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第2話 家族という名の裁判
しおりを挟む侯爵家の食卓には、いつも湯気が立っている。
スープの香りは柔らかく、焼きたてのパンは小麦の甘さをふわりと漂わせ、銀器は灯りを受けて静かに瞬く。
なのに、ここで呼吸をすると、肺の奥が冷える。
セラフィナ・アルヴェインは背筋を伸ばし、フォークを持った。
皿の上の肉は美しく切り分けられているのに、喉を通る想像ができない。
食卓の向こうに座る父――エドガー・アルヴェイン侯爵は、いつもと同じように落ち着いた顔でワインを傾けている。
母クラウディアは、眉ひとつ動かさずに微笑んでいる。
そして妹ミレイユは、胸元のリボンをきゅっと握りしめるようにして座っていた。
この配置は、どこまでも完璧だ。
長女は長女らしく、父は父らしく、母は母らしく、妹は妹らしく。
完璧に見えるからこそ、崩れたときに誰かが悪者になる。
「――昨夜の夜会、噂になっている」
父が、食事の開始を告げる祈りより先に言った。
低く、淡々と。
噂、という言葉がパンの匂いを打ち消す。
「……存じております」
セラフィナは答える。
声の温度を一定に保つ。感情を混ぜれば、それだけで“負け”になる。
「王太子殿下の周囲がざわつけば、こちらにも火の粉が飛ぶ。アルヴェイン家は、殿下の婚約家だ。些細な振る舞いが家の信用に直結する」
父は“家”を語るときだけ、ほんの少し声に熱が入る。
娘を語るときではない。
セラフィナはそれを昔から知っていた。
母が扇子を軽く開き、さらりと言う。
「セラフィナ、あなた。もう少し……柔らかく振る舞いなさい」
柔らかく。
その言葉は、甘い毒みたいに聞こえる。
「柔らかく、とは?」
セラフィナは尋ねた。
怒りではない。確認だ。
けれど母は、確認を“反抗”と受け取る。
「そうやって言い返すところよ。あなたはいつも理屈で人を追い詰める。殿下は優しい方なの。追い詰められるのは、きっとお嫌いよ」
優しい方。
セラフィナは、口の中に苦みが広がるのを感じた。
優しいからこそ、決断をしない。
決断をしないからこそ、誰かが犠牲になる。
その“誰か”は、いつだって自分だった。
ミレイユが、小さく咳払いをして口を開く。
「お父さま、お母さま……あの、私……」
声が震えている。
それがわざとなのか、無意識なのか、セラフィナにはもう判断がつかない。
「昨夜は……私が軽率でした。殿下が優しくしてくださっただけなのに、お姉さまに嫌な思いをさせてしまって……」
ミレイユはうつむく。睫毛が頬に影を落とし、涙が溜まっていく。
その様子は、まるで絵画の一部みたいに整っている。
泣き方さえ、美しい。
「ミレイユ、あなたが悪いわけじゃないわ」
母が即座に言った。
その言葉が、食卓の空気を決定づける。
「殿下があなたを気にかけるのは自然なこと。あなたは可愛らしいし、人の心を和ませる。ねえ?」
母は、父に同意を求めるように視線を送る。
父は頷きもしないが、否定もしない。
それが答えだ。
セラフィナは、肉をひと切れ口に運んだ。
噛む。
味がしない。
ただ噛んでいる音だけが、頭の中でやけに大きい。
「……ミレイユ」
セラフィナはゆっくり妹の名を呼ぶ。
言葉を選びすぎると、逆に鋭くなる。
でも選ばなければ、爆発する。
「昨夜の問題は、あなたが殿下に気にかけられたことではないわ。殿下の立ち位置と、あなたの立ち位置が、混ざって見えること」
妹が顔を上げた。
瞳が濡れて、子どもみたいに丸い。
「でも……私は……殿下が困っているように見えて……」
「困っている?」
セラフィナは反射的に言い返しそうになった。
困っているのは、私だ。
でも、それを口にした瞬間、空気は確実に“悪役”へ傾く。
父が口を挟む。
「セラフィナ。言い方を選べ。今は家族の食卓だ」
家族。
その単語が、胸をぎゅっと締める。
家族なら、守るはずだ。
家族なら、信じるはずだ。
でもここでは、家族は裁判官で、セラフィナは被告席にいる。
「私は、言い方を間違えているつもりはありません」
セラフィナは静かに言った。
静かだから、余計に強く響く。
「殿下は王太子です。国の象徴です。その殿下が、婚約者ではなく妹と親密に見える状況は――国の信用を傷つけます」
父の眉が僅かに動いた。
“国の信用”。
その言葉だけは、父の興味を引いた。
「……具体的に、どれほどの影響がある?」
「噂は夜会だけで止まりません。商会、教会、軍部にまで届きます。殿下の判断が私情で揺れると思われれば、外交も投資も揺れます。婚約家である我が家も巻き込まれる」
言葉は冷静に。
計算して。
その冷静さが、また“冷酷”になる。
母がため息をつく。
「あなたはいつも、そうやって大きな話にしてしまう」
「大きな話です」
セラフィナは言った。
目を逸らさない。逸らしたら負ける。
でも勝っても、救われない。
「セラフィナ」
母は扇子を閉じ、微笑みを貼り付けたまま言う。
「殿下はね、あなたみたいに堅い女性だけを相手にしていたら息が詰まるの。少しは理解してあげなさい。あなたは婚約者でしょう?」
婚約者。
その言葉が、皮肉みたいに響く。
「理解しています」
セラフィナは言う。
している。理解している。
だからこそ、苦しい。
「殿下が息をつける場所が必要だとしても、それが“婚約者の妹”である必要はありません」
その瞬間、ミレイユの肩がびくりと跳ねた。
まるで殴られたみたいに。
「お姉さま……私、そんなつもりじゃ……」
涙が落ちる。
落ちた瞬間、母の目が険しくなる。
父の視線が冷たくなる。
セラフィナの心は、氷の箱に閉じ込められる。
「セラフィナ」
父が低い声で言う。
「お前は、妹を泣かせて楽しいのか?」
違う。
楽しいわけがない。
泣かせたいわけがない。
でも、口を開けば開くほど、言葉は曲解される。
「泣かせているつもりはありません」
「つもりではなく、現実を見ろ」
父の言葉は裁判の槌だった。
有罪。
そう告げる音。
母が優しくミレイユの手を取る。
「ミレイユ、あなたは悪くないわ。殿下があなたを好まれるのは当然よ」
当然。
当然、という言葉で、セラフィナの立場が削られていく。
「……私は、婚約者です」
セラフィナの声が、ほんの少しだけ揺れた。
自覚してしまったから。
自分が、傷ついていることを。
父がワインを置いた。
「だからこそ、お前が恥を晒すなと言っている。世論は感情で動く。正しさで人はついてこない」
世論。感情。
父はそれを、悪いこととは思っていない。
ただの“現実”として捉えている。
「……では私は、どうすれば?」
セラフィナは訊いた。
答えが欲しいわけじゃない。
自分がまだ“話し合い”を信じているか確かめたかった。
母が、唇の端を上げる。
「簡単よ。殿下の前では微笑むの。ミレイユのことも、可愛がるの。皆が安心するように、優しい婚約者でいるの」
「……それは」
嘘だ。
嘘で塗り固めた笑顔だ。
でも母は嘘を“社交”と呼び、正当化する。
「それが貴族の女性の務めよ」
務め。
セラフィナは、喉の奥で苦い笑いが湧くのを抑えた。
務めのために心を殺して、最後に残るのは何だろう。
ドレスの重さと、空っぽの体だけではないか。
「お姉さま……」
ミレイユが小さく言う。
申し訳なさそうに、でもどこか期待するように。
「私……お姉さまに嫌われたくない」
嫌う?
それは違う。
嫌っているのは、状況だ。
構造だ。
私の言葉がいつも悪者にされる、この世界だ。
「嫌っていないわ」
セラフィナは言った。
それだけは本当だった。
妹は、ただ妹だ。
罪があるとしたら、無邪気に“愛される側”に座り続けていること。
でもそれを罪だと断じるほど、セラフィナは強くない。
父が結論を出す。
「セラフィナ。お前が殿下の機嫌を損ねるな。家のためだ。お前のためでもある」
お前のため。
その言葉ほど信用できないものはない。
それはいつも、家のための別名だった。
食卓の会話は、それで終わった。
終わったというより、“判決が出た”。
セラフィナは食器を置き、一礼して席を立つ。
背中に刺さる視線。
それは心配ではなく、評価だ。
廊下を歩く。
絨毯が足音を吸い込む。
吸い込まれた音みたいに、言えなかった言葉が胸の底に沈んでいく。
――私は、誰の味方なんだろう。
自室に戻ると、ドアの外から控えめなノックがした。
「お嬢様。……アイリスです」
「入って」
アイリスは、顔色を見てすぐ分かったのか、唇を噛んだ。
言葉を探している顔。
怒りと、悔しさと、涙が混ざっている顔。
「……聞こえてました」
彼女は言った。
“聞こえてしまった”のほうが正しい声だった。
「台所まで、全部」
「そう」
セラフィナは鏡台の前に座り、髪飾りを外した。
金属の冷たさが指先に残る。
「お嬢様」
アイリスは、拳を握りしめたまま言う。
「この家は……お嬢様を守りません」
その言葉は、刃というより祈りだった。
残酷な真実を、せめて優しく渡したいと願う声。
「分かっている」
セラフィナは鏡を見た。
自分の顔が映っている。
整っている。綺麗だ。
でも、そこにいるのは“私”ではない気がする。
「どうしてお嬢様ばっかり……」
アイリスの声が震える。
セラフィナは振り返らず、静かに言った。
「私が、笑うのが下手だから」
「そんなの、関係ないです!」
アイリスが一歩踏み出す気配がした。
セラフィナは鏡越しに、彼女の目が赤いのを見た。
「笑うのが上手い人だけが愛されるなら、この世界は間違ってます」
「……世界は、間違っていても回るのよ」
セラフィナは呟いた。
その言葉は、自分を納得させるための呪文みたいだった。
「お嬢様」
アイリスが、少し落ち着いた声で言う。
「笑顔、練習しますか」
セラフィナは、息を止めた。
痛いほど優しい提案だった。
そんなことまでさせてしまうのか、と。
でも同時に、そこにすがりたい自分もいる。
「……お願い」
鏡の前で、セラフィナは口角を上げる。
上げようとする。
けれど頬が引きつる。目が笑わない。
笑顔の形を作るたび、胸の奥の氷が軋む。
「もっと、こう……柔らかく」
アイリスが、自分の頬を指で押して見せる。
その仕草が、あまりにも健気で、セラフィナの胸がきゅっと痛んだ。
「……できない」
セラフィナは、吐息のように言った。
笑顔は武器なのに、武器を持てない自分が情けない。
「できないなら、できないでいいです」
アイリスは即座に言った。
「お嬢様は、お嬢様のままでいい。……でも、世界がそれを許さないなら」
彼女は言葉を切り、拳をほどいた。
小さな手のひらが震えている。
「私が、許させます」
その一言に、セラフィナの喉が熱くなる。
涙が出そうになる。
出してはいけないと思うのに、出してもいいと思える瞬間が、ほんの少しだけ生まれる。
セラフィナは鏡の中の自分を見つめた。
笑えない顔。
柔らかくなれない表情。
作れないから、悪役になる。
世界がそれを望むなら、その役を演じてでも守るしかない。
守りたいものがあるから。
国の信用とか、家の体面とか、そういう立派な理由だけじゃない。
――本当は、ただ。
自分がこれ以上、誰かを失わないために。
「アイリス」
セラフィナは小さく言った。
「あなたは、私のそばにいて」
頼む、なんて言葉は使わない。
そんな弱さを見せたら、また自分が崩れる気がした。
でもアイリスは、ちゃんと分かってくれて、涙を拭って笑った。
その笑顔が、あまりにも自然で、眩しくて。
「はい。お嬢様が追い払っても、しつこくいます」
「追い払わないわよ」
「じゃあ、ずっといます」
その約束は、温かい料理より温かかった。
冷たい食卓で凍えた心が、ほんの少しだけ溶ける。
けれど同時に、セラフィナは知っている。
この家の裁判は、まだ終わっていない。
むしろ始まったばかりだ。
鏡の中の自分は、相変わらず笑っていない。
でも、その瞳の奥に――ほんのわずか、火が灯っていた。
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