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第18話 星が濃い場所で、私は私に戻る
しおりを挟む乾いた風は、王都の香りを全部置いていく。
馬車の車輪が土を踏み、砂埃が舞い、喉の奥がざらつく。
そのざらつきが妙に気持ちよかった。
王城の白い回廊で吸った空気は、綺麗すぎて息ができなかったから。
ここは汚い。乾いている。土の匂いがする。
だから、肺がやっと“働く”気がした。
辺境の街は、王都の光が嘘みたいに遠い場所にあった。
遠いだけじゃない。
存在しないみたいだった。
王都の噂も、貴族の顔も、神殿の白い眩しさも、ここでは全部“物語の中の話”になる。
街に入ると、最初に鼻を刺したのは土と鉄の匂いだった。
鍛冶屋の煙。
乾燥した畑の匂い。
魔力鉱の粉が混じった石の匂い。
人々の汗の匂い。
それらが混ざって、空気が“生きてる匂い”になる。
「……ここが、辺境」
リリア=エヴァンスは小さく呟いた。
声が風にさらわれ、砂埃に混ざる。
言葉が軽くなる。
軽い言葉は、自由に似ている。
背後で、荷を下ろす音がした。
布が擦れる音。木箱が地面に置かれる音。
そして、見慣れた呼吸。
「到着。……砂、すごいね」
エマがいる。
黒髪を布でまとめ、地味な外套に身を包んで。
王都の侍女の制服は脱ぎ捨てて、ここではただの“女の子”の格好だ。
目だけが、いつも通り澄んでいる。
リリアは一度、エマに「来るな」と言った。
危ない。標的になる。巻き込む。
言い訳みたいに並べた。
それでもエマは、荷物を抱えて玄関に立ち、淡々と言ったのだ。
「私は、あなたに守られに来たんじゃない」
「じゃあ何しに」
「……見に来た。あなたが選んだ世界を。私も選びたいから」
その言葉は、甘くない。
でも甘くないから、信頼できた。
甘い言葉は、よく檻を作る。
エマの言葉は檻じゃない。扉だ。
街の中央通りは、石畳が途中で土に変わる。
店は少ない。
看板は日焼けし、ペンキは剥げている。
でも人の目は、王都より優しい。
優しいというより“無関心”に近い。
それが、今の私には救いだった。
誰も私の過去を知らない。
知らないから、役割を押し付けない。
「不遇ヒロイン」も、「英雄」も、「危険な女」も、ここには存在しない。
私はただ、手が焼けた女で、仕事を探す女だ。
借りた家は、街外れの小さな平屋だった。
土壁。木の扉。
窓は小さく、風が入りやすい。
家具は最低限。
ベッドが二つ。机が一つ。ランプが一つ。
「……狭いね」
エマが言った。
「狭いほうがいい」
リリアは靴を脱ぎ、床に足をつける。
木の床は少し軋む。
軋みがある家は、人が生きてきた家だ。
「広い家は、余計な声が響く」
エマは頷いた。
彼女はもう、“余計な声”がどれだけ人を殺すか知っている。
――翌日から、仕事はすぐ始まった。
辺境の街は、魔力の流れが荒い。
王都みたいに整備された結界がない。
簡易結界は、雨風と砂と人の生活で、すぐ擦り切れる。
魔法陣は、綺麗な装飾じゃなく“生活用品”だ。
最初の依頼は、井戸の浄化陣だった。
水が濁り、腹を壊す子どもが増えたらしい。
「陣がズレてる」
リリアは井戸の縁に膝をつき、石に刻まれた線を指でなぞった。
指先がまだ痺れている。
包帯は外した。
皮膚は赤く、ところどころ薄い。
でも、使わないと戻らない。
使わないと、私は“守られる”側に戻ってしまう。
「ズレ?」
依頼主の男が眉をひそめる。
日焼けした顔。太い腕。
貴族の顔とは違う。
この顔は、生活で刻まれた顔だ。
「砂で削れて、線が浅くなってる。浅いと魔力が逃げる」
リリアは淡々と言う。
「彫り直す。あと、流れを逆にして溜まりを作る」
「できんのか?」
男が疑う。
疑うのは当然だ。信用は血肉でできてる。
リリアは頷いた。
「やるから、見てて」
見てて、が私の武器だ。
見てて、と言えるのは、自分のために働く覚悟があるからだ。
石を削る。
粉が舞う。
指先が痛い。
でも痛みは“自分で選んだ痛み”だ。
エマは隣で道具を渡した。
水桶を運び、布で石粉を拭き、静かに手伝う。
言葉は少ない。
でも必要なタイミングで、必要なものが差し出される。
それは侍女の技術じゃない。
生きる技術だ。
陣が整うと、水面が少しだけ澄んだ。
魔力がふわりと波打ち、濁りが底へ沈む。
男が息を飲む。
「……すげぇ」
その一言が、王城の称賛より軽くて、でもずっと温かかった。
ここでは称賛が檻にならない。
ただの事実として落ちる。
次は、街の外れの見張り小屋の簡易結界。
夜、魔獣が近づくときだけ作動する古い陣式だ。
線が欠け、要が弱くなっている。
あの聖具の欠損を思い出す。
わざとじゃない。
ここでは“生活の摩耗”が欠損を作る。
「要が弱い。補助回路を足す」
リリアが言うと、見張りの青年が不安そうに聞いた。
「……失敗したら?」
「失敗したら、私が責任を取る」
リリアは即答した。
責任を取る、という言葉を私は嫌っていた。
前の人生では、それは押し付けられるものだった。
今は違う。自分で引き受ける言葉だ。
「じゃあ、頼む」
青年が頷く。
その頷きが、契約みたいに重い。
仕事を終えて家に戻ると、指先が煤で黒い。
汗が首に張りつき、髪が砂でざらつく。
息が土の匂いになる。
全部が、やっと“自分の生活”のものになる。
王都の香は、誰かの支配の匂いだった。
ここは違う。
匂いが私のものだ。
汚れも、疲れも、全部私が稼いだ。
夜。
窓の外は真っ暗で、星が濃い。
濃い星は、王都の夜空より近い。
手を伸ばせば掴めそうなくらい、近い。
ランプに火を灯す。
揺れる炎が壁に影を作る。
影は、怖くない。
影はただ、そこにあるだけだ。
リリアは手帳を開き、指先の痛みを噛みしめながら文字を書く。
『今日、私は今日のために働いた』
一行書いただけで、胸が少しだけ軽くなる。
私の時間が、私のものになる。
誰かに切り売りされない時間。
エマが湯を沸かし、粗いハーブ茶を机に置いた。
香りは淡い。
でも、温かい。
「今日、どうだった?」
エマが聞く。
声が柔らかい。
リリアは少し考えてから言った。
「疲れた」
「うん」
「でも、嫌じゃない」
「うん」
うん、が二つ並ぶだけで、部屋の空気が落ち着く。
この世界に来て初めて、“誰かといるのに息ができる”感覚。
その時、扉がコン、と鳴った。
夜に誰かが来るのは珍しい。
辺境の夜は危ない。
だから、ノックは短く、用件は速い。
レオンじゃない。
ユリウスでもない。
あの二人なら、こんな慎重なノックはしない。
エマが身構える。
リリアも立ち上がり、包帯のない手を握る。
まだ薄い皮膚が引きつる。
扉の隙間から差し出されたのは、一通の封筒だった。
薄い紙。
でも王城の封蝋ではない。
代わりに、小さな黒い印。
誰の印か、見なくても分かる。
エリオット。
「……届いた」
リリアが受け取り、封を切る。
紙を開くと、インクの匂いがした。
王都の匂い。
でも今日は嫌じゃない。
遠いから。
手紙は短い。
短いのに、重い。
――王都はまだ揺れている。
――貴族の腐敗が露見し、改革派と保守派が割れた。
――君が作った亀裂が、世界を変える波になっている。
――でも、気をつけろ。君の名前はまだ“便利な悪役”にもなれる。
――戻るな。戻ったら、君はまた役にされる。
――君が選ぶなら、それを貫け。
エリオットらしい。
優しい言葉はない。
でも現実の刃はちゃんと渡してくる。
リリアは手紙を机に置き、星の濃い夜空を見た。
王都の光は、ここからは見えない。
見えないのに、確かに揺れている。
私が入れた亀裂が、波になっている。
(世界が変わるなら、戻るべき?)
一瞬だけ、その問いが胸を掠めた。
でも、すぐに答えが出る。
戻れば、私はまた“役”になる。
英雄。危険物。檻の中の象徴。
誰かの都合のいいカード。
私はカードじゃない。
私は私だ。
リリアは手帳に、もう一行書いた。
『私は、私のままでいられる場所を選ぶ』
ペン先が少し震える。
震えるのは怖いからじゃない。
選んだことの重さで、手が震える。
重さは、自由の重さだ。
エマが静かに言った。
「戻らないんだね」
「戻らない」
リリアは頷いた。
「戻ったら、また泣かされる前提に戻る」
エマは小さく笑った。
その笑いは、王都の作り笑いじゃない。
土の匂いがする笑いだ。
「じゃあ、ここで生きる」
「うん」
「明日も?」
「明日も」
窓の外で、星が瞬いた。
瞬きは、誰かの祝福じゃない。
ただの自然の呼吸。
でも今の私には、それが十分だった。
今日、私は今日のために働いた。
明日も、明日のために働く。
そうやって積み上げた日々が、いつか王都の白い嘘を、土の色で塗り替える。
私は戻らない。
戻らないから、変えられる。
誰のルートでもない真エンドは、ここから始まる。
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