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第15話 白い熱の中で、私は自分を選んだ
しおりを挟む神殿の空気が変わったのは、“命令”が出た直後だった。
王太子セイル=アルヴェインの声が白い天井に響き、神官長が「再検査」と告げ、騎士たちが動き、文官の顔が絶望に変わった。
その流れは、本来なら“正しさが勝つ”流れだった。
でも、正しさは勝たない時がある。
正しさが勝つ前に、悪意が世界ごとひっくり返す時がある。
香の煙が、急に刺すように鼻に来た。
甘さの奥に、金属みたいな匂い。
魔力が焦げる匂い。
(来る)
リリア=エヴァンスは、背筋が冷えるのを感じた。
冷えと同時に、胸の奥が熱くなる。
生き残るための本能が、皮膚の下で鳴る。
文官が、笑った。
今まで青ざめていた顔が、ぐにゃりと歪んで――笑みになる。
その笑みは、追い詰められた人間が最後に出す笑みだ。
自分が落ちるなら、世界も道連れにする笑み。
「――なら、証拠ごと燃やせばいい」
文官が低く呟いた瞬間、神殿の床が鳴った。
ゴゴ、と。
大理石の底から、地鳴りみたいな音が湧き上がる。
足元が震える。
祈りの声が途切れ、誰かの悲鳴が空気を裂く。
「なに……?」
ミレイアの声が震える。
騎士が彼女の肩を抱き、後ろへ下がらせる。
次の瞬間。
床が裂けた。
白い大理石に、黒い亀裂が走る。
亀裂は蛇みたいに伸び、壇上の聖具の真下へ食いつく。
そして、熱い魔力が噴き上がった。
白い光ではない。
灼けるような金色と、血のような赤が混ざった、暴力の光。
熱風が頬を叩き、髪が舞い、香の煙が一気に焦げ臭さに変わる。
「暴走だ!」
神官長の叫び。
「結界を――!」
結界の言葉が終わる前に、聖具が唸った。
心臓の鼓動みたいな低音が、神殿全体を揺らす。
欠損した循環が耐えきれず、負荷が一箇所に集中している。
――壊される。
そして、壊された瞬間、罪を着せる相手が必要。
「そこだ! あの女だ!」
文官が叫んだ。
指が、私を指す。
その瞬間、周囲の視線が一斉に私に突き刺さる。
「聖具に触れたのはリリア=エヴァンス!」
「彼女が欠損だの何だのと騒ぎ、儀式を汚した!」
「反逆者だ! 神を汚す者だ!」
「処刑しろ!」
処刑。
その単語が、喉を掴む。
リリアの視界が一瞬暗くなった。
耳が遠くなる。
血が冷える。
そして、記憶が蘇る。
雨の夜。
横断歩道。
滲む白。
ブレーキ音が耳を裂き、世界がひっくり返る瞬間。
「――私、また死ぬの?」
喉の奥で、前の人生の自分が泣きそうな声を出した。
泣きそうな声は、昔の癖だ。
怖い時は黙って飲み込んで、誰かが助けてくれるのを待つ癖。
でも今は違う。
リリアは、自分に言い聞かせる。
声に出さなくても、心の中で叫ぶ。
(今回は、逃げない)
逃げたら、また同じ。
同じ結末。
同じ台本。
同じ“私は最後まで自分を選べなかった”が喉に詰まる。
(私を選ぶ)
その言葉が、胸の奥で火になった。
怖さを燃料にして、背骨を固める火。
リリアは一歩前へ出た。
騎士が止めようとした。
「危険だ!」
神官が叫んだ。
「近づくな!」
でも、近づかなければ終わる。
終わるのは聖具だけじゃない。
私の命と、真実と、ミレイアの覚悟と、みんなの未来も。
ユリウスが叫ぶ。
「欠損部が臨界だ! 触れれば焼ける!」
リリアは振り返らずに言った。
「焼けてもいい」
その瞬間、レオンが私の横に滑り込んできた。
鎧がぶつかる音。
熱風の中で、彼の存在は盾みたいに重い。
「無茶だ!」
レオンの声は怒っている。
怒っているのに、震えている。
私を失う恐怖が混ざっている。
リリアは叫び返した。
「無茶でも、終わらせる!」
聖具の脈動が、どんどん速くなる。
亀裂から噴き上がる魔力が、床を焦がし、空気を焼く。
神殿の白が、黄ばんでいく。
神聖が、暴力に塗り替えられていく。
リリアは壇上へ駆けた。
足元が熱い。
靴底越しに、焼ける感覚が伝わる。
髪が頬に貼りつき、汗が目に滲む。
視界が揺れる。
でも止まらない。
欠損部は見える。
私は触れた。
触れた記憶がある。
指先が覚えている。
循環の“細くされた要”が、今、悲鳴を上げている。
リリアは聖具に両手を当てた。
瞬間。
熱が、手のひらから腕へ突き抜けた。
「っ――!」
叫びが漏れそうになるのを、噛み殺す。
焼ける。
本当に焼ける。
皮膚の内側が泡立つみたいに熱い。
骨が熱で鳴る。
視界が白くなる。
でも、ここで鎮めるだけじゃダメだ。
鎮めたら、また同じ欠損が残る。
次に壊される。
次に罪を着せられる。
私は“構造から立て直す”。
リリアは魔力を流し込んだ。
ただ流すんじゃない。
欠損部に“回路”を作り直す。
細くされた要を、別の経路で補う。
弱点を弱点のまま残さない。
ユリウスが叫ぶ。
「お前、何を――循環を組み替えてるのか!?」
リリアは歯を食いしばりながら答える。
「そうしないと、また壊される!」
魔力は水みたいに流れるはずなのに、今は溶けた鉄みたいに重い。
流すたび、手が焼ける。
腕が痺れる。
視界が白く霞み、神殿の光と熱が溶け合って境目が消える。
レオンが背中から支えてくれた。
倒れないように、肩を掴む。
彼の手袋越しの圧が、現実の錨になる。
「リリア! やめろ、死ぬぞ!」
「死なない!」
リリアは叫ぶ。
叫ぶ声も、もう熱で震えている。
(私を選ぶ)
頭の中でその言葉を繰り返す。
繰り返して、心臓の鼓動にする。
鼓動が止まったら終わりだから。
欠損部に、逆相処理。
補助回路を挿入。
波形を整え、負荷を分散させる。
ユリウスから叩き込まれた理論。
図書塔で積んだ知識。
前の人生で“誰にも奪われなかった努力”。
全部がここで繋がる。
聖具の唸りが、少しずつ低くなる。
暴走の熱が、収束していく。
床の亀裂から噴き上がる魔力が、徐々に細くなる。
「止まる……?」
誰かが呟いた。
神官の祈りの声が、震えながら戻ってくる。
恐怖の中の祈りは、甘くない。
必死な祈りだ。
最後の一押し。
リリアは欠損部の核に、自分の魔力を“縫い込む”みたいに流し込んだ。
縫い込む感覚。
糸を通し、結び、固定する。
その瞬間、手のひらが焼ける痛みが突き抜け、視界が真っ白になった。
(――っ、)
倒れる。
そう思った瞬間、レオンが抱きとめる。
鎧の硬さが、背中に当たる。
硬いのに、温かい。
「リリア!」
レオンの叫びが遠い。
ユリウスが何か叫んでいる。
ミレイアの声が涙混じりに響く。
でも、音は水の中みたいに歪んでいく。
聖具の光が、静かになった。
暴走が止まった。
神殿の床の亀裂はまだ残っている。
焦げた跡も残っている。
でも、命を奪う熱は消えた。
静寂が落ちた。
恐怖の後の静寂。
耳鳴りみたいな静寂。
その静寂を破ったのは、鎖の音だった。
ガシャ、と。
騎士たちが文官を取り押さえた音。
文官は暴れた。
喚いた。
でも喚きは、今この場では弱い。
「離せ! 私は――!」
「王城文官、身柄を確保!」
レオンの部下が叫ぶ。
エリオットが、少し離れた場所で淡々と紙束を掲げていた。
裏取引の証拠。
逃げ道を塞ぐ最後の鍵。
ユリウスが、息を切らしながら聖具の波形を確認する。
その顔は、悔しそうで、でもどこか安堵している。
「……立て直した……」
彼の声が震える。
「本当に……お前が……」
リリアはレオンの腕の中で、荒い呼吸をした。
手のひらが熱い。
痛い。
でも、痛みは“生きてる痛み”だ。
前の世界の衝撃と違う。
これは、自分で選んだ痛み。
ミレイアが駆け寄ってきた。
顔が泣き腫れている。
でも、目が逃げていない。
「リリアさん……!」
彼女の声は震える。
震えるのに、芯がある。
「……ありがとう」
リリアは小さく言った。
声が掠れて、うまく出ない。
ミレイアは首を振った。
「違う」
涙を落としながら言う。
「私、見た。全部。……逃げなかったあなたを」
その言葉が、胸に落ちた。
熱よりも熱い何かが、胸の奥で燃える。
レオンの腕の中で、リリアはやっと自分の手を見た。
指先の皮膚が赤黒く、ところどころ白く浮いている。痛みが遅れて波のように押し寄せ、視界がくらりと揺れた。
「……手当て!」
ミレイアが叫んだ。声が震えているのに、叫べるだけの芯がある。
神官のひとりが駆け寄り、癒しの術式を組もうとしたが、ユリウスが手首を掴んで止める。
「待て。熱傷に安易な治癒は逆に壊死を広げる。まず冷却、次に循環の安定だ」
ユリウスは自分の外套を裂き、布を水で濡らさせた。
レオンがリリアの手を支え、震える指が落ちないように固定する。鎧の硬さの奥に、必死な優しさがある。
冷たい布が触れた瞬間、リリアは息を詰めた。
痛みが鋭く、でも“生きてる痛み”だと分かる。
「無茶しやがって……」
レオンが低く吐き捨てる。怒っているのに、声が割れそうだった。
リリアは笑わない。
ただ、掠れた声で言う。
「……手は、あとでいい。今は、あいつを逃がさないで」
――勝った。
少なくとも、神殿の中では。
でも、勝利の余韻は長く続かなかった。
神殿の外へ出ると、空気がまた別の形で刺さってきた。
人々の声。
噂の渦。
“真実”が広がる速さは遅い。
“都合のいい物語”が広がる速さは早い。
「不遇ヒロインが正義を振りかざしたんだって」
「聖具に手を突っ込んだとか、ありえない」
「危険な女だ」
「王国を揺らすつもりか」
「でも、助けたのは事実じゃ……」
「それでも、やり方が」
世論は割れる。
正義を見たくない人間は、正義を“危険”と呼ぶ。
真実を飲み込めない人間は、真実を“過激”と呼ぶ。
王国は、真実を受け入れる準備がない。
リリアはそれを、肌で感じた。
神殿の白い光の中で勝っても、外の世界は白いままじゃない。
外の白は、汚れを見ないための白だ。
レオンが低い声で言った。
「……捕縛はできた。証拠もある。なのに、こんなに……」
悔しさが、拳に溜まっている。
ユリウスが唇を噛む。
彼の理論は強い。
でも、理論は人の心を動かしにくい。
「人は正しさより、安心が欲しい」
ユリウスが吐き捨てるように言う。
「安心を壊す真実は、憎まれる」
エリオットが肩をすくめた。
「人間ってそういう生き物」
淡々と言いながら、彼の目は鋭い。
“次を読んでいる目”。
ミレイアが、リリアの焼けた手を見て息を飲んだ。
彼女はもう笑顔を貼り付けない。
ただ、痛みに顔を歪める。
「……こんなに痛いのに」
ミレイアが呟く。
「どうして、受け入れてもらえないの」
リリアは一瞬、言葉に詰まった。
答えは分かっている。
分かっているのに、言葉にすると苦い。
「世界は、準備がない」
リリアは小さく言った。
「でも、私は準備する。……受け入れられなくても、生き残る準備を」
焼けた手が脈打つ。
痛みが現実だ。
この現実を、誰かの“都合のいい物語”に戻させない。
勝利はした。
でも、世界は彼女を受け入れる準備がない。
それでも、私は立っている。
手が焼けても、喉が恐怖に掴まれても。
雨の夜のブレーキ音が蘇っても。
今回は、逃げなかった。
私は私を選んだ。
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