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第1話 悪役令嬢の役を押し付けられる日
しおりを挟む王都の朝は、香水と鐘の音で始まる。
窓を開けると、遠くの大聖堂が鳴らす澄んだ音が、街路樹の葉を震わせながら屋敷に流れ込んでくる。空気はまだ冷たく、けれど陽光はやけに優しくて、まるで「今日も平和ですよ」と嘘をついているみたいだった。
セラフィナ・アルヴェインは、鏡の前でまつ毛を伏せた。
光を弾く銀糸の刺繍が施された淡い青のドレス。王太子の婚約者として、無難で、清廉で、そして――“隙がない”装い。
隙がないのは防御のためだと分かっているのに、人はそれを「冷たい」と言う。
「お嬢様。今日は喉に負担をかけないでくださいね」
背後から、柔らかな声がした。
侍女のアイリス・フェンネル。赤茶の髪をきっちり結い、手際よくコルセットの紐を締める。指先は細いのに、そこにある意志は硬い。
彼女はいつだって、セラフィナを“役”ではなく“人”として扱う。
「負担をかけないで、って……私は歌うわけじゃないのよ」
「歌うより喋るほうが痛い日、あります」
アイリスは真顔で言い切った。
セラフィナは、口角をほんの少し上げる。笑顔というより、筋肉の動作確認に近い。
「夜会ね」
「はい。王宮主催の……まあ、例の、です」
言い淀んだアイリスの指が、結び目の上で一瞬止まった。
例の、というのは、つまり――王太子アレクシスが最近、やけに“ある令嬢”を傍に置くようになった件。
そして、その令嬢が。
「ミレイユは、行くの?」
「……招待状には、お二人のお名前が並んでいます」
お二人。
セラフィナの喉の奥が、砂を噛んだようにざらついた。
妹ミレイユ・アルヴェイン。
彼女はいつも柔らかい。声も、笑い方も、涙の落とし方さえ絵になる。人の心の扉のノブを、鍵も使わず開けてしまう天才だ。
そして王太子は今、そのノブに夢中になっている。
「お嬢様」
アイリスが、鏡越しに目を合わせてくる。
その瞳は、ちゃんと心配していた。主の具合ではなく、主の心を。
「……大丈夫よ」
大丈夫。
セラフィナはその言葉を口にするたび、自分が少しずつ擦り切れていく音を聞く。
「大丈夫なんて、誰のための言葉です?」
アイリスの問いは優しいのに、胸の奥に針を落とすみたいに痛い。
セラフィナは答えない。答えられない。
答えた瞬間、泣いてしまいそうだったから。
支度が終わり、屋敷の門を出る。
馬車の揺れの中で、セラフィナは手袋の指先を見つめていた。白い布の下で、爪が掌に食い込む。
これは癖だ。自分を保つための、痛みの杭。
「お嬢様、深呼吸を」
アイリスが小さな声で言う。
セラフィナは息を吸う。香水の残り香と、馬の汗と、街の朝の匂いが混じる。生々しくて、現実で、でも王都はそれすら薄いヴェールで隠してしまう。
王宮に着くと、空気が変わった。
磨かれた大理石、絹の擦れる音、笑い声の泡。
会釈、挨拶、褒め言葉、探り、比較。
人間の感情が、金箔の壁に跳ね返って、きらきらと――いや、ぎらぎらと光っている。
「セラフィナ様、ごきげんよう」
「本日もお美しいこと」
「王太子殿下はもうお入りになって?」
矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、セラフィナは一つ一つ、丁寧に返す。
“正しい返事”を。
“正しい笑顔”で。
そのたびに、自分が人形に近づいていく気がする。
そして、会場の中心。
光が集まる場所に、彼はいた。
アレクシス・ヴェルディオール。王太子。
穏やかな微笑み。人を安心させる声。
彼は、たぶん本当に優しい。
だからこそ、残酷だ。
――優しさで、責任から逃げる。
「セラフィナ」
アレクシスが、こちらに気づいて手を振った。
その仕草だけで周囲の視線が集まる。
セラフィナは一礼し、近づく。
「殿下。お招きいただき光栄です」
「堅いな。今日くらい、もう少し肩の力を抜いて」
彼は笑う。
その笑顔が、昔は好きだった。
今は、どこか遠い。
「……そのお言葉は、殿下のお立場を考えると――」
「ほら、またそういう」
アレクシスが軽く肩をすくめた、その瞬間だった。
「殿下っ」
鈴の音みたいな声が、割り込んだ。
ミレイユが、花弁のようなドレスで駆け寄ってくる。淡い桃色。頬は薔薇色。目元は涙で潤んでいて、今にもこぼれそうなのに、こぼれない。
それが、絶妙に守ってあげたくなる。
「ミレイユ」
アレクシスの声が、わずかに柔らかくなる。
その変化は小さい。けれど、刃のように鋭い。
「遅くなってしまって……ごめんなさい。……あ、セラフィナお姉さま」
ミレイユは、セラフィナを見て少しだけ目を見開いた。驚いたように、怯えたように。
その表情が、周囲の想像力に火をつける。
――ああ、来る。
セラフィナは、胸の中でそう呟く。
「ミレイユ、こちらへ」
アレクシスが、自然な仕草でミレイユを自分の隣に引き寄せる。
隣。
そこは本来、婚約者の場所だ。
儀礼上の距離でも、立ち位置でも。
“正しさ”の上で決まっている。
周囲がざわめく。
誰も止めない。止めるのは――いつも私だ。
セラフィナは、ほんの一拍だけ迷った。
迷って、そして。
「殿下」
自分の声が、思ったより冷たく響いた。
冷たいのではない。硬いのだ。崩れないように。
「どうした?」
「そのお立場で、その距離は……誤解を招きます」
空気が、ぱきりと音を立てたように感じた。
香水の甘さが、一瞬で酸っぱくなる。
「……誤解、ですか?」
ミレイユが小さく呟く。
その声は震えていて、でも不思議なくらい綺麗に届く。
「お姉さまは、私が殿下の近くにいるのが……嫌なんですか?」
やめて。
セラフィナの喉の奥で、言葉にならない声が暴れる。
これは“質問”じゃない。
“物語の台詞”だ。
周囲の視線が、セラフィナに刺さる。
冷たい刃。
さっきまで褒め言葉を投げてきた口が、今は興奮した沈黙をつくる。
「嫌、ではありません」
セラフィナは、できる限り柔らかく言った。
でも柔らかくするほど、言葉の意味が薄まる。
薄めれば薄めるほど、責任が消える。
それが許せない自分が、嫌になる。
「ただ、殿下は王太子です。軽率な親しさは――」
「セラフィナ」
アレクシスが、遮った。
その声は優しい。優しいから、胸が裂ける。
「そんな言い方をしなくても。ミレイユは怖がってる」
怖がってる。
彼はそう言った。
私が怖がってることには、気づかないのに。
セラフィナは、一瞬、息が止まった。
胸の中の氷の箱が、ぎゅっと締まる。
泣きたい。でも泣けない。
泣いたら、悪役が泣いてるって笑われる。
「……申し訳ありません」
言ってしまった。
謝るべきじゃないと分かっているのに。
ここで謝らないと、もっと大きな波が立つ。
波が立てば、国が揺れる。
国が揺れれば、父が怒る。母が泣く。
そして結局、誰も守れない。
「お姉さま……」
ミレイユは涙を滲ませ、アレクシスの袖を掴む。
彼は反射的に彼女の肩に手を置く。
慰めるように。庇うように。
その仕草が、周囲の口元を緩める。
「絵になるわね」
「まるで、運命の恋……」
「でも婚約者は……」
囁きが泡のように浮かび、会場を漂う。
セラフィナの足元だけ、音が消える。
自分が透明になったみたいだ。透明なのに、悪意だけははっきり見える。
背後で、布の擦れる気配。
アイリスが半歩、前に出た。
セラフィナの視界の端で、彼女の手が震えているのが見える。
怒りで。悔しさで。
でもアイリスは叫ばない。叫べない。
叫んだら、主が余計に傷つくことを知っている。
セラフィナは、ゆっくりと頭を下げた。
「失礼いたします。殿下、皆様」
誰も止めない。
止めるのは、いつも私。
だからこそ、今夜は止めない。
会場を離れ、廊下の冷たい空気に触れた瞬間、膝が少し笑った。
壁の金箔が、やけに眩しい。
眩しさは痛みだ。
「お嬢様……!」
アイリスが追いかけてくる。
その声が、唯一の現実だった。
「……大丈夫よ」
また言ってしまう。
大丈夫という嘘を。
「大丈夫じゃないです」
アイリスは、はっきり言った。
廊下に誰もいないのを確認して、声を落とす。
「お嬢様、今のは……今のは、ずるいです」
「ずるいのは……私?」
「違います。周りが。殿下が。……みんな」
アイリスの瞳が濡れている。
涙が落ちる前に、彼女は歯を食いしばった。
「お嬢様が正しいことを言うたびに、悪者にされる。おかしいです」
正しいことを言うたびに。
その言葉が胸に落ちて、じわりと広がる。
熱いのに、痛い。
心が温度を取り戻すと、痛みも鮮明になる。
「アイリス」
セラフィナは、彼女の名前を呼んだ。
それだけで喉が詰まる。
自分が今まで、どれだけ一人で飲み込んできたかを思い出してしまうから。
「私は……」
言いかけて、止めた。
言えば泣く。泣けば崩れる。崩れれば、立て直すのに時間がかかる。
時間がかかれば、その間に“物語”が完成する。
物語。
そう、すでに出来かけている。
婚約者は冷酷で、妹は可憐で、王太子は優しくて。
誰も傷つけないために、悪役が必要だ。
その役を、私がやる。
馬車が用意され、屋敷へ戻る。
夜の王都は、昼より甘い匂いがする。
灯りが水面に揺れて、街がまるで夢みたいに見える。
夢の中なら、痛みも薄れるはずなのに。
現実は逆だ。夢のような景色の中で、自分だけが生々しく痛い。
馬車の中。
セラフィナは窓の外を見つめたまま、指先を組む。
アイリスは向かいの席で、何度も口を開きかけては閉じる。
「……お嬢様」
ようやく、アイリスが言った。
「お嬢様は、悪いこと言ってません」
その言葉は、祈りみたいだった。
誰にも届かないと分かっていて、それでも唱えずにいられない祈り。
セラフィナは、ゆっくり瞬きをする。
涙が出ないように。
出たら、止まらない気がしたから。
「……ありがとう」
小さな声。
その一言に、今日の全部が詰まってしまって、喉が焼ける。
「笑えますか」
アイリスが言う。
願いとして。
「そう、笑えたら……いいわね」
セラフィナは、笑えないまま、微かに目を細めた。
窓の外の灯りが滲む。
すでに物語は作られている。
私はその中で、悪役令嬢の役を押し付けられている。
それでも、まだ終わっていない。
終わっていないからこそ、苦しい。
苦しいからこそ――どこかで、まだ希望を捨てきれていない自分がいる。
王都の鐘が、遠くで鳴った。
それはまるで、今日の舞台が終わった合図みたいで。
セラフィナは、手袋の中で拳を握る。
氷の箱の中の心臓が、痛いほど鳴っていた。
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