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第13話 王都の手紙、遅すぎる謝罪
しおりを挟む冬の入口は、静かな獣みたいに砦の周りをうろついている。
夜の風は鋭く、朝の息は白く長い。
それでも砦の中には、人の体温があった。
火を囲む声、木を割る音、薬草を干す匂い。
“暮らし”が、ちゃんと根を張り始めている。
セラフィナは熱を下げてから、以前より少しだけ慎重になった。
慎重になったというより――自分の限界を認める訓練を始めた。
倒れてまで守るのは、もう役目じゃない。
生きて守る。
その方が、ここでは正しい。
その朝、砦の門に一人の商人が現れた。
村の男たちと違って、馬を連れ、荷を背負い、服に王都の匂いがわずかに残っている。
「届け物だ」
商人はそう言って、小さな封筒を差し出した。
蝋で封がされている。
王都の紋章。
それだけで胸の奥が、条件反射みたいに冷えた。
セラフィナは手袋のまま受け取った。
紙は乾いているのに、手のひらが汗ばむ。
「……誰から」
問いながら、分かっている。
分かっているから、怖い。
「王太子殿下……だそうだ」
商人は言葉を濁した。
北で噂になっているのだろう。
追放令嬢と王都。
その組み合わせが、面倒な匂いを連れてくることを。
セラフィナは頷き、封筒を胸元へしまった。
その動作が、思ったよりぎこちなかった。
自分の心臓の上に、刃物を置くみたいな感覚。
部屋に戻ると、アイリスがすぐ気づいた。
気づかないわけがない。
セラフィナの顔から血の気が引くのを、彼女は何度も見てきた。
「……手紙ですか?」
アイリスの声が硬い。
「ええ」
セラフィナは暖炉の前に座り、封筒を机の上に置いた。
火がぱちりと鳴る。
その音が、やけに遠い。
「誰からですか」
アイリスが訊く。
訊くのに、答えは分かっている顔。
「アレクシス殿下」
アイリスの目が、一瞬だけ暗くなる。
その暗さは怒りだ。
怒りが、主を守る形で燃えている。
「……燃やしましょう」
即答だった。
火が目の前にある。
封筒は軽い。
落とせば終わる。
灰になって、匂いだけ残して、消える。
セラフィナは封を切らずに、しばらく眺めた。
蝋印の赤。
王都の赤。
断罪の赤。
血の赤とは違う、体温のない赤。
「燃やさないわ」
セラフィナは静かに言った。
「……どうして」
アイリスの声が震えた。
悲しみと怒りの混ざった震え。
「燃やしたら、私の中に残るから」
セラフィナは封筒を指で押さえた。
焼けば終わり、ではない。
焼けば“やった”という事実が、自分の中でずっと燃え続ける。
怒りの火種になる。
ここで育てるべき火は、怒りじゃない。
セラフィナはゆっくり封を切った。
紙の擦れる音が、やけに大きい。
中の文字は、丁寧だった。
王太子の筆跡。
整いすぎて、どこか人間味が薄い。
でもその整い方は、セラフィナが知っている“彼”の手つきだった。
『セラフィナへ』
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が波立った。
怒り。
悲しみ。
虚しさ。
そして、微かな懐かしさ。
混ざりすぎて、どれがどれだか分からない波。
『君が正しかった』
その一行で、息が止まった。
正しかった。
今さら。
遅い。
遅すぎる。
言われた瞬間、救われるのではなく、傷が開く。
あの大広間で言ってほしかった。
家族の食卓で言ってほしかった。
せめて追放の馬車の前で言ってほしかった。
セラフィナの喉が熱くなる。
でも涙にはならない。
涙になる前に、虚しさが覆いかぶさる。
手紙は続いた。
噂を聞いたこと。
北で市が立ち、人が生きていること。
そして、自分が弱かったこと。
責任から逃げたこと。
謝罪。
会いたいという言葉。
丁寧で、綺麗で、正しい。
だから余計に痛い。
「……何て」
アイリスが、耐えきれないように聞いた。
セラフィナは視線を落としたまま答える。
「君が正しかった、って」
アイリスの拳が握られる。
「……ふざけてる」
小さく吐き捨てる。
王都で育った侍女が言う言葉としては乱暴なのに、今の砦では、それが一番正直だった。
「今さらですよね。お嬢様がどれだけ……」
アイリスの声が詰まり、涙が落ちる。
怒りの涙だ。
セラフィナは手紙を持つ手を少しだけ強く握った。
紙がしわになる。
そのしわが、妙に安心だった。
整いすぎた言葉を、自分の指が“現実”に戻していく。
「燃やしましょう」
アイリスがもう一度言う。
今度は懇願だった。
セラフィナは首を振った。
「燃やさない。……でも返事もしない」
「返事、しないんですか」
「しない」
答えは短く、硬い。
硬いのは、迷っているからだ。
迷いを隠すために硬くする。
癖が出る。
そのとき、扉が少しだけ開いた。
カイルが入ってくる。
雪の匂いをまとって、黙って部屋の空気を測る。
「……王都か」
手紙を見て、すぐ分かったらしい。
彼は余計な詮索をしない。
でも放ってもおかない。
その距離感が、今のセラフィナにはちょうどいい。
「ええ」
セラフィナが言うと、カイルは暖炉の火に目をやった。
「燃やせば楽になるか?」
アイリスが即座に頷く。
「なります!」
でもセラフィナは、首を横に振る。
「ならない」
カイルは少しだけ目を細めた。
問いを重ねず、代わりに言う。
「迷うなら、迷えばいい」
その言葉が、妙に優しい。
優しいのに、甘くない。
カイルは続けた。
「でも戻る道は、そっちじゃない」
そっち。
王都。
香水と鐘の音。
断罪の光。
謝罪の手紙。
セラフィナは、頷いた。
胸の奥がすっと落ち着く。
この人の言葉は、逃げ道じゃなくて道標だ。
「分かってる」
セラフィナは言った。
その言葉は、手紙への返事じゃない。
自分への返事だ。
「ここで積み上げた日々は、王都の一通の手紙で崩れない」
声にすると、背中が少しだけ温かくなる。
王都で背負わされた“役目”は、紙一枚で崩れた。
でもここで積み上げたものは、土の上に立っている。
薪を割った手。
塩の重み。
血と雪の夜。
笑い声。
名前。
全部が、紙より強い。
アイリスが涙を拭き、まだ怒った目で言う。
「……返事しないなら、その手紙、しまいましょう。お嬢様の目に入らないところに」
「そうね」
セラフィナは手紙を折り、封筒に戻した。
丁寧に。
丁寧にしてしまう自分が、少し悔しい。
でも丁寧さは癖であり、自分の形でもある。
無理に捨てなくていい。
セラフィナは手紙を箱に入れ、蓋を閉めた。
燃やさない。
返事もしない。
ただ、箱にしまう。
それは、許したわけじゃない。
忘れたわけでもない。
自分の人生の中心から、王都をどかす行為だ。
カイルが立ち上がり、短く言う。
「薪、足りてない」
現実が戻ってくる。
戻ってきてくれる。
それが救いだ。
「……すぐ行く」
セラフィナが立ち上がると、アイリスが外套を持ってきた。
いつもの動き。
いつもの暮らし。
扉を開けると、冷たい風が頬を刺す。
でも、その冷たさはもう怖くない。
怖いけれど、立てる。
立てるのは、ここが家だからだ。
セラフィナは胸の奥で、箱の中の手紙の重さを確かめる。
確かにそこにある。
でもそれは、今の自分を決める重さではない。
彼女は前を向き、雪の中へ一歩踏み出した。
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