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第7話:魔法都市メルヴァへ
しおりを挟むメルヴァは、風の匂いからして違っていた。
糖蜜と香辛料と古い紙の匂いが、通りの角ごとに重なって、鼻先で小さな祭りを開く。
街路は魔導石で舗装され、紋の刻まれたタイルが歩くたびに微光を返す。露店の天幕は鮮やかで、布の縁に縫い込まれたルーンが日差しを細かく砕いて、影を涼しくする。
路地では、指先で火花を弄ぶ子どもたちが競い合い、噴水の縁では老人が蒼い煙を吐くパイプを手入れし、空では鳥の形をした使い魔が便箋を咥えて縦横に飛ぶ。
「目を奪われるな」
ノアが短く言い、私は「奪われる仕事でしょ」と口を尖らせて笑った。
彼の黒い鎧は相変わらず目を引くけれど、ここではそれすら“珍しい”の一種として混ざり合う。見る者は見て、見ない者は見ない。情報の濃淡が、都市の呼吸を決める。
「図書塔は中央区画。『写本院(スクリプトリオ)』が管理している。無用の口は利くな。利くとしても短く」
「わたし、口は短いよ。涙は長めだけど」
「今日は後者を我慢しろ」
「努力する」
市門から中央へ向かうにつれ、建物は背を伸ばし、窓の縁には細やかな魔法細工が増えた。
通りの脇では、魔導炉の小型版が回っている。透明な管の中を光が巡り、風車の代わりに街路灯の点灯と書記の机を温める熱を供給している。
――この世界の「便利」の作り方を、もっと知りたい。
胸の真ん中で紐がきゅっと結ばれて、私の足取りは自然と速くなった。
「リシェル」
「ん?」
「息を整えろ。早足は判断を誤る」
「はーい」
呼吸の節。吸って、止めて、吐く。ノアが横でわずかに歩幅を緩める。彼の速度に合わせるだけで、世界の騒がしさが一段階下がるのが不思議だ。
やがて、視界の先にそれは現れた。
図書塔――メルヴァの心臓。
空を突き刺すように立つ白い尖塔の表面には、無数の小窓と棚の影が見え、塔の足元はステンドの光で染まり、入退室のルーンが規則正しく点滅している。
入口には二体の石像。片方は目隠しをした女、もう片方は口を縫われた男。どちらも、両手を胸の前で交差させている。――見ず、語らず、ただ持つ。知識の態度。
「身分証を」
門番の書記が淡々と告げる。灰色の外套、手袋の指先にはインク染み。
ノアが懐から金属の札を取り出して差し出す。彼の名が古い書式で刻まれている。
「副同盟監察認証。閲覧目的は?」
「道案内のため。彼女に基礎目録を閲覧させる」
書記の視線が私に移る。私は背筋を伸ばし、出来るだけ賢そうな顔を作る。
「閲覧誓約に署名を。写し取りは銅板のみ、魔導写しは禁止。禁書層は立入不可。書を汚さぬこと、破らぬこと、声を潜めること。――守れますか」
「守ります」
「泣かぬこと」
「えっ」
「紙が湿る」
「努力します」
書記の唇が、ほんの僅かに笑ったように見えた。許可の符が私の手首に巻かれ、塔の内へ。
内部は、紙の時間でできていた。
螺旋階段の壁一面に書棚、書棚、書棚。羊皮紙、樹皮紙、薄い石板、刻まれた金属片。
通路には、台車を押す書記たち。羽ペンの音は雨のように微かで、ページをめくる音は祈りのように柔らかい。
私は息を整え、胸の太鼓に静かに布をかける。――泣かない。吸って、止めて、吐く。
「紋章学と古王統の棚は第五環だ」
ノアの案内で階を上がる。第五環――塔の中腹。
並ぶ背表紙が雲のように私の視界へ押し寄せ、私は圧倒されそうになりながらも、指先をすべらせて背の厚みを確かめる。
指で触る。目で読む。鼻で嗅ぐ。紙の言葉は、五感で飲む。
「これ」
手にとったのは『連環紋譜・外典』。表紙は革、角は擦れて白い。
ページを開くと、紋章の図が訥々と並んでいる。盾型、円型、方型。獣、樹、星、――そして、血。
「アルディナ……」
自分の口から、久しぶりにその名がこぼれた。
実家の名。追放の夜に置いてきた、冷たい響き。
だが、ここにあるアルディナは、私の知るアルディナとは違う顔をしていた。
《アレディナ》
この世界での表記は少しずれる。
説明文にはこうある――〈北方境域の古王家。紋は“哭星(こくせい)に揺らぐ雫”〉
哭星。泣く星。
図の中央には、五芒の小星が描かれ、その下に、一滴の雫が落ちる。雫の内側には小さな紋。――心核の意匠に似ている。
“涙が光を呼び、因果の針をひと目盛りずらす”
伝承の一節が抜き出されていた。
「……ずらす?」
ページの余白に描かれた微小文字が、時の術式の断片であると示す。
運命を書き換える、ではない。ずらす。ひと目盛り。
私はこめかみを指で押さえた。脳の内側で何かが繋がる音がする。
――追放の夜、私は願った。
誰も傷つかない世界を、って。
その瞬間、白い光、落下、森、ノアの剣。
あれは偶然の落下ではなく、細い針の目を潜るように導かれた“ずれ”だったのか。
「リシェル」
ノアの声が低く落ちる。
私は顔を上げる。彼はいつかのように無言で“続けろ”と促すだけ。
私は頷き、次の書を取った。『外史・王都沿革』。
メルヴァの古い記録の片隅に、アレディナの客人の話が載っている。
〈東より来たりし姫、哭星の歌を携え、魔導炉の眠りを解く〉
〈その涙、炉の心に触れて、灯を戻す〉
――昨日の私だ。いや、昨日の私に似た誰かだ。
この世界にも、アルディナの伝承が“残っている”。
残っている、ということは、あった。
あったから、残った。
私は頁に指をのせたまま、しばし動けなくなる。
「導かれて、来たのかな」
呟きは、紙に吸い込まれて音を立てない。
どこから、誰に。
神? 世界? 私自身?
答えのない問いに無理やり蓋をしないこと――それがこの塔の礼儀だ。私は深呼吸し、隣の冊子を手に取った。
『紋章変遷と血唱(けっしょう)』
血唱――血で奏でる、血が歌う。
記述は難解だったが、要点はひとつ。
〈血は鍵であり、合図であり、言語である〉
〈血の系譜が一致したとき、古い装置は“聞こえる”〉
そう、昨日の魔導炉。心核は私の琥珀の温度と、拍動に応えた。
それはアルディナの血が持つ、古い世界との互換性。
――私の涙は、鍵穴に落ちた雫。
頁の隅に、泣き虫の星の小さな絵が添えられていて、私は笑ってしまう。図書塔の書記にも、きっと泣き虫がいたのだ。
「この棚、全部持って帰りたい」
「禁止だ」
「夢くらい見させて」
「夢は軽い。だが背負うなら、せめて索引を」
ノアは別の棚から索引集を取り出し、私の前に置いた。
彼は読まない。けれど、読むための道筋をいつでも用意してくれる。
私は胸の中で小さく“おかえり”を呟いてから、索引をめくった。
そこで、私は見つけた。
『紋章照合盤』――閲覧申請すれば、既知の紋と照合し、血統の推定を出す魔導装置。
塔の第四環、監視下。
私は顔を上げる。ノアの視線に飛び込む。
「照合盤、使いたい」
「危険だ。記録は残る」
「記録、残るの怖い」
「だが、必要ならやる」
怖い。確かに怖い。
私が“どこの誰か”という情報が、世界のどこかに残る。追跡される可能性は高まる。
それでも――この“導き”の正体に指をかけたい。ずれた針の位置を確かめたい。
私は唇を噛み、ゆっくり頷いた。
「やる」
*
第四環は、空気が違った。
静けさが一段濃く、緊張が一段硬い。
照合室の扉の前には、銀紋の外套をまとった監視書記が二人。
ノアが短く認証を示し、私が誓約を復唱する。
「虚偽を述べず、結果を改竄せず、結果に呑まれず、結果を濫用せず」
最後の一節が、喉に引っかかる。結果を濫用せず。
短い頷き。扉が開いた。
室内は白く、静かで、ほの暗い。
中央に置かれたのは、丸い台座。表面には細かい刻印と、微細な溝。
「血の提供を」
書記の声は中立。
私は一瞬だけ琥珀に触れ、母の温度を思い出し、それから指先に小さな針を立てた。
滲む赤。落ちる雫。
雫は溝に吸い込まれ、刻印が静かに明滅を始める。
低い音。遠い音。心核が眠りから体をひとつ伸ばすときの音。
〈紋章照合、開始〉
機械の声が、紙の向こうから聞こえてくるように乾いている。
私は息を詰め、ノアの袖を指先だけつまんだ。
彼は抵抗しない。逃げも、拒みもしない。そこにいる。それだけで、手の震えは半分になる。
光が走る。
台座の表面に、紋の影が幾つも浮かび上がっては消える。
獣、星、樹、涙。
最後に残ったのは、五芒の小星と、一滴の雫。
――哭星の雫。
その雫の内側に、私の知らない細い線が一本、引き足されていた。
台座の周囲に、古い文字が浮かび上がる。読める。
〈外界系統:一致〉
〈血唱適合度:高〉
〈補足紋:導(しるべ)の針〉
導の針。
私の喉が乾いた音を立てる。
「リシェル」
名前を呼ばれて、私は頷くだけしかできない。
導の針――誰かが、何かが、針をひと目盛り動かした痕跡。
“偶然”と呼ぶには、精密すぎる。
「記録、保存しますか」
書記の問いが、現実を戻す。
保存すれば、追える。誰かが。
保存しなければ、今ここで得た確信は、紙の外で淡く溶けるかもしれない。
私はノアを見た。彼は、選ばない。選ばせる目だ。
私の選択を、護るために剣を抜く目だ。
「……部分保存で。紋の画像のみ。個人名は伏せる」
書記は一瞬だけ目を細め、頷いた。
「許可。照合完了。――ご武運を」
扉の外の空気は、さっきより暖かく感じた。
私は廊下の壁に背を預け、息を吐く。
ノアが隣で立つ。影が寄り添う。
「導の針、だって」
「見た」
「誰が、動かしたのかな。世界? 神? ……それとも、わたし?」
「いずれ話すと言ったことが、ここに繋がる」
ノアの声に、私は顔を上げる。
灰色の瞳が真正面から私を射抜く。
「俺はこの世界の辺境で、長い時間“拾う”役目を負ってきた。迷子、落ちてきた者、呼ばれた者。――導の針は、勝手には動かない。押す手がいる」
「押す手」
「お前の世界と、この世界のあいだで、針を押す手。時に祈り、時に企み、時に、優しさに似たもの」
「優しさに、似たもの」
「救済と支配は、同じ手で行われることがある」
私は無意識に琥珀を握りしめた。母の温度。
押す手が誰であろうと、私はこの世界に落ちて、ノアに拾われた。
そこに偶然がどれだけ混ざっていようと、――意味は、私が決める。
涙が、うっかりこぼれそうになって、私は指で目頭を押さえた。
「泣くな」
「紙、湿るから?」
「それもある。だが、今は笑え」
「笑うから、ティッシュ……じゃない、紙を」
「紙は渡さない」
「けち」
角の書机に座っていた老書記がこちらをちらりと見て、無言で布を差し出した。
「塔の布は涙に強い」
「ありがとうございます」
「泣く時は、いい頁の横で泣きなさい。紙も喜ぶ」
泣いてもいい場所を、一つ覚えた。
私は涙の予備軍を笑いで誤魔化しながら、第五環へ戻る。
残りの資料をもう少し読み、索引を写し、写本院の許す範囲で、手帳に図を移す。
時間は紙の中で加速し、外の塔影はすでに西へ長く伸びていた。
「今日はここまでだ」
ノアが肩を軽く叩く。現実へ戻る合図。
外へ出ると、メルヴァの夕暮れは音の層を重ねていた。
通りの楽師が弦を弾き、香辛料の屋台が最後の客を呼び、空では使い魔が帰巣の輪を描く。
私は塔を振り返り、入口の石像に小さく会釈した。
見ず、語らず、ただ持つ。――でも、私は語る。泣き虫は、語る。守るために、語る。
「ノア」
「ん」
「わたし、この世界に導かれて来たのかもしれない。でも、ここから先は、自分で歩く。導かれても、引っ張られても、最後の一歩は自分で。……そういう約束を、今日、自分と結ぶ」
「聞いた。証人になる」
「証人が推しなの、恵まれすぎでは」
「適切だ」
宿へ戻る道すがら、私は街の“音”を一つずつ拾って歩いた。
職人が扉を閉める音。子どもが靴を脱ぐ音。遠くで鐘がひとつ鳴る音。
そのすべてが、導の針の先でふるふる震える糸のように感じられて、胸の奥が少し熱くなる。
部屋に戻り、荷をほどき、椅子に腰を落ち着けると、遅れて疲れが波のように押し寄せた。
ノアは窓を少し開け、外気を入れる。夜の匂い。砂糖と煤と薄い金属の匂いが、今日の終わりを告げる。
私は手帳を開き、震えない手で文字を置いた。
――哭星の雫。導の針。
――血は鍵、合図、言語。
――照合:一致/適合度:高。
――導かれたのか。ならば、選び直せる。
「リシェル」
「なに」
「疲れたら、眠れ」
「眠る。でも、その前に」
私は立ち上がって、一歩、二歩、ノアに近づく。
手のひらを差し出す。
「今日の“ただいま”」
ノアはちょっとだけ目を細め、手甲を外して、掌を重ねてくれる。
「おかえり」
それだけで、導の針の意味は今日のところ、充分に思えた。
灯りを落とし、横になる。
天井の梁の影が、メトロノームみたいに揺れる。
――導かれて来たとしても、私は私の足で、この都市を歩く。
泣くことは、鍵。笑うことも、鍵。
守るために泣き、進むために笑う。
目を閉じる直前、塔の石像の姿がちらりと浮かび、私は小さく舌を出した。
見ず、語らず、ただ持つ――のも正しい。
けれど私は、見て、語って、抱きしめて持つ。
アルディナの伝承がこの世界に残っているなら、今日からは、私が続きの頁を書く番だ。
胸の琥珀が、そっと温かくなる。
「ただいま」
心の中で、もう一度。
返ってくる声は、いつも通り短いけれど、長い時間に裏打ちされた強さを持っていた。
「おかえり」
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