地味令嬢を見下した元婚約者へ──あなたの国、今日滅びますわよ

タマ マコト

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第8話 喉の詩人

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 昼下がりの広場に、一本の喉が降りてきた。
 砂に座り込むでも、店先で値切るでもなく、ただ“声”だけで席を作る男。布の外套は旅の埃で灰色、肩から吊るした小さな竪琴は擦り減って艶が出ている。唇は乾き、目は笑い、喉だけが潤っていた。

「昼寝の邪魔をしたいのは山々ですが——歌います」
 軽く一礼、弦をはじく。
 音が一段、二段、三段。輪郭が揃うと、言葉が乗る。

 ——王のテーブルは椅子が奇数
 ——皿は七枚、うち二枚は影を盛る
 ——銀の口金の袋、黒い蜜の匂い
 ——三つ目の扉、赤い目の狛犬
 ——鍵は、ひとつでは足りない

 男は、村人にとってはただの余興にしか見えない歌を、わずかな目配せと指の癖で“別の歌”に重ねた。私は椅子の背に肘を置き、耳の奥で音を分解する。嗅覚はまだ戻らない。だから、耳で嗅ぐ。

「詩人さん、喉に砂が詰まってるよ」
 ミラが水を差し出す。男は喉仏を上下させ、笑った。
「よく見える娘さんだ。私の喉は“鍵穴”。水は油。滑りがよくなる」
「油は混ぜ物じゃない?」
「君たちの店のは混ざってない。……さて、続ける」

 ——右手の手袋、外すのは三度目の乾杯
 ——鏡の柱に刻まれた数字、逆さまに読む
——“主計の鼠”は背伸びをする
 ——帳は黒、紐は銀、隠す場所は目の高さ
——歌が終わる頃、皿は空

 エーレンが私の肩に視線で問いかける。私は小さく頷く。
「暗号、読める?」
「読める。“王宮の裏宴”。椅子の奇数は招待客の数合わせ。『影を盛る皿』は裏金の取り分。『三つ目の扉』は倉の並び、赤い目の狛犬は紅玉入りの彫像。『右手の手袋、三度目の乾杯』は手袋の内側に鍵の小片。『鏡の柱に数字』は柱の刻み目の位置、『逆さま』は天井近く。『主計の鼠』は主計局の若い書記。『帳は黒、紐は銀』は——」
「黒帳簿、銀の綴じ紐」
 ミラが即答し、詩人は嬉しそうに片眉を上げた。

「あなた、何者」
「喉の詩人。情報屋。王都では“声出し”とも呼ばれます。名乗りは古い——カレルとどうぞ」
「喉の詩人。いい仕事だね」
「喉は替えが利かない。だから、喉で食う」
 カレルは肩をすくめ、歌の終わりに竪琴を伏せる。
「代金は噂の一切れ。あなたの“鏡”の話を、ひとかけら。どれだけ切ってもいい」
 セレナが一歩前に出て、笑うのか祈るのか迷った目で言う。
「噂は分け合うためにあるけど、刃をつけないのがルールよ」
「もちろん。喉は刃物を怖がる」

 私は卓上に布をひろげ、指で“写し”の輪を作った。歌詞の抜けと重なり、柱の“数字”が頭の中で組み上がる。
「場所は王都近郊、旧狩猟離宮の倉。紅玉の狛犬が唯一残る棟。三番目の扉——鍵は手袋の内側の薄板と、鏡柱の上の金具とで“二重”。主計局の若い鼠が夜に背伸びして紐を掛け直す……黒帳簿は“目の高さ”」
「つまり、立ったまま手を伸ばせば届くが、しゃがんだ目線では見えない」
 エーレンが地図に印を打ち、ミラが商流の道順を走査する。
「荷馬車で離宮前まで行ける。祭の季節で搬入が多い。うちの商隊に紛れるのが自然。塩と油を献納って名目。夕刻に発つ」
「護衛は?」
「四。表の二、裏の二。エーレンは裏、私は表で笑う」
 カレルが喉を鳴らして笑う。
「地味で無害に見えるやり方、あなた方はとても上手い」
「地味は便利」
 私の口がいつもの調子で答えかけて、指先で自分を止めた。
 ——便利、だけじゃ足りない。

 出立の準備は速い。ローデリクが風の数を数え、セレナが鐘を短く鳴らし、ミラが帳簿を布に包む。私は嗅覚が戻らない鼻の代わりに、糸の張りで空気を測った。
「異常なし」
「異常はいつも“なし”って顔をしてくる」
 エーレンが肩紐を締め、短く笑った。

 夕刻、商隊は王都道へ。車輪の振動が腹に重さを刻み、砂の跳ねが言葉を短くする。
「喉の詩人、もしくは喉の……」
「情報屋。カレルはどこまで信用していい?」
「喉が生きる範囲で。喉は嘘をつくが、声帯は滅多に嘘をつかない」
「難しい言葉」
「うん。だから、私が聞く」

 夜半、離宮の影が視界に現れた。森の端で止まり、ミラが表の帳面を差し出す。門番は祭の搬入で疲れており、目が“書式”しか見ない。
「献納品、塩・油・布。裏書きあり」
「通れ」
 車輪が石畳に乗り、音が変わる。冷たい音。建物の影が縫い目のように長く、三つ目の扉までの角度を教えてくれる。
 紅玉の狛犬が確かにいた。赤い目は火ではなく、夜の光を飲む冷たい赤。
 私は手袋の内側に薄板の鍵を潜ませ、柱の上の金具へ腕を伸ばす。嗅覚はないが、金属の“冷”は皮膚で拾える。
「開く」
 囁きと同時に、扉の内側の空気がわずかに動いた。油と紙と、誰かの靴の跡。
 灯りは最小限。箱が四、棚が二、机が一。目の高さに、黒。
 銀の綴じ紐。
 私は布袋にそっと落とし、輪郭を確かめる。
 重さは、ある。嫌な重さ。
「撤収」
 ミラが合図を出す。エーレンは入口で影と一体。ローデリクの鈴は鳴らない。
 戻る動線。角を二つ。狛犬の横。石段。——その時、空気が変わった。

「遅かったね」
 可笑しそうな声。
 背筋に沿って冷が走る。私の嗅覚が使えない夜に限って、匂いの良い人が現れる。
 通路の先、柱の陰から黒い外套。胸元の小印は控えめで、指先の動きは控えめで、笑いだけが“上等”。
「財務卿補佐レーヴェン様からの、お出迎えだって言えば喜ぶ?」
 男は笑い、肩をすくめる。
「黒帳簿は大切。だから、合鍵で開く“偽物”を作った。君たちが持っているのは、手触りだけが本物。中身は……空」
 ミラの息が止まり、エーレンの靴裏がわずかに軋む。
 私が袋から帳簿を抜き、指を入れる。紙の“繊維”が、軽い。軽すぎる。
「罠」
「そう。王都の最高の娯楽は“罠で踊る人間”を見ることだ」
 男が指を鳴らす。背後の影が二つ、三つ。
「やれ」

 動きは速かった。
 エーレンがひとりを壁に貼り付け、二人目の手首を返し、三人目の喉元に柄で当てる。私の視界は視界でなく、縫い目の拡大図に変わる。
 右の影が低く、左の影が重い。
 ミラが背を低くして帳面を抱え、私は輪を足元で広げる。
「第二式は無理。第一式で“揺らす”」
 囁き、足で輪の縁を踏む。空気が一段、沈む。
 影がわずかに遅れ、こちらの手の動きとずれる。ずれた一瞬に、エーレンがもう一人の顎を掬い上げた。
「退く!」
 ミラが叫ぶ。
 退路へ。角を二つ。石段。——その途中で、刃が一枚、横から飛んだ。
 エーレンの肩が引きちぎられたみたいに跳ね、血が暗闇で鈍く光る。
「っ……!」
 彼は声を飲み込み、片膝を落としながら、なおも前に出る。
「走れ」
「あなたが走る」
「俺は“止め”だ」
 ミラが彼の腰を抱え、私は片手で圧迫し、もう片手で輪を引き摺る。
 嗅覚がないのが悔しい。血の匂いで道が読めない。だから、音で読む。
 靴の擦れ、息の切れ、外套の布の高い鳴き。
 門へ。狛犬の横。石段。外気。馬車。
「乗って!」
 御者台のローデリクが叫び、鈴が初めて鳴る。
 車輪が悲鳴を上げ、夜気が胸に突き刺さる。
 背後で影が揺れ、誰かの笑いが石に当たって砕けた。
「追ってこない……?」
 ミラが振り返る。
 追ってこない。罠は“成功”で完了する。追う必要はない。
 黒帳簿は、偽物。
 勝ちは、こちらの傷。

「エーレン、見せて」
 私が圧迫を引き継ぎ、ミラが布を裂いて帯にする。
 傷は深いが致命ではない。刃の角度が浅く、筋肉に沿っている。
「喋らないで。息だけ」
「喋るほうが楽しいんだが」
「楽しいはあと。一晩、貸して」
「貸す」
 エーレンは笑い、顔をしかめ、唇の端を上げる。
 私は胸の欠片にそっと触れ、詠唱の“柔らかいほう”を指で結ぶ。痛みを鈍らせるだけ。治癒ではない。祈りの“添え木”。
「戻ったら、セレナの手を借りる。血の匂いがわからない私じゃ、無理」
「嗅げないの、まだ?」
「まだ。……でも、今夜は嗅がないでよかった。血の匂いに囚われると、冷静を縫えない」

 馬車は森を抜け、星の少ない空の下へ出る。風が頬を叩き、砂の匂いはない。音だけがある。心臓の打つ音、車輪の軋む音、遠くの梟の一声。
 偽物。罠。負傷。
 喉の詩人の歌は“鍵穴”で、開いた扉は“見せ物小屋”。私たちは観客ではなく、演目だった。
 喉の奥が焼ける。怒りの味が分からない。嗅げないから。
 だから、形で覚える。
 ——レーヴェン。
 名前の形は刃に似ている。
 その刃で、こちらの“地味”を薄く切り刻んで笑っていた。

「イザベラ」
 ミラが囁く。
「“地味で無害”——やめる?」
 私は答えなかった。
 代わりに、鏡の輪を膝の上で広げ、縁に針を通す。“地味”の縁取りを外すみたいに。
 地味は便利。
 無害は、毒。
 あの言葉を盾にして、私自身が“刃を鈍らせて”きた。
 鈍い刃は、誰かの皮膚に長く触れて、じわじわと痛む。
 それが正義だと信じるには、今夜の笑いは、あまりにも“良い声”だった。

「やめる」
 自分の声が、自分の胸骨で跳ねて戻ってきた。
「“地味で無害”は今日で終わり。明日からは“静かで致命的”」
 エーレンが息で笑う。
「物騒な裁縫屋だ」
「うん。糸は刃よりよく通る」
 ミラが頷き、拳を握る。
「看板も地味をやめる。いや、看板は地味のまま、中身だけ毒にする」
「あなたは天才」
「知ってる」

 夜が深くなる。村の灯りが遠くに見える。セレナの鐘が一度だけ鳴って、音が風に縫い込まれた。
 喉の詩人はどこかで次の歌を仕込んでいるだろう。
 だったら、こちらも歌を持とう。
 歌は刃になる。
 刃は歌になる。
 “鏡の聖域・第三式”の譜面を、指で探す。
 詠唱の向こう側に、レーヴェンの笑い声を置く。
 その笑いの形を覚える。
 次は、その形ごと“焼く”。
 嗅覚のない夜に、私は自分の影の匂いだけを確かに嗅いだ気がした。
 ——これは怒り。
 怒りは、今度こそ正しく使う。
 馬車が石を蹴り、星のない夜にひとつ、火花が走った。
 私は仮面の縁取りをほどき、膝の上で結び目を作り直した。
 静かで、致命的に。
 灰色は、刃の色にもなる。
 そう決めた夜だった。
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