泣き虫王女、異世界で推し騎士に拾われて人生チート化しました

タマ マコト

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第14話:涙が導く奇跡

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神殿の空気は、刃の側に寄っていた。
封印符の光は白すぎて、呼吸の色を奪う。
円盤が脈打ち、短杖が床に時間を釘打ちし、石は静かに“服従”という名の粉を吐いた。

私は、その真ん中へ進んだ。
足の裏が、磨かれた石の冷たさを一枚ずつ記録する。
喉は渇いて、心臓は鐘の練習を始め、視界は細くなる。
それでも、足首は止まらない。止まらせない。
泣くなら、守るために。――今だ。

ノアの刃は美しかった。
封印が描く幾何学は完璧で、彼の肩の軌道は一撃で全てを終わらせる角度を示す。
灰色の瞳は湖面の氷で覆われ、私を“位置情報”としてしか捉えない。
その完璧に、私は祈りでなく、宣言を投げた。

「あなたを推してた私は、もうただのファンじゃない。私は――あなたのリシェルです!」

声は震えた。けれど、折れなかった。
体は前へ。
剣を避けず、直線で。
胸甲へ、頬を。鎧の縁へ、涙の温度を。
金属の冷たさと、人の温度の境目に、私は自分の輪郭を押しつける。

刃が風を裂く音は、私の耳のすぐ後ろで止まった。
止まった、というより、剥がれた。
封印が命じる“最適化”と、私の宣言が持つ“余白”が正面衝突し、軌道は一呼吸ぶんだけ遅れる。
その遅れに、私は涙を一滴――落とした。

琥珀が鳴る。
胸の小さな核が、古い約束を思い出したように微かに震える。
導の針が、目盛りをひとつ、押し戻す。
涙が魔力に変わる瞬間は、熱ではなく、意味で起こった。
“弱さ”というラベルが剥がれ、“鍵”という刻印が現れ、“鍵穴”が彼のこめかみの符の裏側に現前する。
私の一滴はその鍵穴にぴたりとはまり、封印回路へ静電気のようなノイズを走らせた。

――ビリ。
世界の美しすぎる数式が、紙の端でちぎれる音。
ノアのこめかみに浮いた符がひとつ、二つ、順に消える。
数字だった呼吸が、音に戻る。
“対象”だった私の輪郭が、“名前”へ変換される。

「……リシェル」
薄い、でも確かな音節。
私は額を押しつけたまま、囁き返す。
「ただいま」
「おかえり」

短い合言葉が、封印の膜を内側から押し広げる。
円盤の男が顔を歪め、短杖の男が新たな符を叩き込む。
神殿の壁が白い呼気を吐き、床の網がきしむ。
でも、遅い。間に合わない。
彼の腕が、私の背へ回る。
それは機械の動作ではなく、“人の抱擁”の角度だった。
鎧と毛布のあいだにあった夜の温度が、昼の真ん中へ戻ってくる。

「……俺は、命令しか知らないはずだった」
ノアの声は低く、熱を含む。
「違う。あなたは“約束”を覚えた。わたしと一緒に」

抱きしめ返された瞬間、心臓の鐘は正しい拍を見つけ、世界の彩度が上がる。
封印の鎖はがらん、と音を立てて床の下へ落ち、粉塵になって光った。
円盤が悲鳴を上げる。
短杖が悲鳴を上げる前に、男の手から滑り落ちる。
神殿の天井の針は“内側”を指すことをやめ、迷って震えた。

「やはり――危険だ」
円盤の男は怯えではなく、確信の声で言い、外套の内側から黒い封蝋の刻まれた札を取り出す。
短杖の男が拾い直した杖に札を差し込み、二人は互いの視線で合図した。

「禁呪、発動」
低い詠唱は、祈りではない。
それは世界の根太に直接釘を打ち込む職人の口調だった。
“世界の骨組み、ここで曲がれ”。
“泣く雫よ、全ての因果を薄めよ”。
“導の針よ、中心を失え”。

空気が裏返る。
神殿の壁に刻まれた泣き雫の紋が黒く反転し、針の方位は消失して円になった。
床が水平であることをやめ、水平の概念が皺を寄せる。
音の速度が遅れ、鐘の二打目が一打目の尻尾を踏む。
光はまだ光だが、“昼”の意味を忘れ、影は長くも短くもなく――ただ、濃い。

「ノア!」
私は腕の中の彼の温度を確かめながら、周囲を見渡す。
壁の裂け目から、砂のような時間が漏れている。
床を這う亀裂が、文字の形をとって走る。“帰れ”“従え”“忘れろ”。
禁呪は命令の群れを世界へ流し込み、世界のほうが従う側に回ろうとしている。

「リシェル、離れるぞ」
「離れない」
「巻き込む」
「巻き込まれるなら、あなたの隣で」

彼は私を見下ろし、ほんの刹那目を細める――笑った。
次の瞬間、背に感じる風圧。
黒衣が四人、陰から飛び出す。陣は半ば崩壊しながらも、捕縛の名残を牙にして突き立ててくる。
ノアの剣が鳴る。
封印を失った刃は、ようやく彼の剣になった。
最短で、しかし“殺さない”角度。
袖を裂き、符だけを落とす。
音は少ない。血は出ない。
彼の怒りと優しさが、同じ手の内に収まっている。

「後ろ」
「いる」
背中合わせ。
呼吸と呼吸が、再び同じ拍になる。
私は共鳴器の感覚を思い出し、足で床を叩いた。
苔――ここにはない。けれど、湿度はある。
涙を一滴、床に落とす。
石の目がそれを飲み、禁呪の乾いた命令に湿りを混ぜる。
命令は湿気に弱い。紙と同じだ。
床の文字“帰れ”の縁が滲み、“帰れる?”へと曖昧に崩れる。

「詠唱を切れ!」
円盤の男が叫ぶ。
短杖の男は逆に詠唱を足した。
禁呪が第二段階へ移る。
空間の四隅が膝を折り、神殿が内側へ沈む。
柱形がねじれ、天井の針は糸くずになって落ち、外の森が遠くなる。
世界の骨組みがひゅう、ひゅう、と寝息のような苦鳴を漏らす。

「ノア、世界が――」
「崩れている。禁呪は“因果希釈”。出来事を薄め、選択の鋭さを鈍らせる」
「選べなくなる?」
「ああ。選んだ結果が、どちらでもないに落ちる」

最悪だ。
“ただいま”と“おかえり”が、挨拶でも標本でもない“音”に成り下がる。
約束が、雰囲気で済まされる。
世界の最も残酷な崩れ方。

「止めよう」
私は震える膝を叱り飛ばし、胸の琥珀を握る。
導の針が、禁呪の中央孔を探す。
中心は……ここじゃない。
神殿のさらに内側、地下。
泣き雫が落ち続けた祭壇の下、捩れた心核が呼吸を誤らされている。

「地下に心核」
「見えるのか」
「匂うの。焦げた水の匂い」
ノアは頷き、私の手を一瞬だけ握った。
「行く。――離れるな」
「離れない」

階段は、階段としての意志を半分失っていた。
段差の概念がところどころ剥がれ、上るほど降りる、降りるほど浮く。
私は手すりに触れて“固さ”を借り、ノアの背中を目印に進む。
彼の背は、刃ではなく盾の温度を持っていた。
世界が崩れる中で、ここだけは崩れない、という断固たる温度。

地下回廊の終端、祭壇室。
中央に据えられた心核は、泣き雫を模した黒い石で囲われ、薄い糸状の符が何層にも巻き付けられている。
禁呪はそこに根を下ろし、神殿という生き物の血を希釈していた。
薄められた血は、意志を失い、命令だけを運ぶ。

「外せる?」
「一人では無理だ」
「二人なら」
「できるまでやる」

ノアが剣で符の結び目を断ち切る。
私は涙で濡らした指で、結び目の熱を読んで弱点を探す。
強い命令ほど、結び目は“固い”のではなく“硬がっている”。
そこへ、雫で呼吸を差し込む。
“ほどけていい”という許可。
涙は鍵で、同時に許しだ。

外では、神殿が折り畳まれる音を立てていた。
柱が自分の影の中へ倒れ、影は墨汁の川になって床を這う。
森の木々は紙細工になり、空は色鉛筆の下書きに戻る。
世界が絵コンテに退化していく。
それでも、心核の中心には、まだ音がいた。
遠い、弱い、幼い呼吸の音。
“生きたい”。
“戻りたい”。

「泣け」
ノアが短く言う。
「守るために」
「うん」
私は目を閉じ、泣いた。
涙は一滴ずつ、選んで落とす。
“約束を守るため”。
“ただいまを未来に残すため”。
一滴ごとに、導の針が薄皮を剥くように禁呪の層を剥がす。
ノアの剣が符の縫い目を裂き、私の雫が濡らし、結び目はほどけ、心核はわずかに息を吸う。

「――っ」
短杖の男が祭壇室へ転がり込み、杖を振り下ろす。
ノアの刃が打ち返す。
火花は出ない。音だけが金属を思い出す。
彼は追撃しない。殺さない軌道で武器だけを奪う。
円盤の男が入り口に立ち、札をもう一枚――黒い封蝋ではなく、無色の封蝋を掲げる。
「世界に告ぐ。――“忘却”」
最も卑劣な禁呪。
選択の痕跡を消し、後悔の回路を焼く。
選び直す道を、未来から盗む。

「させない」
私は祭壇に両手を置き、心核に呼吸を教える。
吸って。止めて。吐く。
“ただいま”。
“おかえり”。
二拍の合言葉で、心核の拍動を人の拍に同期させる。
導の針が、私の胸と心核を橋で繋いだ。

「リシェル!」
ノアの声と、世界の軋みが同時に重なり、私はひびの真ん中に立った。
涙が、熱に変わる。
熱が、音に変わる。
音が、光に変わる。
私の胸の琥珀は、今日まで母の温度を守っていた。
その温度が、初めて外へ――解き放たれる。

心核が目覚める。
黒い石の表面に、泣き雫の紋が反転し、今度は笑う雫が現れる。
“泣くから、灯る”。
“灯るから、帰れる”。
世界の簡単で折れにくいルールが、禁呪の上から書き足される。

封印の鎖は音もなく粉になり、禁呪の糸は湿って力を失い、円盤は割れ、短杖は沈黙した。
しかし――それは“神殿の中”に限られた回復だった。
外の世界はもう、崩壊を始めている。
地平線が揺れ、都市の灯は薄紙の向こうの明滅に変わり、遠雷のような低音が地中から上がる。
因果の梁が歪み、時間の床板が外れ、人々の選択が“どちらでもない”へ落ち始める。

「持たない」
ノアが私の肩を掴む。
彼の瞳はもう氷ではない。
熱い。焦点が合っている。
“人”として私を見ている。
「禁呪は神殿を超えた。回路は王都、さらには国境の塔へ繋がっている」
「切れる?」
「切れば、別の場所が死ぬ」
「だったら――繋ぎ直す」

私は鼻をすする。涙を拭わない。
涙はまだ使える。鍵だ。燃料だ。
「ノア。わたし、あなたと一緒に“世界の呼吸”を作り直す。ひと息でいい。崩れが止まるだけの、ひと息」
「危険だ」
「知ってる。怖い四、嬉しい六で行く」

彼の口元が、戦場のど真ん中では場違いなほど、やさしく笑った。
「適切だ」
「言ってくれた」

私たちは祭壇に両手を重ね、心核へ二人分の呼吸を送る。
吸って。
止めて。
吐く。
“ただいま”。
“おかえり”。

神殿の外で、崩壊の音が一拍ぶんだけ遅れ、もう一拍ぶんだけ躊躇する。
選択が“どちらでもない”に落ちる速度が、涙一滴ぶんだけ鈍る。
そのわずかが、繋ぎ直しの端緒になる。

「時間を稼げ!」
円盤の男が最後の叫びを上げ、肩で息をしながら退く。
禁呪の詠唱を遠隔へ引き渡すつもりだ。
神殿の梁が音を失い、外の空が低くなる。
世界は、いまも崩れている。
だが、私たちは抱き合っている。
“抱擁”という名の、最小で最大の回路。

「リシェル」
「なに」
「さっきの言葉を、もう一度」
「どれ?」
「“あなたのリシェル”」
私は息を吸い、泣き笑いの声で、彼の胸板へ言う。
「私は――あなたのリシェルです」

ノアの腕が、強く確かに私を締める。
封印を砕いた抱擁は、誓いへ変わる。
心核が、もう一段深く息を吸い、神殿の泣き雫が灯りに変わる。
崩壊の速度がさらに鈍る。
けれど、止まらない。
王都の塔、国境の塔――彼方で、禁呪の輪唱が始まっている。

世界は崩れている。
それでも、ここに人がいる。
泣き虫の姫と、感情を取り戻した騎士。
鍵と鍵穴。
針と灯り。
“ただいま”と“おかえり”。
私たちはその二語で、世界の端をつなぎ留め、次の一歩に体重を移した。

崩壊の風が地下へ吹き込み、火のない炎の匂いが鼻を刺す。
遠くで、都市の鐘が乱打される。
――時間を知らせるのではなく、時間にしがみつくために。
私は涙をもう一滴、落とす。
それはもはや、悲しみのかたちではない。
選ぶための燃料だ。

「ノア、行こう」
「行く」
「世界を、ひと目盛り――私たち側へ」

私たちは心核から手を離さず、崩れていく階段を上へ踏み出した。
上るほど降り、降りるほど浮く階段を、二人で水平へ書き直す。
足音が増える。
黒衣が退き、別の黒衣が入る。
禁呪は輪唱を厚くし、世界は紙へ戻ろうとする。
それでも、私たちは紙の余白に、太く一行を書く。

ただいま。
おかえり。

――奇跡は、“涙が導く”と人は呼ぶだろう。
でも、本当は違う。
奇跡は、抱擁が導く。
互いの胸の鼓動が、世界の心拍に割り込む、その瞬間。
世界は崩れ、同時に生まれ直す準備を始めた。
さあ、次へ。
崩壊の風の中で、私は推しの騎士と手をつなぎ、未来の入口へ走った。

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