。
 刃は浅く。血は少なく。雨がすぐに洗う。
 私の手首にも、彼の刃が同じ深さで触れる。
 痛みは小さく、しかし確かな印字。
 ふたりの血を、火の上に一滴ずつ落とす。
 雨に薄められた赤が、炎に乗って一瞬だけ明るくなり、すぐ闇に沈む。

「これで“黒曜の契り”は成立だ」

「正式名称まであるの?」

「いま付けた」

「センスある」

「褒めても何も出ない」

「命が出てる」

「まだ出すな。明日まで取っておけ」

 火が小さく笑い、雨がそれを黙らせる。
 静けさの中で、私は彼の手に自分の手を重ねた。
 骨の形、皮膚の温度、脈の速度。
 全部が、今日までに少しずつ覚えた“生きている”の証拠だ。

「ねぇ、オブシディアン」

「なんだ」

「私が本当に“闇”に堕ちたら、あなたはどのくらい残酷になれる?」

「必要な分だけ」

「必要な分の見積もり、ミスらないで」

「ミスったら、お前が焼け」

「遠慮なく」

 雨の幕の向こうで、森が息をしている。
 私は彼の肩に額を預け、瞼を閉じた。
 紅玉の灯が胸の内でふっと増え、すぐに落ち着く。指の黒曜は体温をもらい、指輪というより“節の一部”に近づく。

「明後日だ」

「ああ。水の祝祭。鐘は八つ」

「ロードライトは?」

「合図通り動く。歌も覚えた。喉に蜂蜜を落としておいた」

「お前、甘やかすと駄目になる」

「甘さは罠よ。罠は使い方次第」

「……お前はやっぱり危ない」

「あなたと同じくらい」

「自覚があるのは良い」

 会話は途切れ、雨音が戻る。
 遠くで雷がひとつ腹を鳴らし、近くで梢が震える。火は小さくなり、息の交換でまだ生きている。
 私は手首の浅い傷に触れた。沁みる。水も、火も、血も、全部沁みる。
 沁みるから、忘れない。

「一つだけ、言いそびれてた」

「言え」

「あなたは私の“退路”じゃない。私の“同行者”よ」

 オブシディアンは少しだけ沈黙し、そして、短く頷いた。
「お前は俺の“刃”じゃない。俺の“判断”だ」

「重い役」

「担げる肩だ」

「……肩、貸して」

 彼の肩にもう一度、額を落とす。骨の下の硬さがやけに安心する。柔らかい寝台の安心とは違う、落ちても割れない石の安心。
 雨が指輪を打つ。黒曜が音を吸う。その静けさの中で、指先に薄く熱が灯る。
 紅玉が輪へ、輪が紅玉へ。
 火と石が、互いに名前を呼び合う。

「ルビー」

「なに」

「終わったら、何を作る」

「未定。――未定のまま、生きてみたい」

「なら、終わらせるぞ」

「ええ。劇を、終わらせる」

 雷鳴が一拍遅れて丘に届く。
 そのタイミングで、私は指輪に口づける。黒の面がわずかに曇り、雨に洗われ、また黒に戻る。
 呪いの味は鉄ではなく、石だった。
 無味に近い、でも少しだけ、雨の匂いがした。

「眠れ」

「眠る前に、もう一回。合図の確認」

「二で始める。三で中止。四で散開。歌は第一句だけ。退路は二つ。子どもは振り返らない」

「よろしい」

「お前は、燃やし過ぎない」

「あなたは、斬り過ぎない」

「ほどほどがいちばん難しい」

「ほどほどの天才だもの、私たち」

「初耳だ」

「今ついた」

「センスの勝負はやめろ。負ける」

 火が、最後にひとつ跳ねて、灰の布団に潜った。
 雨は止まない。
 けれど、冷たさは私を孤独にしない。
 指に黒曜の輪。
 手首に浅い印。
 胸に紅玉。
 隣に黒い瞳。
 これで、十分だ。

 私は身を丸め、呼吸を浅くして眠りに落ちる。
 夢の手前で、誰かが私の指を握った気がした。
 その手は硬く、温かく、血の匂いがして、雨の音に負けない。
 ――もしお前が闇に堕ちても、俺が引き戻す。
 ――その手が血に濡れても、離さないで。
 声が重なって、輪が鳴る。
 呪いであり、約束。
 夜は深く、私たちは浅く眠った。
 明日を、燃やすために。

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