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第5話 花冠の舞踏会、笑い声を止める刃
しおりを挟む春の学園祭は、匂いからして甘い。
焼き菓子の砂糖が焦げる香り。
花壇の薔薇が風に揺れて放つ、濃い香油みたいな匂い。
それに、普段は隠している欲――「選ばれたい」の匂いが、今日だけは堂々と廊下を歩いていた。
学園中が飾り立てられている。
校舎の柱にリボン。
中庭の噴水には花びら。
生徒たちの制服には、刺繍の入った腕章。
笑い声が高く、軽く、どこか浮ついている。
そして夜。
学園祭の最終日だけに許される“花冠の舞踏会”。
キャンドルの光が揺れ、天井から吊られたガラスの飾りが星みたいにきらめく。
弦楽器の旋律が、足元の石畳から胸の奥へ這い上がってくる。
誰かと踊れば、噂が生まれる。
噂が生まれれば、物語が進む。
――乙女ゲームの夜だ。
リリア=エヴァンスは、鏡の前で息を吐いた。
ドレスは淡い青。夜の空をひとつすくって布にしたみたいな色。
生地は軽く、裾には細い銀糸が走っている。
腰元で結ばれたリボンが、背中で小さく揺れる。
「よくお似合いです、リリア様」
侍女のエマが髪を整えながら言う。
彼女は今日も真面目で、だから安心する。
「似合う、って言葉、便利だよね」
リリアは鏡の中の自分を見つめた。
「似合うって言われたら、少しだけ“ここにいていい”気がする」
エマが手を止める。
そして、静かに言った。
「リリア様は、最初からここにいていい方です」
「……ありがとう」
その言葉は、胸の奥で温かくなった。
でも、その温かさに寄りかかりたくはない。
寄りかかれば、また誰かに支えられることで生き延びる癖が戻る。
リリアはドレスの裾を軽く持ち上げ、歩く練習を一度だけした。
踊るためじゃない。
逃げるためでもない。
“歩く”ためだ。自分の足で。
――今夜、舞踏会。
ゲームではここで私は孤立する。
カミラが噂を流し、私のドレスを破り、笑いが生まれ、ミレイアが庇い、セイルが正義の顔で糾弾する。
そして私は泣き、惨めになり、ミレイアが輝き、攻略対象たちの好感度が上がる。
台本は知ってる。
知ってるからこそ、今夜は“孤立しない”。
ただし、誰にも寄りかからない。
会場へ向かう廊下。
花の香りが濃くて、少し頭がぼうっとする。
曲がり角で、ソフィアが手を振ってきた。
「リリア! 今日、綺麗! え、やば、ほんとに」
「ありがとう。ソフィアも可愛い」
ソフィアは淡い桃色のドレスで、頬が上気している。
彼女は嬉しそうに笑い、そして小声で言った。
「ねえ……今日、カミラ様たち、なんか変だよ。こっち見て笑ってた」
「そう」
リリアは淡々と頷いた。
心臓は早い。でも、怖さは違う。
「仕掛けてくる」
「え、やだ……どうするの?」
「受けて立つ」
ソフィアは目を丸くした。
「受けるって……拳で?」
「言葉で」
リリアが言うと、ソフィアは「こわ」と笑って、でもすぐ真剣になった。
「でも、無理しないでね。なんかあったら――」
「ありがとう。でも、助けに来なくていい」
リリアはソフィアの手を軽く握った。
「あなたは、見てて。覚えてて。あとで嘘にされないように」
ソフィアは一瞬戸惑って、それから強く頷いた。
「うん。見る。ちゃんと見る」
会場へ入ると、光が降ってきた。
キャンドルの炎が無数に揺れ、ガラス飾りが反射して、空気がきらきらしている。
その光の中心に――やっぱり、ミレイアがいた。
花冠を被った正ヒロイン。
微笑むだけで周囲の視線が集まる。
彼女の隣には王太子セイル=アルヴェイン。
完璧な笑顔で、完璧な手を差し出し、完璧に人々を魅了している。
そして、周囲には攻略対象たち。
ユリウスが壁際でグラスを持ち、誰とも話さずに全体を見ている。
レオンは騎士候補らしく、警備のように立ち回りながら、時々ミレイアを見ては目を逸らしている。
――ゲームの盤面。
でも、私は駒じゃない。
ミレイアが気づいて、こちらへ小走りに近づいてくる。
花冠が揺れ、彼女の髪が光を弾く。
「リリアさん! 来てくれたんだね。すごく綺麗……」
「ミレイアも、似合ってる」
ミレイアは少し照れて、でもすぐ不安そうに目を揺らした。
「今日……大丈夫? 最近、いろいろあったから……」
「大丈夫」
リリアはすぐに言い切らず、少し間を置いてから続けた。
「大丈夫にする」
ミレイアはそれを理解できない顔をした。
大丈夫って、誰かが守ってくれる状態のことだと思っているから。
でも、私は違う。大丈夫は、自分で作る。
その時、背中に冷たい視線が刺さった。
振り返ると、カミラ=ヴァルツが取り巻きと共に立っている。
ドレスは深い赤。
笑顔は甘く、目は毒。
カミラは近づいてきて、わざとらしく手を胸に当てた。
「まあ、リリアさん。今日も随分と……“頑張って”いらっしゃるのね」
「頑張るのは悪いこと?」
リリアは淡々と返す。
カミラの笑顔が少し硬くなる。
周囲の令嬢たちが息をひそめる。
「悪いとは言ってないわ。ただ……似合わない努力って、痛々しいでしょう?」
「痛々しいのは、努力を笑う方だよ」
カミラの目が細くなる。
取り巻きが「カミラ様……」と囁く。
ミレイアが間に入ろうとした瞬間、リリアは小さく首を振って止めた。
(庇わなくていい)
庇われると、また台本が始まる。
カミラは一歩引いて、にっこり笑った。
「そう。……じゃあ、楽しんで」
そして、するりと群衆の中へ消える。
消え方が、舞台裏の人間のそれだった。
仕掛ける準備が整った人の動き。
弦楽器がテンポを上げ、ダンスの時間が始まる。
生徒たちが次々に手を取り合い、輪が広がる。
そこに、当然のように“選択肢”が発生する。
セイルが、こちらに視線を寄こす。
近づいてくる気配。
このタイミングで声をかければ、ゲームでは「王太子とのダンス」が発生する。
噂が跳ね、カミラが嫉妬し、事件が起きる。
(来ないで)
そう思った瞬間、セイルは足を止めた。
まるで見えない壁に阻まれたみたいに。
彼は私を見て、微笑もうとして、微笑めなかった。
――焦ってる。
物語の中心が、中心じゃなくなりつつある。
ユリウスがこちらを見ていた。
視線だけで「今日は何を壊す?」と問うような目。
レオンは、ダンスの輪の外でこちらを気にしている。
ミレイアは、誰かに誘われて踊り始めるのに、時々こちらを振り返る。
孤立しない。
でも、寄りかからない。
リリアはソフィアと軽く踊った。
ぎこちなくても、笑って誤魔化さない。
転びそうになっても、自分の足で踏ん張る。
それだけで、胸の奥が少しずつ強くなる。
そして――来た。
背中に、布が引っ張られる感覚。
ほんの一瞬。
誰かが通りすがりに触れただけ、と言い張れる程度の軽さ。
でも、リリアは分かった。
これは“偶然”じゃない。
次の瞬間、音がした。
ビリッ。
嫌な音。
布が裂ける音は、肌を裂く音に似ている。
背中の腰あたり。リボンの下。
冷たい風がそこに触れて、ぞくりとした。
周囲の笑い声が、一拍遅れて噴き出す。
「え、何あれ」
「ドレス、裂けて……」
「うわ、恥ずかし……」
視線が集まる。
熱が頬に上がる。
心臓が喉まで跳ねる。
ゲームなら、ここで泣く。
震えて、隠れて、ミレイアに庇われる。
そして、セイルが「なんて酷いことを」と糾弾し、正義の顔で周囲を黙らせる。
私は救われた気分になる。
でも、本当は救われていない。
“被害者”として固定されただけ。
(泣かない)
リリアは背中の裂けた部分を手で押さえた。
手のひらに、布の端がささくれみたいに刺さる。
痛い。
でも、その痛みが私を現実に繋ぎ止める。
ミレイアが駆け寄ってくる。
顔が真っ青だ。
「リリアさん! 大丈夫!? すぐ上着を――」
「いい」
リリアはミレイアの手を、やんわりと止めた。
拒絶じゃない。鎖を外す動き。
「庇わなくていい。……ここで終わらせる」
ミレイアの目が揺れる。
分からない、でも止められない。そんな顔。
セイルが近づいてきた。
王太子の歩き方。
場を制圧する歩き方。
彼は周囲を見回し、声を張ろうとした。
「誰が――」
その声が正義の剣になる前に、リリアは一歩、舞踏会の中央へ出た。
弦楽器の音がふっと遠ざかる。
人々の足音が止まる。
息の音が聞こえるほど、場が凍る。
リリアは裂けた部分を押さえたまま、まっすぐ言った。
「私の服を壊した人がいる」
声は震えなかった。
震えそうになったのを、腹の底で押さえ込んだ。
泣き声じゃなく、言葉で。
「笑ってる人も、見て見ぬふりした人も、全員“加担者”だよ」
空気が、さらに硬くなる。
誰かが喉を鳴らした。
誰かが視線を逸らした。
誰かが、笑いを飲み込んで咳をした。
カミラの位置を探す。
彼女は取り巻きの影に隠れるように立っている。
笑ってない。
でも、目は「計画通り」と言っている。
セイルが口を開こうとする。
リリアは、その前にセイルを見た。
「ねえ、王太子殿下」
呼びかけると、セイルの瞳がこちらを捕まえる。
驚き。苛立ち。焦り。
それらが完璧な仮面の内側でぶつかっている。
「正義を語るなら、まず“誰がやったか”じゃなくて」
リリアは一拍置いた。
その一拍が、刃を研ぐ音みたいに響く。
「“なぜ平気で笑えるか”を考えて」
セイルの顔が、初めて崩れた。
完璧な王太子の微笑みが、ほんの一瞬だけ“人間の困惑”に変わる。
「……リリア、君は――」
「私は、泣かない」
リリアは短く言った。
「泣くことで誰かの正義が気持ちよくなるの、もう飽きた」
ざわめきが起きる。
ミレイアが息を飲む。
ユリウスの目が細くなる。
レオンが拳を握る。
ソフィアが、涙目でこちらを見ている。
そして、カミラの唇がわずかに震えた。
リリアは深呼吸した。
涙は出ない。
代わりに、胸の奥で火が灯っている。
「今日、ここで終わりにする」
リリアは言い切った。
「誰かを傷つけて笑うのは、上品な遊びじゃない。弱さの証明だよ」
それだけ言って、リリアは踵を返した。
誰も止めない。
止められない。
止めたら、自分の加担が露見するから。
会場を出ると、夜風が頬を叩いた。
冷たい。
でも、気持ちいい。
涙が出そうになるくらい、澄んでいる。
庭園の薔薇はまだ蕾で、月明かりに銀色の輪郭を浮かべている。
噴水の音が、遠くで鳴っている。
舞踏会の音楽は、扉の向こうでまだ続いている。
でも、私はその輪の中に戻らない。
背中の裂けた部分が、風に触れて痛い。
その痛みが、私の勝利の証みたいだった。
「この世界、私を泣かせる前提で作られてる」
リリアは空を見上げた。
星が冷たく光る。
前の世界で見た信号の光とは違う。
誰にも指示されない光。
ただ、そこにある光。
「……なら、前提ごと壊す」
言葉が夜に溶けていく。
でも、溶けたまま消えない。
土に染み込んで、根になる。
明日から、噂は広がる。
「リリアは生意気だ」
「正義を否定した」
「王太子に楯突いた」
「でも、あれは正しかった」
色んな声が渦になる。
その渦は、私をまた削ろうとする。
でも今日は、削られない。
私は、私のまま立っていた。
誰にも寄りかからず、誰にも踏み台にされず。
舞踏会の扉の向こうで、物語が軋む音がした。
甘い音楽の下で、確かに何かが割れた。
“選ばれない役”を拒否したことが、全員の心に小さな傷跡として残る。
それは痛みであり、同時に――この世界が変わり始めた証拠だった。
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