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第4話 追放宣告、息ができる音
しおりを挟む大広間は、光が冷たい。
シャンデリアが幾重にも吊られ、宝石みたいに煌めいているのに、その明るさは体温を持っていなかった。
磨かれた床は鏡のようで、そこに映る自分の姿が、まるで舞台装置の一部みたいに見える。
今日ここは、裁きの場。
でも本当は――劇場だ。
セラフィナ・アルヴェインは、決められた位置に立っていた。
背筋を伸ばし、顎を引き、視線は正面。
この姿勢が崩れた瞬間、「やっぱり動揺してる」「図星なんだ」と言われる。
泣けば負け。怒れば負け。笑っても負け。
だから、何も感じていない顔を作る。
それが一番、難しい。
正面の壇上には王冠の影がある。
国王と王妃が座し、その少し前に、王太子アレクシス・ヴェルディオールが立っていた。
いつも柔らかい彼の顔は、今日だけは青白い。
唇がわずかに震えている。
それが「罪悪感」なのか「緊張」なのか、セラフィナには分からない。
分からないまま、心の箱にしまう。
アレクシスの隣。
そこには、ミレイユがいた。
淡い色のドレス。涙を受け止めるためだけに存在するみたいな柔らかい袖。
彼女の睫毛は濡れ、頬を伝う雫が光を拾ってきらりと光る。
泣いているのに、美しい。
泣いているからこそ、美しい。
そしてその泣き姿に、貴族たちは静かに息を潜める。
観客みたいに。
結末を待つ観客みたいに。
左右には貴族たちが並び、
そのさらに後方には侍女や近衛が控え、
誰もが声を出さずに、ただ“空気”を見守っていた。
セラフィナの背後、ほんの少し離れたところに、アイリスがいる。
彼女は規則に従い、頭を下げた姿勢を保っている。
でも指先が震えているのが、セラフィナには分かる。
あの子は、怒っている。
自分のために。
その事実が、胸のどこかを温めて、同時に痛めた。
「――これより、婚約者セラフィナ・アルヴェインに関する審問を行う」
国王の声が、石壁に反響する。
言葉は重く、鈍い音を立てて落ちる。
審問、と言いながら、すでに判決は決まっている。
それを知っているから、空気は静かなのだ。
誰も議論を期待していない。期待しているのは、“断罪の瞬間”だけ。
侍従が巻物を開き、読み上げる。
噂、証言、印象、涙。
具体的な罪ではなく、感情の羅列。
「冷酷な言動」
「可憐な令嬢への威圧」
「王太子の心を傷つけた」
そんな言葉が並んでいく。
セラフィナは思う。
心は傷つけていいものなの?
それとも、傷つけるのは“悪役”だけ許されるの?
喉の奥が乾いた。
呼吸は浅くなる。
でも顔は、崩さない。
――崩したら、物語の勝ち。
「セラフィナ・アルヴェイン」
国王の声が響く。
「お前は、弁明はあるか」
弁明。
その言葉が滑稽に聞こえた。
弁明できるなら、こんな場は開かれない。
弁明が届く世界なら、そもそも噂が罪になることはない。
「……恐れながら」
セラフィナは一礼し、淡々と口を開く。
声が震えないように。
震えたら、弱さになる。
弱さは“悪役の演技”だと笑われる。
「私は、王太子殿下のご身分と、この国の信用を守るために必要な言葉を選んでまいりました。私情から誰かを貶めた覚えはございません」
言葉は正しい。
でも正しさは、ここでは通貨にならない。
ざわめきが、波のように広がる。
小さな囁きが、石壁に染みていく。
「また理屈……」
「怖いわね」
「謝ればいいのに」
謝れば。
謝れば許される?
違う。
謝れば、物語はもっと美しくなる。
悪役が涙を流して許しを乞う姿は、観客が望む結末だ。
セラフィナは、謝らない。
謝ったところで、救われるのは誰だろう。
少なくとも、私は救われない。
「アレクシス」
国王が、アレクシスに視線を向ける。
大広間の空気が、ぴんと張り詰めた。
主役の台詞が来る。
「お前は、婚約者の言動についてどう思う」
アレクシスは、息を飲んだ。
セラフィナは彼の横顔を見る。
震える唇。
瞳の奥にある、逃げたい気配。
彼はこういう場が苦手だ。
対立が苦手だ。
だから、いつも優しさで逃げる。
そしてその優しさは――誰かを置き去りにする。
「……父上」
アレクシスの声が震える。
その震えが、ひどく人間らしくて、セラフィナの胸がきゅっと縮んだ。
好きだった頃の感覚が、幽霊みたいに触れてくる。
「セラフィナは……間違ったことを言っているわけではありません」
ほう、と空気がわずかに動く。
まるで観客が「お?」と身を乗り出した気配。
セラフィナの心臓が、一瞬だけ跳ねる。
庇ってくれる?
――そんな希望が、ほんの針先ほど生まれる。
でも、次の言葉がそれを潰した。
「ただ……言い方が、きつい。彼女は、いつも正しさを優先するから……人の心が置き去りになることがある」
置き去り。
そう言いながら、彼は誰の心を置き去りにしてきた?
セラフィナの心が、音もなく沈む。
「ミレイユは……傷つきました」
アレクシスの手が、ミレイユの肩に置かれる。
ミレイユは小さく嗚咽を漏らす。
その姿に、貴族たちの顔が満足そうに緩む。
これだ。これが見たかったのだ。
慈愛の王太子と、可憐な令嬢。
そして二人を傷つけた悪役。
セラフィナは、瞼の裏で自分の心が凍っていくのを感じた。
でも、その凍りは不思議と心地よかった。
痛みが鈍くなるから。
鈍くなれば、耐えられる。
「……セラフィナ・アルヴェイン」
国王が言う。
声に迷いはない。
それがこの場の残酷さ。
「お前の言動が王家の名誉を傷つけ、宮廷の秩序を乱したことは明らかだ」
秩序を乱した。
それは本当だ。
彼らにとって秩序とは、“物語がスムーズに進むこと”だから。
「よって――国外追放を命じる」
その瞬間。
胸の奥で、ぷつん、と何かが切れた。
痛みの糸が切れた、というより、首輪の鎖が外れた音に近い。
苦しい。
苦しいのに、軽い。
肩に乗っていた“役目”が、ふっとほどける。
王太子の婚約者としての責任。
家のための正しさ。
国のための体面。
それを背負って立つことを、もうしなくていい。
その解放感が、怖い。
今までの自分は何だったのか、と問いが湧く。
でも同時に、息ができる。
――ああ。
これが、自由の音だ。
セラフィナは、深く一礼した。
泣かない。
叫ばない。
笑わない。
「……承知いたしました」
その静けさが、観客の期待を裏切る。
ざわめきが走る。
もっと崩れてほしい、もっと泣いてほしい、と。
そのときだった。
「お嬢様は悪役じゃありません!」
声が、大広間を裂いた。
アイリスだった。
頭を上げ、涙を浮かべた目で壇上を睨むように見ている。
拳を握りしめ、震える声で叫んだ。
「お嬢様は……ずっと、殿下と国のために……! 誰よりも我慢して……っ」
空気が凍りつく。
侍女が口を出すなど、礼儀違反にもほどがある。
近衛が動こうとした。
咎める視線が刺さる。
でもアイリスは引かない。
彼女の心は、今、ここで燃えている。
セラフィナの胸が、痛いほど熱くなった。
嬉しい。
でも――だめだ。
セラフィナは、微かに首を振った。
ほんの小さな動き。
「やめて」という合図。
「今は、違う」という合図。
叫んだところで、物語は変わらない。
ここでアイリスが声を上げれば上げるほど、彼女が罰せられる。
そして私は、“侍女を嗾けた(けしかけた)悪役”になる。
守るべきは、自分の名誉じゃない。
アイリスの人生だ。
アイリスは、セラフィナの首の動きを見て、唇を噛んだ。
涙が落ちる。
声が喉で詰まる。
それでも彼女は、最後まで目を逸らさなかった。
セラフィナは、もう一度深く頭を下げ、踵を返した。
背中に、無数の視線が突き刺さる。
ざまあみろ、という視線。
面白い、という視線。
かわいそう、という視線。
どれも全部、同じだ。
人の人生を“見世物”にしているという点で。
王宮の門をくぐり、外へ出た瞬間、空気が少しだけ軽くなった。
夜の気配が近づき、王都の空は紫色に染まり始めている。
鐘の音が遠くで鳴り、街はいつも通りに動いている。
誰かの断罪など、パンの焼ける匂いの前では些細な出来事なのだ。
屋敷に戻ると、父と母が待っている。
――と思ったが、二人は待っていなかった。
“そこにいただけ”だった。
父は書斎の椅子に座り、目を上げない。
母は窓辺で紅茶を飲み、視線を寄越す。
「……みっともない真似はしなかったでしょうね」
母の第一声が、それだった。
「していません」
「ならいいわ」
それで終わり。
庇いもしない。
抱きしめもしない。
「辛かったわね」とすら言わない。
父がようやく口を開く。
「国外追放だ。明朝には出立しろ。余計な騒ぎを起こすな」
「承知しました」
セラフィナは淡々と答える。
心が空洞になっていくのに、表情は変わらない。
父は小さく頷いただけで、もう関心を失ったように書類へ視線を戻した。
母は扇子を開き、冷たく言う。
「あなたは……本当に不器用ね。愛想のひとつも振りまけないから、こうなるのよ」
セラフィナは、何も言わなかった。
言い返しても無意味だ。
ここは裁判の第二会場。
判決はすでに確定している。
自室に戻ると、アイリスが待っていた。
顔が泣き腫らしている。
でも背筋は、折れていない。
「お嬢様……!」
アイリスが駆け寄り、言葉を探して唇を震わせる。
「ごめんなさい……私、あんなところで……」
「謝らないで」
セラフィナは、珍しく即座に言った。
声が柔らかくなってしまう。
止められない。
「あなたは、私を守ろうとした」
「守れませんでした……」
「守ったわ」
セラフィナは、アイリスの手を取った。
温かい。
こんなに温かいものが、この屋敷にあったんだ、と驚くほど。
「あなたの言葉は、私の中に残る。……それで十分」
アイリスは泣きながら頷く。
涙が手の甲に落ちる。
熱い。
その熱さが、生きている証みたいだった。
夜。
屋敷の裏門に、黒い馬車が用意された。
荷物は最低限。
まるで厄介払いみたいに、手際よく、冷たく。
セラフィナは外套を羽織り、夜風を吸い込む。
王都の灯りが遠くで揺れている。
あの光の中で、私は悪役として死んだ。
でも――死んだ代わりに、生まれるかもしれない。
別の場所で。
馬車の扉が開き、セラフィナは一歩踏み出す。
背中に、屋敷の気配。
家族の気配はない。
見送りはない。
あるのは、冷たい空気と、馬の鼻息だけ。
――これでいい。
これが、当然。
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
車輪が動き出した。
王都の灯りが少しずつ遠ざかるのだ……と思った。
そのとき、外から足音がした。
急いで走ってくる音。
布が擦れる音。
息の切れた音。
「待って!」
声がして、馬車が一瞬止まる。
扉が乱暴に開き、そこに――アイリスがいた。
大きな鞄を抱え、髪は乱れ、頬は赤い。
でも目だけは真っ直ぐで、燃えている。
「……何をしているの」
セラフィナの声が、初めて震えた。
「行きます」
アイリスは言い切った。
息が荒いのに、言葉は揺れない。
「置いていかないでください」
セラフィナは、言葉に詰まった。
胸の奥の氷が、今度こそ本当に割れそうになる。
「アイリス……あなたは……」
「お嬢様が追放されるなら、私も追放でいいです」
無茶だ。
馬鹿だ。
でもその馬鹿さが、世界で一番尊い。
「あなた、後悔するわよ」
「しません」
即答だった。
迷いがない。
この子は、自分の人生を自分で選んでいる。
セラフィナは、ゆっくりと手を伸ばした。
アイリスの腕を掴み、馬車の中へ引き込む。
扉が閉まる。
外の冷気が遮断され、狭い空間に二人の呼吸だけが残る。
馬車が再び動き出した。
セラフィナは、震える指で外套の縁を握りしめる。
涙は出ない。
でも喉の奥が熱い。
「……ありがとう」
やっとの声。
それだけで、胸がいっぱいになる。
アイリスは涙を拭い、へにゃりと笑った。
「お嬢様、息、していいですよ」
息。
セラフィナは気づく。
自分が、ずっと息を止めていたことに。
深く吸う。
吐く。
胸の奥に空気が入っていく。
痛いほど、軽い。
王都の灯りが、窓の外で小さくなる。
遠ざかる光は、別れのようで、解放のようで。
追放宣告は終わりじゃない。
役目がほどけた音は、始まりの合図だ。
そして馬車の中で、セラフィナは初めて思った。
――私、本当に、生きていいのかもしれない。
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