乙女ゲームに転生したら不遇ヒロインでしたが、真エンドは自分で選びます

タマ マコト

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第8話 正しさの置き場所と、偽物の香水瓶

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騎士団の訓練場は、朝の匂いが濃い。

土の湿り気。
鉄の汗。
乾いた藁の匂い。
それに、剣が風を切る音が混ざって、空気が硬くなる。
ここは“正しさ”が形を持つ場所だ。
腕力と規律と忠誠。
目に見える正しさは、簡単に人を安心させる。
そして同じくらい簡単に、人を踏み潰す。

リリア=エヴァンスが訓練場にいるのは、本来なら不自然だった。
貴族令嬢が、泥だらけの場所へわざわざ来る理由なんてない。
でも、理由はある。

レオン=グレイヴがいるからだ。

彼は騎士候補として、時々学園の訓練場で団の補助訓練を受けている。
そしてリリアは、聖具事件の匂いを追うために“武力の動き”も把握したかった。
政治は机の上だけで起きない。
兵の動きは、王国の呼吸だ。
呼吸が乱れると、事件は起きる。

見学席の木柵にもたれ、リリアは黙って訓練を見ていた。
剣が交わる音。
盾が鳴る音。
指示が飛ぶ声。
その中に、レオンの声がある。

「足を止めるな! 呼吸を合わせろ! 背中を預けろ!」

背中を預けろ。
その言葉が、どこか遠い。
前の人生で、私は背中を預けたことがない。
預ける前に、預ける価値があるかどうかを相手に判断されてきたから。

訓練が一区切りついたとき、場の空気が変わった。
汗を拭う兵士たちの間に、ざわめきが走る。
視線が一箇所に集まる。

年配の教官が、若い下級兵に詰め寄っていた。
顔が赤い。声が大きい。

「お前のせいで隊列が乱れた! 周りがどれだけ迷惑したと思っている!」
「申し訳ありません! ですが、隊列の乱れは――」
「言い訳するな! 腕立て百回、追加で走り込み三周だ!」

若い兵士の肩が落ちる。
周囲の空気が固まる。
誰も口を挟まない。
挟めない。階級の空気が喉を塞いでいる。

リリアは、その兵士の顔を見た。
目の下の影。唇の乾き。
必死で耐えている顔。
そして、どこか納得していない顔。

(あれ、理不尽だ)

直感で分かった。
理不尽は匂いがする。
責任の押し付けの匂い。
前の人生で嗅ぎ飽きた匂いだ。

レオンが教官に近づく。
彼は言い淀んだ。
正義の人間ほど、上下関係の中で正義を言いにくい。
正義は上の許可がないと出せない、みたいな変な空気がある。

「教官、その罰は――」
「グレイヴ候補生。口を挟むな」
教官は一瞥でレオンを黙らせた。

レオンの拳が、手袋越しにぎゅっと握られる。
悔しさが音になっている。
でも彼は動けない。
動けば、正義ではなく反抗になる。

リリアは柵から離れ、土の上へ一歩踏み出した。
靴が泥を踏む感触。
嫌だ。ドレスじゃなくてよかったと思う。

「失礼します」

声を出すと、視線が一斉にこちらへ向く。
“誰?”
“なんで令嬢が?”
そんな驚きのざわめき。

教官が眉をひそめる。

「貴族令嬢が訓練場に何の用だ」
「見学です」
リリアは淡々と言う。
「でも今、罰の根拠が曖昧に見えたので」

教官の顔が険しくなる。

「曖昧だと?」
「はい」
リリアは視線を逸らさない。
「隊列が乱れた原因は、この兵士一人のミスではなく、前列の合図が遅れたことと、左端の間隔が詰まりすぎたことの複合に見えました。罰が必要なら、全員に均等に課すべきです」

周囲が息を飲む。
理路整然。
そして、第三者の言葉。
第三者は、しばしば強い。
利害が絡まないふりができるから。

教官が鼻で笑った。

「お前に何が分かる」
「分かりますよ」
リリアは即答した。
「見ていました。人を罰するなら、“分かる人間が見ていた”という事実を無視しないで」

教官の表情が変わる。
怒りと、少しの迷い。
周囲の兵士がざわざわする。
“令嬢に指摘された”という屈辱。
でも同時に、“理屈が合っている”という事実。

レオンが一歩前に出た。
今度は声が震えていない。

「教官。彼女の指摘は正しい。俺も同じ点が原因だと見た。罰を与えるなら、俺にも同じ罰を」

教官は舌打ちした。
そして、渋々という顔で腕を振る。

「……いい。撤回だ。次から隊列は俺が見直す」

その瞬間、若い兵士の顔がぱっと明るくなる。
嬉しいというより、救われた顔。
息ができるようになった顔。

リリアは小さく息を吐いた。
胸の奥が熱い。
正義を言って、嫌われる練習。
ここでも役に立つなんて皮肉だ。

訓練が終わり、人が散ったあと、レオンがリリアの元へ来た。
土で汚れた手袋。額の汗。
真っ直ぐな目。

「……さっきは、助かった」

「助けたつもりはない」
リリアは首を傾げる。
「理不尽が嫌いなだけ」

レオンは不器用に笑った。
笑うと少し幼く見える。

「君は……正しいことを、正しく言える」

その言葉が刺さる。
褒め言葉の形をしているけど、重い。
正しいことを言うと、だいたい痛い目に遭うから。

リリアは視線を外して言った。

「私、正しいことを言って嫌われる練習してきたから」

レオンの目が少し丸くなる。
それから、拳を握る。手袋越しにぎゅっと。

「……俺は、正しいことを言いたくても言えない場面がある。階級とか、立場とか……」
「あるよ」
リリアは淡々と答える。
「でも、言えないままにすると、理不尽が“当たり前”になる」

レオンは頷いた。
そして、少し躊躇ってから言う。

「リリア。……俺に協力させてくれないか」

「協力?」

「君が何をしようとしているか、全部は分からない」
レオンは言葉を選ぶ。
不器用だからこそ、誠実に言葉を探す。
「でも、君が“理不尽を潰す”方向に動いてるのは分かる。俺も、それをしたい」

リリアはレオンを見た。
彼の目は真っ直ぐで、逃げ道を塞がない真っ直ぐさだ。

(背中を預けろ、か)

預けるのは怖い。
でも、預けないと届かない場所もある。
王城。聖具庫。大人の利権。
そこへ行くには、武力の影が必要になる。

「……いいよ」
リリアは短く頷いた。
「ただし、私のために正義を振り回さないで。あなたの正義はあなたのもの。私は私のもの」

レオンは目を見開き、それから深く頷いた。

「分かった。約束する」

その約束が、剣みたいに真っ直ぐで少し眩しかった。

――その日の午後。

学園の空気がまた、嫌な形でざわついた。
女子寮の廊下に人だかり。
ひそひそ声。
視線が、私に集まる。

「……見つかったって」
「え、リリアの部屋で?」
「盗んだの?」

リリアは足を止めた。
胸が冷える。
この匂いも知ってる。

(濡れ衣)

寮監がリリアを呼び止めた。
中年の女性で、いつも穏やかなのに今日は眉間に皺が寄っている。

「リリア=エヴァンス。少し来なさい。確認が必要です」

部屋に入ると、机の上に小さな香水瓶が置かれていた。
透明なガラス。
中の液体は淡い琥珀色。
蓋には金の装飾。
高級品だと一目で分かる。

カミラ=ヴァルツが、部屋の隅で腕を組んで立っていた。
口元だけが微笑んでいる。
目は笑っていない。

「リリアさん。これは、私の香水よ」
カミラが言った。
「今朝、なくなったと思ったら……あなたの部屋から出てきたの」

周囲の令嬢たちがざわめく。
“盗み”の噂は燃えやすい。
火種を投げれば、勝手に燃える。

寮監が硬い声で言う。

「リリア。説明して」
「していい」
リリアは即答した。
動揺しない。
動揺したら、相手の勝ちだ。

カミラが甘い声で付け足す。

「もちろん、間違いなら謝るわ。でも……証拠がね」

証拠。
机の上の瓶。
“あなたの部屋から出ました”という状況。
雑だけど、雑な罠ほど引っかかる人が多い。

リリアは香水瓶を手に取った。
指先に冷たさが伝わる。
ガラスの滑らかさ。
高級品の重み。

(……偽物)

直感じゃない。観察だ。
リリアは瓶底を覗き込んだ。
そこに、小さな刻印がある。
家の紋章。ヴァルツ家の紋章は左右対称の蔦模様。
でも、この刻印は――右側の蔦が、ほんの少し欠けている。

リリアは瓶を机に置き、淡々と口を開いた。

「それ、瓶底の刻印が違う」

カミラが瞬きする。
取り巻きが「え?」と声を漏らす。
寮監が眉を寄せる。

リリアは続ける。
声は静か。刃の温度。

「あなたの家の紋章は左右対称だけど、これは右が欠けてる。偽物」

空気が凍る。
誰かの息が詰まる音。
カミラの頬が、一気に青ざめた。

「な、何を言って――」
「本物を見たことがあるから分かる」
リリアは言い切る。
「舞踏会であなたがつけてた香り、覚えてる。これは違う。香りも薄い。中身も違う」

カミラの唇が震える。
怒りじゃない。恐怖だ。
背後の協力者が雑だったのか。
彼女が切り捨てられたのか。
どちらにせよ、彼女は“失敗した道具”になった。

寮監が香水瓶を取り、鼻を近づける。
そして顔をしかめた。

「……確かに、安いアルコールの匂いが混ざってる」

取り巻きが慌てる。
「そんなはず――」
「カミラ様のは、本物で――」

カミラは一歩後ずさり、目を泳がせた。
完璧な令嬢の仮面が、剥がれていく。

リリアはカミラを見た。
怒りはない。
ただ、確認。

(背後がいる。しかも雑。雑な背後は、早く切り捨てる)

「誰がこれを置いたの?」
リリアが静かに問うと、カミラは答えられない。
答えたら背後を売ることになる。
答えなければ、自分が疑われる。

寮監が深い溜息をついた。

「……この件は、学園側で調査します。今日は解散。リリア、あなたも当分、貴重品の管理に注意しなさい」

カミラは唇を噛み、何も言わずに部屋を出ていった。
背中が小さく見えた。
大きく見せていた分だけ、崩れたときに小さい。

廊下に出ると、ざわめきがリリアを追いかけてくる。
でも、そのざわめきの質が変わっていた。

「……偽物って見抜いた」
「刻印、そこまで見てるの?」
「怖……」
「でも、盗んでないのは確定だよね」

怖がられる。
それは、ここでは“勝ち”に近い。

その夜。
リリアは図書塔へ向かった。
理由は二つ。
心を落ち着けるため。
そして、背後の雑さが何を意味するか考えるため。

棚の影が長く伸びる時間。
ランプの灯りが揺れる。
紙の匂いが肺を満たす。

そこに、影が一つ増えた。

エリオット=フェイン。
相変わらず気配が薄い。
でも目は鋭い。観察者の目。

「君、どんどん“攻略”してるよね。乙女ゲームを」

エリオットは本を抱えたまま、面白そうに言った。

リリアはページを閉じ、顔を上げる。

「攻略してるのは、恋じゃない。構造」

「構造か」
エリオットが小さく反芻する。
「カミラの罠、雑だったね。誰かが彼女を捨てにかかってる」

「同感」
リリアは頷いた。
「雑になるのは、余裕がない証拠。余裕がないのは……予定より早く動いてる証拠」

エリオットは肩をすくめた。

「君のせいで、ね」
「私のせいでいい」
リリアは淡々と言う。
「私が動いたせいで、相手が焦って雑になって、ボロを出すなら、むしろ歓迎」

エリオットがふっと笑った。
今日は少しだけ、楽しそうに。

「君、ほんとに泣かないね」

リリアは本の背表紙を撫でた。
紙のざらつきが、指先を現実に引き戻す。

「泣く暇がない」
それから、少しだけ声を落とす。
「泣いたら……また、誰かの都合のいい物語になるから」

エリオットはしばらく黙って、静かに言った。

「レオンが君に協力を申し出たって?」
「うん」
「彼、真っ直ぐだね」
「真っ直ぐすぎて、折れそう」
リリアは苦笑しない。
ただ、事実として言う。

「折れそうな剣は、持ち方を間違えると自分を切る」
エリオットは頷く。
「じゃあ、君は持ち方を覚えなきゃ」

リリアは静かに息を吸った。
胸の奥で、また別の火が灯る。

恋愛の火じゃない。
正義の火でもない。
構造を壊すための、冷たい火。

「覚える」
リリアは言った。
「だって私は……この世界を“泣く前提”のまま終わらせない」

ランプの灯りが揺れて、本の影が伸びた。
その影は、まるで――
見えない大人の影が、学園の床を這っているみたいに見えた。
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