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第14話 偽りの祝福
しおりを挟む朝、王都は顔を洗ったばかりの子どもみたいに、過剰に明るかった。
白壁は磨かれ、旗は風を飲み、通りは花で満ちる。窓という窓が目になり、塔という塔が耳になり、千の口が同じ言葉を唱える――「めでたい」「神の恵み」「奇跡は真実」。
私は黒いヴェールを被った。蜂蜜色のウィッグは見えない。金の笑顔も布の下へ退避。胸の紅玉は、薄絹の下で静かに拍を刻む。扇は黒。指の黒曜は雨雲。
ルビア・ヴァレンティーナ。
今日の私は“誰でもない誰か”として最前列の端に座る。観衆の円の外周と中心の境目――そこが火の呼吸孔。
鐘楼の影に、ロードライトがいた。赤い瞳は濡れていて、喉の奥で鍵を温める。
屋根の稜線、石の色に紛れてオブシディアンの影。彼は風を見る。風は刃の向きを教える。
ヘマタイトは屋根裏の窓から市場のざわめきを計測し、鼠たちに指で数字を見せる。二、三、四。私たちの言語。
礼拝堂の白は、今日が最高潮だ。
女神像の足元に銀の盆。盆の上に聖油。光は純白、香は祝福。
祭司長が金糸の装束で歩を進め、神官が二列に並び、聖女サファイアが青い裳裾を曳いて現れる。
王太子アメジストは、白バラの勲章を胸に。背筋は伸び、瞳の奥は疲れている。――疲れは、幸福の表面に最初に入る亀裂だ。
私はヴェールの下で、笑った。
昨日までに置いた印は二十七。観衆の円は閉じ、床下の水路は歌を待つ。
指で膝を一度、二度、三度。息が拍に結び目を作る。
黙れ。燃えろ。還れ。選べ。
四つの言葉は骨の内側へ沈み、皮膚は平静を装う。
鐘が最初の一打を落とした。
空気が、薄い氷になって割れる。
私は喉の奥で古い聖歌の第一句を、口を開かずに鳴らす。
鍵が回る。
床下の水が、扉を開く。
沈黙の風が、白い床を撫でて一周する。
印が繋がった。
黙る火が、息を揃えた。
「アウロリアに、神の御手が――」
祭司長の声が天井に触れる。
第二打。
ロードライトが、投石を五呼吸遅らせて落とす。石は車輪の前で跳ね、馬が鼻を鳴らす。
王太子の歩が半歩だけ止まる。
その“止まり”が、陣の中心にぴたりと合致する。
第三打。
聖女が聖油を持ち上げ、布で口を拭い、両手で捧げる。
香りは祝福。
見た目は純白。
中身は――私の火を抱いた“魂の器”。
「神よ、祝福を――」
第四打。
白が、肺いっぱいに広がる。
ここで、私は視線を一度だけ上げる。
ヴェール越しに、聖女の瞳とぶつかる。
青。
その底に、昨夜の紅の影の余韻。
彼女の喉が、わずかに鳴る。
そして、瓶が傾く。
聖油が王太子の額に触れた瞬間、私の胸で紅玉が“カチ”と噛み合った。
透明の火が、静かに起きる。
幸福の糸だけを噛む、魂の炎。
それは光らない。煙も出さない。匂いもない。
ただ、嘘の命を食べる。
第五打。
光が、黒へ反転した。
――誰かが悲鳴を上げたわけじゃない。
――灯りが消えたわけでもない。
世界が、ほんの半拍、“見え方”を変えたのだ。
白は白のままなのに、白の“塗り”が剥がれる。
祝福の笑みは笑みのままなのに、歯の縁に疲れが乗る。
賛美の声は響くままなのに、その奥に空腹の音が混ざる。
光は、黒の輪郭を露わにする鏡になった。
王太子アメジストの瞳が、一瞬、赤子のように空(から)になる。
そこから戻ってくるのは、奇跡ではなく、彼自身の体温。
痛み、脈、汗。
聖女サファイアの手が微かに震え、祈りの言葉が一文字だけ欠ける。
欠けた音は、石に吸われず、観衆の耳に届く。
誰かが瞬きを忘れ、誰かが笑いを戻せず、誰かが掌を握りしめる。
「……あれ?」
最初のひび割れは、驚きの形で生まれる。
第六打。
観衆の円が回る。
印の上で、黙る火が息を揃え、床下の水が歌い、屋根の風が舞台の上の埃を払う。
私は扇を胸に当て、ヴェールの下で口角だけを上げる。
オブシディアンの黒い瞳が、遠い屋根の上で“よし”と短く頷く気配。
ロードライトは影で喉を閉じ、次の鍵を飲み込む。
ヘマタイトは壁の裏で鼠に指を立て、ざわめきの増幅を待つ。
第七打。
聖油は次の額へ。侍女、司祭、貴族の娘、兵士の少年。
触れるたび、透明の火が幸福の糸を噛む。
次の瞬間、彼らの瞳から“演目の膜”が薄く剥がれる。
「胸が……苦しくない?」
「息が、普通……?」
「痛い。膝が。昨日ぶつけたの、痛い」
痛覚は、奇跡より正直だ。
笑顔に混ざった痛みは、笑顔を“生き物”に戻す。
生き物は、嘘を嫌う。
第八打。
賛歌が、半拍遅れる。
神官の声が、紙を裂くように微かに震える。
王太子の口が、祝詞に乗らない。
サファイアの頬の涙が、いつもの角度で落ちない。
“演出”が、さざ波のように崩れる。
誰かが、言う。
「ねぇ、これ、……奇跡?」
問いに、答えは用意されていない。
答えがないとき、人は初めて“自分の目”で見る。
「――祝福は、ここに」
祭司長が声を張る。
私はヴェールの中で、紅玉を指で叩く。
黙れ。燃えろ。還れ。選べ。
火は、最後の輪へ散っていく。
観衆の円は完成した。
白の床は、黒の鏡になる。
誰もいないはずの床面に、うっすらと“影”が映り始める。
それは人々の背後ではなく、額の上に乗る“幸福の影”。
油膜の形。
薄い、軽い、燃えやすい膜。
「見える?」
私は隣の老婦人に、囁くように言った。
彼女は驚き、ヴェール越しに私を見て、すぐ床へ目を落とす。
「……あの黒い輪っか、なに」
「幸福の重さ。ほら、剥がれるわ」
ちいさく、ぱち、と音がして、輪が溶ける。
老婦人の肩が下がる。息が深くなる。
涙が、一粒。
それは悲しみではなく、回復の涙。
“偽り”が死に、“生”が戻るときに出る涙。
王太子が、言葉を止めた。
司祭たちが焦りを隠せず、サファイアが一歩前に出る。
彼女はよく整った声で叫ぶ。「神はここに――!」
その瞬間、礼拝堂の上部に吊られたガラスの雨が、光を砕いて床に散らす。
黒い鏡の上で、その光は“黒の輪郭”をさらに際立たせる。
人々の目が、光を追わない。
人々の目は、今、自分の足元を見ている。
「私、……眠ってた?」
「ずっと、眠ってたのかも」
「誰の夢?」
「神の? 聖女の? それとも――」
「王太子の?」
誰かの声が、礼拝堂を横切る。
アメジストの顔に、初めて“素”の影が落ちる。
綺麗に作られた自尊の膜が、縁から剥がれ始める。
痛みが戻る。空腹が戻る。
“責任”が戻る。
サファイアが私を見つける――否、見つけそうになって、見失う。
黒いヴェールの中の笑みは、金の笑みと違う。
これは“終わり”の笑みだ。
彼女の瞳は揺れる。昨夜の鏡の紅がおぼろに反射する。
口元が、ほんのわずか、解ける。
私は彼女にだけ聞こえる音量で、唇を動かす。
――覚えていて。
彼女は震え、祈りの姿勢を取り直す。
「神の御手は、ここに!」
声は通る。美しい。
だが、床の黒は消えない。
観衆の円は、彼女の言葉では止まらない。
人々の目は、もう自分で見始めた。
「合図、二」
屋根の上で、オブシディアンの影が風に短い合図を描く。始める、はもう終わった。
「合図、三」
ヘマタイトが鼠に“中止”を教える。増幅は十分。押し過ぎはしない。
「合図、四」
ロードライトが喉を閉じ、歌を飲み込む。散開の準備。
私は扇を畳み、膝で立つ。
黒いヴェールの下から、最後の一言だけ、舞台に落とす。
「祝福と呪いは、紙一重なの」
その囁きは、風に混じって散る。
誰の耳に届いたか、分からない。
でも、十分だ。
足元の黒が、役目を終えて薄くなっていく。
透明の火が、幸福の死骸を食べ尽くす。
残るのは、生きている体の重み――それを、王都は久しぶりに抱きしめた。
礼拝堂の扉が開き、外の光が押し寄せる。
歓声は、もう“歓声だけ”ではない。
驚き、困惑、怒り、そして、笑い。
多声。
単一の祈りの代わりに、百の息。
それは混沌だが、嘘より健やかだ。
私は踵を返す。
退路は二つ。鐘楼下の蓋と、北の回廊。
ヴェールの縁が風を掴み、黒が白に紛れる。
「待て!」と誰かが叫ぶ声が耳を過ぎ、私は振り返らない。
黒い影が柱の陰で合流する。オブシディアンの瞳が私を撫で、「行け」と一言。
ロードライトの小さな靴音が水路に消える。
ヘマタイトの笑いが屋根裏で短く弾け、すぐ無音に溶ける。
外に出る。
冷たい風。花の匂い。涙の塩。
王都はなお白く、しかし今、その白は上塗りではない。
私はヴェールを摘み、少しだけ持ち上げた。
紅玉が胸で鳴る。
――黙れ。燃えろ。還れ。選べ。
四つの言葉が、今日も、私の骨に正しく並んでいる。
「終わった?」
オブシディアンが並ぶ。声は低く、目は笑っていない。
「“始まった”」
私は答える。
「演目は、ここから崩れる。自分たちの手で」
「お前の顔が、綺麗だ」
「黒いから?」
「選んでいる顔だ」
私はヴェールを下ろし、歩く。
身じろぎする王都のざわめきが背に降りかかる。
偽りの祝福は、静かに、確かに剥がれた。
残ったのは、痛みと息と、空腹と、視線。
そこからしか始まらない物語を、私たちは知っている。
黒いヴェールの内側で、私はやっと笑う。
冷たく、静かで、熱い笑い。
紅玉の魔女の笑い。
“令嬢”でも“被害者”でもない、私自身の――選択の笑い。
風がそれを攫って、鐘楼の上を越え、白い街路に撒いていく。
紙一重の境界は、今日、越えられた。
次は、誰に選ばせるか。
答えは、彼らの目の中にもう灯っている。
私はそれを見届けに、次の影へと歩く。
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