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第6話 捨てられた騎士の正義
しおりを挟むカイル・ルーヴェンという男は、雪原に立っているだけで空気を変えた。
王都の男たちが纏う香水と、言葉の薄い膜を一枚も持っていない。
あるのは血の匂いと、冷たい風に削られた現実だけ。
砦の門をくぐった瞬間、カイルは足を止め、視線だけで周囲をなぞった。
割れた窓、歪んだ梁、床に吹き溜まった雪。
倉庫の扉の錆び、井戸の位置、風の抜け道。
まるで目が地図になっていくみたいに、情報を飲み込んでいく。
昨日は吹雪で見えなかった部分が、現実を見せる。
「……ここ、ほんとに砦?」
アイリスが思わず呟く。
声に混ざったのは呆れと恐怖と、少しの笑い。
「砦だった“痕跡”だ」
カイルは短く言い切った。
言い切りが、妙に優しい。
慰めではない。期待を削る優しさだ。
「あなた、勝手に入っていいの?」
セラフィナが問うと、カイルは肩をすくめた。
「倒れる前に言った。お前が領主かって」
「“お前”はやめて。私は領主よ」
「じゃあ領主。……ここは、まずい」
会話のテンポが、王都と違う。
飾らないから、刃みたいに刺さる。
刺さるけれど、嘘がない。
カイルは言葉を続けた。
「薪。水。見張り。順番だ」
「順番?」
「死ぬ順番を変えるだけだ。今のままだと、凍えて死ぬ。次に、喉が渇いて死ぬ。その次に、誰かに襲われて死ぬ」
アイリスが顔を青くする。
セラフィナは喉が渇いた。
言葉が乾燥しているのに、現実は湿っている。
「……薪は昨日、少し集めた」
「少しじゃ足りない」
カイルは即答し、砦の外壁を指さした。
「風よけになる場所に倒木がある。あそこを切って運ぶ。斧は?」
「ない」
セラフィナが答えると、カイルは舌打ちしそうな顔をした。
でも舌打ちはしない。代わりに口の端を硬くする。
「砦にある」
そう言って彼は、倉庫の奥へ迷いなく進む。
扉を開け、埃を払って、錆びた道具箱を引きずり出した。
中から、鈍い光の斧。
刃は欠けているが、十分使える。
「……なんで、分かるの」
セラフィナが言うと、カイルは一瞬こちらを見た。
「砦なら、ある。なければ終わりだ」
終わり。
その言葉が軽い。
軽いから、重い。
「アイリス、手袋二枚。濡れたら替える。手を切ったら終わりだ」
カイルは、次々に指示を出す。
それは命令というより、現場の合理だった。
「……待って」
セラフィナが一歩前に出る。
胸の奥が、むずむずする。
“命令される側”の感覚。
王都で散々感じてきた、あの悔しさ。
「あなた、私に指示してるの?」
カイルは、首だけを傾げる。
「生きるための手順を言ってる」
「私は領主よ。あなたは……」
「捨てられた元騎士だ」
カイルは、淡々と言った。
自嘲でも誇りでもない、ただの事実として。
セラフィナの苛立ちは、そこで行き場を失った。
理屈が正しい。
この男がいなければ、自分たちは凍死する可能性が高い。
それは、プライドで覆えない。
「……分かった」
セラフィナは一息吐いて、言葉を飲み込んだ。
飲み込むのは得意だ。
でも今日は、少し違う。
飲み込むのは屈辱ではなく、生存の選択だ。
「ただし、決定は私がする」
「いい。決めろ。俺は結果が出るやり方を言う」
その言い方が、妙に清々しかった。
媚びない。逆らわない。
ただ“生き残る”へ向けて真っ直ぐ。
外へ出ると、雪は昨日より薄い。
風はまだ冷たいが、視界は開けていた。
カイルは先頭に立ち、迷いなく倒木の場所へ向かう。
その背中は、傷だらけの外套越しでも分かるくらい、張り詰めている。
「怪我、してるんでしょ」
アイリスが心配そうに言う。
カイルは歩きながら答えた。
「死ぬよりましだ」
「……それ、万能の言い訳ですね」
アイリスがむっとして言うと、カイルは少しだけ口元を動かした。
笑いかけたようにも見える。
見えるだけで、本人は笑っていない。
倒木は、確かにあった。
雪の下に半分埋まった太い木。
枝は凍り、幹は硬い。
「セラフィナ、手を出すな」
カイルが突然、名前を呼んだ。
普通に。
それだけで、胸が少しだけ波打つ。
ここでは身分の呼称が溶ける。
名前だけが残る。
「どうして」
「斧は重い。慣れてない手は滑る。切るなら俺がやる。お前は運べ」
「……“お前”に戻ってる」
「口は勝手に出る。気にするな」
気にする。
でも、今はそこじゃない。
カイルが斧を振り下ろす。
鈍い音。
木が軋む。
雪の匂いに、木の青い匂いが混ざった。
生々しくて、少し甘い。
セラフィナは、切り落とされた薪を抱える。
思った以上に重い。
腕が震え、背中が痛む。
ドレスの重さとは違う。
この重さは、生きるための重さだ。
「お嬢様、私も持ちます!」
アイリスが駆け寄って、薪を抱える。
頬が真っ赤で、息が白い。
でも笑っている。
泣きそうな笑いじゃなくて、ちゃんとした笑いだ。
「……手、痛くない?」
セラフィナが聞くと、アイリスは肩をすくめた。
「痛いです。でも、王都で心が痛いよりマシです」
言い切る強さが、眩しい。
セラフィナは、頷いた。
その言葉に、救われる。
砦に薪を運び込み、水の確保に移る。
カイルは井戸の蓋を開け、覗き込む。
「水はある。ただし凍ってる。溶かす」
「溶かすって……火がいる」
「だから薪がいる」
すべてが繋がっている。
王都みたいな複雑さはない。
複雑さはないのに、手が足りない。
人数が少なすぎる。
「見張りは?」
セラフィナが尋ねると、カイルは砦の周囲を見回した。
「夜は交代だ。最低二人。お前ら二人だけだと厳しい。……俺がいる間は俺が回る」
「“いる間”って?」
セラフィナが問う。
カイルは少し黙ってから言った。
「ここに留まる理由はない」
理由。
それを聞いた瞬間、セラフィナは胸の奥がきゅっとなる。
この男も、どこにも居場所がないのだ。
だから一時的にここへ来ただけ。
それが分かってしまう。
「理由がないなら、作ればいい」
セラフィナが言うと、カイルがこちらを見る。
目が少しだけ細くなる。
驚きと警戒が混ざった目。
「作れるか?」
「作る」
言葉は硬い。
でも硬いから、崩れない。
日が沈む頃、砦の小さな部屋には火が灯っていた。
薪をくべるたび、炎は音を立てて息をする。
部屋の隅に積まれた薪が、今日の成果としてそこにある。
たったそれだけで、世界が少しだけ安心に傾く。
アイリスは鍋に雪を入れて溶かし、薄いスープを作った。
塩が足りない。
香りも足りない。
でも温かい。
「……いただきます」
セラフィナが言うと、アイリスも頷く。
二人の向かいに、カイルが座っていた。
彼は礼儀としての祈りもなく、黙ってスープを口に運ぶ。
その食べ方が、生き物らしくて安心する。
王都の食卓の作法は、いつも演技だったから。
「カイル」
セラフィナが呼ぶと、カイルは目だけで返事をした。
「あなた、どこから来たの」
「北の森から」
「それは場所。……あなたの過去」
セラフィナは言った。
聞きたいというより、知っておきたかった。
この男が何者なのか。
自分たちの生存を預けるに足る人物なのか。
カイルはしばらく黙っていた。
焚き火の音が、間を埋める。
ぱち、ぱち、と木が弾ける音が、会話の代わりに呼吸する。
「……王都にいた」
ようやくカイルが言った。
声が低く、炎の揺れに紛れそうなほど小さい。
「近衛ではない。地方軍の出身。……上に行くほど、腐るのを見た」
腐る。
その単語が、焚き火の匂いに混じって苦い。
「金が消える。物資が消える。死んだ兵の遺族に届くはずの金が届かない。誰も責任を取らない。……俺が言った」
短い言葉の中に、何年分もの怒りが詰まっている。
「告発したの?」
「した」
「それで……」
「左遷。口封じ。最後は“勝手に辞めた”ことにされた」
勝手に辞めた。
よくある話だ。
正しさは、都合が悪い。
都合が悪い正しさは、なかったことにされる。
セラフィナは、焚き火を見つめた。
炎は揺れている。
揺れるけれど、消えない。
消えないように、薪をくべる。
それは努力の形だ。
「あなたも、捨てられた側なのね」
セラフィナは、静かに言った。
同情ではなく、確認。
同じ場所に落ちた人間同士の、握手みたいな言葉。
カイルの目が、わずかに細くなった。
その表情は、怒りではない。
痛みを隠すための、薄い防壁だ。
「同情はいらない」
カイルは言った。
声は硬い。
硬いけれど、怒ってはいない。
「……ただ、ここでは結果だけが味方だ」
結果。
その言葉が、セラフィナの胸の奥に落ちた。
氷の箱の中で、音を立てて転がる。
そして不思議と、その音は怖くなかった。
正しさは通貨にならない。
世論は感情で動く。
王都で散々叩き込まれた真実。
でもここでは、もう少し単純だ。
火をつけたか。
薪を集めたか。
水を確保したか。
生き残ったか。
結果だけが、嘘をつかない。
「……いい言葉ね」
セラフィナが言うと、カイルは鼻で笑うような息を吐いた。
「綺麗ごとじゃないだけだ」
綺麗ごとじゃない。
それが、救いになることもある。
セラフィナは、胸の奥に小さな予感を感じた。
この男の言葉は、痛い。
でも痛みがあるのは、まだ自分が生きているからだ。
焚き火の前で、三人の影が壁に揺れる。
影は不揃いで、形は整っていない。
でも、その不揃いが妙に安心できた。
王都では、影はいつも整えられていた。
整えられた影の中で、セラフィナは自分の形を失っていた。
ここでは違う。
不揃いのままで、息ができる。
セラフィナは、静かに息を吸った。
冷たい空気が肺を満たし、焚き火の熱が頬を撫でる。
――結果だけが味方。
その言葉が、これから自分を救う予感がした。
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