1 / 20
第1話 悪役令嬢の役を押し付けられる日
しおりを挟む王都の朝は、香水と鐘の音で始まる。
窓を開けると、遠くの大聖堂が鳴らす澄んだ音が、街路樹の葉を震わせながら屋敷に流れ込んでくる。空気はまだ冷たく、けれど陽光はやけに優しくて、まるで「今日も平和ですよ」と嘘をついているみたいだった。
セラフィナ・アルヴェインは、鏡の前でまつ毛を伏せた。
光を弾く銀糸の刺繍が施された淡い青のドレス。王太子の婚約者として、無難で、清廉で、そして――“隙がない”装い。
隙がないのは防御のためだと分かっているのに、人はそれを「冷たい」と言う。
「お嬢様。今日は喉に負担をかけないでくださいね」
背後から、柔らかな声がした。
侍女のアイリス・フェンネル。赤茶の髪をきっちり結い、手際よくコルセットの紐を締める。指先は細いのに、そこにある意志は硬い。
彼女はいつだって、セラフィナを“役”ではなく“人”として扱う。
「負担をかけないで、って……私は歌うわけじゃないのよ」
「歌うより喋るほうが痛い日、あります」
アイリスは真顔で言い切った。
セラフィナは、口角をほんの少し上げる。笑顔というより、筋肉の動作確認に近い。
「夜会ね」
「はい。王宮主催の……まあ、例の、です」
言い淀んだアイリスの指が、結び目の上で一瞬止まった。
例の、というのは、つまり――王太子アレクシスが最近、やけに“ある令嬢”を傍に置くようになった件。
そして、その令嬢が。
「ミレイユは、行くの?」
「……招待状には、お二人のお名前が並んでいます」
お二人。
セラフィナの喉の奥が、砂を噛んだようにざらついた。
妹ミレイユ・アルヴェイン。
彼女はいつも柔らかい。声も、笑い方も、涙の落とし方さえ絵になる。人の心の扉のノブを、鍵も使わず開けてしまう天才だ。
そして王太子は今、そのノブに夢中になっている。
「お嬢様」
アイリスが、鏡越しに目を合わせてくる。
その瞳は、ちゃんと心配していた。主の具合ではなく、主の心を。
「……大丈夫よ」
大丈夫。
セラフィナはその言葉を口にするたび、自分が少しずつ擦り切れていく音を聞く。
「大丈夫なんて、誰のための言葉です?」
アイリスの問いは優しいのに、胸の奥に針を落とすみたいに痛い。
セラフィナは答えない。答えられない。
答えた瞬間、泣いてしまいそうだったから。
支度が終わり、屋敷の門を出る。
馬車の揺れの中で、セラフィナは手袋の指先を見つめていた。白い布の下で、爪が掌に食い込む。
これは癖だ。自分を保つための、痛みの杭。
「お嬢様、深呼吸を」
アイリスが小さな声で言う。
セラフィナは息を吸う。香水の残り香と、馬の汗と、街の朝の匂いが混じる。生々しくて、現実で、でも王都はそれすら薄いヴェールで隠してしまう。
王宮に着くと、空気が変わった。
磨かれた大理石、絹の擦れる音、笑い声の泡。
会釈、挨拶、褒め言葉、探り、比較。
人間の感情が、金箔の壁に跳ね返って、きらきらと――いや、ぎらぎらと光っている。
「セラフィナ様、ごきげんよう」
「本日もお美しいこと」
「王太子殿下はもうお入りになって?」
矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、セラフィナは一つ一つ、丁寧に返す。
“正しい返事”を。
“正しい笑顔”で。
そのたびに、自分が人形に近づいていく気がする。
そして、会場の中心。
光が集まる場所に、彼はいた。
アレクシス・ヴェルディオール。王太子。
穏やかな微笑み。人を安心させる声。
彼は、たぶん本当に優しい。
だからこそ、残酷だ。
――優しさで、責任から逃げる。
「セラフィナ」
アレクシスが、こちらに気づいて手を振った。
その仕草だけで周囲の視線が集まる。
セラフィナは一礼し、近づく。
「殿下。お招きいただき光栄です」
「堅いな。今日くらい、もう少し肩の力を抜いて」
彼は笑う。
その笑顔が、昔は好きだった。
今は、どこか遠い。
「……そのお言葉は、殿下のお立場を考えると――」
「ほら、またそういう」
アレクシスが軽く肩をすくめた、その瞬間だった。
「殿下っ」
鈴の音みたいな声が、割り込んだ。
ミレイユが、花弁のようなドレスで駆け寄ってくる。淡い桃色。頬は薔薇色。目元は涙で潤んでいて、今にもこぼれそうなのに、こぼれない。
それが、絶妙に守ってあげたくなる。
「ミレイユ」
アレクシスの声が、わずかに柔らかくなる。
その変化は小さい。けれど、刃のように鋭い。
「遅くなってしまって……ごめんなさい。……あ、セラフィナお姉さま」
ミレイユは、セラフィナを見て少しだけ目を見開いた。驚いたように、怯えたように。
その表情が、周囲の想像力に火をつける。
――ああ、来る。
セラフィナは、胸の中でそう呟く。
「ミレイユ、こちらへ」
アレクシスが、自然な仕草でミレイユを自分の隣に引き寄せる。
隣。
そこは本来、婚約者の場所だ。
儀礼上の距離でも、立ち位置でも。
“正しさ”の上で決まっている。
周囲がざわめく。
誰も止めない。止めるのは――いつも私だ。
セラフィナは、ほんの一拍だけ迷った。
迷って、そして。
「殿下」
自分の声が、思ったより冷たく響いた。
冷たいのではない。硬いのだ。崩れないように。
「どうした?」
「そのお立場で、その距離は……誤解を招きます」
空気が、ぱきりと音を立てたように感じた。
香水の甘さが、一瞬で酸っぱくなる。
「……誤解、ですか?」
ミレイユが小さく呟く。
その声は震えていて、でも不思議なくらい綺麗に届く。
「お姉さまは、私が殿下の近くにいるのが……嫌なんですか?」
やめて。
セラフィナの喉の奥で、言葉にならない声が暴れる。
これは“質問”じゃない。
“物語の台詞”だ。
周囲の視線が、セラフィナに刺さる。
冷たい刃。
さっきまで褒め言葉を投げてきた口が、今は興奮した沈黙をつくる。
「嫌、ではありません」
セラフィナは、できる限り柔らかく言った。
でも柔らかくするほど、言葉の意味が薄まる。
薄めれば薄めるほど、責任が消える。
それが許せない自分が、嫌になる。
「ただ、殿下は王太子です。軽率な親しさは――」
「セラフィナ」
アレクシスが、遮った。
その声は優しい。優しいから、胸が裂ける。
「そんな言い方をしなくても。ミレイユは怖がってる」
怖がってる。
彼はそう言った。
私が怖がってることには、気づかないのに。
セラフィナは、一瞬、息が止まった。
胸の中の氷の箱が、ぎゅっと締まる。
泣きたい。でも泣けない。
泣いたら、悪役が泣いてるって笑われる。
「……申し訳ありません」
言ってしまった。
謝るべきじゃないと分かっているのに。
ここで謝らないと、もっと大きな波が立つ。
波が立てば、国が揺れる。
国が揺れれば、父が怒る。母が泣く。
そして結局、誰も守れない。
「お姉さま……」
ミレイユは涙を滲ませ、アレクシスの袖を掴む。
彼は反射的に彼女の肩に手を置く。
慰めるように。庇うように。
その仕草が、周囲の口元を緩める。
「絵になるわね」
「まるで、運命の恋……」
「でも婚約者は……」
囁きが泡のように浮かび、会場を漂う。
セラフィナの足元だけ、音が消える。
自分が透明になったみたいだ。透明なのに、悪意だけははっきり見える。
背後で、布の擦れる気配。
アイリスが半歩、前に出た。
セラフィナの視界の端で、彼女の手が震えているのが見える。
怒りで。悔しさで。
でもアイリスは叫ばない。叫べない。
叫んだら、主が余計に傷つくことを知っている。
セラフィナは、ゆっくりと頭を下げた。
「失礼いたします。殿下、皆様」
誰も止めない。
止めるのは、いつも私。
だからこそ、今夜は止めない。
会場を離れ、廊下の冷たい空気に触れた瞬間、膝が少し笑った。
壁の金箔が、やけに眩しい。
眩しさは痛みだ。
「お嬢様……!」
アイリスが追いかけてくる。
その声が、唯一の現実だった。
「……大丈夫よ」
また言ってしまう。
大丈夫という嘘を。
「大丈夫じゃないです」
アイリスは、はっきり言った。
廊下に誰もいないのを確認して、声を落とす。
「お嬢様、今のは……今のは、ずるいです」
「ずるいのは……私?」
「違います。周りが。殿下が。……みんな」
アイリスの瞳が濡れている。
涙が落ちる前に、彼女は歯を食いしばった。
「お嬢様が正しいことを言うたびに、悪者にされる。おかしいです」
正しいことを言うたびに。
その言葉が胸に落ちて、じわりと広がる。
熱いのに、痛い。
心が温度を取り戻すと、痛みも鮮明になる。
「アイリス」
セラフィナは、彼女の名前を呼んだ。
それだけで喉が詰まる。
自分が今まで、どれだけ一人で飲み込んできたかを思い出してしまうから。
「私は……」
言いかけて、止めた。
言えば泣く。泣けば崩れる。崩れれば、立て直すのに時間がかかる。
時間がかかれば、その間に“物語”が完成する。
物語。
そう、すでに出来かけている。
婚約者は冷酷で、妹は可憐で、王太子は優しくて。
誰も傷つけないために、悪役が必要だ。
その役を、私がやる。
馬車が用意され、屋敷へ戻る。
夜の王都は、昼より甘い匂いがする。
灯りが水面に揺れて、街がまるで夢みたいに見える。
夢の中なら、痛みも薄れるはずなのに。
現実は逆だ。夢のような景色の中で、自分だけが生々しく痛い。
馬車の中。
セラフィナは窓の外を見つめたまま、指先を組む。
アイリスは向かいの席で、何度も口を開きかけては閉じる。
「……お嬢様」
ようやく、アイリスが言った。
「お嬢様は、悪いこと言ってません」
その言葉は、祈りみたいだった。
誰にも届かないと分かっていて、それでも唱えずにいられない祈り。
セラフィナは、ゆっくり瞬きをする。
涙が出ないように。
出たら、止まらない気がしたから。
「……ありがとう」
小さな声。
その一言に、今日の全部が詰まってしまって、喉が焼ける。
「笑えますか」
アイリスが言う。
願いとして。
「そう、笑えたら……いいわね」
セラフィナは、笑えないまま、微かに目を細めた。
窓の外の灯りが滲む。
すでに物語は作られている。
私はその中で、悪役令嬢の役を押し付けられている。
それでも、まだ終わっていない。
終わっていないからこそ、苦しい。
苦しいからこそ――どこかで、まだ希望を捨てきれていない自分がいる。
王都の鐘が、遠くで鳴った。
それはまるで、今日の舞台が終わった合図みたいで。
セラフィナは、手袋の中で拳を握る。
氷の箱の中の心臓が、痛いほど鳴っていた。
61
あなたにおすすめの小説
【完結】断罪された悪役令嬢は、本気で生きることにした
きゅちゃん
ファンタジー
帝国随一の名門、ロゼンクロイツ家の令嬢ベルティア・フォン・ロゼンクロイツは、突如として公の場で婚約者であるクレイン王太子から一方的に婚約破棄を宣告される。その理由は、彼女が平民出身の少女エリーゼをいじめていたという濡れ衣。真実はエリーゼこそが王太子の心を奪うために画策した罠だったにも関わらず、ベルティアは悪役令嬢として断罪され、社交界からの追放と学院退学の処分を受ける。
全てを失ったベルティアだが、彼女は諦めない。これまで家の期待に応えるため「完璧な令嬢」として生きてきた彼女だが、今度は自分自身のために生きると決意する。軍事貴族の嫡男ヴァルター・フォン・クリムゾンをはじめとする協力者たちと共に、彼女は自らの名誉回復と真実の解明に挑む。
その過程で、ベルティアは王太子の裏の顔や、エリーゼの正体、そして帝国に忍び寄る陰謀に気づいていく。かつては社交界のスキルだけを磨いてきた彼女だが、今度は魔法や剣術など実戦的な力も身につけながら、自らの道を切り開いていく。
失われた名誉、隠された真実、そして予期せぬ恋。断罪された「悪役令嬢」が、自分の物語を自らの手で紡いでいく、爽快復讐ファンタジー。
【完結】ワーカホリック聖女様は働き過ぎで強制的に休暇を取らされたので、キャンピングカーで静養旅に出る。旅先で素敵な出合いもある、、、かも?
永倉伊織
ファンタジー
働き過ぎで創造神から静養をするように神託を受けた聖女メルクリースは、黒猫の神獣クロさんと一緒にキャンピングカーで静養の旅に出る。
だがしかし
仕事大好きワーカホリック聖女が大人しく静養出来るはずが無い!
メルクリースを止める役割があるクロさんは、メルクリースの作る美味しいご飯に釣られてしまい、、、
そんなこんなでワーカホリック聖女メルクリースと愉快な仲間達とのドタバタ静養旅が
今始まる!
旅先で素敵な出会いもある、、、かも?
デブだからといって婚約破棄された伯爵令嬢、前世の記憶を駆使してダイエットする~自立しようと思っているのに気がついたら溺愛されてました~
トモモト ヨシユキ
ファンタジー
デブだからといって婚約破棄された伯爵令嬢エヴァンジェリンは、その直後に前世の記憶を思い出す。
かつてダイエットオタクだった記憶を頼りに伯爵領でダイエット。
ついでに魔法を極めて自立しちゃいます!
師匠の変人魔導師とケンカしたりイチャイチャしたりしながらのスローライフの筈がいろんなゴタゴタに巻き込まれたり。
痩せたからってよりを戻そうとする元婚約者から逃げるために偽装婚約してみたり。
波乱万丈な転生ライフです。
エブリスタにも掲載しています。
追放された引きこもり聖女は女神様の加護で快適な旅を満喫中
四馬㋟
ファンタジー
幸福をもたらす聖女として民に崇められ、何不自由のない暮らしを送るアネーシャ。19歳になった年、本物の聖女が現れたという理由で神殿を追い出されてしまう。しかし月の女神の姿を見、声を聞くことができるアネーシャは、正真正銘本物の聖女で――孤児院育ちゆえに頼るあてもなく、途方に暮れるアネーシャに、女神は告げる。『大丈夫大丈夫、あたしがついてるから』「……軽っ」かくして、女二人のぶらり旅……もとい巡礼の旅が始まる。
【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜
Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。
役立たず聖女見習い、追放されたので森でマイホームとスローライフします ~召喚できるのは非生物だけ?いいえ、全部最強でした~
しおしお
ファンタジー
聖女見習いとして教会に仕えていた少女は、
「役立たず」と嘲笑され、ある日突然、追放された。
理由は単純。
彼女が召喚できるのは――タンスやぬいぐるみなどの非生物だけだったから。
森へ放り出され、夜を前に途方に暮れる中、
彼女は必死に召喚を行う。
呼び出されたのは、一体の熊のぬいぐるみ。
だがその瞬間、彼女のスキルは覚醒する。
【付喪神】――非生物に魂を宿らせる能力。
喋らないが最強の熊、
空を飛び無限引き出し爆撃を行うタンス、
敬語で語る伝説級聖剣、
そして四本足で歩き、すべてを自動化する“マイホーム”。
彼女自身は戦わない。
努力もしない。
頑張らない。
ただ「止まる場所が欲しかった」だけなのに、
気づけば魔物の軍勢は消え、
王城と大聖堂は跡形もなく吹き飛び、
――しかし人々は、なぜか生きていた。
英雄になることを拒み、
責任を背負うこともせず、
彼女は再び森へ帰る。
自動調理、自動防衛、完璧な保存環境。
便利すぎる家と、喋らない仲間たちに囲まれた、
頑張らないスローライフが、今日も続いていく。
これは、
「世界を救ってしまったのに、何もしない」
追放聖女の物語。
-
《完結》悪役聖女
ヴァンドール
ファンタジー
聖女になり、王妃となるため十年間も教育を受けて来たのに蓋を開ければ妹が聖女の力を持っていて私はには聖女の力が無かった。そのため祖国を追放されて隣国へと旅立ったがそこで……
婚約破棄された公爵令嬢は虐げられた国から出ていくことにしました~国から追い出されたのでよその国で竜騎士を目指します~
ヒンメル
ファンタジー
マグナス王国の公爵令嬢マチルダ・スチュアートは他国出身の母の容姿そっくりなためかこの国でうとまれ一人浮いた存在だった。
そんなマチルダが王家主催の夜会にて婚約者である王太子から婚約破棄を告げられ、国外退去を命じられる。
自分と同じ容姿を持つ者のいるであろう国に行けば、目立つこともなく、穏やかに暮らせるのではないかと思うのだった。
マチルダの母の祖国ドラガニアを目指す旅が今始まる――
※文章を書く練習をしています。誤字脱字や表現のおかしい所などがあったら優しく教えてやってください。
※第二章まで完結してます。現在、最終章をゆっくり更新中です。書くスピードが亀より遅いので、お待たせしてすみませんm(__)m
※小説家になろう様にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる