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第10話 噂は王都で育ち、復讐は現実で育つ
しおりを挟む朝の空気は、冷たいのに澄んでいた。
辺境の朝は、嘘が少ない。
薪の匂い。
馬小屋の湿った藁。
パンの焼ける香り。
凍った地面を踏む音。
それらは全部、生きるための音で、香りで、温度だ。
王宮の香水みたいに、何かを誤魔化す匂いじゃない。
——だからこそ、王都から届く“噂”は、異物みたいに浮いた。
城の応接間に、見慣れない服の男がいた。
旅装束。泥の跳ねた裾。
手には封蝋付きの書簡。
商人だ、と聞いた。
王都と辺境を繋ぐ、数少ない流れの一つ。
ヴァルクが椅子に腰を下ろし、男を見た。
「話せ」
いつも通り短い。
でも、いつもより少しだけ硬い。
王都という単語が混ざると、彼の空気は一段冷える。
商人は喉を鳴らし、封を切りながら言った。
「……王都では、噂が盛り上がっております」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸がきゅっと縮んだ。
うわさ。
その三文字で、私は一瞬、王宮の絨毯の上に引き戻される。
祝祭みたいに整えられた断罪。
誰かを裁く顔をした人々。
そして、澄んだ声で告げられた——婚約破棄。追放。
私は無意識に肩が上がりかけて、すぐ落とした。
深呼吸。
ヴァルクと同じ速度の呼吸を思い出す。
商人が続ける。
「セドリック殿下は“正義の王太子”と称賛されております。
『国の象徴を守った』『情に流されず正しさを貫いた』と」
その瞬間、胸の中が一瞬だけ暗くなった。
……そりゃそうだよね。
あの人は“正しい物語”の主人公だから。
王太子は正義。
追放された令嬢は悪。
それがわかりやすいから、皆が安心する。
前世でもそうだった。
分かりやすい悪役がいると、世界は丸く収まる。
丸く収まるために、人は平気で誰かを悪役にする。
商人は、少し言いづらそうに口を湿らせた。
「……そして、エステラ・ノクティス様は——
『真実を告げた勇気ある令嬢』と持ち上げられております」
胸の暗さが、少しだけ深くなる。
でも、深くなると同時に、別の感情が立ち上がってきた。
——怒り。
怒りは熱い。
そして熱いから、私を生かす。
「勇気、ね」
私の口から、乾いた声が出た。
自分でも驚くほど冷たい声。
アドミラが隣で息を呑む。
彼女は王宮にいた。
あの涙の温度の低さを、彼女も覚えている。
ヴァルクは私を見ない。
商人を見たまま言う。
「その噂、誰が流してる」
商人は肩をすくめた。
「貴族のサロンです。
噂は人が話せる形に整えられて、勝手に育ちます」
勝手に育つ。
そう。
噂は“生き物”だ。
真実じゃなくても生きる。
面白い形なら、もっと生きる。
私はふっと笑った。
笑いは苦いのに、目は冴えていく。
「物語だね」
思わず口に出た。
ヴァルクがようやく私を見る。
目が細い。
警戒じゃない。
確認の目。
「物語?」
「うん。王都は“物語”が欲しいんだよ」
私は指先を組んで、言葉を整理した。
「正義の王太子。
勇気ある令嬢。
悪い追放者。
わかりやすい。気持ちいい。
だから皆がそれに乗る」
商人が恐る恐る頷く。
否定できない顔。
ヴァルクは短く言う。
「……嫌な話だ」
「嫌だけど、強い。物語は強い」
私の胸の暗さは、もう暗さじゃなくなっていた。
怒りと、決意に形を変えていく。
冷たい炎みたいに。
私は顔を上げて言った。
「なら、こっちも物語で返す」
商人が目を丸くする。
「お嬢様……?」
アドミラが小さく声を出した。
心配と、止めたい気持ちが混ざった声。
私はアドミラに微笑んだ。
癖の笑顔じゃない。
“今の私はここにいる”って伝えるための笑顔。
「断罪はしないよ」
私は言う。
言い切る。
「私がセドリックを断罪しても、王都は喜ぶだけ。
『悪役が吠えた』って物語が補強されるだけ」
ヴァルクが腕を組む。
耳を傾けている。
ちゃんと聞いている。
私は続ける。
「だから、現実で崩す。
辺境が豊かになれば、王都の搾取構造が露わになる。
交易が回れば、王太子の政策の薄さが浮く」
言葉にすると、胸が熱い。
熱いのに、頭は冷たい。
怒りが、私の思考を研いでいく。
「私の復讐は、剣を抜かない戦争」
その瞬間、室内の空気がぴんと張った。
商人が唾を飲み込む音が聞こえる。
ヴァルクが、ほんの少しだけ口角を上げたように見えた。
見えただけかもしれない。
でも、その空気が嬉しかった。
「戦争、か」
ヴァルクが低く言う。
「戦争って言うと大げさ?」
「大げさじゃない。戦う相手がいるなら戦争だ」
ヴァルクは淡々と答えた。
その淡々が、彼の覚悟だ。
商人が恐る恐る言う。
「……しかし、王都は強いです。
噂も、金も、人も……」
「強いよ。だから現実で殴る」
私はまた現代口調になってしまった。
でも、今の私にはその言葉が一番しっくりくる。
その時、扉の側で静かな拍手がした。
パン、パン。
音は小さい。
でも、耳に残る。
振り向くと、オルフェオ・グラナートが立っていた。
薄紫の瞳が、相変わらず世界を測っている。
「いい話だ」
彼は淡々と言った。
褒めているのかどうか、よくわからない言い方。
ヴァルクが眉を寄せる。
「いつからいた」
「今から」
オルフェオは嘘をつかない。
嘘をつかない代わりに、全部は言わない。
私はオルフェオを見て言った。
「王都って、噂が強いよね」
「強い」
オルフェオは即答する。
「王都は情報に弱い。
見たいものしか見ない」
淡々とした補足。
でも、その一言が私の決意に油を注ぐ。
見たいものしか見ない。
だから、見せたいものを見せれば、皆がそれを真実だと思い込む。
——なら。
私は笑った。
怖いくらい、すっと笑えた。
怒りの熱が、笑顔を作ったんじゃない。
“道筋が見えた”時の笑いだ。
「じゃあ、見たくない現実を、目の前に置く」
オルフェオが目を細める。
薄紫が、少しだけ鋭く光る。
「具体的には」
「数字」
私は即答した。
「税の過剰徴収の実態。
検問で止まってる荷の量。
辺境で起きてる飢えの数字。
そして——それでも私たちが回復していく数字」
商人が思わず身を乗り出した。
「回復……?」
「うん。回復する。
倉庫の不正を潰して余剰を作る。
輸送を整える。
商品を増やす。
市場の価格を下げる」
私は指を折りながら言った。
現実は積み上げだ。
一気に変わらない。
でも、積み上げたら崩れない。
「王都の貴族は、辺境が弱いままじゃないと困る。
でも辺境が強くなったら、誰が絞ってたかが見えてくる」
ヴァルクが低く言う。
「……敵が動く」
「動かせばいい」
私は言い切った。
震えない。
今の私は、夜の孤独より、昼の怒りのほうが強い。
「敵が動けば、構造が見える。
見えれば、物語が変わる」
物語。
私はその言葉をもう一度噛む。
王都は物語が欲しい。
なら——私は、王都が望まない物語を作る。
“追放された令嬢は哀れで、朽ちていく”じゃない。
“追放された令嬢は辺境で現実を作り、王都を揺らす”。
それが私の復讐。
それが私の再スタート。
その時、暖炉の火がぱちりと鳴った。
小さな火花が飛び、暗い部屋の中で一瞬だけ光る。
その光が、私の瞳に宿る。
アドミラが小さく呟いた。
「……お嬢様、お顔が」
「ん?」
「……少し、楽しそうです」
楽しそう。
その言葉が胸に落ちて、私は一瞬だけ戸惑った。
復讐を決めたのに。
戦うと決めたのに。
それが、楽しい?
でも、すぐにわかる。
楽しいんじゃない。
——生きている。
私は今、初めて、
自分の意思で生きようとしている。
ヴァルクが立ち上がった。
「商人。必要な情報は集めろ。
噂の流れも。
王都が何を見たがっているか、何を見たくないか」
「は、はい!」
商人が慌てて頭を下げる。
オルフェオが淡々と付け足す。
「王都は“正義”が好きだ。
なら、正義の顔をした現実を持っていけ」
「現実に顔をつける、ってこと?」
「そう。数字を物語にする」
私は頷いた。
数字だけじゃ、人は動かない。
物語にしないと、届かない。
王都は特にそうだ。
「じゃあ、私はその物語を作る」
私が言うと、ヴァルクが短く返した。
「作れ。
……ただし、壊れるな」
壊れるな。
その言葉は命令じゃない。
祈りに近い。
私は小さく笑って頷いた。
「壊れない。
壊れそうなのは、壊れたくないからだって、知ってるから」
オルフェオが薄紫の目を細めた。
それが肯定なのかどうかはわからない。
でも、私はもう迷わない。
王都の噂は、今日もきっと華やかに育つ。
セドリックは正義の王太子。
エステラは勇気ある令嬢。
追放された令嬢は悪。
——いいよ。好きに言えばいい。
私は現実で返す。
剣を抜かない戦争で、世界の見方を変えてやる。
暖炉の火が、またぱちりと鳴った。
その音は、宣戦布告みたいに小さく、確かだった。
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