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第20話 自由の証明、そして新しい未来
しおりを挟む冬が終わる瞬間は、派手じゃない。
雪が「終わります」と宣言するわけでも、空が一気に青くなるわけでもない。
ただ、ある朝。
吐く息が白くなりにくくなって、土の匂いがほんの少し勝つ。
その小さな変化が、春の入口だ。
辺境の春は遅い。
でも、遅い分だけ、確かだ。
生き残った者の春は、軽くない。
軽くないから、眩しい。
魔獣の群れを退けたあと、砦はしばらく沈黙していた。
木槌の音も、笑い声も、最初は遠慮がちだった。
皆、自分がまだ生きていることに慣れていなかったのだと思う。
生き残るって、勝利というより“受け取ってしまった責任”に近い。
でも、時間は火をくれる。
火は心を戻す。
暖炉の前に集まり、湯を飲み、傷を縫い、亡くした者の名を呼び、黙祷をした。
その繰り返しの中で、人はまた暮らしへ戻っていった。
ノアの指には弓弦の痕が残っていた。
赤く擦れて、皮膚が固くなる。
彼はその指を見せて笑った。
「これ、俺の勲章。痛いけど、嫌いじゃない」
エリナは救護所の棚をきっちり整え、薬草を分類し、干し方まで改良していた。
小さな背中が頼もしくなっている。
彼女はふっと目を上げて、セラフィナに言った。
「次は…もっと早く、止血できるようにする」
その「次」が怖いのに、準備する言葉が出る。
それが強さだ。
アイリスは炊き出し鍋の前で、時々泣きながら笑っていた。
泣くのは悪いことじゃない。
泣いても動ける人が、この砦を支えている。
「お嬢様、春ですよ。春って、こんなに匂いがするんですね」
彼女はそう言って、薪と土と湯気の匂いに鼻をくすぐらせた。
セラフィナは、その匂いの中に立っていた。
自分が追放されたとき、ここは“捨て場所”だった。
今は、家だ。
家という言葉に、温度がある。
そして――王都にも、ようやく風向きが届く。
春が来るより少し前。
商人が持ってきた紙束に、王都の印が押されていた。
辺境の交易が国庫を支え始めたこと。
周辺領の圧力が抑えられたこと。
砦が“防衛の要”として評価されたこと。
言葉はいつも遅い。
王都の理解は、雪解けより遅い。
でも遅れてでも届いたという事実が、ひとつの証明だった。
追放したのは“災厄”ではなく、国を支える才能だった。
そう気づいたとき、王都の顔色は変わる。
変わった顔色の中心にいるのは、アレクシスだ。
彼は北から帰還していた。
帰還、という言葉は立派なのに、彼の顔には立派さがなかった。
代わりにあるのは、痛みを知った人間の影。
彼は王都で責任と向き合う道を選んだ――と、報告書は淡々と書いていた。
責任。
その単語をセラフィナはしばらく眺め、紙を畳んで箱にしまった。
あの手紙をしまった箱と同じ箱。
王都を、自分の中心からどかす箱。
「お嬢様、読みました?」
アイリスが覗き込む。
「読んだ」
「……殿下、どうするんですかね」
「どうもしない」
セラフィナは即答した。
冷たく言うのではない。
自然にそうなる。
今の自分は、そこに時間を割かない。
「彼の後悔がどう転がろうと、それは彼の物語よ」
そう言った瞬間、胸の奥で何かが静かに落ち着いた。
かつての自分なら、彼の物語に巻き込まれていた。
“婚約者”という役目が、物語の中心に自分を縛り付けた。
でも今は違う。
今は、自分の物語の中心に、自分がいる。
春の朝。
砦の上へ登ると、空が薄桃色に染まっていた。
朝焼けが、雪の残る山の稜線をゆっくり舐めるように照らす。
冷たい空気が肺を満たし、胸が少し痛い。
痛いほど、生きている実感がする。
王都の宝石は、美しい。
でも宝石は、誰かが磨かなければ光らない。
ここで見る朝焼けは違う。
誰も磨いていないのに、勝手に眩しい。
眩しさに、言い訳がない。
下を見れば、市の煙が上がっている。
薪を焚く煙。
パンを焼く煙。
湯を沸かす煙。
それが空へ伸びて、朝焼けの色に溶けていく。
ノアが走っていた。
子どもたちと一緒に、雪解けの水たまりを避けながら、笑いながら。
エリナがその後ろで、薬草籠を抱えて小走りしている。
アイリスは洗濯物を干しながら、鼻歌を歌っていた。
鼻歌は上手くない。
でも、上手くないからこそ、暮らしの音だ。
そして、隣に立つ影。
カイルだった。
頬の傷は薄く残り、肩の古傷が天気で少し疼くのか、彼は肩を軽く回した。
無駄のない動き。
剣を握る人の体。
「……綺麗だな」
彼がぽつりと言う。
朝焼けを見ているのか、煙を見ているのか、分からない。
でもその曖昧さが、今は心地いい。
カイルはしばらく黙っていた。
沈黙が苦しくない。
沈黙が、二人の間で温度を持つ。
そして低い声で言った。
「ここは、お前が作った」
その言葉に、セラフィナの胸が少し熱くなる。
熱くなるのは嬉しいからだけじゃない。
重いからだ。
“自分が作った”という言葉は、誇りと同時に責任を連れてくる。
セラフィナは小さく息を吸った。
冷たい空気が胸に満ち、痛いほど生きている。
そして、ゆっくり首を振った。
「違う」
カイルが横目でこちらを見る。
眉がほんの少しだけ上がる。
驚きというより、確認。
セラフィナは続けた。
今まで、こういう言葉を言えなかった。
自分の功績を誰かと分けるのが怖かった。
分けたら、また奪われる気がした。
王都ではそうだった。
成果はいつも、誰かのものになった。
でもここは違う。
「私たちが作った」
その言葉が空へ溶けた瞬間、
胸の奥で、氷の箱が完全に割れた気がした。
割れて、冷たい水が流れ出て、代わりに温かいものが満ちる。
自由。
それは追放されたから得た自由じゃない。
誰かの物語から降りて、自分の物語を生きる自由。
カイルは短く笑った。
笑い方が相変わらず不器用で、でも確かに柔らかい。
「……そうだな」
たったそれだけ。
でもそれが、告白よりも深い。
セラフィナは、朝焼けをもう一度見た。
眩しくて目が痛い。
目が痛いほど、未来がある。
王都も変わるだろう。
アレクシスは責任と向き合うだろう。
ミレイユも、たぶん、自分の足で立ち始めるだろう。
でも、それは彼らの物語だ。
セラフィナの物語は、ここにある。
雪が溶け、土が匂い、煙が空へ伸びる場所。
誰かの拍手じゃなく、誰かの生きる音が響く場所。
彼女は、風を吸い込んだ。
冷たいのに、痛いのに、心地いい。
「行こう」
セラフィナが言うと、カイルは頷いた。
「仕事だ」
その返事が、何より嬉しかった。
日常が続くということ。
続く日常を、自分たちで作れるということ。
砦の階段を降りながら、セラフィナは思う。
自由は、宣言じゃない。
証明だ。
毎日の選択で、積み上げるものだ。
そして彼女は今、確かにそれを持っている。
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