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第4話 指を鳴らしたら、運命の火が消えた
しおりを挟む図書塔の夜は、音が少ない。
だから、心臓の音だけがやけに大きくなる。
ランプの灯りの下で本を閉じたとき、紙の匂いが肺の奥まで染みて、少しだけ落ち着いた。
エリオット=フェインは柱の影に半分溶けたまま、こちらを見ている。
目は笑っていないのに、口元だけが柔らかい。そういう人だ。
「書き換えるって、具体的には?」
彼が軽く首を傾げる。質問というより、確認。
私がどこまで本気か、測ってる。
リリアは机の上の本を指で揃えた。
辺境、税制、聖具。
生き残るための地図。
そして、明日のための武器。
「まず、泣かされるイベントを潰す」
リリアは淡々と答える。
「次に、追放の決定打を潰す。その過程で、必要なら王国そのものも――」
「物騒」
エリオットは笑わないまま言った。
「でも、嫌いじゃない」
「あなたは?」
リリアは彼を見た。
「観察するだけ?」
「基本はね」
エリオットは本を軽く持ち上げる。
「僕は、誰かの正義の味方をやると自分が気持ち悪くなるタイプなんだ。だから、君が自分で動くなら、見てる方が健全」
「健全って言葉、あなたの口から出ると皮肉に聞こえる」
「褒めてるんだよ」
エリオットはさらりと言って、影の方へ戻る。
「じゃ、また。君が次に“予定外”を起こす瞬間に」
「え、明日?」
「明日かもね」
彼は振り返らずに言った。
「この世界、予定外が起きると、すぐ反応するから」
扉が静かに閉まる。
残ったのは、ページをめくる音の残響だけ。
リリアは息を吐いて、窓の外を見た。
星は冷たく、けれど眩しい。
前の世界の夜は、スマホの光に負けて薄かった。
ここでは夜が勝っている。夜が、ちゃんと夜として存在している。
(明日……)
胸の奥で、嫌な予感が芽を出す。
予感じゃない。記憶だ。
ゲームのイベント表が、頭の中に勝手に開く。
――実技授業、魔法陣暴走“事故イベント”。
ここで私は焼ける役だ。
ミレイアが光で救う。
攻略対象が惚れ直す。
そして私は「助けられた惨めさ」を背負わされる。
(嫌だ)
嫌だという感情を、初めてちゃんと抱きしめる。
前の人生では、嫌だって思う前に「でも仕方ない」が来た。
仕方ない、で全部を飲み込んで、心臓だけが細くなっていった。
でも今は違う。
(嫌だ。だから、潰す)
リリアは机の上の本をもう一度開いた。
ユリウスから教わった“読み方”で、必要な箇所だけ刺す。
目的は一つ。事故を起こさせない。
『古式陣式の欠陥一覧と改修史』
ページを繰る。
古い制御式の弱点。出力が上がった瞬間、循環の戻りが追いつかず、中心に熱が溜まる。
溜まった熱は、爆ぜる前に“逃げ道”を探す。
逃げ道がなければ――人が焼ける。
逃げ道を作る。
つまり、逆相処理。
逆相処理は難しい。
でも、仕込みならできる。
暴走前の静かな状態で、符号を一つ反転させておく。
暴走し始めた瞬間に、指を鳴らす。
“鍵”を回すみたいに、切り替える。
紙の上の文字が、現実の手順に変換されていく。
脳が熱い。指先が冷たい。
この感覚、嫌いじゃない。
自分の人生を、自分の手で設計している感じがするから。
夜更け。
リリアはようやく目を閉じた。
夢に雨のブレーキ音が混じる。
でも、今日は飲まれない。
指先に、紙のざらつきが残っている。
知識のざらつきは、私を現実に繋ぎ止める。
翌日。
実技棟は、焦げた匂いと石の冷たさを混ぜたような空気だった。
廊下の先から「ボン!」という破裂音が聞こえ、誰かの悲鳴と笑い声が混ざる。
失敗は恥で、成功は拍手。そういう世界。
教室に入ると、床に巨大な魔法陣が描かれていた。
黒い線が幾何学模様を作り、中心には水晶が置かれている。
線の一部は擦れて薄く、いかにも“古い”感じがした。
教師が手を叩く。
「今日は古式魔法陣の起動と制御。班ごとに出力を一定に保ちなさい。焦るな。焦ると死ぬぞ」
最後の一言が重い。
笑いが起きるけど、その笑いは硬い。
冗談に見せた警告。つまり、事故は起きる。
班分けが掲示された。
リリアは紙を見た瞬間、心の中で舌打ちした。
――やっぱり。
リリア=エヴァンス。
ミレイア=ローゼン。
レオン=グレイヴ。
この三人。事故イベントの布陣。
まるで舞台が整えられたみたいに、ぴったり。
ミレイアがこちらへ来て、頬を紅くする。
「リリアさん! 同じ班だね」
「……うん」
リリアは微笑む。
ミレイアの笑顔は悪意がない。
だからこそ、悪意の代わりに世界の“都合”を運んでくる。
そこへレオンが来た。
騎士候補らしい堅い歩き方。背筋が真っ直ぐで、正義が服を着て歩いてるみたいだ。
「二人とも、よろしく頼む」
レオンは頭を下げる。
「俺、魔法は得意じゃない。もし出力を上げすぎたら止めてくれ」
その台詞、ゲームと同じ。
同じだから、怖い。
「止める」
リリアは即答した。
「止めるっていうか、止まるようにする」
レオンが眉を上げる。
「……どういう意味だ?」
「後で」
リリアは短く言って、足元の魔法陣へ視線を落とす。
教師が指示する。
「水晶へ魔力を流せ。三人で循環を作れ。誰かが独走したら陣が歪む。呼吸を合わせろ」
呼吸。
合わせる。
それができないから、このイベントは起きる。
リリアは立ち位置を確認し、さりげなく半歩ずれた。
中心から少し外れた場所。
仕込みがしやすく、巻き込まれにくい位置。
ミレイアが光を集める。
柔らかい。暖かい。
レオンの魔力は熱い。火に近い。
そしてリリアは、二人の間を繋ぐ“冷たい水”みたいに魔力を流す。
最初は順調だった。
水晶が淡く光り、線が発光する。
空気がぱちぱちと弾ける。
教師が頷いた。
「いいぞ、そのまま――」
レオンの肩が上がった。
真面目な人は、褒められた瞬間に力む。
もっと上手くやらなきゃ、と。
その焦りが、出力を上げる。
(来る)
リリアの背筋が冷える。
空気が熱くなる。
鉄の匂いが混ざる。
魔力が焼ける匂い。
魔法陣が唸った。
低い音。腹の底に響く音。
線が震え、水晶が激しく明滅する。
ミレイアが叫ぶ。
「レオンさん、少し抑えて!」
「分かってる!」
レオンの声が焦げる。
必死に制御しようとするほど、力が入る。
力が入るほど、暴走する。
教師が怒鳴る。
「出力を落とせ! 循環が崩れている!」
中心から熱風が吹き上がり、髪が舞う。
制服のリボンが跳ねる。
床の線が赤く染まり、熔けた金属みたいに輝いた。
このままじゃ爆ぜる。
爆ぜたら、誰かが焼ける。
そしてその誰かは――本来、私。
(嫌だ)
リリアは一歩前へ出た。
熱が頬を叩く。喉が乾く。
でも、足は止まらない。
仕込んだ符号に意識を向ける。
“鍵”を回す準備。
リリアは指を鳴らした。
パチン。
小さな音。
でも、魔法陣の外周の一部がふっと暗転する。
線が反転し、逆相へ切り替わる。
魔力の流れが“逃げ道”を見つける。
次の瞬間。
魔力が、静かに抜けた。
熱い鉄の匂いが消える。
代わりに、涼しい雨上がりの匂いがした。
冷えた土、濡れた石、澄んだ空気。
教室の温度が一段下がったように感じる。
水晶の光が安定し、唸りが止まる。
静寂が落ちる。
耳がキーンとなるほどの静けさ。
「……え」
誰かが呟いた。
教師が口を開けたまま固まっている。
レオンがゆっくりリリアを見る。
汗で濡れた額、驚きで開いた目。
「……今の、君が?」
リリアは肩で息をしながら頷く。
「うん。危ないの嫌いだから」
レオンは唇を噛んだ。
悔しさと安堵が混ざった顔。
「俺が……やらかしたのに」
「焦っただけ。真面目なのは悪くない」
リリアは淡々と言う。
「でも、真面目な人ほど“自分がなんとかしなきゃ”って思い込みで視野が狭くなる。狭くなると、事故る」
レオンはしばらく黙って、深く頭を下げた。
「……すまない。助かった」
ミレイアが胸を押さえて、ほっと息を吐く。
そしてリリアを見て、目を潤ませた。
「リリアさん……すごい……。私、何もできなかった……」
その声には尊敬と、ほんの少しの焦り。
“私が救うはずだった”という喪失感。
リリアは焦りを責めない。
でも、焦りに飲まれないように言葉を選ぶ。
「できなかったんじゃない。必要がなかっただけ」
リリアは柔らかく言う。
「あなたの光は、今後もっと大事な場面で必要になる」
ミレイアが息を飲む。
その言葉が慰めではなく、未来への指差しになるように。
授業が終わると、噂はすぐ走った。
廊下で、後ろから小声が降ってくる。
「見た? リリアが止めた」
「ミレイアじゃなかった……」
「怖いけど、かっこよくない?」
視線の中に、ひときわ重いものが混ざっていた。
遠くの廊下の曲がり角。
王太子セイル=アルヴェインが立っている。
彼は誰とも話さず、こちらを見ていた。
微笑みがない。
王太子の顔をしたまま、目だけが焦っている。
――物語が崩れた。
その焦り。
セイルはすぐに視線を逸らし、取り巻きと共に去っていった。
背中が遠ざかる。
その背中は、完璧な王子の背中のままなのに、どこか脆い。
(あなたも、台本の中にいるんだ)
放課後。
リリアが寮へ戻ろうとすると、冷たい声が追いついた。
「リリア=エヴァンス」
ユリウス=クロフォード。
黒髪、冷たい目。
けれど今日は、その冷たさに熱が混じっている。興奮に近い。
「偶然か?」
直球。
疑いというより、確認。
理解したいという欲。
リリアは言葉を選ぶ。
ここで弱く出れば、また“下”に戻される。
強く出すなら、覚悟して強く出す。
「偶然に見えるなら、あなたの観察眼はその程度」
ユリウスの眉がぴくりと動く。
「……言うな」
「言う」
リリアは淡々と続ける。
「私は事故が嫌い。だから準備した。あなたは準備してない人間を見下すけど、準備した人間まで偶然扱いするのは失礼」
胸の奥が熱い。
自分を守る言葉を、ついに持てたことが嬉しい。
それは刃で、盾で、私の背骨になる。
ユリウスは短く息を吐いた。
「……逆相処理だな」
「知ってるんだ」
「理論は知っている。だが、実際に仕込む学生は初めて見た」
ユリウスの声は低い。
「放課後、図書塔で説明しろ」
「命令?」
リリアは首を傾げる。
「……頼みだ」
ユリウスは言い直した。
その言い直しが、彼の誠実さだった。
「気が向いたらね」
リリアは言って、ユリウスの横をすり抜けた。
意地悪じゃない。ただ、主導権を渡したくない。
---
放課後の図書塔は、昼間よりもずっと静かだった。
ランプの灯りが紙の埃を照らし、棚の影が床に長く伸びている。
ユリウスは椅子に座らず、私のノートを半ば奪うみたいに覗き込んだ。
「逆相処理の起点、ここだな」
指先が、迷いなく該当箇所を叩く。
「再現性は?」
低い声で、ただそれだけ聞かれる。
「ある」
私が答えると、ユリウスは一瞬だけ黙り、
それから小さく頷いた。
「……ならいい。次は、隠す気はあるか」
「必要なら」
そう答えると、彼は満足したように視線を外した。
それが、彼なりの評価だと分かった。
夜。
部屋で髪を梳いていると、ノックがした。
コン、コン。
控えめで、怯えた音。
扉を開けると、ミレイアが立っていた。
廊下の灯りが彼女の髪を淡く照らし、目が不安で揺れている。
昼の笑顔が、薄い。
「リリアさん……今、少しだけいい?」
「うん、どうぞ」
ミレイアは部屋に入り、椅子に座る前に立ち尽くした。
指先を絡め、言葉を探す。
「……リリアさん、最近……強いですよね」
強い。
その言葉の裏に、鎖が潜むことがある。
“強いから大丈夫”
“強いなら我慢して”
そんな風に。
ミレイアの声が震える。
「私……置いていかれそうで。みんなの目がリリアさんに向いて……。今日も、本当なら、私が……助けるはずだったのに」
不安は善意の形をしているだけの支配かもしれない。
でもミレイアは、支配したいわけじゃない。
ただ、自分の存在の根っこが揺れて怖いだけだ。
リリアは近づき、ミレイアと同じ目線になるように腰を下ろした。
夜の静けさの中で、彼女の呼吸が浅いのが分かる。
「置いていかないよ」
リリアは優しく言う。
優しさは、相手を縛るためじゃなく、ほどくために使う。
「あなたはあなたの道を歩けばいい。でも、私の道は私が決める」
ミレイアの唇が震えた。
泣きそうなのを堪える顔。
光の中心の顔じゃない。
ただの、怖がっている女の子の顔。
「……私、どうしたらいいの?」
リリアは少し考えた。
答えを簡単に渡すと、また私が“救う役”になる。
それも違う。
だから、リリアはこう言った。
「まず、怖いって認めていい。怖いのに笑わなくていい」
そして、少し間を置く。
「それから、あなたが本当にしたいことを、自分で選んで。私のためじゃなく、誰かのためでもなく」
ミレイアは黙って、何度か瞬きをした。
やがて、小さく頷く。
「……うん。分かった」
それから、少しだけ笑う。
弱い笑顔。自分のための笑顔。
「でもね、リリアさん」
ミレイアが目を上げる。
そこに、尊敬の光が混ざっていた。
「今日のあなた……すごく、かっこよかった」
リリアは照れくさくて、視線を逸らした。
「かっこよくなくていいよ。私はただ……生き残りたいだけ」
ミレイアは頷いて、帰っていった。
扉が閉まると、部屋は静かになった。
静けさの中で、リリアは窓を開ける。
夜風が頬を撫で、遠くで噴水の音が聞こえる。
昼間の熱い鉄の匂いは、もうない。
代わりに、雨上がりの澄んだ空気が胸に入る。
――また一つ、折れた。
私が燃えるはずだった事故イベント。
ミレイアが救うはずだった舞台。
その前提が、指を鳴らしただけで消えた。
でも、消えた火の代わりに、別の火が灯る。
王太子の焦り。
ユリウスの探究心。
ミレイアの不安。
レオンの悔しさ。
全部が、次の波の前触れだ。
リリアは指先を見た。
ほんの少し赤い。魔力の熱が残っている。
痛い。でも、生きてる痛みだ。
「……いいよ」
小さく呟く。
夜がそれを飲み込む。
「もっと、軋ませてやる」
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