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第16話 交渉の間へ
しおりを挟む王宮の奥、普段は滅多に使われない重厚な扉の前に、空気の層が一枚増えたみたいな静けさがあった。
ルミナリアとグランツ――二つの国の「最終交渉」の場として用意された部屋。
扉の向こうに広がるのは、王の謁見の間とは違う、もっと実務的で、もっと冷たい空間だった。
厚い石壁。
高い天井には、音を吸うように静かな紋様が彫られている。
部屋の中央には、楕円形の巨大なテーブル。
その真ん中には、ひとつの紋章が置かれていた。
銀で象られた輪の中に、二つの剣と一本の枝。
どちらの国の紋章でもない。
この大陸で「中立」を示すときだけ使われる、古い象徴。
力と力の間に、小さな枝を挟むように――
争いの中心に、わずかな理性をねじ込もうとする印。
「……緊張してる?」
扉の手前で立ち止まったリリアに、横から声がかかった。
ゼフィールだ。
いつものローブ。
眠たげな灰色の瞳。
でも、その視線は鋭く、リリアの顔色をこまかく確かめている。
「緊張してないって言ったら嘘になる」
「嘘つける顔してない」
「ですよね」
喉の奥が乾いている。
手のひらはじっとり汗ばんで、心臓が肋骨の内側を叩いている。
それでも――膝は、震えていなかった。
ミーナに整えてもらったドレスの裾を、指先でそっと摘む。
王宮にいた頃よりも、ずっとシンプルなドレス。
華美な刺繍も、重たい装飾もない。
ただ、動きやすくて、呼吸しやすくて、
「今の自分」に合うとゼフィールたちが一緒に選んでくれた服。
「陛下、準備が整いました」
宰相リリアンが、扉の前で軽く礼をする。
エリアスは短く頷き、
リリアたちに視線を向けた。
「行けるか」
王としてではなく、ひとりの大人としての問い。
リリアは、深く息を吸った。
冷たい空気が肺の中を満たす。
胸の奥の熱と混ざり合って、少しだけ温度を整えていく。
「……はい」
小さく。でも、はっきりと。
エリアスが、扉の前に立つ。
重い扉が、魔術で静かに開いていった。
◇
交渉の間に入った瞬間、空気の密度が変わった。
右側には、ルミナリア側の席。
エリアス。
リリアン。
ゼフィール。
そして、少しだけ遅れて、リリア。
左側には、グランツ側の席。
最初に目に入ったのは、白い軍服の男の横顔だった。
金糸の刺繍。
整えられた金髪。
涼しげな青い瞳。
レオンハルト・フォン・グランツ。
その隣には、闇色の正装を纏った男。
オズワルド・グレイ宰相。
薄い眼鏡。その奥の灰緑の瞳は、相変わらず水面みたいに表情を読ませない。
斜め後ろには、淡い金髪の令嬢が座っていた。
カトリーナ・ブランシェ。
レースと宝石にまみれたドレス。
「清楚」の仮面を貼りつけた笑み。
その後ろに、数名の高位貴族。
彼らの視線が、一斉にこちらを値踏みするように動く。
リリアが一歩、部屋に足を踏み入れた瞬間――
グランツ側の空気が、ざわりと波打った。
「……リリア?」
レオンハルトの瞳が、驚きと動揺を隠せずに揺れる。
カトリーナは、「まあ」と口元に手を当て、わざとらしく目を見開いた。
貴族たちの囁き声が、微かな音となって耳に届く。
「本当にここに……」
「ルミナリアは、本人を出すつもりか」
「正気か?」
そのざわめきを、オズワルドの低い声が鎮めた。
「静粛に」
彼の一言で、場の喧騒が落ち着く。
ルミナリア側の席に着く前、リリアは一瞬だけ足を止めた。
視線が、グランツ側の白い軍服と、
あの夜路地裏で聞いた声と、
王宮の冷たい廊下を重ねてしまう。
心拍数が跳ね上がる。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせる。
(ここはグランツの王宮じゃない。
私の居場所を奪おうとした場所じゃない)
「リリア」
ゼフィールの声が、小さく聞こえた。
彼は何も言わず、ただ短く頷いてみせる。
そのささやかな合図が、「ここにいていい」と言ってくれている気がした。
リリアは、ゆっくりと歩を進め、ルミナリア側の席に座った。
エリアスの右隣にリリアン。
その隣にゼフィール。
そして、ゼフィールの隣にリリア。
テーブルの中央には、銀の中立紋章。
その周囲の空気は、まるで薄い膜が張られているようだった。
魔術暴発を防ぐための、抑制陣。
中立紋章の下に、複雑な魔法陣が描かれている。
――この場では、派手な魔法は撃てない。
その代わり――言葉だけが、刃になる。
◇
「では」
エリアスが、静かに口を開いた。
「ルミナリア王国とグランツ王国との最終交渉を、始めよう」
その宣言に、中立紋章が一度だけ淡く光る。
オズワルドが立ち上がり、形式的な礼をした。
「グランツ王国宰相、オズワルド・グレイにございます。
本日は、このような場を設けていただき、感謝いたします」
エリアスも、椅子に座ったまま軽く会釈する。
「ルミナリア王国国王、エリアス・ルミナリアだ。
君たちの遠路を無駄にしない議論になることを望む」
そのやり取りは、表面上の礼儀。
だが、言葉の奥には、すでに鋭い探り合いが始まっていた。
「さて」
オズワルドは、視線を真っすぐにエリアスに向ける。
「まず、先日の王都での“騒ぎ”について確認させていただきたい」
“騒ぎ”。
リリアの胸の奥が、わずかに反応する。
あの夜の爆光と、胸をこじ開けられた痛みを、
そんな軽い言葉に押し込められてしまうことへの反発。
「我が国としては、あの件への関与を、改めて否定いたします」
オズワルドの声は、相変わらず滑らかだ。
「王都の一角で魔力暴走が起きたことは承知しておりますが、
その発生源が“我が国から送り込んだ私兵”であるとする証拠は、
いまだ提示されておりません」
「“いまだ提示されておりません”というより、“証拠が残らないように動いた”の間違いでは?」
リリアンが、微笑すら浮かべずに返す。
「襲撃者たちの装備から紋章類が外されていたこと、
使用された術式が、複数系統を混ぜた“出処をぼかす”設計であったことは、
こちらの調査で確認済みです」
「高位の犯罪者がそうした偽装をすることは、珍しいことではありません」
オズワルドは、さらりと受け流す。
「ルミナリア側の内部事情である可能性は?」
「自国の王都を爆破しようとする内部勢力がいると?」
ゼフィールが、あきれたように眉を上げた。
「そいつらを見つけたほうがよほど重要になるが、あいにく心当たりはないな」
「最強魔導士殿の主観だけで話を進められても困ります」
「“最強”に“殿”つけられるとなんかむず痒いな」
「ゼフィール」
リリアンが、小さく制す。
ゼフィールは肩をすくめて、黙った。
エリアスが、わずかに身体を前に傾ける。
「グランツ王国が襲撃への関与を否定する姿勢は理解した。
この件について、これ以上水掛け論を続けても建設的ではないだろう」
「賢明なご判断です」
オズワルドが、薄く笑う。
だが、エリアスはすぐに続けた。
「しかし――」
その声音には、冷ややかな光が宿っていた。
「襲撃の“狙い”が何であったかについては、
こちらも、ある程度の推測を立てている」
テーブルの向こう側で、オズワルドの眼鏡がかすかに光る。
「ほう」
「襲撃が起きたのは、王都南エリア。
標的は――」
エリアスは、隣の人物を一瞬だけ見やる。
「リリア・エルネストだ」
その名が、部屋の空気を鋭く震わせた。
レオンハルトの肩が、ぴくりと動く。
カトリーナは、「まあ」と口元に手を当てる芝居を、もう一度繰り返した。
オズワルドの表情は、変わらない。
「確証は?」
「襲撃者の一部は拘束した」
リリアンの声が、低く響く。
「尋問の結果――“回収対象”という言葉が、繰り返し出てきた」
「“回収対象”」
オズワルドは、わざとらしく首を傾げる。
「物品の話ではないのですか?」
その言い回しに、リリアの胃がきゅっと縮んだ。
(物……)
あの夜、路地裏で聞いた声が蘇る。
『リリア・エルネストを回収する』
『お前の価値は、その体にしかない』
『我々の対象は物言わぬ魔道具だ』
指先が冷たくなる。
膝の上の手に、力がこもる。
その瞬間、テーブルの下で、そっと温かいものが触れた。
ゼフィールの手だった。
驚いて彼を見上げると、
彼は正面を向いたまま、表情ひとつ変えずにいた。
握った手に、ぎゅっと力がこもる。
「ここにいる」と、無言で伝えてくれているみたいに。
「“回収対象”が物品のことであれば、
なぜ暴走しかけた魔力の中心が、人間ひとりから発生したのでしょうね」
リリアンが、書類をめくりながら言った。
「拘束した襲撃者のひとりは、“封印をこじ開ける”という言葉も口にしました。
“古い術式を解錠した”とも」
「古い術式の存在については、こちらも認識しています」
オズワルドは、あっさり認めた。
「しかし、その術式が、我が国の管理下にあるものだと、
なぜ断定できるのでしょうか」
「では、質問を変えましょう」
エリアスが、口を挟む。
「グランツ王国は、リリア・エルネスト――
もしくは“古代の一族の末裔”の存在を、“国家資源”として扱っているか?」
その問いは、あまりにもストレートだった。
レオンハルトの喉が、わずかに鳴る。
カトリーナが、わずかに視線を逸らした。
オズワルドは、ほんの少しだけ笑みを深くした。
「もちろん、“資源”という言葉は、適切ではないかもしれません」
彼は、丁寧な口調を崩さずに続ける。
「ですが、“国を支える重要な要素”として、
彼女の血と魔力を捉えていることは、否定しません」
リリアの背筋に、ぞくりとしたものが走る。
柔らかく言い換えているだけで、
結局言っていることは――
(“資源”って言ってるのと、同じ)
「王族の婚約者として迎え入れたのも、
彼女の血筋と力を、“国の中で適切に管理するため”でした」
オズワルドの言葉は、涼しい。
「彼女の力が、“暴走の危険がある”と見なされたとき、
封印処理を施したのも、
あくまで“国と、本人の安全のため”です」
リリアの喉が、かすかに震えた。
「本人の……安全」
その頃の記憶が、容赦なく蘇る。
『あなたの魔力の不安定さは、前々から問題視されていた』
『調整ですから、怖くありませんよ』
『あなたのためなのです』
あの冷たい部屋。
透明な魔法陣。
痺れるような感覚。
あれが、“本人の安全のため”。
(嘘だ)
胸の中で、誰かがはっきり否定した。
「……“国のため”ですよね」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
全員の視線が、一斉にこちらに向く。
リリアは、膝の上で握った手を、そっとほどいた。
テーブルの下で、指先がわずかに震えている。
ゼフィールの手は、まだテーブルの下でしっかりと握ってくれていた。
「“国と本人の安全のため”って、
とても便利な言葉だと思います」
喉が乾いて、声が少し掠れている。
それでも、言葉は止まらなかった。
「王宮で、何度も聞きましたから」
レオンハルトの表情が、わずかに強張る。
オズワルドの目が、冷たく細くなった。
「リリア」
エリアスが、制止するかどうか迷うように名前を呼ぶ。
リリアは、首を横に振った。
今は、止まりたくなかった。
「グランツの王宮で、“あなたのため”と言われたことは、
全部、“国のため”だった」
胸の奥に溜め込んできたものが、少しずつ形を持ち始める。
「私が王太子殿下の婚約者に選ばれたのも、
“古代の一族の血”が欲しかったから」
カトリーナの肩が、ぴくりと動いた。
周囲の貴族たちがざわめく。
「魔力を封印されたのも、“暴走が危険だから”じゃなくて、
“扱いやすくしたかったから”」
オズワルドの口元の笑みが、すっと消える。
ゼフィールの指先に、少しだけ力がこもった。
「あなたたちは、私の魔力や血のことは、“価値がある”と言ってくれます」
リリアは、まっすぐオズワルドを見た。
「その代わり、私自身のことは、
ずっと“価値がない”と言い続けた」
“弱い”。
“役に立たない”。
“不安定で危険”。
その言葉の重みを、体が覚えている。
「でも、さっき宰相様は言いました」
リリアは、テーブルの上で、拳をゆっくり握りしめる。
「“彼女の血と魔力を、国を支える重要な要素として扱っている”って」
言葉をひとつひとつ、噛みしめるように。
「それって結局――」
喉の奥に、怒りと悲しみが絡みつく。
「“価値がありすぎて、怖かったから”
“自分たちだけのものにしておきたかったから”じゃないですか?」
部屋の温度が、少し下がった気がした。
オズワルドの表情が、一瞬だけきつく歪む。
「リリア・エルネスト」
彼は、言葉を選ぶように、ゆっくりと名を呼んだ。
「君は、感情的になりすぎている」
「そうですね」
リリアは、自嘲気味に笑った。
「今までずっと、感情を押し込めて生きるように言われてきたので、
慣れていなくて」
レオンハルトが、小さく息を呑む。
オズワルドは、淡々と続ける。
「我々は、君を“所有物”だと考えたことはありません」
その言い方は、あえて「所有物」という単語を口にしていないように慎重だった。
「ただ――君の力は、“君ひとりだけのもの”ではない。
君の血は、君だけでなく、後の世代にも連なるもの」
王宮で何度も聞かされた理屈。
「君がその力を、正しく制御し、
国と民のために使ってくれるなら――
我々は、君を“守り”、支え、尊重するつもりでした」
“だった”。
その過去形が、やけに冷たかった。
「しかし、君は逃げた」
オズワルドの言葉が、刃のように突き刺さる。
「王太子殿下の婚約者という立場から。
国から。
責務から」
レオンハルトの指が、テーブルの下でぎゅっと握られている。
「責務……」
リリアの胸に、苦い笑いが浮かびそうになる。
「責務って、なんですか」
「君の血と魔力を、“国のために”使うことです」
オズワルドは、迷いなく答えた。
「それは、君が“古代の一族の末裔”として生まれた以上、
避けられない宿命であると、我々は考えています」
宿命。
血。
責務。
国のため。
それらの言葉が、
ひとつの鎖になって、リリアの首に巻き付いてくる。
王宮で、何度も締め付けられてきた鎖。
「違う」
喉から、かすれた声が漏れた。
ゼフィールの指先が、下からそっと支えてくれるみたいに、
リリアの手をもう一度強く握る。
リリアは、まっすぐオズワルドの目を見る。
「……違います」
声の震えは、消えない。
でも、その震えごと前に出す。
「私は、“宿命”として生まれたわけじゃない」
自分で言いながら、胸の奥が熱くなる。
「“リリア・エルネスト”として生まれました」
レオンハルトの瞳が、少し揺れる。
カトリーナが、小さく舌打ちしたような気配がした。
「あなたたちは、私の血と魔力に“価値がある”って言うけれど、
その価値を、ずっと“自分たちの都合”で決めてきただけです」
「役に立つから価値がある」。
「扱いづらいから危険だ」。
その二択以外の見方なんて、最初からなかった。
「だから、はっきり言います」
胸の奥にある火が、少し大きくなる。
「私は、人です」
言葉に、力を込める。
「あなたたちの“資産”ではありません」
交渉の間の空気が、鋭く揺れた。
グランツ側の貴族たちが、ざわりとどよめく。
「資産」という単語が、
オズワルドが散々言い換えて避けてきた“本音”を、急所から掴んだからだ。
オズワルドの顔から、笑みが消えた。
その瞳の奥で、冷たい怒りが静かに燃える。
「……言葉には、気をつけたほうがいい」
低い声。
「君は今、自らが“何を放棄しようとしているか”理解しているのか」
「放棄しているのは、
“私を資産扱いする権利”だけです」
リリアは、負けじと返す。
「国のために何かをしたいと思うかどうかは、
“私自身が、私の意志で決めることです」
ゼフィールの手が、テーブルの下で少し震えた。
それが、笑っているのか怒っているのか、
リリアには分からなかった。
レオンハルトが、ついに口を開いた。
「リリア」
その声は、あの王宮のバルコニーで聞いたのと、同じ響きだった。
甘くて、優しそうで、その実、どこまでも自分本位な声。
「君は、変わったね」
「……そうですか?」
リリアは、まっすぐ彼を見る。
距離はあるのに、昔と違って、
その瞳から逃げたいとは不思議と思わなかった。
「前は、こんなふうに感情をぶつける子じゃなかった」
「ぶつけられない場所にいたので」
皮肉が、自然と口をつく。
レオンハルトは、困ったような笑みを浮かべた。
「君を、守りたかったんだ」
その台詞に、リリアの胸が冷たくなる。
『君を守りたいが、国が――』
あの日の言葉が、ほとんどそのまま同じ形で蘇る。
「王太子として、国の未来を考えなければならなかった。
君の魔力の不安定さは、確かに脅威だった」
「不安定にしたのは、誰ですか」
今度は、即答だった。
レオンハルトの言葉を遮るように、
リリアは食い気味に言い返す。
「私の魔力を封印して、削って、
“あなたのため”と繰り返して、
それで“不安定だから危険だ”って判断したのは、誰ですか」
レオンハルトは、一瞬、言葉に詰まった。
「それは――宰相や魔導師たちが、」
「任せていただろう」
オズワルドが、さっとフォローに入る。
「殿下は、“リリアのためになると信じて”」
「信じてたのは、“自分にとって都合のいい説明”だけです」
リリアは、もうレオンハルトから目を逸らさなかった。
「殿下は、一度でも“私自身”に聞いたことがありますか?」
『怖くないか』
『痛くないか』
『この封印をどう感じているか』
『婚約者としてではなく、一人の人として、どう生きたいのか』
そのどれも、聞かれたことはなかった。
レオンハルトの表情に、罪悪感の色がほんの一瞬浮かび――
すぐに、王太子としての仮面に押し込まれていく。
「……今は、そういう話をしに来たわけじゃない」
彼は、テーブルの上に組んだ手をぎゅっと握った。
「国と国の話だ、リリア。
個人の感情だけで決められることではない」
「分かっています」
だからこそ、今ここにいるのだ。
「だから、“古代継承者”に関する記録を出していただきたい」
リリアンが、静かに口を挟んだ。
視線が、宰相と宰相の間を飛ぶ。
「話を感情論で押し通すつもりはありません」
彼女の紫の瞳は、冷静で透明だ。
「リリア・エルネストが“古代の一族の末裔”であることは、
こちらも確認しています」
古い書物。
魔力の波形。
封印の術式。
「それと同時に、グランツ王国がその事実をどのように扱ってきたか――
それを示す資料も、十分に存在するはずです」
エリアスが頷く。
「我々としては、“感情”ではなく、“記録と事実”に基づいて判断したい」
「ですから、提案があります」
リリアンの声が、交渉の間に静かに落ちた。
「“古代継承者に関する記録”を、双方で開示し合うのはいかがでしょう」
オズワルドの瞳が、わずかに細くなる。
「……記録、ですか」
「ルミナリア側が保有する古い魔導記録、
聖堂に残された術式、王家の記録」
リリアンは指を折りながら挙げていく。
「グランツ側には、
“初代王と古代一族との婚姻に関する文書”、
“封印術式の設計図”、
“歴代の継承者の扱い”に関する記録があるはず」
それは、「あなたたちが隠しているものを出しなさい」と言っているのと同じだ。
「先ほど宰相殿は、“封印は本人と国の安全のため”と仰いました」
リリアンは、一歩も引かない。
「それが事実であるなら、記録を開示しても、
何も困ることはないはずです」
オズワルドの指先が、テーブルの下で静かに動いた。
彼は、すぐには答えなかった。
その沈黙のあいだに、
レオンハルトが、そっと口を開いた。
「……我々としても、
“古代継承者”という存在の扱いについて、
改めて整理する必要があると思っていた」
オズワルドが、ちらりと彼を見る。
レオンハルトの青い瞳には、複雑な感情が混ざっていた。
「リリアの件だけではない。
今後同じような継承者が生まれたとき――
同じことを繰り返すわけにはいかない」
「殿下」
オズワルドが低く呼ぶ。
だが、レオンハルトは続けた。
「とはいえ――」
その声には、王太子としての硬さも戻ってくる。
「我々が保有する記録のすべてを無制限に開示することは、
国益に反する」
国益。
その言葉が出た瞬間、
リリアの胸が、またひとつ冷めた。
(やっぱり、そっちを選ぶんだ)
彼は、罪悪感と良心のあいだで揺れながらも、
最終的に「国」を選ぶ。
それが、レオンハルトという人間なのだろう。
「ただ――」
レオンハルトは、息を吐いた。
「“共同調査”という形であれば、
一定の情報共有は可能かもしれない」
「共同、調査……」
ゼフィールが、小さく眉を上げる。
オズワルドは、少し考えるように目を伏せたあと、
やがて静かに口を開いた。
「――条件次第では、検討に値する提案かもしれません」
それは、完全な拒絶ではなかった。
エリアスは、ゆっくり頷く。
「では――こうしよう」
国王としての声。
「ルミナリアとグランツの合同で、“古代継承者に関する調査委員会”を設立する」
テーブルの中央の中立紋章が、わずかに光を増した気がした。
「双方が持つ記録を、限定的に開示し合い、
封印術式や継承の歴史についての“共通理解”を持つ」
リリアンが、すぐに話を引き取る。
「そのうえで、“リリア・エルネストの扱い”についても、
委員会の検証結果を踏まえて判断する」
オズワルドの目が、冷静な光で細められる。
「つまり、“今すぐ引き渡す”ことはしない、ということですか」
「少なくとも、“本人の意思を無視した引き渡し”はしない」
エリアスの声には、はっきりとした意志があった。
「“彼女の血と力”だけを見て判断する時代は、
もう終わりにしたい」
リリアの胸の奥で、何かがふっと軽くなる。
(味方でいてくれる)
この場に、確かに自分の味方がいる。
オズワルドは、しばらく沈黙したあと、
やがて静かに息を吐いた。
「……分かりました」
その声は、諦めとも違う。
ただ、次の手を探っている気配。
「我が国としても、“古代継承者”に関する理解を深めることは、
無意味ではないと考えます」
「共同調査の枠組みと範囲については、
別途、担当者を立てて詰めましょう」
リリアンが頷く。
エリアスも、短く「そうだな」と応じた。
交渉の間に漂う張り詰めた空気は、
少しだけ形を変える。
勝ち負けの白黒ではなく、
曖昧な灰色のまま、次の段階へと進んでいくような感覚。
リリアは、握ったままのゼフィールの手に、
そっと力を込めた。
彼は、何も言わずに、同じだけ握り返してくれる。
(まだ、終わってない)
グランツは、彼女を“資産”として見ている。
レオンハルトは、相変わらず「国」と「彼女」のあいだで揺れながら、
結局「国」を優先する。
オズワルドは、記録の開示を条件つきで受け入れたが、
その裏で何を企んでいるか分からない。
決着なんて、何ひとつついていない。
でも――
(私は、ここにいる)
王の隣で。
宰相と最強魔導士の隣で。
“逃げるだけの令嬢”としてではなく。
“自分の人生を取り返しに来た人”として。
その事実だけが、今は確かなものとして胸に灯っていた。
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私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
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