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第19話 辺境の危機、共に戦うという愛
しおりを挟む冬は、容赦なく牙を研ぐ。
雪が降る前から空気は硬くなり、夜が長くなり、森の奥の沈黙が濃くなる。
静かすぎる沈黙は、いつも何かの前触れだ。
その日、朝の見張りが鳴らした角笛の音は、いつもの合図と違った。
短く、鋭く、二度。
胸の奥に直接刺さる音。
「領主! 南の森、動いてる!」
ノアが雪を蹴って駆け込んでくる。頬が赤く、吐く息が白い。
肩に背負った弓が、わずかに震えている。
震えているのに、目は怯えていない。恐怖の種類が変わった目だ。
逃げたい恐怖じゃなく、守りたい恐怖。
「動物?」
セラフィナが聞くと、ノアは首を振った。
「……魔獣。群れ。いつもより、でかいのが混じってる」
魔獣。
辺境の冬に現れる、飢えた影。
食糧が足りなくなると、森が吐き出すもの。
だが“群れ”という言葉は、規模が違うことを意味していた。
セラフィナは深く息を吸った。
冷たい空気が肺を刺す。
刺す痛みが、頭を冴えさせる。
恐怖を飲み込む。
飲み込めるのは、恐怖の味を知っているからだ。
断罪の恐怖。追放の恐怖。血と雪の夜の恐怖。
恐怖は甘くない。吐き気がするほど現実的。
でも、現実的だからこそ対処できる。
「全員、集合。市を閉じる。子どもと老人は砦の内側へ」
セラフィナの声は落ち着いていた。
落ち着いているのは、心が落ち着いているからじゃない。
落ち着いていないと、皆が崩れるからだ。
市場は一瞬で騒然となる。
でも、混乱は爆発しない。
爆発しないのは、ここが“家”になったから。
守るものが同じ方向を向いている。
「アイリス!」
セラフィナが呼ぶと、アイリスが走ってきた。
顔色は青い。
でも目は燃えている。
「はい! お嬢様!」
「炊き出し。避難誘導。泣いてもいいけど、声は張って」
アイリスは一瞬だけ唇を噛み、次の瞬間、力いっぱい頷いた。
「泣きながらやります!」
その返事が、妙に頼もしい。
泣いてもいい場所で、泣きながら動ける人間は強い。
「エリナ」
セラフィナが呼ぶと、毛布を肩にかけたエリナが小走りで来る。
薬草の匂いをまとっている。
まだ幼いのに、目の奥が大人びた影を持っている。
「救護を。火の近くに場所を作って。湯を切らさない」
「……分かった。ノアの弓隊も、怪我する」
「そう。だから備える」
備える。
冬の辺境では、それが愛の形だ。
カイルが外から戻ってきた。
剣を腰に、外套に雪をつけたまま。
目が鋭い。
状況を一瞬で理解する目。
「来るぞ」
カイルが短く言った。
「どのくらい」
セラフィナが問う。
「森の縁まで見えた。群れ。でかいのが三。小さいのは数え切れん」
三。
“でかいの”が三。
その数字が胃を沈める。
でも沈めたまま、セラフィナは言った。
「布陣を組む。前線は外柵。弓隊を上に。槍は門の内側、二列」
「了解」
カイルは即答した。
疑わない。
疑わないから、彼は前線に立てる。
「ノア」
セラフィナが振り向く。
ノアは背筋を伸ばした。
「弓隊、率いられる?」
一瞬だけ、ノアの喉が動いた。
怖いのだ。
でも怖いまま、答えた。
「……率いる。俺、できる」
「できる。あなたは、ここで生きるを貰った」
セラフィナがそう言うと、ノアの目が少しだけ潤んだ。
潤むのに、逸らさない。
「……うん」
角笛が再び鳴る。
今度は遠くから、低い唸り声が混じって聞こえた。
森が鳴いている。
飢えた獣の腹の音みたいに。
人々が動く。
荷車が引かれ、板が運ばれ、門が補強される。
子どもたちは毛布にくるまり、母親の背にしがみつく。
老人が祈り、男たちが槍を持つ。
皆の手が震えている。
震えているのに、止まらない。
止まらないのは、ここが家だからだ。
戦いは、雪とともに来た。
森の縁から黒い影が溢れ、白い地面に墨を垂らしたみたいに広がる。
魔獣の群れ。
牙が光る。
目が赤い。
吐く息が白い。
その白さが、人の吐息と同じなのが怖い。
生き物は皆、同じ温度で死ぬ。
「弓隊! 撃て!」
ノアの声が響いた。
声が若いのに、震えていない。
震えを飲み込む声。
矢が飛ぶ。
ヒュン、と空気が裂ける。
一本、二本、十本。
影が倒れ、血が雪に染みる。
血と雪が混ざると、汚いピンク色になる。
それをセラフィナは知っている。
だから吐き気を飲み込みながら、目を逸らさない。
「外柵、持て!」
カイルが前線で叫ぶ。
剣が光り、魔獣の爪が木を裂く。
木が悲鳴を上げ、雪が舞う。
近い。
近すぎる。
死が、手を伸ばせば触れられる距離にある。
セラフィナは砦の内側、指揮位置に立っていた。
ここで指揮を取る。
ここで判断をする。
それが領主の役割。
役割。
その単語が一瞬、胸を刺した。
昔の自分が顔を出す。
役目を背負わされ、悪役を演じ、追放された自分。
その記憶が、雪のように降り積もりそうになる。
魔獣が一体、外柵を突き破った。
巨体。
毛皮が凍って硬い鎧みたいになっている。
角があり、口の端から涎が垂れる。
涎が凍り、白い針になる。
「っ……!」
セラフィナの足が、一瞬、竦んだ。
体が言う。
逃げろ。
生き延びろ。
恐怖が、甘くない現実として骨を掴む。
その瞬間、視界の端でカイルが振り返った。
前線の血の中から、こちらを見る。
目が真っ直ぐで、迷いがない。
「セラフィナ!」
名前を呼ばれる。
領主ではなく。
追放令嬢でもなく。
ただの名前。
「お前が決めたこの場所を、俺たちが守る」
その言葉が、胸の奥に火を点けた。
盗賊の日と同じ火。
凍えた心に刺さる熱。
守る。
守られるのではなく、共に守る。
セラフィナは息を吸い、足の裏で土を踏みしめた。
竦んだ足が、現実に戻る。
恐怖は消えない。
消えないまま、動ける。
「第二門、閉めて! 槍隊、左へ! 火を絶やさない! 負傷者は救護へ運んで!」
声が出る。
声が出ると、人が動く。
人が動くと、世界が繋がる。
「アイリス!」
アイリスは泣きながら走っていた。
涙を拭かない。
涙が凍って頬に残る。
それでも声は張る。
「こっち! 子どもはこっち! 火の近く! 順番! 順番守って!」
泣き声の混じった指示。
でもその声が、混乱を繋ぎ止める。
救護所ではエリナが指揮を取っていた。
湯気。
血の匂い。
薬草の苦い匂い。
生と死の境界の匂い。
「次、腕! 押さえて! 湯! 布!」
エリナの声は小さいのに鋭い。
小ささは恐怖じゃなく、集中の小ささだ。
ノアの弓隊は、矢を放ち続ける。
腕が痺れる。指が裂ける。
それでも撃つ。
撃つたび、矢が命になる。
「もう一本! 矢、持ってこい!」
ノアが叫ぶ。
その声が擦れていく。
でも擦れていく声が、頼もしい。
声が擦れるほど戦っている証だ。
魔獣の“でかいの”が二体目、柵を越えた。
角が木をへし折り、爪が雪を掘り返す。
人の悲鳴が上がる。
悲鳴は、胸を削る音だ。
カイルが跳び、剣を振る。
血が飛ぶ。
雪が赤く染まる。
彼の外套が裂け、肩から血が滲む。
「カイル!」
セラフィナの声が裏返る。
指揮の声じゃない。
ただの本音の声。
カイルは振り返らない。
振り返ったら、死ぬから。
でも背中が言う。
大丈夫だ、と。
戦いは長かった。
一瞬が永遠みたいに伸び、呼吸するたび肺が冷える。
体力が削れ、腕が重くなり、足が震える。
それでも火は消えなかった。
火が消えない限り、心は折れない。
最後の“でかいの”が倒れたのは、空が薄い青になり始めた頃だった。
夜がほどけ、朝が顔を出す境目。
魔獣の巨体が雪に沈み、最後の息が白く吐き出され、消えた。
沈黙が来る。
戦いの後の沈黙は、怖い。
生き残ったことが、まだ実感できないから。
そして、誰かが泣き始めた。
子どもが泣く。
母が泣く。
男が笑いながら泣く。
泣き声が、世界が生きている証になる。
「……終わった」
ノアが呟く。
膝をつき、弓を雪に突き立てる。
肩が震える。
震えは恐怖の後遺症だ。
救護所ではエリナが座り込み、手を血で汚したまま涙を落とした。
泣くのを我慢していた涙が、今になって溢れる。
アイリスは炊き出しの鍋の前で泣き笑いしていた。
「生きてる……みんな、生きてる……!」
その声が、祈りみたいに震える。
セラフィナは、ふらつく足で前線へ向かった。
血と雪の匂い。
鉄の匂い。
煙の匂い。
その匂いの中で、彼女はひとりの男を探す。
カイルがいた。
剣を下ろし、膝に手をついて息を整えている。
頬に新しい傷。
血が乾きかけて黒くなっている。
セラフィナは近づき、指先を伸ばした。
手袋を外す。
冷たい指で、カイルの頬の傷に触れる。
触れた瞬間、彼が痛そうに目を細めた。
「……痛い?」
「痛い」
短い返事。
短いのに、妙に安心する。
痛いと言えるのは、生きているから。
セラフィナの喉が震えた。
声が震える。
指揮の声じゃない。
領主の声じゃない。
ただの女の声。
「……生きて」
言ってしまった。
命令でもなく、策でもなく、願い。
カイルは短く笑った。
笑い方が、疲れた獣みたいに不器用だ。
「命令か?」
セラフィナは首を振る。
首を振った瞬間、涙が落ちた。
落ちた涙は、雪に吸われる前にカイルの外套に染みた。
「お願い」
たった三文字が、胸の奥を焼く。
恋は告白じゃない。
薔薇の言葉でも、月の下の誓いでもない。
こういうとき、背中を預けてしまうこと。
生きて、と言ってしまうこと。
お願い、と泣いてしまうこと。
カイルは、ほんの少しだけ目を細めた。
優しさを見せるのが下手な男の目。
「……ああ」
それだけ言って、彼はセラフィナの手首を掴み、ゆっくり自分の頬から離した。
荒い手。
剣を握る手。
でもその手が、丁寧だった。
「次も守る」
カイルは言う。
“俺が守る”じゃない。
“次も守る”。
そこに、共犯みたいな温度がある。
セラフィナは頷いた。
頷きながら、涙を拭かなかった。
泣いてもいい場所だと、彼が作ってくれたから。
血と雪の匂いの中で、
彼女はようやく理解した。
愛は、告白の言葉じゃなく、
共に戦うという形で、静かに育つのだと。
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