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第7話 薔薇の香りは甘いまま、言葉だけが刺さる
しおりを挟む春の終わりは、空気の粒が細かい。
朝の風が冷たさを残しているのに、昼の陽射しは肌の奥まで入り込んでくる。
学園の庭園は、そんな季節の中間みたいな匂いがした。
若葉の青さ、湿った土、そして――薔薇。
噴水のそばの薔薇は、花冠の舞踏会の飾りに使われたせいか、少し疲れた顔をしている。
それでも香りだけは強く、甘く、近づくほど喉の奥がむず痒くなる。
甘い香りは、時々、毒の匂いと区別がつかない。
リリア=エヴァンスは、昼休みの時間をずらして庭園に出ていた。
人の多い場所では、耳に噂が刺さる。
噂はもう、音じゃなくて針だ。
「不遇ヒロインが反逆した」
「彼女は何かを知ってる」
「王太子に楯突いたのに、なぜ処罰されない?」
「ユリウス様と話していた」
「怖い」
怖がられるのは、痛い。
でも、嫌われるよりはましだ。
嫌われると相手は私を“理解した気”になる。
怖がられると、相手は理解できずに距離を取る。
距離があるうちは、まだ殴られない。
薔薇の根元の石に腰を下ろし、リリアは小さく息を吐いた。
膝の上には、薄いメモ帳。
紙は羊皮紙じゃなく、学園が支給する簡易の紙束。
最近のリリアはこれを常に持っている。
思考が暴走しそうになったら、紙に落とす。
紙に落とすと、脳が少し静かになる。
(聖具庫の整備記録改竄)
エリオットの言葉が、ずっと胸の中で重たい石みたいに沈んでいる。
それが浮上してくるたび、呼吸が浅くなる。
――終盤の“聖具破損事件”。
私が追放される決定打。
あれが今、もう動いている。
(犯人は大人。学園の外。王城の中)
書いて、線で繋げて、矢印を引く。
点が線になるほど、怖さは増える。
怖さが増えるほど、目は冴える。
冴えた目は、世界の綺麗さの裏側にある汚れを拾ってしまう。
背後から、足音がした。
石畳を踏む音。
軽くない。
それでいて、騎士の重さとも違う。
“慣れた権力”の音。
リリアは振り返らず、薔薇の葉を一本、指で撫でた。
葉の縁は少し硬く、産毛が指先に引っかかる。
棘がすぐそばにあることを、触感で思い出させてくる。
「こんなところにいたのか」
声がした。
甘い薔薇の香りの中で、やけに冷える声。
王太子セイル=アルヴェイン。
リリアはゆっくり顔を上げた。
彼は一人だった。
取り巻きも侍従もいない。
だからこそ、“偶然を装った接触”だと分かる。
セイルの制服は完璧に整っている。
髪も、指先も、微笑みも。
人々の理想の王子が、そのまま現実に降りたみたいな存在。
なのに今、その微笑みの奥が少しだけ硬い。
「殿下」
リリアは立ち上がらないまま、軽く頭を下げた。
立ち上がれば“敬意”が形になる。
形になった敬意は、利用される。
だから、最低限。
セイルは薔薇の茂みに近づき、距離を詰める。
香りがさらに濃くなる。
リリアは一歩も下がらない。
下がった瞬間、空気が“追う側と追われる側”に固定される。
「君は、どこまで知っている?」
唐突だった。
挨拶も、雑談もない。
それだけで分かる。
彼は焦っている。
優しさはルート条件で発動する“仕様”。
でも今の彼は、仕様を越えている。
それは“個人の感情”じゃなく、“王太子の危機感”だ。
リリアは即答しなかった。
答えるほど、相手の土俵に入る。
風が吹いて、薔薇の花びらが一枚、地面に落ちた。
その落ち方が、やけにゆっくりで、時間が伸びたみたいに見える。
「……殿下こそ」
リリアはようやく口を開いた。
声は低く、落ち着いている。自分でも驚くほど。
「どこまで知らないふりをしてるの?」
セイルの瞳が、すっと硬くなる。
完璧な王子の仮面が、ほんの少しだけずれる。
“知らないふり”という言葉が、彼の鎧の隙間を突いた。
「君は危険だ」
セイルの声は静かだった。
静かなほど、重い。
「自分の立場を理解しろ」
立場。
その単語が、胸の奥で苦い泡を立てる。
前の世界でもよく聞いた。
「君の立場を考えろ」
「空気を読め」
「波風を立てるな」
立場を理由に、黙らされてきた。
リリアはセイルを見上げた。
薔薇の影が彼の頬に落ちる。
その影が、王子の顔を少しだけ“人間”に見せていた。
「理解してる」
リリアは言う。
「だから危険なんだよね。あなたたちにとって」
セイルの唇が、わずかに歪む。
怒りではない。
苛立ちと、焦りと、そして――恐れ。
「君が何を知っているかで、君の未来が変わる」
「私の未来は、私が変える」
「……それができると思っているのか」
「できるかどうかじゃない。やるかどうか」
セイルは一瞬黙った。
薔薇の香りが、二人の間の空気を甘く汚す。
セイルは、低い声で言った。
「君は、王国にとって不確定要素だ。君が動けば、秩序が乱れる」
「秩序って便利だね」
リリアは軽く首を傾げる。
「誰かを黙らせる時に使う言葉だ」
セイルの目が細くなる。
王太子の目ではなく、“管理者”の目。
管理者は、管理できないものを嫌う。
「君は賢い。だからこそ言う。黙れ」
その命令は、刃だった。
薔薇の香りの中で、金属音みたいに冷たい。
リリアの胸が一瞬、痛む。
痛むのは、怖いからじゃない。
昔の自分が、条件反射で縮こまりそうになったから。
この世界でも、結局同じことを言われるのか、と。
でも、縮こまらない。
リリアは、ゆっくり笑った。
余裕の笑いじゃない。
「私はもう、縮こまらない」と自分に言い聞かせるための笑い。
「殿下。黙れって言う人が、本当に守りたいものって何?」
「王国だ」
セイルは即答した。
その即答が、正しいから怖い。
セイルは本当に王国を背負っている。
背負っているからこそ、平気で誰かを切り捨てる。
それが王族の“正しさ”。
「じゃあ、王国のために」
リリアは一歩も動かずに続けた。
「私は邪魔?」
「……邪魔だ」
セイルの答えは短かった。
短いほど、真実だ。
リリアは息を吐いた。
薔薇の香りが肺に甘く刺さる。
甘いものは、吐き出しにくい。
「なら、なおさら私は動く」
「君は――」
セイルが言いかける。
その声には、苛立ちだけじゃなく、困惑が混じっている。
“言うことを聞かない駒”を初めて見た人の顔。
「私は駒じゃない」
リリアは先に言った。
「あなたが管理できないなら、それはあなたの問題。私の問題じゃない」
沈黙が落ちる。
噴水の水音だけが、遠くで鳴っている。
その沈黙の向こうで、小さな息の音がした。
リリアが視線を動かすと、庭園の回廊の影に、ミレイアが立っていた。
花冠はない。普段の制服。
けれど顔色が悪い。
胸を押さえて、息をするのが苦しそうだった。
――聞いていた。
ミレイアは“物語の中心”にいるのに、中心であることの重さに息ができなくなり始めている。
中心の人間は、いつも笑顔でいなきゃいけない。
優しく、正しく、希望で。
そうやって世界が彼女を押し上げるほど、彼女の足元は不安定になる。
セイルもミレイアに気づいた。
一瞬だけ表情が揺れる。
王太子としての仮面が、彼女の前では“優しい王子”の仮面に切り替わりそうになる。
でも、切り替わる前に、リリアが動いた。
リリアはミレイアの方へ歩き、距離を詰める。
セイルに背中を向けるのは危険。
でも、ミレイアの呼吸の浅さはもっと危険だった。
「ミレイア」
呼ぶと、ミレイアがびくりと肩を震わせた。
目が潤んでいる。
泣きそうで、でも泣けない顔。
「……ごめんなさい」
ミレイアが小さく言った。
「聞くつもりじゃなかったの。でも……殿下が庭園に向かったって、噂で……」
噂。
私の行動も、殿下の行動も、全部噂になる。
それがこの世界の残酷さだ。
リリアはミレイアの手を取った。
温かい。
生きている手の温度。
それだけで、彼女の呼吸が少しだけ深くなる。
「あなたが悪いわけじゃない」
リリアは、ゆっくり言葉を選ぶ。
優しさで包むだけだと、また彼女を“守られる役”に戻してしまう。
でも、突き放すと折れる。
だから、ほどよい温度で真実を刺す。
「でも、あなたが守られてることは事実」
ミレイアの瞳が揺れる。
否定したいのに否定できない揺れ。
リリアは続ける。
「……守られることに、慣れすぎないで」
ミレイアの唇が震える。
泣きそうな笑顔が浮かぶ。
笑顔でいようとする癖が、ここでも出る。
でもその笑顔は、昨日より少しだけ弱くて、少しだけ本物だった。
「……うん」
ミレイアは小さく頷いた。
「私、怖いのに……いつも笑ってる。リリアさんみたいに、言えない」
「言えるようになる」
リリアは手を離さずに言った。
「私が教えるんじゃない。あなたが、自分で覚える」
ミレイアが目を瞬かせる。
その瞬きは、涙を押し戻すための瞬きだった。
背後で、セイルが静かに息を吐いた。
怒りじゃない。
焦りでもない。
もっと厄介なもの。
――興味。
王太子セイルは、初めてリリアを“制御できない存在”として意識した。
そして、制御できないものへの興味は、管理者の心ではすぐ執着に変わる。
「リリア」
セイルが名前を呼ぶ。
その呼び方が、さっきより少しだけ柔らかい。
柔らかいのに、逃げ道を塞ぐ柔らかさ。
リリアは振り返らない。
振り返れば、視線を絡め取られる。
絡め取られた視線は、鎖になる。
「殿下」
リリアは背中越しに言った。
「あなたが守りたいものが王国なら、私は私を守る。どっちも本気。だから、ぶつかるだけ」
セイルが沈黙する。
薔薇の香りが、二人の間を埋める。
甘い香りの中で、言葉だけが冷たい。
ミレイアが小さく息を吐いた。
少しだけ楽になったみたいに。
そして、かすれた声で言う。
「……殿下。リリアさんは、悪い人じゃないです」
セイルはミレイアに視線を向ける。
その瞬間だけ、彼の仮面が“優しい王子”に戻る。
でもすぐに戻る。王太子に。管理者に。
「分かっている」
セイルの声は低い。
「だからこそ、危険なんだ」
その言葉が、私の背中に刺さった。
褒め言葉の形をした警告。
“賢いから危険”は、“黙っていろ”と同じ意味だ。
リリアはミレイアの手を軽く握り直し、歩き出した。
庭園の出口へ。
逃げるためじゃない。
ここに留まっても、会話は進まない。
進むのは、セイルの支配だけだ。
歩きながら、リリアは思う。
恋愛の火種が生まれた。
でもそれは、甘い恋じゃない。
管理者の執着という、火事に近い火種。
セイルはきっと追ってくる。
言葉で、制度で、噂で。
それでも、私は折れない。
ミレイアが小さな声で言った。
「リリアさん……殿下と話すの、怖くなかった?」
「怖かったよ」
リリアは正直に答えた。
「でも、怖いから黙るのは、もうやめた」
ミレイアは泣きそうな顔で笑った。
その笑顔はまだ頼りない。
でも、頼りない笑顔は、強い笑顔よりずっと人間的で、好きだった。
「私も……やめたい」
ミレイアが呟く。
「守られるだけの私、やだ」
リリアは頷いた。
「それでいい」
庭園の薔薇が風に揺れて、花びらがもう一枚落ちた。
落ちる音はしないのに、胸の中で“何かが落ちた”感覚がした。
台本の一部。
中心に縛り付ける鎖の一部。
そして、背後からまだ視線を感じる。
振り返らなくても分かる。
セイルがこちらを見ている。
制御できない存在に、初めて出会った目で。
薔薇の香りは甘いまま。
でも、甘いものほど焦げやすい。
この世界の恋は、たぶん――燃えやすい。
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