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第12話 泣きつく手と、握り返す手
しおりを挟むカミラ=ヴァルツの噂が、先に崩れた。
いつもは貴族令嬢たちの輪の中心で、薔薇みたいに気取って笑っていた彼女が、ここ数日、教室にも廊下にも姿を見せない。
取り巻きたちも散った。
散ったというより、切り離された。
人は沈む船から逃げるのが上手い。
噂は、すぐ形を変える。
「ヴァルツ家、失脚しかけてるんだって」
「王城から目をつけられたとか」
「カミラ様、最近顔色悪かったよね」
「でも、リリアに絡んだのが悪かったんじゃ……」
最後の一言が、私の背中に針みたいに刺さった。
何でも私のせいにできる空気。
それを作るのが、この世界の得意技だ。
リリア=エヴァンスは、図書塔の窓辺で本を閉じた。
紙の匂いが肺に残る。
でも、今日は落ち着かない。
空気が薄い。何かが起きる前の、嫌な薄さ。
(カミラが崩れたのは、偶然じゃない)
駒は、役目が終われば捨てられる。
捨てられる前に足掻く。
足掻く駒は、情報を吐くことがある。
そんな予感が当たったのは、その日の放課後だった。
寮の裏口。
人の少ない小径。
夕陽が石壁を赤く染め、影が長く伸びている。
そこで、黒い影が待っていた。
カミラ=ヴァルツ。
ドレスじゃない。
制服は皺だらけ。
髪は整っていない。
いつもの完璧な令嬢の仮面が、どこにもない。
そして彼女は――泣いていた。
目の下が赤く、鼻先が白い。
泣きすぎて呼吸が浅くなり、言葉が喉に引っかかっている。
その姿があまりにも“普通の少女”で、一瞬、胸の奥がざわついた。
(でも、同情はしない)
同情は、責任を溶かす。
溶かした責任は、また私に飛んでくる。
リリアは歩みを止め、一定の距離を保ったまま言った。
「……何の用」
カミラは顔を上げ、目の奥が濡れたまま叫ぶみたいに言った。
「私だって、好きでこんなこと……!」
声が震える。
怒りと恐怖と、恥が混ざっている。
「上が言ったのよ。従わないと家が――」
彼女の唇が噛みしめられ、言葉が切れる。
“家が潰される”という脅しは、この世界では最強だ。
貴族は家で生き、家で死ぬ。
リリアは冷たくはしなかった。
でも、優しくもしなかった。
優しくしたら、彼女はまた“被害者”になってしまう。
「あなたがしたことの責任は、あなたが取る」
リリアの声は静かだ。
静かだから、カミラの涙が余計に揺れる。
「……でも」
リリアは続ける。
「あなたが操られてたなら、その証言は価値がある」
カミラの瞳が、ぎゅっと絞られた。
価値。
その言葉に、彼女は“生き残る道”を見たのだと思う。
今の彼女には、もう誇りも仮面も残っていない。
残っているのは、生存本能だけ。
「……私は」
カミラの声が擦れる。
「私はただ……怖かったの。家が終わるのが。父が……私のせいで……」
リリアは一瞬、前の世界の自分を思い出した。
会社で、誰かのミスを被せられそうになった時の焦り。
守りたいもののために、黙って飲み込んだ夜。
でも私は、その飲み込みで自分を殺した。
カミラは、私を殺そうとした側だ。
だから、救い方は“甘く”できない。
「怖かったなら、最初にやるべきことは嫌がらせじゃない」
リリアは淡々と言う。
「脅してきた相手の名前を覚えること。証拠を残すこと。逃げ道を作ること」
カミラが俯く。
嗚咽が漏れる。
でも、次の瞬間、彼女は制服の内ポケットに手を突っ込んだ。
紙の音。
折り畳まれた書類の写しが、震える手で差し出される。
「……これ」
カミラは泣き声で言う。
「命令の写し。私、捨てられるのが怖くて……隠してた」
リリアは紙を受け取った。
指先が、紙の端の硬さを拾う。
急いで写したのか、筆跡は乱れている。
でも、そこにある署名は――乱れていない。
王城文官の名。
そして印章。
胸の奥が、ひやりと冷える。
点が、線になる音がする。
「……王城の文官」
リリアが呟くと、カミラは震えるように頷いた。
「名前は……言えない」
「言えなくていい」
リリアは即答する。
「紙が言う」
カミラが必死に言う。
「私、もう無理なの。上が……私の父にまで手を回して……ヴァルツ家を切るって」
「切られるのは、駒だから」
リリアは淡々と返す。
「あなたは、使い捨ての駒だった」
カミラの顔が歪む。
その歪みは怒りじゃない。
自分の価値が、相手にとって“無”だったと理解した痛み。
「……私、どうしたら」
カミラが縋るみたいに言う。
その縋りを、私は抱きしめない。
抱きしめたら、私は“救う役”になる。
救う役は気持ちいい。
でも、気持ちよさは私をまた消費する。
リリアは、短く言った。
「証言するなら、生き残れる。しないなら、捨てられる」
残酷な言い方だ。
でも、現実はもっと残酷だ。
カミラは唇を噛み、震えながら頷いた。
「……する。私、する。……怖いけど」
「怖いのは当たり前」
リリアは、ここだけは柔らかく言った。
「怖いまま、やって」
カミラは泣きながら、何度も頷いた。
その頷きは、罪の告白でもあり、命乞いでもあり、そして初めての“選択”でもあった。
リリアは紙を胸にしまい、踵を返した。
背中に、カミラの声が縋りつく。
「リリア……私、あなたのこと……」
「今さら好きとか言わないで」
リリアは振り返らずに言った。
「好き嫌いの話じゃない。生き残る話」
言い切った瞬間、自分の胸が少し痛んだ。
痛いのは、優しくできない自分が嫌だからじゃない。
優しくしたら死ぬ未来が見えているから。
――その夜。
リリアは図書塔の奥の部屋に、ユリウスとレオンとエリオットを呼んだ。
ミレイアは、別の意味で呼んだ。
彼女は中心にいる。中心にいるなら、見なきゃいけない。
机の上に、カミラの差し出した書類の写しを置く。
ランプの灯りが、署名と印章を容赦なく照らす。
レオンが息を飲んだ。
「……王城の名だ」
ユリウスが紙を覗き込み、指で印章の線を追う。
「本物に近い。写しでも分かる。……これが出たなら、学園内の嫌がらせは“王城案件”だ」
エリオットが口笛を吹きそうになって、やめた。
「カミラ、捨てられたね。可哀想に」
「可哀想で終わらせない」
リリアは即答する。
「可哀想のまま終わるのが、この世界の好きな展開だから」
ユリウスがリリアを見る。
その視線は痛い。
でも今日は、見下しの痛さじゃない。
理解が追いついてしまった痛さ。
「……君は、どこまで読んでいた?」
「読んでない」
リリアは淡々と言う。
「ただ、匂いを無視しなかっただけ」
レオンが拳を握る。
「理不尽を、ここまで大きくするなんて」
「大きかっただけ。私たちが見てなかっただけ」
リリアは言った。
エリオットが肩をすくめる。
「じゃあ次は、証言の場だね。カミラを保護しないと消される」
「消される、って言い方やめて」
レオンが低く言う。
「……でも、そうだな」
現実は、言い方を選ばない。
だから私が言い方を選んでも、現実は変わらない。
「レオン、騎士団で保護できる?」
リリアが問うと、レオンは一瞬迷い、それでも頷いた。
「上層に知られない形で、できるだけ。……俺の信用を使う」
その言葉が重い。
信用は、剣より重い。
ユリウスが紙を掴み、低い声で言った。
「これで“真犯人”の線は濃くなった。だが、まだ足りない。写しだけでは潰せない」
「分かってる」
リリアは頷く。
「原本、整備記録、欠損の測定。全部揃えて、逃げ道を潰す」
会議は、冷たく進んだ。
甘い恋の会話はない。
あるのは、呼吸の合わせ方。
戦線の作り方。
そして、誰を守るかじゃなく、誰が倒れないようにするか。
――会議が終わりかけたとき。
扉が、かすかに鳴った。
控えめなノック。
でも、控えめすぎて逆に怖い。
リリアが開けると、そこにミレイアが立っていた。
顔色が悪い。
目が潤んでいるのに、笑おうとしている。
その笑顔が痛い。
「……リリアさん、私、邪魔だった?」
声が細い。
細いのに、刺さる。
リリアはすぐに首を振った。
「邪魔じゃない」
「でも……私が中心にいるせいで、みんな……」
言葉が折れる。
折れた先から、涙が溢れそうなのに、彼女は笑顔を貼り付けようとする。
それが、正ヒロインの癖。
怖いのに笑う癖。
みんなを困らせないための笑顔。
リリアはその癖を、手で止めた。
ミレイアの手を握る。
冷たい。指先が氷みたいだ。
「中心にいることは罪じゃない」
リリアは真っ直ぐ言った。
真っ直ぐじゃないと、彼女は自分を責め続ける。
「でも、中心にいるなら、見なきゃいけない」
ミレイアの目が揺れる。
逃げたい目。
でも、逃げたくない目。
「苦しい現実も」
その言葉のあと、ミレイアの頬を涙が伝った。
落ちる涙じゃない。
ゆっくり流れる涙。
耐えて耐えて、やっと溢れた水。
「……私、怖い」
「うん」
「私が光ると、誰かが影になるって……知らなかった」
「知ったことはとてもいい」
リリアは握った手を離さない。
離したら、彼女はまた笑顔の仮面に戻る。
「知るのは苦しい。苦しいけど、知った人は“選べる”」
リリアは言う。
「守られる人から、見届ける人へ」
ミレイアが、小さく頷く。
震えながら。
泣きながら。
それでも、頷く。
「私……見届ける」
彼女の声はまだ弱い。
でもその弱さは、役の弱さじゃない。
人間の弱さだ。
人間の弱さは、強さの入口だ。
リリアは息を吐いた。
胸の奥で、何かが少しだけ軽くなる。
ミレイアが“守られる人”から変わり始めたからじゃない。
私が、誰かを“救う役”として消費せずに、支えられたからだ。
廊下の奥で、誰かの足音が遠ざかる。
たぶんエリオット。
たぶん何も言わない。
彼はこういう時、空気を読んで消える。
レオンもユリウスも、ミレイアの涙に口を挟まない。
挟めない。
挟んだら壊れると、分かっているから。
リリアはミレイアの手を握ったまま、最後に言った。
「一緒に見る。逃げない。……それだけでいい」
ミレイアは泣きながら笑った。
今度の笑顔は、逃げるためじゃない。
泣きながら笑えるのは、人間だけだ。
その夜、図書塔のランプの火は、いつもより長く揺れていた。
揺れながら、消えない。
みたいに見えた。
カミラの涙が運んできたのは、罪の告白だけじゃない。
王城文官の署名という、刃物みたいな証拠。
そしてミレイアの涙が運んできたのは、甘い物語の終わり。
現実を見届ける覚悟の始まり。
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