悪役令嬢扱いで国外追放?なら辺境で自由に生きます

タマ マコト

文字の大きさ
3 / 20

第3話 断罪劇の舞台裏

しおりを挟む


 王宮の廊下は、香りが重い。
 花の匂いと蜜蝋の匂い、磨かれた金属と絹の擦れる匂いが混じって、まるで息を吸うだけで社交界の嘘を飲み込まされるみたいだった。

 セラフィナ・アルヴェインは、歩幅を一定に保って歩く。
 足音が響きすぎないように。
 背筋が曲がらないように。
 まばたきの回数すら、数えるように。

 こういう場所では「少し疲れている」だけで、噂になる。
 「青ざめていた」
 「怒っていた」
 「泣いていたらしい」
 事実ではなく、都合のいい物語が貼り付けられる。

 そして――今はその物語が、確実に“完成”へ向かって走っていた。

「聞いた? 王太子殿下、またミレイユ様と」

「え、また? この前の夜会でも相当だったって」

「セラフィナ様、顔色ひとつ変えなかったって。怖いわよね」

 廊下の柱の陰で、侍女たちがささやく。
 声は小さい。小さいのに、刃みたいに耳へ届く。
 セラフィナが通り過ぎると、彼女たちはお辞儀の形だけを作り、目だけで笑った。

「セラフィナ様、ごきげんよう」

「……ごきげんよう」

 挨拶の言葉は丁寧でも、視線が汚い。
 人間は目で一番ひどいことを言える。

 背後で、アイリスの気配が少しだけ強くなる。
 彼女は主の半歩後ろを守るように歩き、露骨な噂話が聞こえた瞬間、唇をきゅっと噛んだ。

「お嬢様、気にしないでください」

 小声で囁くように言われる。
 気にするな、という言葉は優しい。
 でも、それは傷がある前提の言葉でもある。

「気にしていないわ」

 セラフィナは嘘をついた。
 嘘をつくのは、息をするのと同じくらい自然になってしまった。

 王宮の一室に通される。
 今日は王太子の“相談”の時間。
 相談――そう名付けられた場で、実際に話されるのはいつも「空気」だ。

「セラフィナ、来てくれてありがとう」

 アレクシス・ヴェルディオールが、柔らかい笑みで迎える。
 まるで何も問題が起きていないみたいに。

「殿下がお呼びでしたので」

 セラフィナが一礼すると、アレクシスは困ったように眉を下げた。

「そんなにかしこまらなくていい。君は……僕の婚約者なんだから」

 婚約者。
 それは本来、守られるべき立場だ。
 守られず、むしろ盾にされている。

「殿下。噂が広がっています」

 セラフィナは前置きを捨てた。
 柔らかく、なんて言われても、柔らかくすれば削られるのは自分だ。

「うん、聞いてる」

「止めるおつもりは?」

 アレクシスは一瞬、目を泳がせた。
 その視線の揺れが、答えだった。

「誤解だよ。皆が面白がっているだけだ。ミレイユは……ただ、君の妹で、僕にとっても大切な存在で」

「殿下」

 セラフィナは声を落とした。
 落としたから、余計に冷たく響く。

「誤解は、放置すれば事実になります」

「君はいつも、最悪の想定をするね」

 アレクシスは苦笑した。
 優しい笑い方。逃げる笑い方。

「最悪の想定をするのが、王太子の婚約者の務めです」

「……それも、分かってる。分かってるけど」

 彼は椅子に深く座り、ため息をついた。
 そのため息が、こちらの肩に重くのしかかる。

「君が怖い顔をしていると、周りがもっと騒ぐんだよ。だから、少し落ち着いて」

 落ち着いて。
 つまり、黙って。
 笑って。
 耐えて。

 セラフィナの内側で、何かが静かに崩れた。音はしない。
 でも確実に、ひびが入って、広がっていく。

「殿下は……私がどう見られているか、ご存じですか?」

 アレクシスは答えない。
 答えないまま、優しい顔をする。
 その優しさが、罪を薄める。

「皆が誤解しているだけだ」

 またその言葉。
 誤解。
 誤解しているのは周りだから、自分は何もしない。
 それは責任放棄にしか見えないのに、本人だけが気づかない。

「……承知しました」

 セラフィナは一礼した。
 もうこれ以上、この部屋で言葉を重ねる意味がない。
 言葉を重ねれば重ねるほど、自分が“口うるさい悪役”になるだけだ。

 部屋を出ると、廊下の空気がさらに冷たく感じた。

 そのとき――向こうから駆けてくる足音がした。

「お姉さま!」

 ミレイユが、スカートを持ち上げて走ってくる。
 転びそうなくらい急いで、息を切らして、頬を赤くして。

「どうしたの」

 セラフィナが尋ねると、ミレイユはその場で立ち止まり、目に涙を溜めた。

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。私のせいで……お姉さまが、悪く言われて……」

 ごめんなさい。
 その言葉は優しく見える。
 でも、セラフィナの胸には刃として刺さる。

 なぜならその謝罪は、暗に言っている。
 “あなたが悪く言われている”ことを前提にして。
 そしてそれを、止めるために自分が席を外すわけでもなく、殿下の隣を離れるわけでもない。

「あなたのせいではないわ」

 セラフィナは、機械のように言った。
 本当は「あなたも少し、距離を取って」と言いたい。
 でも言えば、また彼女は泣く。
 泣けば、周りは言う。
 “やっぱりセラフィナ様は冷たい”と。

「でも……皆が……」

 ミレイユは袖で涙を拭う。
 その仕草が、守ってあげたい衝動を掻き立てるように設計されている――と感じてしまう自分が嫌だった。
 妹を疑うのは、罪悪感がある。
 でも疑わずにいれば、自分が沈む。

「皆が、何?」

 セラフィナが静かに訊くと、ミレイユは俯いたまま小さく言う。

「殿下と私が……本当は……運命だって……」

 運命。
 胸の奥の氷が、きしりと鳴った。
 その単語は、正しさを簡単に粉砕する。
 責務も、秩序も、信用も、「運命」の前ではただの邪魔者になる。

「……ミレイユ」

 セラフィナが名前を呼ぶと、ミレイユは泣きながら顔を上げた。

「お姉さま、ごめんなさい」

 また、その言葉。
 謝罪という形の免罪符。
 セラフィナは、喉の奥で言葉を噛み砕き、飲み込んだ。

「……謝らなくていい」

 その瞬間、ミレイユはほっとしたように微笑んだ。
 罪を赦された子どもみたいに。
 そしてその微笑みが、周囲の侍女たちの視線をさらに甘くする。

 ――ほら。見て。
 可憐な令嬢が泣いている。
 悪役は、許したふりをしている。

 廊下の端で、貴族令嬢たちがわざとらしく目を伏せた。

「セラフィナ様も、大変ですわね」

「妹に嫉妬するなんて、みっともないのに」

「でもあの方、表情が変わらないから余計怖いのよね」

 同情のふりをした刃。
 刺すために、優しい言葉を選ぶタイプの人間。

 セラフィナは歩き出した。
 足が震えそうになるのを、踵の硬さで押さえつける。
 アイリスが追いつき、耳元で囁く。

「お嬢様、いまの会話、誰かが聞いてました」

「……でしょうね」

「絶対、都合よく切り取られます」

 アイリスの声が悔しそうに震える。
 セラフィナは、わずかに頷いた。

「止めよう」

 アイリスが言った。
 必死に。
 主のために、自分が戦うと決めた声で。

「噂の出所を探します。誰が最初に言い出したのか、誰が広めてるのか……叩けば止まります。絶対」

「アイリス」

 セラフィナは立ち止まった。
 そして、アイリスの目を見た。

「あなた一人で、貴族社会を叩けると思う?」

 アイリスの喉が詰まった。
 分かっている。分かっているのに、やりたい。
 その葛藤が瞳に揺れる。

「……でも」

「でもじゃないわ」

 セラフィナは言葉を柔らかくした。
 柔らかくしようと努力した。
 それはアイリスにだけ向けることができる、唯一の柔らかさだった。

「あなたが傷つくのは、嫌」

「お嬢様が傷つくのはいいんですか!」

 アイリスの声が、思わず大きくなる。
 すぐに彼女は口を押さえ、周囲を警戒した。
 セラフィナは、心が熱くなるのを感じた。
 誰かが、こんなふうに自分の痛みに怒ってくれる。
 それだけで、救われそうになるのが悔しい。

「よくないわ」

 セラフィナは小さく言った。

「でも……私は、こういう役目だから」

 アイリスの目に、涙が溜まる。
 それでも彼女は頷かなかった。

「役目なんて……、いやです」

 その言葉が、あまりにもアイリスらしくて。
 セラフィナの口元が一瞬、崩れそうになった。
 笑いではなく、泣き笑いの形に。

 その日の夜。
 アイリスは裏で動いた。

 台所の下働きに耳打ちし、別の侍女とすれ違うふりをして情報を拾い、噂の糸を辿ろうとする。
 誰が最初に言い始めたのか。
 誰が面白がっているのか。
 誰が利益を得るのか。

 けれど――貴族社会の噂は、蜘蛛の糸だ。
 一つ切っても、別の糸が絡み、さらに太くなる。
 糸の端は、いつも見えないところにある。
 見えないから、責任も見えない。

「ねえ、聞いた?」

「殿下がミレイユ様に贈り物を」

「セラフィナ様は顔が怖いから、殿下も癒やしが必要よね」

「婚約者なのに、かわいそう」

 かわいそう。
 その言葉が一番、残酷だ。
 人を下に置いて、安心するための言葉。

 アイリスが帰ってきたのは深夜だった。
 髪が乱れ、指先が冷え切っている。
 それでも目だけは燃えていた。

「お嬢様。噂の出所、分かりません」

 悔しさが声に滲む。

「分からないの?」

「糸が多すぎます。誰もが少しずつ言って、少しずつ盛って、少しずつ嘘を足して……もう、最初が見えない」

 セラフィナは、静かに息を吐いた。
 分かっていた。
 こうなることは、最初から。

「ありがとう」

 それでも言った。
 アイリスが動いてくれたことが、嬉しかったから。
 嬉しいと認めるのは弱さで、でもその弱さを今夜だけは持っていたかった。

「お嬢様……」

 アイリスは膝をつき、拳を握った。

「止められないなんて、嫌です」

「止められないわけじゃない」

 セラフィナは、窓の外の夜を見た。
 王都の灯りが、星みたいに瞬いている。
 美しい。
 美しいからこそ、残酷だ。

「止める方法が、違うだけ」

「違うって……?」

 アイリスが顔を上げる。

 セラフィナは、しばらく黙った。
 言葉にするのが怖かった。
 言葉にした瞬間、それが現実になるから。

 でも――もう、見てしまった。
 止められない物語の流れを。
 自分が悪役になることで、全体が丸く収まる未来を。
 そしてその未来が、ここにいる誰もを守ってしまうことを。

 守る。
 守るために、誰かが傷つく。
 その誰かは、私でいい。
 そう思える自分が、どこか壊れている気もする。
 でも壊れていないと、ここでは生きられない。

「……私が悪役になる」

 セラフィナは、静かに言った。

「私が“悪い人”でいれば、殿下は慈愛の人でいられる。ミレイユは可憐な人でいられる。家も、国も、体面を保てる」

 アイリスが息を呑んだ。
 それは否定したい答えなのに、否定できない現実の形をしている。

「そんな……お嬢様だけが……」

「私だけじゃない」

 セラフィナは、指先を見つめた。
 自分の手は綺麗だ。
 汚れていない。
 汚れていないから、汚れ役にされる。

「この世界は、いつもそう。誰かが悪者にならないと、話が終わらない」

「お嬢様……」

 アイリスの声が泣きそうになる。

 セラフィナは、彼女の頭にそっと手を置いた。
 主が侍女の頭を撫でるなんて、礼儀としては微妙かもしれない。
 でも今だけは、そうしたかった。
 自分が人間だと確かめたかった。

「アイリス。あなたは、私のそばにいなさい」

「……もちろんです。追い払っても、います」

「追い払わない」

 セラフィナはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
 笑ったつもりだった。
 でも鏡を見れば、たぶんいつも通り、表情は硬いままだろう。

 夜の静けさの中で、セラフィナは覚悟を固める。
 自分が悪役になることで、この国の体面は守られる。
 そうするしかない。
 そうするしかない、と言い聞かせる。

 けれど心のどこかが、痛いほど叫んでいた。

 ――それ、本当に守ってるの?
 ――自分を殺して、守ったって言えるの?

 答えは出ない。
 出ないまま、物語は進む。

 王宮の鐘が、遠くで鳴った。
 その音は、幕が上がる合図のように響いた。

 断罪劇の舞台裏で、
 悪役は静かに衣装を着込んでいく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

乙女ゲームの世界だと、いつから思い込んでいた?

シナココ
ファンタジー
母親違いの妹をいじめたというふわふわした冤罪で婚約破棄された上に、最北の辺境地に流された公爵令嬢ハイデマリー。勝ち誇る妹・ゲルダは転生者。この世界のヒロインだと豪語し、王太子妃に成り上がる。乙女ゲームのハッピーエンドの確定だ。 ……乙女ゲームが終わったら、戦争ストラテジーゲームが始まるのだ。

【完結】私が誰だか、分かってますか?

美麗
恋愛
アスターテ皇国 時の皇太子は、皇太子妃とその侍女を妾妃とし他の妃を娶ることはなかった 出産時の出血により一時病床にあったもののゆっくり回復した。 皇太子は皇帝となり、皇太子妃は皇后となった。 そして、皇后との間に産まれた男児を皇太子とした。 以降の子は妾妃との娘のみであった。 表向きは皇帝と皇后の仲は睦まじく、皇后は妾妃を受け入れていた。 ただ、皇帝と皇后より、皇后と妾妃の仲はより睦まじくあったとの話もあるようだ。 残念ながら、この妾妃は産まれも育ちも定かではなかった。 また、後ろ盾も何もないために何故皇后の侍女となったかも不明であった。 そして、この妾妃の娘マリアーナははたしてどのような娘なのか… 17話完結予定です。 完結まで書き終わっております。 よろしくお願いいたします。

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?

ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。 世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。 ざまぁ必須、微ファンタジーです。

久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った

五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」 8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。

私を裁いたその口で、今さら赦しを乞うのですか?

榛乃
恋愛
「貴様には、王都からの追放を命ずる」 “偽物の聖女”と断じられ、神の声を騙った“魔女”として断罪されたリディア。 地位も居場所も、婚約者さえも奪われ、更には信じていた神にすら見放された彼女に、人々は罵声と憎悪を浴びせる。 終わりのない逃避の果て、彼女は廃墟同然と化した礼拝堂へ辿り着く。 そこにいたのは、嘗て病から自分を救ってくれた、主神・ルシエルだった。 けれど再会した彼は、リディアを冷たく突き放す。 「“本物の聖女”なら、神に無条件で溺愛されるとでも思っていたのか」 全てを失った聖女と、過去に傷を抱えた神。 すれ違い、衝突しながらも、やがて少しずつ心を通わせていく―― これは、哀しみの果てに辿り着いたふたりが、やさしい愛に救われるまでの物語。

いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持

空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。 その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。 ※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。 ※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。

追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する

3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
 婚約者である王太子からの突然の断罪!  それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。  しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。  味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。 「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」  エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。  そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。 「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」  義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。

処理中です...