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第3話 断罪劇の舞台裏
しおりを挟む王宮の廊下は、香りが重い。
花の匂いと蜜蝋の匂い、磨かれた金属と絹の擦れる匂いが混じって、まるで息を吸うだけで社交界の嘘を飲み込まされるみたいだった。
セラフィナ・アルヴェインは、歩幅を一定に保って歩く。
足音が響きすぎないように。
背筋が曲がらないように。
まばたきの回数すら、数えるように。
こういう場所では「少し疲れている」だけで、噂になる。
「青ざめていた」
「怒っていた」
「泣いていたらしい」
事実ではなく、都合のいい物語が貼り付けられる。
そして――今はその物語が、確実に“完成”へ向かって走っていた。
「聞いた? 王太子殿下、またミレイユ様と」
「え、また? この前の夜会でも相当だったって」
「セラフィナ様、顔色ひとつ変えなかったって。怖いわよね」
廊下の柱の陰で、侍女たちがささやく。
声は小さい。小さいのに、刃みたいに耳へ届く。
セラフィナが通り過ぎると、彼女たちはお辞儀の形だけを作り、目だけで笑った。
「セラフィナ様、ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
挨拶の言葉は丁寧でも、視線が汚い。
人間は目で一番ひどいことを言える。
背後で、アイリスの気配が少しだけ強くなる。
彼女は主の半歩後ろを守るように歩き、露骨な噂話が聞こえた瞬間、唇をきゅっと噛んだ。
「お嬢様、気にしないでください」
小声で囁くように言われる。
気にするな、という言葉は優しい。
でも、それは傷がある前提の言葉でもある。
「気にしていないわ」
セラフィナは嘘をついた。
嘘をつくのは、息をするのと同じくらい自然になってしまった。
王宮の一室に通される。
今日は王太子の“相談”の時間。
相談――そう名付けられた場で、実際に話されるのはいつも「空気」だ。
「セラフィナ、来てくれてありがとう」
アレクシス・ヴェルディオールが、柔らかい笑みで迎える。
まるで何も問題が起きていないみたいに。
「殿下がお呼びでしたので」
セラフィナが一礼すると、アレクシスは困ったように眉を下げた。
「そんなにかしこまらなくていい。君は……僕の婚約者なんだから」
婚約者。
それは本来、守られるべき立場だ。
守られず、むしろ盾にされている。
「殿下。噂が広がっています」
セラフィナは前置きを捨てた。
柔らかく、なんて言われても、柔らかくすれば削られるのは自分だ。
「うん、聞いてる」
「止めるおつもりは?」
アレクシスは一瞬、目を泳がせた。
その視線の揺れが、答えだった。
「誤解だよ。皆が面白がっているだけだ。ミレイユは……ただ、君の妹で、僕にとっても大切な存在で」
「殿下」
セラフィナは声を落とした。
落としたから、余計に冷たく響く。
「誤解は、放置すれば事実になります」
「君はいつも、最悪の想定をするね」
アレクシスは苦笑した。
優しい笑い方。逃げる笑い方。
「最悪の想定をするのが、王太子の婚約者の務めです」
「……それも、分かってる。分かってるけど」
彼は椅子に深く座り、ため息をついた。
そのため息が、こちらの肩に重くのしかかる。
「君が怖い顔をしていると、周りがもっと騒ぐんだよ。だから、少し落ち着いて」
落ち着いて。
つまり、黙って。
笑って。
耐えて。
セラフィナの内側で、何かが静かに崩れた。音はしない。
でも確実に、ひびが入って、広がっていく。
「殿下は……私がどう見られているか、ご存じですか?」
アレクシスは答えない。
答えないまま、優しい顔をする。
その優しさが、罪を薄める。
「皆が誤解しているだけだ」
またその言葉。
誤解。
誤解しているのは周りだから、自分は何もしない。
それは責任放棄にしか見えないのに、本人だけが気づかない。
「……承知しました」
セラフィナは一礼した。
もうこれ以上、この部屋で言葉を重ねる意味がない。
言葉を重ねれば重ねるほど、自分が“口うるさい悪役”になるだけだ。
部屋を出ると、廊下の空気がさらに冷たく感じた。
そのとき――向こうから駆けてくる足音がした。
「お姉さま!」
ミレイユが、スカートを持ち上げて走ってくる。
転びそうなくらい急いで、息を切らして、頬を赤くして。
「どうしたの」
セラフィナが尋ねると、ミレイユはその場で立ち止まり、目に涙を溜めた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。私のせいで……お姉さまが、悪く言われて……」
ごめんなさい。
その言葉は優しく見える。
でも、セラフィナの胸には刃として刺さる。
なぜならその謝罪は、暗に言っている。
“あなたが悪く言われている”ことを前提にして。
そしてそれを、止めるために自分が席を外すわけでもなく、殿下の隣を離れるわけでもない。
「あなたのせいではないわ」
セラフィナは、機械のように言った。
本当は「あなたも少し、距離を取って」と言いたい。
でも言えば、また彼女は泣く。
泣けば、周りは言う。
“やっぱりセラフィナ様は冷たい”と。
「でも……皆が……」
ミレイユは袖で涙を拭う。
その仕草が、守ってあげたい衝動を掻き立てるように設計されている――と感じてしまう自分が嫌だった。
妹を疑うのは、罪悪感がある。
でも疑わずにいれば、自分が沈む。
「皆が、何?」
セラフィナが静かに訊くと、ミレイユは俯いたまま小さく言う。
「殿下と私が……本当は……運命だって……」
運命。
胸の奥の氷が、きしりと鳴った。
その単語は、正しさを簡単に粉砕する。
責務も、秩序も、信用も、「運命」の前ではただの邪魔者になる。
「……ミレイユ」
セラフィナが名前を呼ぶと、ミレイユは泣きながら顔を上げた。
「お姉さま、ごめんなさい」
また、その言葉。
謝罪という形の免罪符。
セラフィナは、喉の奥で言葉を噛み砕き、飲み込んだ。
「……謝らなくていい」
その瞬間、ミレイユはほっとしたように微笑んだ。
罪を赦された子どもみたいに。
そしてその微笑みが、周囲の侍女たちの視線をさらに甘くする。
――ほら。見て。
可憐な令嬢が泣いている。
悪役は、許したふりをしている。
廊下の端で、貴族令嬢たちがわざとらしく目を伏せた。
「セラフィナ様も、大変ですわね」
「妹に嫉妬するなんて、みっともないのに」
「でもあの方、表情が変わらないから余計怖いのよね」
同情のふりをした刃。
刺すために、優しい言葉を選ぶタイプの人間。
セラフィナは歩き出した。
足が震えそうになるのを、踵の硬さで押さえつける。
アイリスが追いつき、耳元で囁く。
「お嬢様、いまの会話、誰かが聞いてました」
「……でしょうね」
「絶対、都合よく切り取られます」
アイリスの声が悔しそうに震える。
セラフィナは、わずかに頷いた。
「止めよう」
アイリスが言った。
必死に。
主のために、自分が戦うと決めた声で。
「噂の出所を探します。誰が最初に言い出したのか、誰が広めてるのか……叩けば止まります。絶対」
「アイリス」
セラフィナは立ち止まった。
そして、アイリスの目を見た。
「あなた一人で、貴族社会を叩けると思う?」
アイリスの喉が詰まった。
分かっている。分かっているのに、やりたい。
その葛藤が瞳に揺れる。
「……でも」
「でもじゃないわ」
セラフィナは言葉を柔らかくした。
柔らかくしようと努力した。
それはアイリスにだけ向けることができる、唯一の柔らかさだった。
「あなたが傷つくのは、嫌」
「お嬢様が傷つくのはいいんですか!」
アイリスの声が、思わず大きくなる。
すぐに彼女は口を押さえ、周囲を警戒した。
セラフィナは、心が熱くなるのを感じた。
誰かが、こんなふうに自分の痛みに怒ってくれる。
それだけで、救われそうになるのが悔しい。
「よくないわ」
セラフィナは小さく言った。
「でも……私は、こういう役目だから」
アイリスの目に、涙が溜まる。
それでも彼女は頷かなかった。
「役目なんて……、いやです」
その言葉が、あまりにもアイリスらしくて。
セラフィナの口元が一瞬、崩れそうになった。
笑いではなく、泣き笑いの形に。
その日の夜。
アイリスは裏で動いた。
台所の下働きに耳打ちし、別の侍女とすれ違うふりをして情報を拾い、噂の糸を辿ろうとする。
誰が最初に言い始めたのか。
誰が面白がっているのか。
誰が利益を得るのか。
けれど――貴族社会の噂は、蜘蛛の糸だ。
一つ切っても、別の糸が絡み、さらに太くなる。
糸の端は、いつも見えないところにある。
見えないから、責任も見えない。
「ねえ、聞いた?」
「殿下がミレイユ様に贈り物を」
「セラフィナ様は顔が怖いから、殿下も癒やしが必要よね」
「婚約者なのに、かわいそう」
かわいそう。
その言葉が一番、残酷だ。
人を下に置いて、安心するための言葉。
アイリスが帰ってきたのは深夜だった。
髪が乱れ、指先が冷え切っている。
それでも目だけは燃えていた。
「お嬢様。噂の出所、分かりません」
悔しさが声に滲む。
「分からないの?」
「糸が多すぎます。誰もが少しずつ言って、少しずつ盛って、少しずつ嘘を足して……もう、最初が見えない」
セラフィナは、静かに息を吐いた。
分かっていた。
こうなることは、最初から。
「ありがとう」
それでも言った。
アイリスが動いてくれたことが、嬉しかったから。
嬉しいと認めるのは弱さで、でもその弱さを今夜だけは持っていたかった。
「お嬢様……」
アイリスは膝をつき、拳を握った。
「止められないなんて、嫌です」
「止められないわけじゃない」
セラフィナは、窓の外の夜を見た。
王都の灯りが、星みたいに瞬いている。
美しい。
美しいからこそ、残酷だ。
「止める方法が、違うだけ」
「違うって……?」
アイリスが顔を上げる。
セラフィナは、しばらく黙った。
言葉にするのが怖かった。
言葉にした瞬間、それが現実になるから。
でも――もう、見てしまった。
止められない物語の流れを。
自分が悪役になることで、全体が丸く収まる未来を。
そしてその未来が、ここにいる誰もを守ってしまうことを。
守る。
守るために、誰かが傷つく。
その誰かは、私でいい。
そう思える自分が、どこか壊れている気もする。
でも壊れていないと、ここでは生きられない。
「……私が悪役になる」
セラフィナは、静かに言った。
「私が“悪い人”でいれば、殿下は慈愛の人でいられる。ミレイユは可憐な人でいられる。家も、国も、体面を保てる」
アイリスが息を呑んだ。
それは否定したい答えなのに、否定できない現実の形をしている。
「そんな……お嬢様だけが……」
「私だけじゃない」
セラフィナは、指先を見つめた。
自分の手は綺麗だ。
汚れていない。
汚れていないから、汚れ役にされる。
「この世界は、いつもそう。誰かが悪者にならないと、話が終わらない」
「お嬢様……」
アイリスの声が泣きそうになる。
セラフィナは、彼女の頭にそっと手を置いた。
主が侍女の頭を撫でるなんて、礼儀としては微妙かもしれない。
でも今だけは、そうしたかった。
自分が人間だと確かめたかった。
「アイリス。あなたは、私のそばにいなさい」
「……もちろんです。追い払っても、います」
「追い払わない」
セラフィナはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
笑ったつもりだった。
でも鏡を見れば、たぶんいつも通り、表情は硬いままだろう。
夜の静けさの中で、セラフィナは覚悟を固める。
自分が悪役になることで、この国の体面は守られる。
そうするしかない。
そうするしかない、と言い聞かせる。
けれど心のどこかが、痛いほど叫んでいた。
――それ、本当に守ってるの?
――自分を殺して、守ったって言えるの?
答えは出ない。
出ないまま、物語は進む。
王宮の鐘が、遠くで鳴った。
その音は、幕が上がる合図のように響いた。
断罪劇の舞台裏で、
悪役は静かに衣装を着込んでいく。
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