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第18話 王都の崩れ、妹ミレイユの本心
しおりを挟む王都の朝は、相変わらず香水と鐘の音で始まる。
けれど今日は、香水がやけに刺さる。
甘い匂いが喉の奥に絡みついて、息がしづらい。
ミレイユ・アルヴェインは鏡の前に立っていた。
髪はいつも通り丁寧に巻かれ、頬には淡い色がのっている。
可憐な顔。
守ってあげたくなる顔。
その顔を、彼女は何度も“武器”として使ってきた。
でも――今日は、その武器が手の中でふにゃりと崩れる気がした。
殿下がいない。
それだけで世界の重心がずれる。
アレクシスが北へ向かった日から、王宮の空気は変わってしまった。
誰も大声で非難しない。
誰もはっきり言葉にしない。
それなのに、廊下を歩くたびに背中が冷える。
視線が、皮膚の上を滑っていく。
――あの子、まだいるの?
――王太子殿下に見捨てられたのに?
――可哀想ね。
――でも、ちょっと目障り。
言葉にならない言葉が、香水より先に鼻へ届く。
噂は匂いだ。
匂いは目に見えないのに、逃げ場がない。
夜会の招待状が届いた。
“王太子殿下ご不在につき、代理のご臨席”という文言が踊っている。
代理。
その一文字が、ミレイユの胸をひやりと冷やした。
かつてなら、彼女はそこへ堂々と行けた。
アレクシスの隣に立ち、微笑み、涙ぐみ、誰かの嫉妬すら「可憐さ」で受け流せた。
守られる物語があったから。
物語の中で、彼女は“愛される側”だったから。
だが今、その物語が崩れている。
柱が抜かれた舞台。
照明だけが眩しくて、落ちる影が濃い。
夜会の会場は煌びやかだった。
シャンデリアは星みたいに光り、床は磨かれ、音楽が滑らかに流れる。
その中でミレイユは、ひとりだけ寒かった。
「ミレイユ様、お久しぶりですわ」
声をかけてきた令嬢は、以前なら笑顔で迎えてくれた人だ。
でも今の笑顔は薄い。
甘い砂糖を薄く溶かしたみたいな笑顔。
「お久しぶりです。今日は…」
「殿下はご不在なのですね」
言葉が早い。
挨拶より先にそこ。
そこがすべてだと、皆が知っている。
「はい。…用事があって」
「そう……北の、ですか?」
北。
セラフィナ。
その名を言わなくても、空気が勝手に補完する。
「……そう、みたいです」
ミレイユが答えると、令嬢はふっと目を細めた。
「大変ですね。殿下のお心が揺れているのかしら」
揺れている。
その言葉が胸に刺さる。
彼女は“心”を奪い合う舞台に立ったつもりだった。
でも今、奪い合うどころか、最初から舞台から降ろされている。
「私は、殿下を信じています」
いつもなら、この一言で場が丸くなった。
“可憐な信頼”が、相手の棘を鈍らせた。
でも今日は違う。
「信じる、ですか」
令嬢は笑った。
笑っているのに、目が冷たい。
「信じていれば、愛されるとでも?」
その一言が、ミレイユの喉を詰まらせた。
返せない。
返したら、感情が露呈する。
露呈したら、可憐さが壊れる。
可憐さが壊れた瞬間、彼女はただの“居場所のない女”になる。
そして、令嬢は何でもないように去っていった。
残されたのは、ミレイユの胸の中の、じわじわと広がる焦げた感覚。
――私、今までどうやって生きてきたんだろう。
答えは一つしかない。
殿下がいたから。
殿下の視線が、殿下の手が、殿下の言葉が、彼女を守っていた。
でもその守りは、永遠じゃなかった。
守りの裏側には、いつも誰かがいた。
ふいに、姉の顔が浮かぶ。
セラフィナ。
氷みたいに冷たい顔。
正しさを言う声。
笑えない口元。
ミレイユは、あの顔を何度も見てきた。
あの顔を見るたびに思っていた。
お姉さまは怖い。
お姉さまは冷たい。
お姉さまは意地悪。
でも今なら分かる。
あれは、意地悪じゃない。
悪役を引き受けてくれていたのだ。
ミレイユが泣けば、姉が叱る役になった。
ミレイユが黙れば、姉が言う役になった。
ミレイユが愛されるために、姉は嫌われる側に立った。
いつも。
ずっと。
当たり前みたいに。
夜会の途中で、ミレイユは息ができなくなり、会場を抜け出した。
回廊の窓辺に縋る。
冷たい夜風が頬を打ち、ようやく呼吸が戻る。
涙が落ちた。
落ちた涙は、可憐さを演出する涙じゃない。
ただの恐怖の涙だ。
「……お姉さま」
名前が漏れる。
その瞬間、胸の奥が痛んだ。
痛みは罪悪感の形だった。
翌日、ミレイユは実家の侯爵邸へ駆け込んだ。
馬車の中で何度も指先を握り、ほどいた。
ドレスの裾が揺れ、香水が鼻を刺す。
その匂いが、今は気持ち悪い。
食堂。
温かい料理が並ぶ。
でも空気は冷たい。
その冷たさを、彼女は知っている。
姉が味わっていた冷たさだ。
「お母さま……!」
ミレイユは母クラウディアに縋りついた。
子どもみたいに。
みっともないと思うのに、止められない。
「助けてください。私……私、もう……」
母は驚いた顔をしたが、すぐに周囲を気にして声を落とした。
「ミレイユ、声が大きいわ。侍女に聞かれたらどうするの」
最初に出るのが、それ。
心配の方向が、違う。
「そんなの、どうでもいい……!」
ミレイユは泣きながら言った。
どうでもよくないと分かっている。
でも今は、世間より自分が壊れそうだった。
「殿下が、北へ行ったの……! 皆が私を……笑うの……!」
母は唇を噛み、視線を逸らした。
怯えが見えた。
母は娘の不幸より、“社交界の評価”を怖がっている。
「……落ち着きなさい。あなたは可憐で、価値がある。殿下だって、いずれ戻るわ」
戻る。
戻るという言葉が、慰めにならない。
慰めにならないのは、ミレイユがすでに知っているからだ。
戻ったとしても、何かが変わってしまったことを。
父エドガーが入ってきた。
新聞紙のような報告書を片手に、眉間に皺を寄せている。
「騒がしいな」
「お父さま……!」
ミレイユが縋ると、父は一瞬だけ娘を見て、すぐ書類に目を落とした。
「今はそれどころじゃない。北の交易が膨らみすぎて、周辺領が動いている。ローデンも黙っていない。王都の空気が変わる」
北。
また北。
姉。
姉の名前が、家の話題として消費される。
「それどころじゃないって……私、今……」
「ミレイユ、お前は家の娘だ。感情で動くな」
その言葉は、刃だった。
感情で動くな。
姉が何度も言われてきた言葉。
ミレイユは、その瞬間、初めて理解した。
――私はずっと、愛される側にいた。
――愛される側にいるために、誰かが悪者になってくれていた。
誰か。
姉。
ミレイユは涙を拭こうとして、拭けなかった。
涙は止まらない。
止まらない涙は、初めて“可憐さ”にならない。
「お姉さまは……」
ミレイユは声を絞り出した。
「お姉さまは、いつも……」
母が嫌そうに眉をひそめる。
「その話はやめなさい。今さら蒸し返しても」
蒸し返す。
姉の人生は、蒸し返す程度のもの?
その言い方が、ミレイユの胸を焼いた。
「……私、ずっと捨ててきたんだ」
ミレイユは呟いた。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「愛されるために、何を捨ててきたか……今、分かった」
父が眉を寄せる。
「何の話だ」
「お姉さまのこと」
ミレイユが言うと、食堂の空気が固まった。
いつも通りだ。
この家では、姉の名前は空気を凍らせる。
でも今日は、ミレイユが凍らなかった。
凍らない代わりに、燃えた。
「お姉さまは悪役じゃなかった。悪役をやらされてただけだった」
母が息を呑む。
「ミレイユ、何を……」
「私が泣けば、お姉さまが叱った。私が黙れば、お姉さまが言った。私が愛されるために、お姉さまが嫌われた」
言葉にした瞬間、胸が痛くて、息が止まりそうになる。
痛いのは、真実だからだ。
父は苛立ったように言う。
「だから何だ。今さらどうにもならん」
どうにもならない。
その言葉が、ミレイユの中で何かを割った。
どうにもならないから、何もしない?
それがこの家のやり方。
それで姉は追放された。
それで今、ミレイユも捨てられ始めている。
ミレイユは、ゆっくり立ち上がった。
足が震える。
でも震えながら立つのは、初めて自分の足で立つ感覚だった。
「……どうにもならないなら、私がどうにかします」
母が笑った。
笑ったというより、怯えた。
「何を言っているの。あなた一人で何ができるの」
ミレイユは、答えられない。
何ができるかは分からない。
今まで“できない側”にいたから。
でも、分からないままでも、立つしかない。
「分からない。でも……」
ミレイユは拳を握った。
爪が掌に食い込む痛みが、現実に引き戻す。
「私、もう、守られるだけの人形でいたくない」
その言葉を言えたことが、彼女にとっての第一歩だった。
贖罪の始まりは、大げさな謝罪じゃない。
世界の仕組みを、自分の目で見ることから始まる。
食堂を出るとき、背中に父の声が刺さった。
「勝手なことをするな。家を巻き込むな」
母の声も重なる。
「ミレイユ、お願い、これ以上目立たないで」
目立たないで。
その言葉が、どれほど姉を殺してきたか。
ミレイユは今なら分かる。
屋敷の廊下を歩きながら、ミレイユは泣き続けた。
泣きながら、でも心の奥に小さな決意が灯る。
お姉さまは、今、北で息をしている。
私は王都で、息ができなくなっている。
この逆転が、痛いほどの答えだ。
――私、何をしてきたんだろう。
――そして、これから何をするんだろう。
窓の外で鐘が鳴る。
平和の音。
でもミレイユの胸の中では、その音が違う意味を持って響いていた。
守られる物語が崩れた今、
彼女は初めて“自分の物語”を始めるしかない。
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