捨てられた宝石の逆襲~あなたの幸福を、ルビーの炎で焼き尽くす~

タマ マコト

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第15話 崩壊の花嫁

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 鐘が八つを打ち終える寸前、世界はひと呼吸ぶん止まった。
 白い花弁が空に舞い、光が細くなり、人々の歓声が綿で包まれたみたいに遠のく。
 そして――裂けた。

 サファイアの胸元、青い刺繍の中心から、黒が噴き上がった。
 炎。だが、光を持たない炎。
 音はなく、温度だけが鋭利に増していく。指先の皮膚が裏返るような熱。甘いミルラの匂いが一瞬で焦げに変わり、礼拝堂の白が煤を吸う。
 聖女の加護が、音もなく、剥がれた。

「聖女さま……!」
「神官さま、助けて! なに、これ、寒い、熱い――!」

 祈りは混乱に崩れ、賛美歌は悲鳴の高さに置き換わる。
 サファイアは膝をつき、両手で胸を押さえた。瞳孔が収縮し、歯の隙間から白い息が漏れる。黒炎は彼女の肩口から花嫁のヴェールを舐め、じわりと青を黒へ染める。
 祝祭の光が、彼女の輪郭で黒に反転するたび、観衆の“幸福”がひとつずつ死んだ。

「下がれ!」
 祭司長が叫ぶ。金糸の衣が滑り、足もとがもつれる。神官たちは印を切るが、指先は震え、言葉は結べない。
 黒炎は風を吸い、歌を嫌い、祈りの間(ま)を食べ、ゆっくりと立ち上がる。
 私は黒いヴェールの内で、息を一つ深くした。胸の紅玉が静かに鳴る。――黙れ。燃えろ。還れ。選べ。

 王太子アメジストが一歩、前に出た。
 彼の顔からは“演目”の化粧が剥げ、汗が筋を作って落ちている。
 震える手でサファイアに触れようとする。黒炎が触れた瞬間、彼の皮膚がびりつき、反射で手が跳ねた。
「サファイア!」
 返事は無い。彼女の口は祈りの形に凍り、声は喉の奥で黒い風に喰われる。

 アメジストの視線がふいに宙を滑り、黒いヴェールの私に刺さる。
 偶然じゃない。円が完成した舞台は、主役を選ぶ。
 彼の唇が形を作る。
「ルビー……お前なのか……?」

 私は一歩だけ前へ。ヴェールの縁が床の黒に触れ、かすかに煙を上げる。
 紅玉を指で叩き、声を外へ出す。

「ええ。今度は私が、“お前を必要としない”側よ」

 彼の喉が上下し、周囲の空気が一瞬だけ冷える。
 過去が彼の頬に戻る。婚約の夜、淡い柑橘の匂い、黒檀の机、痩せた正しさ。
 彼の口が震え、言葉を探す。
「俺は……正しいことを――」

「あなたの“正しさ”、今、燃えてるわ」

 そのとき、黒炎が音を得た。
 ぱちり。
 薄いガラスが遠くで弾けるような、小さな音。
 礼拝堂のガラスの雨が震え、金の星が囁き、白い床が黒の鏡になって揺れる。
 黒は、祝祭の中心から外周へ、ゆっくりと広がっていく。触れた場所の“幸福の油膜”だけを、正確に焼き取って。

「下がれ、殿下!」
 新任の護衛長が叫び、刃を半ば抜く。
 オブシディアンの影が屋根の上で風を掴み、目だけで“まだだ”と私に弾く。
 ロードライトは鐘楼の陰で喉を閉じ、合図の数字を脛で刻む。
 ヘマタイトは屋根裏で鼠に散開を教えながら、笑わない目で下界を観察する。

 サファイアの体から吹き上がる黒炎は、“魂の炎”に呼応している。
 私は彼女の肩越しに、鏡の中の紅い影を思い出す。
 ――覚えていて。
 “覚える”ことは、火になる。
 彼女の中の“忘却”が剥がれ、空の箱に詰められた祈りの重さが、内側から燃やされている。

「何をした、ルビー!」

 アメジストが叫ぶ。
 叫びは破れ、声は幼い。
 私は扇を胸に当て、首を傾げる。

「“見えるように”しただけ。奇跡じゃないものを、奇跡じゃないと」

「民が――」

「民は生きてるわ。やっとね」

 黒炎は彼の金の勲章を舐め、白い花のリボンを焦がし、丈の長い幕の裾に爪を立てる。
 私は火に命令する。――選べ。
 炎は“人”を避け、“演出”だけを食べる。
 誰かの泣き声が笑いへ変わり、誰かの笑いが嗚咽へ倒れ、誰かの沈黙が言葉を生む。
 多声。
 単一の祈りの代わりに、百の息。

「ルビー!」
 アメジストが踏み込む。
 私はその一歩を待っていた。
 彼が私の前で止まる瞬間、ヴェールの内側から紅を一線、床へ落とす。
 線は黒に溶け、黒は紅に色を戻し、二つの温度が“境界”を作る。
 私と彼の間に、見えない壁。
「来ないで。燃えるわよ、あなたの“肩書き”が」

 彼の表情が、一度だけ空になる。
 それから、絶望の形に歪む。
 歯を食いしばる音。指の節の白。
 私は見下ろさない。見上げない。真っ直ぐ見る。

「ねぇ、殿下。あなたは私にこう言った。“君には、愛より義務が似合う”って」

 彼は唇を噛み、血の味を思い出す顔をした。
 私は続ける。
「だから今、私は義務を果たしている。“幸福の演目”を終わらせる義務」

「終わらせて――何を残す」

「息と、痛みと、空腹と、選択」

 言葉の端に、オブシディアンの影が笑った気配がする。
 彼の“良い”の一音が風に混じり、私の背骨がそれを拾う。

 黒炎が、とうとう王城の高い幕に火をつけた。
 光の粒が舞い、ガラスの鈴が一斉に鳴る。
 火は黒く、しかし燃焼は本物だ。熱が走り、空気が膨張し、柱の影が長く歪む。
 礼拝堂の扉が一斉に開かれ、人々が流れ出る。
 悲鳴、笑い、怒号、呼び声――生きている街の音が、久しぶりに重なる。

「退け!」
 護衛長がアメジストの肩を掴む。
 王太子は振り払い、私を見続ける。
 その目は、初めて“自分”の重さを持っていた。
 私はそこに、わずかな哀悼を感じる。
 けれど、哀悼は刃を鈍らせる。
 私は胸の紅玉に指を添え、低く呟いた。――還れ。
 火は一度、私の内へ戻り、次の波を待つ。

「サファイアを――助けてくれ」
 アメジストが言った。声が削れ、傲りの角が落ちる。
 私はヴェールの内で目を細める。
「助けるなら、彼女自身よ」

「どういう――」

「空の箱を、もう抱えないこと。泣きの部屋を、出ること。神の名前で自分を許さないこと。――彼女が選ぶの」

 黒炎の中、サファイアの肩が小さく震えた。
 彼女の目が、わずかにこちらへ寄る。
 昨夜、鏡に映った紅の影――それが今、黒の内側で赤に戻った。
 彼女の唇が、祈りではない言葉の形を作る。
「……たすけ、て」
 低い、乾いた声。
 誰にも見せたことのない“素”。

 私は頷かない。うなずけば、また“代わって”しまう。
 代わるのは、彼女自身だけでいい。
 その代わり、退路を示す。
 扇の骨で床を二度、軽く叩く。
 水路の歌が下で目を覚まし、冷たい風が彼女の裾を揺らす。
 女神像の足元、白い石の継ぎ目が、僅かに開いた。
「そこ。――行ける?」

 サファイアは黒炎の中で、膝を引きずり、手を伸ばす。
 火は彼女の肌を焼かない。
 焼くのは“幸福の皮”。
 青いドレスが焦げ、白い裾が煤を吸い、彼女の肩がやっと“重さ”を取り戻す。
 彼女は継ぎ目に指を差し込み、石の冷たさに息を吸う。
 黒炎が彼女の背に花のように開き、そして――しぼむ。
 火は、対象を食べ尽くし、静まる。

「こちらへ!」
 ロードライトが影から飛び出し、歌の鍵を喉の奥で鳴らして水路の蓋を完全に開ける。
 ヘマタイトが屋根裏から縄を落とし、鼠たちが人の足に道を示す。
 オブシディアンが屋根の線から落ちる火の粉を目で追い、風の向きを半拍ずらす。

 王城が、燃え上がる。
 白い塔が黒い煙を吐き、金の縁取りが赤い舌を出し、石が熱で歌う。
 だが、それは無差別の火事ではない。
 燃えているのは“演出”。
 旗、幕、飾り、香具、偽りの祭壇。
 人は、走る。逃げる。抱き上げる。叫ぶ。
 誰かが誰かの手を引く。
 それが、生。

「殿下、退避を!」
 護衛長が最後の声で叫ぶ。
 アメジストは私から視線を外さず、唇を結ぶ。
 その顔には、やっと、王の影がない。
 ただの青年の顔。
 彼は、やっと問う。
「ルビー……俺は、何を、したらいい」

 私は答えない。
 代わりに、彼の足元の黒が薄れていくのを見せる。
 幸福の影が剥がれ、彼自身の影だけが残る。
 “選べ”。
 その命令は、火から人へ渡された。
 彼は息を吸い、護衛長の肩へ重さを預け、踵を返した。
 走る。
 初めて、“自分の足で”。

 私はヴェールをわずかに持ち上げ、オブシディアンの黒と目を合わせる。
「散る」
「散れ」

 合図、四。
 ロードライトは水路に溶け、ヘマタイトは屋根裏の闇に沈み、私は回廊の影を縫って北の退路へ。
 火の熱が背中を押し、石の冷たさが足裏を正気に戻す。
 廊の角で、一度だけ振り返る。
 礼拝堂の白は煙にくべられ、鐘楼の影は長く伸び、空は灰に沈む。
 その灰の中で、黒炎の芯に小さな紅が灯り、すぐ消えた。
 ――サファイアの“生”だ。
 それでいい。
 彼女は、まだ選べる。

 外へ出ると、花道は灰の道に変わっていた。
 民衆はばらばらに立ち、互いの顔を見ている。
 誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが怒り、誰かが黙る。
 混沌は健康だ。
 私は黒いヴェールを外し、風に鞘を晒す。

「ルビー」

 背中に低い声。オブシディアンが並ぶ。
 黒い瞳は熱を映さず、私だけを測る。
「やったな」

「“始めた”だけ」

「顔がいい」

「燃えすぎてない?」

「ちょうどいい。……手」

 私は彼の掌に自分の掌を重ねた。
 指の黒曜が鳴り、胸の紅玉が応える。
 火は鞘に、刃は笑みに。
 私は息をひとつ吐き、王都の中心へ視線を戻す。

 崩壊の花嫁。
 サファイア。
 彼女は今、白から黒へ、黒から赤へ、そして人間へ戻る最中だ。
 王太子の絶望は、本物だ。
 それは、出発点になり得る。
 憎い? ええ。
 でも、必要としない。
 私は、もう。

「行こう」
「どこへ」
「灰の上を。足跡を残さないように」

 私たちは歩く。
 風が灰を攫い、鐘楼が遅れて鳴り、城の骨組みが熱に軋む。
 私は背後を振り返らない。
 振り返るのは、彼ら自身の役目だ。

 “令嬢”はとうに死んだ。
 “被害者”も、もういない。
 残っているのは、紅玉の魔女。
 復讐は、劇の一幕。
 終幕は、まだ先。
 私は、次の火の置き場を探す。
 王都の白が灰に沈み、灰が肥沃になり、そこに“選ぶ”芽が生えるまで。

 ――ルビー、もう“お前を必要としない”側よ。
 心の中で、もう一度呟く。
 言葉は呪いで、約束だ。
 指輪の黒が答え、胸の紅が笑う。
 王城が燃え上がる音は、遠雷に変わっていく。
 歩幅は一定。呼吸は静か。
 火は、次の形を待っている。
 私も、待っている。

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