捨てられた宝石の逆襲~あなたの幸福を、ルビーの炎で焼き尽くす~

タマ マコト

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第16話 裏切りの終焉

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 灰が雪みたいに降っていた。
 けれど、その一片一片は冷たくなく、指で触れれば指紋に黒を写して消える。王城の白は崩れ、尖塔は喉を裂かれた笛のように風を鳴らし、広場は散り散りの足音で満たされている。笑いも、賛美も、整列も、全部ひっくり返った。
 民衆は逃げ惑い、王家は滅びる。
 王太子を抱える護衛長の声はもう命令ではなく、ただの人の叫びだ。聖女の青は燃え尽き、涙はようやく塩だけの味を取り戻す。私は黒いヴェールを外し、灰の風を肺に入れた。胸の紅玉は静かで、しかし深く、奥で鐘を打つように一定の拍を刻んでいる。

 ――終わらせた。
 そう言いかけて、足下が、揺れた。

 地面の下で、何かが笑っている。
 礼拝堂から延びた見えない円――“観衆の円”に、別の円が絡みつく。王家が封じた古い“国土の陣”。祈りを利用して土地を縛り、血統に繁栄を課す、あの息苦しい網。
 それが、目を覚ました。

 薄い黒が石畳の継ぎ目を走り、紅に噛みつく。火が火を食べる悪辣な幾何。
 私は反射で命じる。「――黙れ!」
 胸の紅玉が応え、周囲の熱が一瞬だけ凪ぐ。だが、次の刹那には別の方向から圧が来た。足首、膝、腰――背骨の一本一本を外していくような、冷たい熱。
 呼吸が浅くなる。視界の端が紙みたいに薄い。

「ルビー!」

 屋根の影からオブシディアンが飛び降り、灰と炎の境目を踏み越えてくる。黒い外套が火に輪郭を与え、彼の瞳は夜を引き連れて私に焦点を合わせた。
「動け」

「……動く、けど、下から来てる。王城の下、もっと下、国の骨に……」

 言い終える前に、背中が焼けた。外からではない。内側から、やさしく、しかし容赦なく。
 “カルネリアの試練”で骨に刻んだ四つの命令が、ひとつずつ逆撫でられる。《黙れ》が喧噪に、《燃えろ》が暴走に、《還れ》が迷子に、《選べ》が空白に。
 足元の石が、黒の線を孕ませて隆起する。線が線を呼び、輪が輪を喰い、巨大な陣へ膨張していく。
 私は膝をつき、歯の裏で血の鉄を味わう。

「このまま、私も一緒に終わるのか……」

 口にしたら急に現実になる言葉たち。彼らは火の背中を押すのがうまい。
 オブシディアンの手が、私の襟首を掴んだ。乱暴ではない。乱暴に見えるくらい正確な力加減。私の体は簡単に引き寄せられ、彼の胸骨が背中に当たって、痛みと安心が同時に脳天に抜ける。

「違う。お前は壊すためじゃなく、生きるために燃えた」

 低い声が、血の音より手前で止まり、私の耳の奥に座る。
 “契りの夜”の指輪が指で鳴った気がした。黒曜の輪。雨の匂い。火の言葉。
 私は息をひとつ強く吸い、唇に残っていた灰を舌で払う。

「……なら、選び直す」

 眼下で陣が再配置する。中心を探している。獲物の心臓を探り当てる蛇みたいに、くねりながら、私の胸の紅玉へ寄ってくる。
 いいわけがない。
 紅玉は“鍵”であって、錠前ではない。
 私は両手を地面へ置き、指の腹で石の温度を測った。まだ“人の温度”が残っている。嘘の命が死んで露わになった生の熱。
 そこに、呼吸を合わせる。

「――黙れ」
 私は最初の言葉を、今回だけは“私へ”ではなく、“地面へ”向けて打つ。
 床下の水が薄く震え、騒がしい円が一拍だけ息を詰めた。
「――燃えろ」
 次に、私の指先で火を“灯す”。噴かない。灯す。石の目地に沿って、極薄の紅を這わせる。黒の線に紅の細胞を橋渡しさせ、炎の音階をずらす。
「――還れ」
 暴走して外側へ飛び散ろうとする熱を、肋骨の内側へ引き戻す。胸の内、紅玉の後ろ――私の骨の巣。そこだけは、いつでも私の家。
「――選べ」
 最後に、命令を“私”から“円”へ渡す。
 “幸福”を食べる火よ、“幸福”だけを食べろ。
 “人”を外せ。
 “演出”だけを燃やせ。
 “国土の陣”よ、お前の主がいないなら、眠れ。

 石が低くうなり、白い灰がふわりと跳ねた。
 黒の線が、一瞬だけ渋々とした表情を見せ、紅と絡み合い、そして――退いた。
 全部ではない。九割。残り一割が、私の皮膚の裏に爪を立ててしがみつく。

「離れない……っ」

「噛ませろ」

 オブシディアンが私の手を取り、指と指を強引に絡めた。彼の体温が、私の体温を“どける”。熱は空間を争う。私の中の暴れる火が、彼の冷静さに席を譲るように、一瞬だけ逡巡した。
「呼吸を俺に合わせろ。三、二、――今」
 私は従う。吸う、吐く。彼の胸骨が上下するタイミングに、自分の横隔膜を“輸送”する。
 火は、拍子で落ち着く。
 骨が、音楽を覚えているから。
 私の中の暴走した火は、彼の拍に“学ぶ”形で速度を下げ、指輪の黒が小さく振動した。

 周囲の喧噪が戻ってくる。
 走る足音、呼び声、金属のぶつかる音、涙の濡れた咳。
 私は膝を立て、立ち上がり、灰を払う。まだ背中に熱の棘が残っている。だが、刺さったままで歩ける棘だ。

「国土の陣、どうする」
 オブシディアンが問う。息は乱れていない。彼の乱れるものは、いつだって最小限だ。

「結び目を探す。人が結んだなら、人が解ける」

「場所は」

「王の間。――“正しさ”が一番座り心地良かった椅子の下」

 私たちは目を合わせ、頷いた。
 広場の端で、ロードライトが私たちを見つけた。赤い瞳が濡れていないのは、泣く暇がなかったからだ。
「水路は開けたまま。鼠は人を導いてる。ヘマタイトは鐘楼。上から見てる」

「いい子。喉は?」

「歌える」

「まだ歌わない。最後の一回に使う」

「わかった」

 少年は駆け去る。彼の背に、灰が花のように散った。
 私はオブシディアンと並んで王城の内へ入る。崩れかけた回廊は獣の骨格みたいで、縦の柱に横の梁が絡み、火の舌が時々見え隠れする。
 “演出”は燃え続けている。だが、人はもうそこにいない。
 避難が間に合った。
 救われたのは奇跡じゃない。誰かが誰かの手を引いた結果だ。

 王の間への扉は半分落ち、半分だけ残った蝶番が悲鳴を上げている。私は扇で灰を払い、膝をついて床の継ぎ目を探る。
 あった。
 白い石の中に、見えない歯車の噛み合わせ。祖母の書付にあった記号――“国土を鎖す輪”。
 そこに、私の紅を“触れさせる”。焼かない。触れる。挨拶するみたいに、名前だけ呼ぶ。

「ここ。結びは三つ。生贄の血、人々の祈り、王名」

「王名は今切れた」

「残り二つを解く」

 私は掌を石に置き、指の付け根で拍を刻む。
 “祈り”。
 人々の声の層を思い浮かべる。賛歌、祝福、偽りの感謝、恐怖の我慢。
 それらが今、広場で“別の声”に変わっている。
 呼び声、謝罪、怒り、安堵、笑い、泣き。
 私はその雑音を、音楽にする。
 “祈り”だったロープを、ほどけやすい糸へ戻す。
「――還れ」

 腹の底が温かく、床の下の硬い何かが“ふっ”と肩の力を抜いた。
 次、血。
 この床には数代分の血が吸い込まれている。王家の血、敵の血、罪のない血。
 私は紅玉の熱を針の先にして、床の目に差し入れる。
 “血の結び目”だけを溶かす温度。
 火は嗅ぎ分ける。
 “正しさ”のための血と、“生きるための血”。
 前者だけを、焼く。

 石が一度だけ重く鳴り、空気が抜けるように冷えた。
 足元の黒い線がほどけ、あちこちで迷子になって消える。
 暴走は止まった。
 残るのは、私の背中の棘だけ。

 立ち上がると、世界が急に広くなる。
 火は鞘へ。刃は骨へ。
 オブシディアンが息を吐いた。彼が安堵を出すのは珍しい。
 「終わったか」

「“この回”はね」

「背中は」

「刺さってる。たぶん、“私の分”」

「抜け」

「まだ。痛みは現在地」

 彼はそれ以上言わず、私の肩に外套をかけた。布が火の匂いを吸い、代わりに雨の匂いを置く。
 王の間の壁は黒く、窓越しの空は鉛。外ではまだ人々の声が交錯している。
 私はその音を聞きながら、床に落ちた王家の紋章を踏んだ。
 足の裏に、厚紙みたいな感触。
 “正しさ”は湿ると脆い。

「ルビー」

「なに」

「さっきの“終わる”は、もう言うな」

「言わない。――でも、言いかけてよかった。あなたが否定してくれたから」

「俺の台詞、覚えやすかったろ」

「うん。簡単で、強い」

 違う。お前は壊すためじゃなく、生きるために燃えた。
 その言葉は、背中の棘を“痛み”に戻してくれた。焼け焦げる感覚は、やっと生き物らしい疼きに落ち着いた。

「外に出るぞ」
「ええ。灰の上を、足跡を浅く」

 広場へ戻ると、ヘマタイトが鐘楼から降りてきたところだった。帽子は灰を被り、目だけが相変わらず笑わない。
「王家の死体は象徴になり過ぎる。片付けは“人間の”手でやるべきだ」

「“神の”じゃなくね」

「そう。俺の鼠たちは、泣きながら掃除を始めた。泣くのは、いい。王都は泣き方を忘れてた」

「いい仕事」

「お前は?」

「暴走、止めた。結び目を二つ解いた。王名の紐は、もう千切れてる」

「なら、街は生きる」

 彼は頷いて、ロードライトに目配せする。少年は頷き返し、子どもたちをまとめて水路の出口へ案内する。
 私は民衆の流れの中に、サファイアを見つけた。
 青は煤に黒ずみ、髪は乱れ、彼女の目は――やっと、何かを“見て”いた。
 彼女は私を探し、見つけ、止まる。
 私は近づかない。
 私の役目は、もう終わっている。
 彼女の唇が動く。
「――ありがとう、って言うと、あなたは怒る?」
 声は私に届かない距離。だけど、唇は読めた。
 私は首を振る。笑って、振る。
 彼女は小さく頷き、群衆の中へ消えた。
 “聖女”は終わり。
 “人間”が始まる。

 空から、やっと雨が落ちてきた。
 灰と混ざり、地面は黒い泥を作る。
 火は雨を嫌う。
 けれど、今日の火は、雨に礼を言った。
 私は掌を空へ上げ、数滴を受け取る。
 指輪が鳴る。黒曜の輪。
 契りの言葉が雨に濡れて、また新しくなる。

「お前の顔が、今日いちばん、俺の好きな顔だ」

 オブシディアンが言う。
 私は笑う。「どんな顔」

「“生き残った顔”」

「それ、最悪の誉め言葉ね」

「最高の誉め言葉だ。俺はそれしか見てこなかった」

 風が冷えて、灰の匂いが薄くなる。
 私は背中の棘に指を添え、ゆっくりと息をした。
 痛い。
 でも、痛みは、まだここにいるという合図だ。

「ねぇ、オブシディアン」
「何だ」
「私、今日、少し怖かった。自分の火に“持っていかれそう”で」

「持っていかれたら、また引き戻す」

「血で?」

「血で。腕で。言葉で。なんでも使う」

「ありがとう」

「礼は、明日、生きて言え」

「明日ね。……明日」

 明日。
 その言葉は、復讐の旅でほとんど使わなかった。
 いつでも“今日”で燃やし、“今日”で壊し、“今日”で選んできたから。
 でも今、私は明日という薄い紙を受け取って、胸の紅玉と指輪の間に挟んだ。
 それは、火種の乾いた紙みたいに、よく燃えるだろう。
 けれど、すぐには燃やさない。
 明日は、明日のために残しておく。

 王都はまだざわざわしている。
 泣き声も笑い声も、謝罪も喧嘩も、取引も誓いも。
 生きている音が、戻ってきた。
 私はその音を背に、オブシディアンと歩き出す。
 足跡は浅く、雨がすぐならしていく。
 足元の泥は冷たい。
 でも、冷たさに血がよく通う。
 背中の棘は、歩幅に合わせて少しずつ小さくなる。
 “裏切りの終焉”は、たぶん、今日だけの名前だ。
 裏切りは何度でも芽を出す。
 だから私は、何度でも選ぶ。
 黙れ。燃えろ。還れ。選べ。
 この四つを、祈りではなく、日常にする。

 空の端が薄く明るい。灰色の中の、さらに薄い白。
 夜明けじゃない。
 火のあとに来る、灰の光。
 私はそれを見上げ、指輪を唇に当てる。
 黒曜が、雨の味で冷たく、心臓の音で温かい。
 “壊すため”じゃない。
 “生きるため”に燃えた火が、まだ私の骨の中で静かに呼吸している。
 それで十分、歩ける。
 それで十分、次を選べる。
 私は――生きる。
 火と、共犯で。
 あなたと、肩を並べて。

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