捨てられた宝石の逆襲~あなたの幸福を、ルビーの炎で焼き尽くす~

タマ マコト

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第13話 呪われた香油

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 朝は、白い嘘の匂いで始まった。
 王城の南棟――礼拝翼の地下にある香油庫。石の壁は冷たく、棚には琥珀色の瓶が均等に並び、封蝋の紋は寸分たがわぬ“聖性”を主張している。灯りは細い。火は最小。匂いが支配する部屋では、光はいつでも従属だ。

 私は白手袋をはめ、扇の骨に隠した細い針を取り出した。瓶の肩に触れ、封蝋の気泡をひと刺し。音は出ない。
 胸の紅玉が静かに脈を打つ。――黙れ。燃えろ。還れ。選べ。
 四つの印が骨の内側で音楽になる。私は息を整え、指先へ“魂の炎”を落とした。

 火は光らない。匂いも、ない。温度だけが薄い膜になり、針の腹を撫でて瓶口へ滑る。
 聖油は真白。ミルラ、乳香、橄欖。祝祭で人心を“ひとつにする”ために磨かれた香。
 私はそれに“別の糸”を縒り合わせる。『ルビアの書』の余白に、私自身の手で書いた注釈――“幸福の油膜にだけ噛む、小さな炎”。
 命を喰う。
 でも、それは“偽りの命”だ。
 奇跡と呼ばれた演目の、掟破りの生命線。
 その線だけを、火に食わせる。

「……やれる?」

 背後で囁く声。ロードライトだ。赤い目を夜に慣らし、扉の影に身を溶かす。彼の足元には、歌の鍵。喉の奥で、いつでも鳴らせる準備をしている。

「やる。完璧に」

「死ぬ?」

「死なない。――幸福だけが、死ぬ」

「幸福が死ぬと、人は泣く」

「泣いてから、やっと目を開ける」

 少年は頷き、影へ戻る。
 私は瓶を一本、小さく回した。特別なものは選ばない。儀式の“総量”に比例して回る火だ。一本に縛らず、全体に染み込ませる。
 針を二度、三度。封蝋の下に眠る油へ、指先の熱を“ほんの一滴”。
 瓶が短く鳴る。金属ではない。骨に届く、小さな鐘の音。

 私は次の棚へ移る。
 二年の間に、私は“手順”という刃を研いだ。
 匂いに呼吸を合わせる。
 息を吐く長さで火の大きさを決める。
 指先の皮膚で油の機嫌を読む。
 喜ぶ油は甘くなる。怯える油は痩せる。
 聖油は――期待している。使われる日を。祝福の役を。人々の額に触れる瞬間を。
 そこへ、火を忍ばせる。

「巡礼さん、こんなところで何を?」

 ふいに、声。
 白衣の若い祭司が、廊下の影から顔を出した。私の背は振り返らない。扇を開き、淡い笑みを浮かべる。

「祝祭の香を拝見に。南では、香は“神の指紋”と呼ぶの」

「はは、珍しい言い回しですね。だが今日は忙しい……」

「邪魔はしないわ。指紋を眺めるだけ」

 私は手袋越しに瓶の肩を撫で、小さく一礼して棚を離れる。彼は目を細め、私の指を、指輪を、髪の色を、順番に舐めるように見てから、忙しげに台帳へ戻った。
 背中に刺さる視線の角度を測る。危険ではない。関心。
 安全な関心は、暇に似ている。暇は、火に弱い。

 香油庫を出ると、地下の廊は湿った冷気で肺を洗った。私は壁に手を当て、石の脈を読む。
 ――女神像の下、鍵の歌の水路。
 ――鐘楼の柱、揺れの節。
 ――泣きの部屋、空の箱。
 地中の地図が骨の中で光る。
 オブシディアンの足音はどこにもない。彼は今、屋根の上で風を測り、矢のように目を飛ばしているはずだ。

「……“祝福と呪いは、紙一重なの”」

 口の中でつぶやく。
 火の格言。祖母の声。私の声。
 紙一重――つまり、手順一つ、呼吸一つ、拍を一つ、間違えたら、呪いは祝福を食い、祝福は呪いを装う。
 だから私は、祝祭の中心で、最も正確に呼吸する。

 地上へ。
 午前の礼拝が終わり、城は膨張を続けている。人、人、人。白、金、青。噂が天井に音符を貼り、笑いが階段を滑り、子どもが走り、祈りが重なる。
 私はルビア・ヴァレンティーナの笑みで、観衆の円の外周をゆっくり歩く。
 印は昨夜の十八に、今日の九が加わり、二十七で止まる。奇数。火は奇数で踊る。
 扇の骨が柱に“こつ”と触れた。その瞬間、香の層が一枚薄くなる。幸福の油膜が、私の火に引かれて“口”を開く。

「ルビア様!」

 声。ヘマタイトだ。灰色の上着。帽子のひさし。目は笑っていない。
「急ぎの報せ。聖油の運搬、予定が前倒しだ。礼拝堂へ直通の従者が六人に増えた。祭司長が“厳重さ”を演出している」

「なら、厳重の隙は広がる」

「もう一つ。聖女の“泣き”は浅い。昨夜から眠れていない。――お前、何をした」

「鏡に“影”を置いた。それだけ」

「……それだけで足りる顔をしてる」

「足りるのよ。空の箱ほど、影はよく映る」

 ヘマタイトは鼻で笑い、懐から細い鍵を二つ、私の扇の内へ滑り込ませた。「鐘楼下と、香油庫の裏口。歌が鍵穴を甘くするだろうけど、鉄も用意した」

「鼠に蜂蜜」

「甘やかすと駄目になる」

「何度も言われた」

 彼は肩をすくめ、雑踏に溶ける。
 私は扇を閉じ、胸に紅玉を押し当てる。
 ――今から“仕込み”の最後。
 ――“魂の炎”を、祝福の形に結ぶ。

 礼拝堂の側廊、香油の調整室。
 小さな部屋。窓は高く、光は白。テーブルの上には銀の匙、細口瓶、布、聖句の書かれた札。
 白衣の年配の女が二人。手つきは熟練、目の奥の信仰は古い。彼女たちの指は油の機嫌がわかる。
 私は巡礼者の仮面を被り、扉の影で待つ。
 タイミングは、彼女たちが祈りで手を止めた瞬間。
 祈りの第一句。
 喉が“鍵”を覚えている。
 私は“同じ高さ”で、心の中だけで合唱する。
 鍵は噛み合い、空気の歯車が一つ、音もなく回る。

「……?」

 一人が首を傾げ、もう一人が窓を見る。
 今。
 私は扉を滑るように入った。足音は絨毯に落ち、影は壁に貼りつく。
「失礼。祝祭の香の調合を、遠くで一度見てみたくて」

「巡礼の方? ここは――」

「ほんの一瞬。聖女様の奇跡を、家庭で真似しないように。危険を、覚えておきたくて」

 言葉に“危険”が混ざると、人は少しだけ優しくなる。私の笑みは距離を取り、扇は胸の前へ。
 女たちは目を見交わし、やがて首を縦に振った。「見るだけなら」

「ありがとうございます」

 私はテーブルの端へ寄り、銀の匙に触れず、目だけで“順序”を追う。
 聖油に水を一滴。香草の粉を砂粒ほど。祈りを一小節。
 最後に、白い布で瓶の口を拭う。
 ここ。
 私は手袋の中の指先を、ほんの針の先ほど動かす。
 “魂の炎”を、香油の表面張力に沿って“走らせる”。
 火は布に移り、布から油へ。油は祈りを吸い、火は油の“幸福の命”だけを噛む。
 女の一人が微笑んだ。「香りがよく立つわ」

「祝祭の祝福は、香りの厚みで決まりますもの」

「あなた、よく分かってる」

「ええ。――祝福と呪いは、紙一重なの」

 二人の眉がわずかに動き、私は笑って一礼した。
「問いは、心の中にだけ置いておいて」

 部屋を出る。扉が閉じる。
 廊下の角で、私は壁に背を預けて息を吐いた。
 胸の紅玉が、ひとつ、深く鳴る。
 火は結ばれた。
 “魂の炎”は、祝祭の形をして、香油の中で微睡んでいる。

 ――命を喰う。
 それは“偽りの命”。
 聖油に棲みついた、催眠と演出と共同幻想の糸。
 額に触れた瞬間、火はその糸だけを見つけて噛む。
 残るのは、体温、脈、痛み、空腹。
 生きている、という証拠。
 奇跡は剥がれ、目が開く。

「ルビー」

 呼ばれて振り向くと、影からオブシディアンが現れた。屋根の黒が肩に乗り、瞳は夜を飲み込んでいる。
「間に合ったか」

「間に合わせた」

「監視の配置が変わる。護衛長が先回りして鐘楼の西側に三人。王太子は行列で一度止まる。ロードライトの投石は五呼吸遅らせろ」

「了解。――あなた、顔が少し柔らかい」

「お前が“やり切った顔”をしているからだ」

「まだ“やる”のよ」

「知ってる。だから柔らかい」

 目の奥が熱を覚え、すぐ引っ込む。
 私は指輪を鳴らし、扇を閉じ、彼の影とすれ違いざまに掌を添えた。
 骨と骨が触れる。
 それだけで、契りの音が鳴る。

 午後。
 白い布が広間を満たし、音楽家が調律し、祭司が順路を点検し、花が最後の息を吐き、城の幸福が最高濃度に達する。
 香油は銀の盆に乗り、女神像の前へ運ばれる。
 私は“観衆の円”を歩き、印の接続を確認し、退路を二本、歌の鍵穴を指で撫でる。
 ロードライトは鐘楼の陰で屈み、石を掌で重さ見し、喉の奥で第一句を温める。
 ヘマタイトは屋根裏で紙を畳み、鼠たちに散開の合図を教える。
 オブシディアンは最上段で風を読む。
 私は白の中心で、黒を書く。

 夕刻、雲が低くなり、光が水平に変わる。
 王太子の馬車が礼拝堂前に滑り込み、聖女は“泣きの部屋”から出てくる。
 彼女の頬の涙は美しい。
 鏡の紅は、もう映っていない。
 それでいい。
 今日の影は、香りに潜む。

 鐘が、鳴る――前。
 ロードライトが駆け、投石は五呼吸遅れて車輪の前で跳ねる。
 馬が鼻を鳴らし、王太子が一瞬だけ足を止める。
 その止まりが、“観衆の円”の中心位置に合致する。
 私は息を吸う。
 喉で、鍵を鳴らす。
 古い賛歌、第一句。

 床下の水路が開く。
 声なき風が、白の床を撫でる。
 香油の盆が、女神像の前に置かれる。
 聖女サファイアが両手で瓶を上げ、祈りの言葉を口にする。
 王太子アメジストが一歩前へ出る。
 観衆が息を揃える。
 鐘が――鳴る。

 聖油の瓶口が微かに光った。
 誰も気づかない、刃の側面の光。
 彼女の指が布で一度拭い、瓶を傾ける。
 白い油が、白い額へ落ちる。
 触れた瞬間、火が起きる。
 紅ではない。
 透明の、魂の炎。
 幸福の糸だけを、正確に噛み切る火。

 王太子の瞳に、わずかな空白が走る。
 サファイアの呼吸が、半拍ずれる。
 観衆のざわめきが、音階の底を一段外す。
 世界はまだ笑っている。
 けれど、その笑いの内側で、何かが静かに“死ぬ”。
 奇跡という、嘘の命。

 私は扇を胸に当て、微笑み、目を伏せた。
 祝福と呪いは、紙一重。
 私は祝福の形で、呪いを仕込んだ。
 呪いの温度で、祝福を剥がした。
 残るのは、体温、脈、空腹、痛み。
 生きている、という事実。

 鐘は二つ、三つ、四つ。
 “観衆の円”が回り始める。
 印は接続し、黙る火が息を合わせ、床下の水が歌を覚え、屋根の上で黒い瞳が瞬きをやめる。
 私は舌の裏で合図を噛み、ロードライトは影で歌い、ヘマタイトは鼠に耳を伏せさせ、オブシディアンは風を切る。
 婚礼の儀は、予定通りに美しく。
 その美しさの隙間で、透明の火が仕事を続ける。

 祝福の香りは、純白。
 だが、触れた瞬間、命を喰う。
 ――偽りの命を。
 その死は、静かだ。
 静かな死は、よく響く。
 やがて誰かの瞳に、自分の空腹が映り始める。
 やがて誰かの喉に、祈り以外の言葉が戻ってくる。
 やがて誰かの掌に、祝福ではない重さが落ちてくる。

 私は、ただ見ている。
 扇の影で、紅玉の拍を数える。
 四、五、六――
 火は暴れない。
 火は選ぶ。
 選んだ結果が、舞台に立ち上がる。

 “呪われた香油”は、美しい。
 美しいものは、よく燃える。
 だから私は、美しく作った。
 燃やすために。
 壊すために。
 ――そして、選ばせるために。

 鐘が八つを打つまで、あと少し。
 私は呼吸を浅くし、笑いを薄くし、視線を真ん中へ――王太子と聖女の間へ置いた。
 祝福の言葉が、次の拍で、割れる。
 その瞬間を、私は見届ける。
 計画は、冷たい。
 炎は、熱い。
 私の胸の紅玉は、静かに熱い。
 “紅玉の魔女”は、手順通りに、息をする。

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