王宮から逃げた私、隣国で最強魔導士に一途に愛される

タマ マコト

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第16話 交渉の間へ

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 王宮の奥、普段は滅多に使われない重厚な扉の前に、空気の層が一枚増えたみたいな静けさがあった。

 ルミナリアとグランツ――二つの国の「最終交渉」の場として用意された部屋。

 扉の向こうに広がるのは、王の謁見の間とは違う、もっと実務的で、もっと冷たい空間だった。

 厚い石壁。
 高い天井には、音を吸うように静かな紋様が彫られている。
 部屋の中央には、楕円形の巨大なテーブル。

 その真ん中には、ひとつの紋章が置かれていた。

 銀で象られた輪の中に、二つの剣と一本の枝。

 どちらの国の紋章でもない。
 この大陸で「中立」を示すときだけ使われる、古い象徴。

 力と力の間に、小さな枝を挟むように――
 争いの中心に、わずかな理性をねじ込もうとする印。

「……緊張してる?」

 扉の手前で立ち止まったリリアに、横から声がかかった。

 ゼフィールだ。

 いつものローブ。
 眠たげな灰色の瞳。
 でも、その視線は鋭く、リリアの顔色をこまかく確かめている。

「緊張してないって言ったら嘘になる」

「嘘つける顔してない」

「ですよね」

 喉の奥が乾いている。
 手のひらはじっとり汗ばんで、心臓が肋骨の内側を叩いている。

 それでも――膝は、震えていなかった。

 ミーナに整えてもらったドレスの裾を、指先でそっと摘む。
 王宮にいた頃よりも、ずっとシンプルなドレス。
 華美な刺繍も、重たい装飾もない。

 ただ、動きやすくて、呼吸しやすくて、
 「今の自分」に合うとゼフィールたちが一緒に選んでくれた服。

「陛下、準備が整いました」

 宰相リリアンが、扉の前で軽く礼をする。

 エリアスは短く頷き、
 リリアたちに視線を向けた。

「行けるか」

 王としてではなく、ひとりの大人としての問い。

 リリアは、深く息を吸った。

 冷たい空気が肺の中を満たす。
 胸の奥の熱と混ざり合って、少しだけ温度を整えていく。

「……はい」

 小さく。でも、はっきりと。

 エリアスが、扉の前に立つ。

 重い扉が、魔術で静かに開いていった。

     ◇

 交渉の間に入った瞬間、空気の密度が変わった。

 右側には、ルミナリア側の席。

 エリアス。
 リリアン。
 ゼフィール。
 そして、少しだけ遅れて、リリア。

 左側には、グランツ側の席。

 最初に目に入ったのは、白い軍服の男の横顔だった。

 金糸の刺繍。
 整えられた金髪。
 涼しげな青い瞳。

 レオンハルト・フォン・グランツ。

 その隣には、闇色の正装を纏った男。

 オズワルド・グレイ宰相。
 薄い眼鏡。その奥の灰緑の瞳は、相変わらず水面みたいに表情を読ませない。

 斜め後ろには、淡い金髪の令嬢が座っていた。

 カトリーナ・ブランシェ。
 レースと宝石にまみれたドレス。
 「清楚」の仮面を貼りつけた笑み。

 その後ろに、数名の高位貴族。
 彼らの視線が、一斉にこちらを値踏みするように動く。

 リリアが一歩、部屋に足を踏み入れた瞬間――

 グランツ側の空気が、ざわりと波打った。

「……リリア?」

 レオンハルトの瞳が、驚きと動揺を隠せずに揺れる。

 カトリーナは、「まあ」と口元に手を当て、わざとらしく目を見開いた。

 貴族たちの囁き声が、微かな音となって耳に届く。

「本当にここに……」
「ルミナリアは、本人を出すつもりか」
「正気か?」

 そのざわめきを、オズワルドの低い声が鎮めた。

「静粛に」

 彼の一言で、場の喧騒が落ち着く。

 ルミナリア側の席に着く前、リリアは一瞬だけ足を止めた。

 視線が、グランツ側の白い軍服と、
 あの夜路地裏で聞いた声と、
 王宮の冷たい廊下を重ねてしまう。

 心拍数が跳ね上がる。

(……大丈夫)

 自分に言い聞かせる。

(ここはグランツの王宮じゃない。
 私の居場所を奪おうとした場所じゃない)

「リリア」

 ゼフィールの声が、小さく聞こえた。

 彼は何も言わず、ただ短く頷いてみせる。

 そのささやかな合図が、「ここにいていい」と言ってくれている気がした。

 リリアは、ゆっくりと歩を進め、ルミナリア側の席に座った。

 エリアスの右隣にリリアン。
 その隣にゼフィール。
 そして、ゼフィールの隣にリリア。

 テーブルの中央には、銀の中立紋章。

 その周囲の空気は、まるで薄い膜が張られているようだった。

 魔術暴発を防ぐための、抑制陣。
 中立紋章の下に、複雑な魔法陣が描かれている。

 ――この場では、派手な魔法は撃てない。

 その代わり――言葉だけが、刃になる。

     ◇

「では」

 エリアスが、静かに口を開いた。

「ルミナリア王国とグランツ王国との最終交渉を、始めよう」

 その宣言に、中立紋章が一度だけ淡く光る。

 オズワルドが立ち上がり、形式的な礼をした。

「グランツ王国宰相、オズワルド・グレイにございます。
 本日は、このような場を設けていただき、感謝いたします」

 エリアスも、椅子に座ったまま軽く会釈する。

「ルミナリア王国国王、エリアス・ルミナリアだ。
 君たちの遠路を無駄にしない議論になることを望む」

 そのやり取りは、表面上の礼儀。

 だが、言葉の奥には、すでに鋭い探り合いが始まっていた。

「さて」

 オズワルドは、視線を真っすぐにエリアスに向ける。

「まず、先日の王都での“騒ぎ”について確認させていただきたい」

 “騒ぎ”。

 リリアの胸の奥が、わずかに反応する。

 あの夜の爆光と、胸をこじ開けられた痛みを、
 そんな軽い言葉に押し込められてしまうことへの反発。

「我が国としては、あの件への関与を、改めて否定いたします」

 オズワルドの声は、相変わらず滑らかだ。

「王都の一角で魔力暴走が起きたことは承知しておりますが、
 その発生源が“我が国から送り込んだ私兵”であるとする証拠は、
 いまだ提示されておりません」

「“いまだ提示されておりません”というより、“証拠が残らないように動いた”の間違いでは?」

 リリアンが、微笑すら浮かべずに返す。

「襲撃者たちの装備から紋章類が外されていたこと、
 使用された術式が、複数系統を混ぜた“出処をぼかす”設計であったことは、
 こちらの調査で確認済みです」

「高位の犯罪者がそうした偽装をすることは、珍しいことではありません」

 オズワルドは、さらりと受け流す。

「ルミナリア側の内部事情である可能性は?」

「自国の王都を爆破しようとする内部勢力がいると?」

 ゼフィールが、あきれたように眉を上げた。

「そいつらを見つけたほうがよほど重要になるが、あいにく心当たりはないな」

「最強魔導士殿の主観だけで話を進められても困ります」

「“最強”に“殿”つけられるとなんかむず痒いな」

「ゼフィール」

 リリアンが、小さく制す。
 ゼフィールは肩をすくめて、黙った。

 エリアスが、わずかに身体を前に傾ける。

「グランツ王国が襲撃への関与を否定する姿勢は理解した。
 この件について、これ以上水掛け論を続けても建設的ではないだろう」

「賢明なご判断です」

 オズワルドが、薄く笑う。

 だが、エリアスはすぐに続けた。

「しかし――」

 その声音には、冷ややかな光が宿っていた。

「襲撃の“狙い”が何であったかについては、
 こちらも、ある程度の推測を立てている」

 テーブルの向こう側で、オズワルドの眼鏡がかすかに光る。

「ほう」

「襲撃が起きたのは、王都南エリア。
 標的は――」

 エリアスは、隣の人物を一瞬だけ見やる。

「リリア・エルネストだ」

 その名が、部屋の空気を鋭く震わせた。

 レオンハルトの肩が、ぴくりと動く。
 カトリーナは、「まあ」と口元に手を当てる芝居を、もう一度繰り返した。

 オズワルドの表情は、変わらない。

「確証は?」

「襲撃者の一部は拘束した」

 リリアンの声が、低く響く。

「尋問の結果――“回収対象”という言葉が、繰り返し出てきた」

「“回収対象”」

 オズワルドは、わざとらしく首を傾げる。

「物品の話ではないのですか?」

 その言い回しに、リリアの胃がきゅっと縮んだ。

(物……)

 あの夜、路地裏で聞いた声が蘇る。

『リリア・エルネストを回収する』
『お前の価値は、その体にしかない』
『我々の対象は物言わぬ魔道具だ』

 指先が冷たくなる。
 膝の上の手に、力がこもる。

 その瞬間、テーブルの下で、そっと温かいものが触れた。

 ゼフィールの手だった。

 驚いて彼を見上げると、
 彼は正面を向いたまま、表情ひとつ変えずにいた。

 握った手に、ぎゅっと力がこもる。
 「ここにいる」と、無言で伝えてくれているみたいに。

「“回収対象”が物品のことであれば、
 なぜ暴走しかけた魔力の中心が、人間ひとりから発生したのでしょうね」

 リリアンが、書類をめくりながら言った。

「拘束した襲撃者のひとりは、“封印をこじ開ける”という言葉も口にしました。
 “古い術式を解錠した”とも」

「古い術式の存在については、こちらも認識しています」

 オズワルドは、あっさり認めた。

「しかし、その術式が、我が国の管理下にあるものだと、
 なぜ断定できるのでしょうか」

「では、質問を変えましょう」

 エリアスが、口を挟む。

「グランツ王国は、リリア・エルネスト――
 もしくは“古代の一族の末裔”の存在を、“国家資源”として扱っているか?」

 その問いは、あまりにもストレートだった。

 レオンハルトの喉が、わずかに鳴る。
 カトリーナが、わずかに視線を逸らした。

 オズワルドは、ほんの少しだけ笑みを深くした。

「もちろん、“資源”という言葉は、適切ではないかもしれません」

 彼は、丁寧な口調を崩さずに続ける。

「ですが、“国を支える重要な要素”として、
 彼女の血と魔力を捉えていることは、否定しません」

 リリアの背筋に、ぞくりとしたものが走る。

 柔らかく言い換えているだけで、
 結局言っていることは――

(“資源”って言ってるのと、同じ)

「王族の婚約者として迎え入れたのも、
 彼女の血筋と力を、“国の中で適切に管理するため”でした」

 オズワルドの言葉は、涼しい。

「彼女の力が、“暴走の危険がある”と見なされたとき、
 封印処理を施したのも、
 あくまで“国と、本人の安全のため”です」

 リリアの喉が、かすかに震えた。

「本人の……安全」

 その頃の記憶が、容赦なく蘇る。

『あなたの魔力の不安定さは、前々から問題視されていた』
『調整ですから、怖くありませんよ』
『あなたのためなのです』

 あの冷たい部屋。
 透明な魔法陣。
 痺れるような感覚。

 あれが、“本人の安全のため”。

(嘘だ)

 胸の中で、誰かがはっきり否定した。

「……“国のため”ですよね」

 気づいたら、口が勝手に動いていた。

 全員の視線が、一斉にこちらに向く。

 リリアは、膝の上で握った手を、そっとほどいた。

 テーブルの下で、指先がわずかに震えている。

 ゼフィールの手は、まだテーブルの下でしっかりと握ってくれていた。

「“国と本人の安全のため”って、
 とても便利な言葉だと思います」

 喉が乾いて、声が少し掠れている。
 それでも、言葉は止まらなかった。

「王宮で、何度も聞きましたから」

 レオンハルトの表情が、わずかに強張る。

 オズワルドの目が、冷たく細くなった。

「リリア」

 エリアスが、制止するかどうか迷うように名前を呼ぶ。

 リリアは、首を横に振った。

 今は、止まりたくなかった。

「グランツの王宮で、“あなたのため”と言われたことは、
 全部、“国のため”だった」

 胸の奥に溜め込んできたものが、少しずつ形を持ち始める。

「私が王太子殿下の婚約者に選ばれたのも、
 “古代の一族の血”が欲しかったから」

 カトリーナの肩が、ぴくりと動いた。

 周囲の貴族たちがざわめく。

「魔力を封印されたのも、“暴走が危険だから”じゃなくて、
 “扱いやすくしたかったから”」

 オズワルドの口元の笑みが、すっと消える。

 ゼフィールの指先に、少しだけ力がこもった。

「あなたたちは、私の魔力や血のことは、“価値がある”と言ってくれます」

 リリアは、まっすぐオズワルドを見た。

「その代わり、私自身のことは、
 ずっと“価値がない”と言い続けた」

 “弱い”。
 “役に立たない”。
 “不安定で危険”。

 その言葉の重みを、体が覚えている。

「でも、さっき宰相様は言いました」

 リリアは、テーブルの上で、拳をゆっくり握りしめる。

「“彼女の血と魔力を、国を支える重要な要素として扱っている”って」

 言葉をひとつひとつ、噛みしめるように。

「それって結局――」

 喉の奥に、怒りと悲しみが絡みつく。

「“価値がありすぎて、怖かったから”
 “自分たちだけのものにしておきたかったから”じゃないですか?」

 部屋の温度が、少し下がった気がした。

 オズワルドの表情が、一瞬だけきつく歪む。

「リリア・エルネスト」

 彼は、言葉を選ぶように、ゆっくりと名を呼んだ。

「君は、感情的になりすぎている」

「そうですね」

 リリアは、自嘲気味に笑った。

「今までずっと、感情を押し込めて生きるように言われてきたので、
 慣れていなくて」

 レオンハルトが、小さく息を呑む。

 オズワルドは、淡々と続ける。

「我々は、君を“所有物”だと考えたことはありません」

 その言い方は、あえて「所有物」という単語を口にしていないように慎重だった。

「ただ――君の力は、“君ひとりだけのもの”ではない。
 君の血は、君だけでなく、後の世代にも連なるもの」

 王宮で何度も聞かされた理屈。

「君がその力を、正しく制御し、
 国と民のために使ってくれるなら――
 我々は、君を“守り”、支え、尊重するつもりでした」

 “だった”。

 その過去形が、やけに冷たかった。

「しかし、君は逃げた」

 オズワルドの言葉が、刃のように突き刺さる。

「王太子殿下の婚約者という立場から。
 国から。
 責務から」

 レオンハルトの指が、テーブルの下でぎゅっと握られている。

「責務……」

 リリアの胸に、苦い笑いが浮かびそうになる。

「責務って、なんですか」

「君の血と魔力を、“国のために”使うことです」

 オズワルドは、迷いなく答えた。

「それは、君が“古代の一族の末裔”として生まれた以上、
 避けられない宿命であると、我々は考えています」

 宿命。

 血。
 責務。
 国のため。

 それらの言葉が、
 ひとつの鎖になって、リリアの首に巻き付いてくる。

 王宮で、何度も締め付けられてきた鎖。

「違う」

 喉から、かすれた声が漏れた。

 ゼフィールの指先が、下からそっと支えてくれるみたいに、
 リリアの手をもう一度強く握る。

 リリアは、まっすぐオズワルドの目を見る。

「……違います」

 声の震えは、消えない。
 でも、その震えごと前に出す。

「私は、“宿命”として生まれたわけじゃない」

 自分で言いながら、胸の奥が熱くなる。

「“リリア・エルネスト”として生まれました」

 レオンハルトの瞳が、少し揺れる。

 カトリーナが、小さく舌打ちしたような気配がした。

「あなたたちは、私の血と魔力に“価値がある”って言うけれど、
 その価値を、ずっと“自分たちの都合”で決めてきただけです」

 「役に立つから価値がある」。
 「扱いづらいから危険だ」。

 その二択以外の見方なんて、最初からなかった。

「だから、はっきり言います」

 胸の奥にある火が、少し大きくなる。

「私は、人です」

 言葉に、力を込める。

「あなたたちの“資産”ではありません」

 交渉の間の空気が、鋭く揺れた。

 グランツ側の貴族たちが、ざわりとどよめく。

 「資産」という単語が、
 オズワルドが散々言い換えて避けてきた“本音”を、急所から掴んだからだ。

 オズワルドの顔から、笑みが消えた。

 その瞳の奥で、冷たい怒りが静かに燃える。

「……言葉には、気をつけたほうがいい」

 低い声。

「君は今、自らが“何を放棄しようとしているか”理解しているのか」

「放棄しているのは、
 “私を資産扱いする権利”だけです」

 リリアは、負けじと返す。

「国のために何かをしたいと思うかどうかは、
 “私自身が、私の意志で決めることです」

 ゼフィールの手が、テーブルの下で少し震えた。
 それが、笑っているのか怒っているのか、
 リリアには分からなかった。

 レオンハルトが、ついに口を開いた。

「リリア」

 その声は、あの王宮のバルコニーで聞いたのと、同じ響きだった。

 甘くて、優しそうで、その実、どこまでも自分本位な声。

「君は、変わったね」

「……そうですか?」

 リリアは、まっすぐ彼を見る。

 距離はあるのに、昔と違って、
 その瞳から逃げたいとは不思議と思わなかった。

「前は、こんなふうに感情をぶつける子じゃなかった」

「ぶつけられない場所にいたので」

 皮肉が、自然と口をつく。

 レオンハルトは、困ったような笑みを浮かべた。

「君を、守りたかったんだ」

 その台詞に、リリアの胸が冷たくなる。

『君を守りたいが、国が――』

 あの日の言葉が、ほとんどそのまま同じ形で蘇る。

「王太子として、国の未来を考えなければならなかった。
 君の魔力の不安定さは、確かに脅威だった」

「不安定にしたのは、誰ですか」

 今度は、即答だった。

 レオンハルトの言葉を遮るように、
 リリアは食い気味に言い返す。

「私の魔力を封印して、削って、
 “あなたのため”と繰り返して、
 それで“不安定だから危険だ”って判断したのは、誰ですか」

 レオンハルトは、一瞬、言葉に詰まった。

「それは――宰相や魔導師たちが、」

「任せていただろう」

 オズワルドが、さっとフォローに入る。

「殿下は、“リリアのためになると信じて”」

「信じてたのは、“自分にとって都合のいい説明”だけです」

 リリアは、もうレオンハルトから目を逸らさなかった。

「殿下は、一度でも“私自身”に聞いたことがありますか?」

『怖くないか』
『痛くないか』
『この封印をどう感じているか』
『婚約者としてではなく、一人の人として、どう生きたいのか』

 そのどれも、聞かれたことはなかった。

 レオンハルトの表情に、罪悪感の色がほんの一瞬浮かび――
 すぐに、王太子としての仮面に押し込まれていく。

「……今は、そういう話をしに来たわけじゃない」

 彼は、テーブルの上に組んだ手をぎゅっと握った。

「国と国の話だ、リリア。
 個人の感情だけで決められることではない」

「分かっています」

 だからこそ、今ここにいるのだ。

「だから、“古代継承者”に関する記録を出していただきたい」

 リリアンが、静かに口を挟んだ。

 視線が、宰相と宰相の間を飛ぶ。

「話を感情論で押し通すつもりはありません」

 彼女の紫の瞳は、冷静で透明だ。

「リリア・エルネストが“古代の一族の末裔”であることは、
 こちらも確認しています」

 古い書物。
 魔力の波形。
 封印の術式。

「それと同時に、グランツ王国がその事実をどのように扱ってきたか――
 それを示す資料も、十分に存在するはずです」

 エリアスが頷く。

「我々としては、“感情”ではなく、“記録と事実”に基づいて判断したい」

「ですから、提案があります」

 リリアンの声が、交渉の間に静かに落ちた。

「“古代継承者に関する記録”を、双方で開示し合うのはいかがでしょう」

 オズワルドの瞳が、わずかに細くなる。

「……記録、ですか」

「ルミナリア側が保有する古い魔導記録、
 聖堂に残された術式、王家の記録」

 リリアンは指を折りながら挙げていく。

「グランツ側には、
 “初代王と古代一族との婚姻に関する文書”、
 “封印術式の設計図”、
 “歴代の継承者の扱い”に関する記録があるはず」

 それは、「あなたたちが隠しているものを出しなさい」と言っているのと同じだ。

「先ほど宰相殿は、“封印は本人と国の安全のため”と仰いました」

 リリアンは、一歩も引かない。

「それが事実であるなら、記録を開示しても、
 何も困ることはないはずです」

 オズワルドの指先が、テーブルの下で静かに動いた。

 彼は、すぐには答えなかった。

 その沈黙のあいだに、
 レオンハルトが、そっと口を開いた。

「……我々としても、
 “古代継承者”という存在の扱いについて、
 改めて整理する必要があると思っていた」

 オズワルドが、ちらりと彼を見る。

 レオンハルトの青い瞳には、複雑な感情が混ざっていた。

「リリアの件だけではない。
 今後同じような継承者が生まれたとき――
 同じことを繰り返すわけにはいかない」

「殿下」

 オズワルドが低く呼ぶ。

 だが、レオンハルトは続けた。

「とはいえ――」

 その声には、王太子としての硬さも戻ってくる。

「我々が保有する記録のすべてを無制限に開示することは、
 国益に反する」

 国益。

 その言葉が出た瞬間、
 リリアの胸が、またひとつ冷めた。

(やっぱり、そっちを選ぶんだ)

 彼は、罪悪感と良心のあいだで揺れながらも、
 最終的に「国」を選ぶ。

 それが、レオンハルトという人間なのだろう。

「ただ――」

 レオンハルトは、息を吐いた。

「“共同調査”という形であれば、
 一定の情報共有は可能かもしれない」

「共同、調査……」

 ゼフィールが、小さく眉を上げる。

 オズワルドは、少し考えるように目を伏せたあと、
 やがて静かに口を開いた。

「――条件次第では、検討に値する提案かもしれません」

 それは、完全な拒絶ではなかった。

 エリアスは、ゆっくり頷く。

「では――こうしよう」

 国王としての声。

「ルミナリアとグランツの合同で、“古代継承者に関する調査委員会”を設立する」

 テーブルの中央の中立紋章が、わずかに光を増した気がした。

「双方が持つ記録を、限定的に開示し合い、
 封印術式や継承の歴史についての“共通理解”を持つ」

 リリアンが、すぐに話を引き取る。

「そのうえで、“リリア・エルネストの扱い”についても、
 委員会の検証結果を踏まえて判断する」

 オズワルドの目が、冷静な光で細められる。

「つまり、“今すぐ引き渡す”ことはしない、ということですか」

「少なくとも、“本人の意思を無視した引き渡し”はしない」

 エリアスの声には、はっきりとした意志があった。

「“彼女の血と力”だけを見て判断する時代は、
 もう終わりにしたい」

 リリアの胸の奥で、何かがふっと軽くなる。

(味方でいてくれる)

 この場に、確かに自分の味方がいる。

 オズワルドは、しばらく沈黙したあと、
 やがて静かに息を吐いた。

「……分かりました」

 その声は、諦めとも違う。
 ただ、次の手を探っている気配。

「我が国としても、“古代継承者”に関する理解を深めることは、
 無意味ではないと考えます」

「共同調査の枠組みと範囲については、
 別途、担当者を立てて詰めましょう」

 リリアンが頷く。

 エリアスも、短く「そうだな」と応じた。

 交渉の間に漂う張り詰めた空気は、
 少しだけ形を変える。

 勝ち負けの白黒ではなく、
 曖昧な灰色のまま、次の段階へと進んでいくような感覚。

 リリアは、握ったままのゼフィールの手に、
 そっと力を込めた。

 彼は、何も言わずに、同じだけ握り返してくれる。

(まだ、終わってない)

 グランツは、彼女を“資産”として見ている。
 レオンハルトは、相変わらず「国」と「彼女」のあいだで揺れながら、
 結局「国」を優先する。

 オズワルドは、記録の開示を条件つきで受け入れたが、
 その裏で何を企んでいるか分からない。

 決着なんて、何ひとつついていない。

 でも――

(私は、ここにいる)

 王の隣で。
 宰相と最強魔導士の隣で。

 “逃げるだけの令嬢”としてではなく。
 “自分の人生を取り返しに来た人”として。

 その事実だけが、今は確かなものとして胸に灯っていた。
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アリシア王国の第3王女ティアラ姫には誰にも言えない秘密があった。 それは自分が全属性の魔力を持ち、最強のチート能力を持っていた「建国の賢者アリシア」の生まれ変わりであること! 8才の誕生日を境に前世の記憶を取り戻したものの、500年後に転生したことを知って慌てる。なぜなら死の直前、パートナーのドラゴンに必ず生まれ変わって会いにいくと約束したから。 どこにいてもきっとわかる!と豪語したものの、肝心のドラゴンの気配を感じることができない。全属性の魔力は受け継いだものの、かつての力に比べて圧倒的に弱くなっていたのだ! 「500年……長い。いや、でも、ドラゴンだし。きっと生きてる、よね?待ってて。約束通りきっと会いにいくから!」  かつての力を取り戻しつつ、チートな魔法で大活躍!愛する家族と優しい婚約者候補、可愛い獣人たちに囲まれた穏やかで平和な日々。 しかし、かつての母国が各国に向けて宣戦布告したことにより、少しずつ世界の平和が脅かされていく。 「今度こそ、私が世界を救って見せる!」 失われたドラゴンと世界の破滅を防ぐため、ティアラ姫の冒険の旅が今、始まる!   剣と魔法が織りなすファンタジーの世界で、アリシア王国第3王女として生まれ変わったかつての賢者が巻き起こす、愛と成長と冒険の物語です。 イケメン王子たちとの甘い恋の行方もお見逃しなく。 小説家になろう、カクヨムさま他サイトでも投稿しています。

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