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第5話 北方辺境、何もない世界に落ちる
しおりを挟む北へ向かうほど、世界の色が抜けていった。
王都の金と薔薇の匂いは、馬車の車輪が進むたびに薄まり、代わりに泥と雪と獣の気配が濃くなる。
窓の外は白と灰の繰り返しで、森の影だけが黒い筆跡みたいに点々と続く。
吹雪が来たのは、最後の宿場を越えた夜だった。
風は刃で、雪は針。
馬車の板壁を叩く音が、まるで何かが外から壊そうとしているみたいにしつこい。
「……お嬢様、寒くないですか」
アイリスが、毛布を重ねてくる。
その手が冷たい。彼女も寒いのに、自分の体温を押し付けるようにこちらを包む。
「平気よ」
嘘でも見栄でもない。
寒さは確かに痛いけれど、王都の視線よりは分かりやすい。
痛いなら、痛いと言える。
ここでは「寒い顔をしてると噂になる」なんてことはないのだ。
馬車がようやく止まったのは、夜明け前。
扉が開いた瞬間、冷気が雪崩みたいに流れ込んできて、肺がきゅっと縮む。
「……これが、北方辺境」
セラフィナは外套の襟を立て、雪の中に足を下ろした。
ブーツが沈む。
足首まで一瞬で埋まり、冷たさが骨まで染みる。
目の前にあるのは砦だった。
“砦”と呼ぶには、あまりにも疲れた建物。
石壁はところどころ崩れ、木の門は歪み、屋根には雪が積もりすぎて今にも落ちそうだ。
窓は割れて板が打ち付けられ、風が隙間から唸っている。
「……住めるんですか、ここ」
アイリスが呟いた。
声が震えているのは寒さだけじゃない。
「住むしかないわ」
セラフィナは言った。
言葉にすると、現実が固まる。
固まった現実なら、手で触って動かせる。
砦の中に入ると、さらに冷たい。
雪が吹き込んで床に積もっている。
鉄の匂い、湿った木の匂い、長い間人がいなかった匂い。
胸が痛くなるほどの“空っぽ”が、そこにあった。
案内役などいない。
迎えなどない。
当たり前だ。追放された女に、歓迎の準備をする者などいない。
セラフィナとアイリスは、荷物を抱えたまま砦の中を歩いた。
ひとつひとつ扉を開け、使えそうな部屋を探す。
扉は重く、軋み、開くたびに埃が舞った。
「……ここなら」
セラフィナが選んだのは、砦の奥の小さな部屋だった。
窓は小さいが、風の通り道が少ない。
床はまだ抜けていない。
壁際に古い寝台が二つ。
布団はないけれど、寝台があるだけで“まだ人が生きられる場所”に見えた。
「まず、火」
セラフィナは言った。
言いながら、自分で驚いた。
火なんて、今まで自分が起こしたことはない。
火は、侍女が用意するものだった。
暖かさは、誰かが持ってきてくれるものだった。
「火……薪、ありますか?」
アイリスが辺りを見回す。
部屋の隅に、湿った木片が数本。
それだけ。
「……足りない」
セラフィナは小さく呟く。
口の中が乾く。
大理石の廊下で噂を浴びるより、今はこの“足りない”が怖い。
足りないのは、生きるためのもの。
噂は生きるためのものじゃない。
でもこっちは、死ぬ。
「探します」
アイリスが言った。
笑おうとして、笑えずに、泣きそうな顔になる。
それが可笑しくて、セラフィナの胸が少しだけ軽くなった。
「一緒に行く」
二人は外套を締め、砦の中を探った。
倉庫らしき部屋に行けば、空っぽ。
厨房らしき場所は、鍋が転がっているだけ。
干し肉も、麦袋も、塩もない。
「……ひどい」
アイリスが呻く。
その言葉は「あんまりだわ」に近い。
世界に対する、素直な怒り。
セラフィナは、その怒りが羨ましかった。
自分は怒りを出すことを許されないまま育った。
怒ったら冷酷、泣いたら面倒、笑ったら不謹慎。
だから怒りは、いつも喉の奥で凍らせてきた。
「外だわ」
セラフィナは言った。
砦の外壁沿いに、雪を避けられる場所があるかもしれない。
薪になる枝が落ちているかもしれない。
外に出ると、吹雪が肌を刺す。
空気は鉄みたいに冷たくて、吸い込むと喉が痛む。
風が頬を殴り、涙が勝手に滲む。
泣いているわけじゃない。
ただ、風が強すぎる。
「お嬢様、顔、真っ赤です」
アイリスが手袋越しに頬に触れようとする。
「触らないで。凍る」
「凍りませんよ。……凍るのは、心です」
アイリスが小さく言って、すぐに自分で首を振った。
「違います、今のなしで」
「いいわ」
セラフィナは言った。
今のは、ありだ。
誰かが自分の心を言葉にしてくれるのは、痛いけれど助かる。
二人は雪を掘り、折れた枝を集め、乾いている木片を探した。
手袋の中で指が痛む。
冷たさは痛みに変わり、痛みは感覚に変わる。
感覚がある。
生きている。
部屋に戻り、集めた木片を床に並べる。
火打ち石は荷物にあった。最低限の道具として用意されていたのは、父の“体面”のためだろう。
追放された娘が凍死すれば、家の評判に響く。
その程度の配慮。
「火、起こしたことあります?」
アイリスが聞く。
セラフィナは首を振った。
「私もないです」
「……ないの?」
「侍女って、火起こししないと思ってました」
「……ここではするのよ」
セラフィナが言うと、アイリスが泣きそうな顔で笑った。
「お嬢様、今、ちょっとだけ面白いこと言いました」
「面白くないわ」
「面白いです。……でも、怖い」
怖い。
その言葉が、二人の間に落ちる。
怖いのは火がつかないこと。
怖いのは食べ物がないこと。
怖いのは、夜が長いこと。
怖いのは――自分たちが、世界から切り離されたこと。
セラフィナは、火打ち石を握った。
指がかじかんで動かない。
力を入れると、手の皮が痛い。
カチ、と石が鳴る。
火花が散る。
でも火はつかない。
「もう一回」
アイリスが言う。
セラフィナは頷き、もう一度。
火花。失敗。
もう一度。
失敗。
何度目かで、乾いた草に小さな赤が生まれた。
それは息みたいに弱くて、すぐ消えそうで、でも確かに“生”の色だった。
「……ついた」
アイリスが息を呑む。
セラフィナは慎重に、ふっと息を吹きかける。
赤が少し育つ。
ぱち、と小さな音がして、炎が立ち上がった。
その瞬間、二人は声を出せなかった。
ただ、見つめる。
炎の揺れはあまりにも頼りなくて、でもこれがなければ今夜死ぬかもしれない。
炎は、生き延びるための証明だった。
「お嬢様」
アイリスが、泣きそうな笑顔を向けた。
「王都より……息ができます」
セラフィナは、炎を見つめたまま言う。
「そうね」
息ができる。
息ができるって、こんなことだった。
誰にも見られていない。
評価されない。
笑顔の角度を採点されない。
声の温度を測られない。
ただ、火があるかないか。
食べ物があるかないか。
眠れるか眠れないか。
世界が、単純になる。
単純だから、怖い。
でも単純だから、救われる。
夜。
小さな部屋で、二人は寝台に毛布を敷いて身を寄せた。
火は小さく燃え続け、部屋の隅を橙に染める。
外では風が砦を叩き、雪が壁を撫でる音がする。
静けさ。
王都の静けさは、人の悪意が潜む静けさだった。
ここは、ただ自然が支配する静けさだ。
セラフィナは、自分の胸に手を当てた。
心臓が鳴っている。
どくん、どくん。
今まで気づかなかった。
というより、気づかないふりをしていた。
心臓が鳴るたびに、私は人間だと認めなければならないから。
「……眠れますか」
アイリスが小さな声で聞く。
「分からない」
「私もです」
アイリスは笑って、すぐに真顔になった。
「お嬢様、私、怖いです」
「うん」
「でも……ここで死ぬのは嫌です」
「私も」
セラフィナは言った。
嫌だ、と言える自分に少し驚く。
嫌だと言えるのは、生きたいからだ。
「生きるためには、何をすればいいのかな……」
アイリスが問う。
まるで子どもみたいに真剣な声。
でもそれは、今夜の自分たちに必要な問いだった。
「……行動する」
セラフィナは答えた。
肩書きは役に立たない。
婚約者も、侯爵令嬢も、今ここでは薪にならない。
食べ物にもならない。
火も起こせない。
行動だけが、生き延びる。
その言葉を口にして、胸の奥が少しだけ熱くなる。
自分の世界が、変わった感覚。
変わったのに、怖い。
怖いのに、少しだけ――期待がある。
翌朝。
吹雪は弱まり、空は薄い青を取り戻していた。
雪の光が眩しくて、目が痛い。
でもその痛みは、昨日の視線の痛みとは違う。
ただの自然の痛みだ。
「外、見て来るわ」
セラフィナが言うと、アイリスは慌てて立ち上がった。
「一人はダメです。絶対」
「じゃあ一緒に」
二人で砦の外へ出ると、雪原に足跡があった。
新しい。
昨日の夜にはなかった。
獣のものではない。人のものだ。
セラフィナは息を止め、足跡を追った。
砦の門の前、雪の中に――男が立っていた。
背は高い。
外套は破れ、肩から血が滲んでいる。
髪は黒く、風で乱れている。
頬には古い傷と、新しい傷。
それでも目が、真っ直ぐだった。
獣みたいに警戒しながら、でも逃げない目。
セラフィナとアイリスが近づくと、男はゆっくりと手を上げた。
敵意はない、という合図。
でも油断はするな、と自分にも言い聞かせている仕草。
「……あなたが、新しい領主か」
声は低く、乾いている。
雪の匂いがする声。
「そうよ」
セラフィナは答えた。
胸の奥が緊張で冷える。
でも背筋は伸ばしたまま。
「名を名乗りなさい」
男は一瞬だけ迷い、次に短く言った。
「カイル・ルーヴェン」
その名が、雪原の静けさに落ちた。
ルーヴェン――聞き覚えがある。王都で囁かれていた名。
不正を告発し、左遷され、消えた騎士。
正しすぎて、捨てられた男。
アイリスが息を呑む。
セラフィナは、目を逸らさない。
「何の用?」
カイルは、砦を一瞥し、短く吐き捨てるように言った。
「このままじゃ死ぬ」
あまりにも率直で、セラフィナは一瞬言葉を失った。
でも、否定できない。
カイルは続ける。
目だけは真っ直ぐなまま。
「……なら、まず生き延びる方法を教える」
それは申し出というより、宣告だった。
生きろ。
ここで生きるなら、甘い幻想を捨てろ、と。
セラフィナは、冷たい空気を吸い込んだ。
胸が痛い。
でもその痛みは、昨日より少しだけ、前向きだった。
「教えて」
セラフィナは言った。
頭を下げるのではなく、同じ高さで。
「私はここで、生きる」
カイルは、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑いでも嘲りでもない。
確認のような表情。
「なら、まず薪だ。話はそれから」
雪がきらりと光る。
何もない世界に落ちたはずなのに、
そこに、たった一つの道が見えた気がした。
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