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第12話 辺境の冬支度、恋の芽が熱を持つ
しおりを挟む冬は、音もなく近づく。
雪が降る前から、空気の芯が硬くなる。
夜の長さが伸び、風の匂いが鉄から氷へ変わっていく。
辺境の冬は、優しくない。
優しさの代わりに、規則だけがある――備えなければ死ぬ。
砦の中は忙しかった。
木槌の音、薪を割る音、乾燥棚を組む音。
人の声が増え、足音が増え、火が増えた。
あの小さな市は、今では「ここを通れば物が回る」と言われるほどになっている。
村の男たちが道を整え、女たちが乾燥食を作り、子どもが荷物を運ぶ。
ノアは見張りの輪に入り、エリナは薬草を干し始めた。
セラフィナは、その中心にいた。
中心にいるというより、中心に立つしかなかった。
「塩はここに。湿気を避ける。蜜蝋は布で包んで」
言う。
書く。
数える。
交渉する。
運ぶ。
そして、また言う。
休まない。
休めない。
領主という言葉は、王都では飾りだった。
ここでは、体温と同じ意味を持つ。
止まれば、すぐに冷える。
冷えたら、死ぬ。
「お嬢様、顔色が……」
アイリスが何度も言う。
そのたびセラフィナは、首を振った。
「大丈夫」
大丈夫という言葉が、また癖になりかける。
王都で自分を削るために使っていた嘘。
でもここでの大丈夫は、嘘じゃなくて呪文だ。
自分を動かすための。
カイルは黙って見ていた。
口を出さない。
でも見ている。
見ているから、時々、必要なことだけ言う。
「水」
ある日、カイルが短く言って、湯を差し出した。
「いらない」
セラフィナが反射で言うと、カイルは眉も動かさずに言った。
「飲め。倒れる」
「倒れない」
「倒れる」
その断言が、腹立たしいほど正しい。
セラフィナは湯を受け取って飲んだ。
苦い。
でも苦さは、正しさの味だった。
冬支度は、数字と土の戦いだった。
食糧。
薪。
塩。
薬草。
釘。
縄。
布。
どれも少し足りない。
少し足りないものは、冬に一番致命的だ。
セラフィナは帳簿の上で計算し、現場で土と雪にまみれた。
指先は荒れ、爪の間には黒い汚れが残り、手袋を外すと皮膚がひび割れている。
王都の自分が見たら、卒倒するかもしれない。
でも今の自分は、これが誇らしかった。
生きてる。
私は生きてる。
生きて、誰かの暮らしを作ってる。
そう思えば思うほど、体が悲鳴を上げていることに気づかないふりが上手くなる。
上手くなるほど危ないのに。
倒れたのは、ある夜だった。
乾燥棚の設計を見直していた。
紙の上に線を引き、必要な木材の量を計算し、村へ出す交換条件を書き直す。
火は小さく燃え、外の風が壁を叩いている。
「もう寝てください!」
アイリスが半分泣きそうに怒った。
「あと少し」
セラフィナが言った瞬間、視界の端が黒く滲んだ。
火の揺れが、波みたいに広がる。
耳の奥で、鐘の音が鳴った気がした。
――王都の鐘。
次の瞬間、床が近づいてきた。
自分の体が落ちる感覚。
その感覚すら、どこか他人事で。
「お嬢様!」
アイリスの叫びが遠い。
遠いのに、胸だけが痛い。
助けて、じゃなくて。
ごめん、という痛み。
目を開けたとき、天井が見えた。
砦の天井。
板の隙間から冷気が忍び込み、火の匂いが漂う。
自分の額が熱い。
体が重い。
喉が焼ける。
熱に浮かされると、過去が鮮やかになる。
鮮やかすぎて、現実みたいに刺さる。
大広間。
冷たい光。
断罪の声。
「国外追放を命じる」
震える王太子。
泣く妹。
観客みたいな貴族たち。
そして――父と母の視線。
視線を逸らす父。
紅茶を飲む母。
庇わない家族。
守らない家族。
胸が苦しい。
息ができない。
熱いのに凍える。
凍えながら、必死に笑顔を作ろうとする自分が見える。
――笑え。
――柔らかく。
――みんなが安心するように。
誰のための笑顔。
誰のための役目。
「……いや」
セラフィナの喉から声が漏れた。
泣き声みたいな、掠れた音。
現実に戻る。
誰かが額に冷たい布を当てている。
アイリスだ。
目が真っ赤で、頬に涙が残っている。
「お嬢様……お嬢様……」
アイリスは泣きながら笑っていた。
笑っているというより、泣きすぎて顔が変な形になっている。
それでも必死に笑おうとしている。
主を安心させるために。
「……泣かないで」
セラフィナが言おうとして、声にならない。
舌が熱くて動かない。
「泣きます!」
アイリスが声を上げる。
声が震えて、怒っている。
「お嬢様が倒れたら、泣きます! 私、泣くしかできないじゃないですか!」
できない?
違う。
この子は動ける。
泣きながらでも動ける。
泣きながら、布を絞って、湯を沸かして、薬草をすり潰している。
それでも自分を「できない」と言うのが、優しさの形だった。
部屋の隅で、カイルが水を替えていた。
桶の水を捨て、雪を溶かした新しい水を入れる。
動作は不器用で、無駄がある。
でも、その無駄は焦りだ。
焦りは、感情だ。
カイルが、セラフィナの唇に湯を当てた。
飲め、とは言わない。
ただ、飲ませる。
湯が喉を通る。
苦い。
薬の味。
生きろ、という味。
「……薬草、足りない」
カイルが低く言った。
独り言みたいに。
でもそれは、誰かに聞かせるための独り言。
「ある、はずです……」
アイリスが慌てて棚を探る。
指が震えて、束が床に落ちる。
彼女はそれを拾い、泣きながら謝る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「謝るな」
カイルが短く言った。
その声には怒りがない。
ただ、今、謝罪は意味がないという現実だけ。
「探せ。ある」
カイルは外套を掴み、扉へ向かう。
「どこ行くの……」
アイリスが呼ぶと、カイルは振り返らずに言った。
「森。熱を下げる草がある」
「こんな夜に……危ない!」
「危ない事は慣れてる」
それだけ言って、カイルは吹雪の夜へ出ていった。
扉が閉まる。
冷気が入る。
火が揺れる。
そして――不思議と、セラフィナの胸が熱くなった。
この男は、言葉で慰めない。
優しい言葉で逃げない。
ただ、必要なことをする。
それが、今のセラフィナには救いだった。
熱に浮かされながら、セラフィナは何度も夢を見た。
王都の大広間と、北の吹雪が交互に来る。
断罪の声と、木槌の音が混ざる。
「国外追放」
「薪を運べ」
「悪役」
「火を絶やすな」
言葉がぐちゃぐちゃに溶けて、最後に残るのはひとつだけ。
――私は役に立てる?
それは怖い問いだった。
役に立てない自分には価値がない、とどこかで信じている。
王都がそう教えた。
家族がそう扱った。
だから、倒れている今、自分の存在が怖い。
セラフィナは唇を動かした。
声が出るか分からない。
それでも、出した。
「……私は……まだ……役に、立てる?」
アイリスが息を呑み、泣きながら首を振る。
「そんなの、今はいいです……! 生きてください……!」
でもセラフィナの目は、部屋の入口を探していた。
そしてそこに、雪をまとった影が戻ってきた。
カイルだった。
髪も外套も雪だらけ。
頬が赤く、息が白い。
手には薬草の束。
無言でそれを差し出し、すり潰し、湯に溶かし、セラフィナの唇へ運ぶ。
苦い。
でも、その苦さが心地いい。
現実に引き戻される苦さ。
カイルは、セラフィナの問いを聞いていたのだろう。
薬を飲ませ終えると、彼は低く言った。
「役じゃない」
その声は、焚き火の奥で鳴る低い音みたいに胸に響いた。
「……お前は、お前だ」
その言葉が、胸に火を灯した。
火は優しくない。
刺さるように熱い。
凍えた心に、いきなり火箸を突っ込まれたみたいに痛い。
でも痛いのは、そこがまだ生きている証拠だ。
役じゃない。
私は、私。
セラフィナの瞳から、涙が溢れた。
熱のせいなのか、言葉のせいなのか分からない。
分からないけれど、止まらない。
アイリスが慌てて布で拭こうとする。
「お嬢様、泣かないで……!」
「……泣いて、いい」
セラフィナは、掠れた声で言った。
泣いていい。
その言葉を自分に許した瞬間、胸の奥の氷が少しだけ溶けた。
カイルは、視線を逸らした。
照れているわけじゃない。
泣き顔を見るのが苦手な顔だ。
不器用な男の、不器用な優しさ。
「寝ろ」
短い命令。
でもそれは支配じゃない。
生かすための言葉。
「……はい」
セラフィナは目を閉じた。
火の音がする。
アイリスのすすり泣きがする。
カイルが水を替える音がする。
その音たちが、毛布みたいに自分を包む。
恋は甘いものじゃない。
少なくとも、今のセラフィナの恋は。
凍えた心に刺さる熱だ。
痛いのに、離したくない熱。
――お前は、お前だ。
その言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、
セラフィナは、静かに眠りに落ちた。
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※小説家になろう様にも投稿しています。
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